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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

八 パークスの宇和島訪問

松根図書のパークス招請

 宇和島藩家老松根図書は元治元年に続いて慶応二年(一八六六)長崎に出張した。倅の松根内蔵も五代才助と会うため長崎に赴いた。この時図書が購入したのが前述の天保録である。五代才助は薩摩藩士で、のち明治新政府の役人を辞任して政商に転身して成功した五代友厚である。彼は航海術に長じており、薩摩藩の汽船購入に尽力するなどの功があり、文久二年長崎において御船奉行副役に任命されている。この五代才助のはからいでイギリス公使パークスの宇和島来航が実現することになるのだが、その詳細な事情を『龍山公記』は次のように記している。以下要約して紹介しよう。
 慶応二年六月五日松根図書は長崎郊外の鳴滝でアレクサンダー=フォン=シーボルトと面会した。シーボルトは当時パークスの通訳をしていたが、異母姉イネの紹介によって松根図書と会ったのである。シーボルトの用件は、このたびイギリス公使パークスが鹿児島を訪問するが、彼の乗っている軍艦は巨大で再び見ることができるかどうかわからないほどである。貴藩の君公(宗城を指す)は西洋の事物を好むというが宇和島に来てもらってはどうか、ということであった。
 図書は長州征討を控えていることでもあるし、幕府に対する遠慮もあって躊躇したが、シーボルトの強い勧めもあってパークス詔請をシーボルトに依頼した。パークスは長崎奉行に宇和島回航を伝え、奉行もこれを承知したため、ここにパークスの宇和島公式訪問が決定した。

パークス来訪

 六月一七日に東洋艦隊司令長官キングと共に鹿児島を訪れたパークスは、島津茂久と会見したのち、同二七日宇和島を訪問した。第二次長州征討の戦闘開始から二〇日後のことであった。
 これより先、パークス招請交渉に成功した松根図書は、購入した蒸気船天保録に乗って一一日に帰藩して諸準備に当たったが、二三日イギリスの測量船サーペントが来着、続いて翌二四日には軍艦プリンセス=ローヤルが宇和島に着いた。松根図書が三万七、〇〇〇ドル(二万六、〇〇〇両)で購入した蒸気船天保録が約二〇〇トンであったから、プリンセス=ローヤルの三、〇〇〇トンを越す巨大な艦体を見た宇和島の人々は肝をつぶしたであろう。
 パークスは当初の予定を変更して、二四日フランス公使ロッシュと共に長州藩士と会談してから宇和島に向かい、二七日汽船サラミス号に乗って宇和島に到着した。
 パークス一行の通訳を勤めたシーボルトはドイツ人の日本外交官で、文久二年から明治三年まで駐日イギリス公使館に勤務した。彼が日本語に堪能であったのは、父フィリップ=フォン=シーボルトが安政六年(一八五九)に再来日した時、父と共に長崎に着き、三瀬周三などから日本語を学んだからである。なおイギリス人との通訳はシーボルトのほか宇和島藩側では大野昌三郎・三瀬周三が指名された。
 パークスは二七日上陸して三の丸で兵法調練を視察した。イギリス側からも歩兵を二〇〇人ばかり出して訓練の様子を披露している。翌二八日宗城・宗徳が軍艦を訪問し、パークスらもこれに応えて一行二〇人が上陸してもてなしを受けた。
 プリンセス=ローヤルに乗艦していた一士官が宇和島訪問について記録したものがある。『ヤング・ジャパン』から宇和島に関する部分を要約して引用してみよう(「日本新聞」にも同様の記事あり)。( )は筆者注。

 ついで(プリンセス=ローヤルは)航路を宇和島にとった。提督(ジョージ=キング)は、その港で、ハリー=パークス卿と落ち合うつもりであった。(伊達)遠江守が特に彼らを招待していた。(中略)
 この土地については、乗艦者はみんな、大きな興味を見せていた。この予期は失望に終わらなかった。長崎の美しい港を見て喜んだ者ならば、宇和島もある程度想像がつくというものだ(中略)八月四日(旧六月二四日)、午後五時われわれは碇を下ろした。
 伊達遠江守の家臣が来艦して来た。翌日には、藩主とその兄が六人ほどの家来を連れて、公式訪問ではなく、おしのびで来た。この兄は前の藩主だったが、将軍に反対した結果、弟のために辞職するように命ぜられたことを説明しておく必要がある。しかしながら彼が実権を握る人物で、弟の同意を得ていることは明らかだ。(中略)この人達が、単に日本の学問に通暁しているばかりでなく、外国の学問に通じると知って、われわれはいくぶん驚いた。例えば、ウォーターローの戦といった話題で、話が出来たのである。
 八月七日(旧六月二七日)(中略)午後四時、陸戦隊は上陸して、大名の前で閲兵をした。この演習が終ると、われわれは、約四〇名の藩士達が訓練をするのを見たが、その訓練の正確さと規律の正しさは、実に驚くべきものがあった。(中略)ここの者達は、わが陸戦隊員と同じくらい上手にやった。
 最も興味深い光景のひとつは、パークス卿夫妻のために開かれた宴会で、提督と士官数人が列席した。いっさいが日本式に行われた。(中略)夜に入ると、みごとな日本の剣道やら、音楽・歌・舞があった(中略)遠江侯が、われわれに友情と歓待の気持を示そうとしていることは、極めて明らかであった。(下略)

 パークスは七月二日宇和島を離れるが、伊達宗城は彼の来訪を記念して宇和島藩の船の旗印(九曜)を新調して進呈し、パークスもこれに対する返礼として軍艦備え付げの英国国旗を進物とした。この英国国旗はこれから後、英国軍艦が来航した時台場に揚げることとなった。

アーネスト=サトウ

 これ以後、宇和島藩はイギリスに接近し、慶応二年(一八六六)一二月には軍艦アーガス号が来航している。同艦に乗っていたアーネスト=サトウは宇和島藩の蛭山砲台を見て「実際の防御よりも、むしろ見せかけのものだった」(『一外交官の見た明治維新』)と、かなりきびしい見方をしている。この時サトウと知り合った井関斎右衛門は、パークスの来航が庶民に外国人の様子や軍備の優秀さを知らせるのに役立った、と語っている。宇和島藩の軍制改革が急速に進められたのはこの時期であり、慶応元年七月に陸軍歩兵操練修業のために長崎へ派遣された山内平太・安代鶴夫・中井族之助・組友太郎らの帰藩などもあり、同二年七月銃隊をイギリス式に、砲隊をオランダ式に改めている。
 蛇足にはなるが、サトウの眼に映った前藩主宗城と宗徳の行動を『一外交官の見た明治維新』を要約しつつ述べてみよう。
 一二月一日アーガス号が投錨してから一時間半後、一艘の小舟が艦尾に近付き、一人の男がオペラダラスで軍艦の方をのぞいた。ラウンド中佐はそれを藩主と知って艦上に案内した。一月七日宗徳と宗城(サトウは隠居と表現している)が悪天候をおして艦を訪問した。「現藩主は常に隠居のことを父と呼び、隠居はこの大名を倅という軽んじた言葉で呼んでいた」とサトウが書いてトるように、実権が宗城にあることは傍目にも明らかであったようである。宗城は幕府とフランス公使との間にきわめて怪しい親交が結ばれていると熱心にサトウたちに話したが、首席家老松根図書がこの不用意な発言に気がつき宗城の帰城をせかした。
 サトウたちは翌日宇和島藩の小銃射的場を見学したのち藩主の屋敷で接待を受けた。サトウ一行は大玄関からではなく、庭園から直接縁側に上がる仮階段から上がり、松根図書の案内で宴席についた。宗城は歌い踊った。
 宴が終了したのちもサトウは宗城の頼みで残留し、政治問題を話し合った。まず兵庫問題について、宗城は開港に賛成しており、一橋慶喜も同意見でフランスと幕府の間で九月開港の相談が進められている。自分(宗城)はきらいなフランス人よりも、イギリス人との間に協定が結ばれることを希望する、と言った。サトウはこれに対して、フランスとイギリスの立場の相違を述べた。宗城はまた、日本を天皇を元首とする連邦国にしたほうがよいと思うし、これには薩摩・長州も同意していると語った。サトウはこれに対し、それはむずかしい事ではあるが、それ以外には何らの方法もないと考えており、その考えを横浜の一新聞に発表したと語った。宗城は「私はそれを読みましたよ」と声を放った。宗城の情報収集力と知識欲の旺盛さをうかがうことができる。
 この会談の内容を見ても宗城が国事行為にいかに情熱をもって当たっているかを推察することができる。
 慶応三年二月二三日薩摩藩の蒸気船が水の欠乏を理由に台場沖(樺崎か)に停泊し、乗船していた西郷吉之助が上陸した。吉之助は吉見長左衛門らと同様に安政の大獄で追求を受けた一人で、僧月照と共に追いつめられて鹿児島湾に投身したが九死に一生を得、一時菊池源吾と改名して三年間大島で潜居した。その後大島三右衛門と改名して、島津久光の下で国事行為に奔走、第二次長州征討に際し雄藩連合構想の見地から長州藩攻撃反対ということで藩論をまとめた。
 西郷の来宇の報を受けた藩主宗徳は二四日の猪越における砲撃視察を延期して西郷吉之助・吉井幸助(船将)と面会した。西郷らは同夕、宗徳らの厚遇に感謝しつつ船に帰り、宇和島を離れた。

表7-6 パークス一行の船とその規模

表7-6 パークス一行の船とその規模


図7-1 九曜旗印

図7-1 九曜旗印