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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

六 九代藩主伊達宗徳と藩政改革

宗徳の就封

 安政の大獄に関係して宗城が隠居を余儀なくされ、宗徳(一八三〇~一九五〇)が九代藩主となった。彼は七代藩主宗紀の三男であるが、天保八年(一八三七)二月二五日宗城の養嗣子となった。弘化三年(一八四六)一二月二八日従四位下・大膳大夫となり、同四年四月に元服、嘉永四年(一八五一)三月五日長州藩主毛利斉元の女孝子と結婚した(孝子は同六年一月死去、安政三年出羽久保田(秋田)藩主佐竹義敦の女佳子と再婚)。長州藩が宇和島藩の親戚になったのである。
 宗徳は安政五年(一八五八)一一月二三日に就封、遠江守と称したが、実父宗紀が健在であり、養父宗城も隠居したとはいえ、幕府の圧力による隠居であったから、宗徳による藩政運営は前記二人の強い影響の下に行われた。
 宗徳は安政の大獄から明治二年まで(一八五八~一八六九)の間藩主の地位にあったが、この間国内事情の激変に対応して養父宗城とその謀臣たちが活動する資金を補給し、軍制の近代化を継続する必要があったから、宗徳によるいわゆる慶応の改革は、経済基盤を確立するための施策が特色であった。
 宗徳の謀臣として最も重用された国家老は松根図書(一八二〇~一八九四)である。彼は宗城の時、嘉永四年(一八五一)家督を相続し、安政二年(一八五五)からは家老として明倫館改革を担当し、学校頭取に任命された。図書は、宗城の活動基盤としての殖産興業・藩政改革担当者に徹していたから、安政の大獄に連坐することを免れた。井伊直弼が「もし、江戸在勤であれば幕政反対の重要人物として処断したであろう」と言っているほどの人物であった。宗徳が藩主になってからも、民政担当の家老として重きをなし、長崎貿易にも着目した。

天保録の購入と長崎物産方役所

 安政六年(一八五九)二月、前原巧山らの努力によって我が国二番目の蒸気船の試運転が行われ成功した。しかし、この船は出力不足のため外洋航海は困難であった。そのため、早くから長崎貿易に着目していた松根図書ぱ汽船建造計画を延期して中古船を購入することとした。安政の改革に続いて軍事力強化は至上命令でもあり、洋式軍備への切り換えのためには資金が必要であったから、国産の俵物・蝋などを長崎に送り、帰りには武器を買う目的で「天保録」という船齢三〇年の蒸気船を購入した(慶応二年(一八六六)六月、代金三万七、〇〇〇ドル)。
 松根図書は、天保録購入に先立ち、慶応元年五月蝋・鰑・茶の売買を止め、物産方への納入を命じ、専売制による長崎貿易を準備している。このころ藩の物産方と結びついた在郷商人に矢野小十郎という人物がおり、安政三年には長崎貿易の実情を視察し、慶応元年には藩の物産方から寒天四〇〇丸を委託されて長崎に送っている。小十郎はこうした実績を評価されて、木蝋専売の一翼を担う蝋座締役に任命された(木蝋専売強化は慶応二年)。
 さて天保録は、貿易と軍事力強化のために購入されたわけだが、中古船であったため故障が多く、松根図書が期待したほどの活躍はしなかった模様である。また長崎物産方役所の
設置は慶応三年六月のことで、東筑町俵屋新兵衛に宇和島船定宿を申し付けた。
 国産の増加と専売の徹底によって収入の増大を図り、軍備を充実するというのが松根図書のねらいであった。
ところが、各方面から長崎へ注文する品が多く、物産方元役所では一同が相談の上、藩庁に対して次のような伺書を提出している。田手次郎太夫の伺書とその対処策は大略次の通りである。

 長崎へ注文する家中の注文品代金を物産代金で支払うとすれば、物産方は莫大な損失を蒙ることになる。しかしながら軍備の近代化が急務となっているため、注文通り諸々の品を買い入れて来たが、財政難のため正金での支払いはむつかしく、おまげに蒸気船(天保録)の支払い(三万七、〇〇〇ドル、四年賦)が加わってどうにもならなくなっている。そこで次のようにしていただきたい。

  ① 三御殿(宗紀・宗城・宗徳)注文品は正金の裏付けをもって蒸気船役所へ注文していただきたい。
  ② 家中注文品も同様、代金を添えて蒸気船役所へ申し出ること。
  ③ 物産売捌については、元役所(物産方元役所)に伺いを立てるように。元役所取り扱いで処理する。
  ④ 商人たちの活動については、元役所で調査検討のうえ処理する。

 要するに、輸入超過が著しいため、財政当局から苦情が持ち込まれたわけである。藩庁では伺書の通り実施する旨を家中に通達している。
 天保録が到着したのは慶応二年六月一一日である。中山小右衛門・前原喜市・矢野安木三郎(購入を献策した城辺村庄屋)らが乗り組み、田手次郎太夫の指揮によって操船した。天保録は六月八日長崎を出港し、小倉領田之浦で大小銃を陸揚げした。これは小倉藩有田彦兵衛が購入したもので、警備のため乗船していた市岡奥之丞・門田栄も下船した。田之浦では長州征討(第二次)に関する交渉のため出張していた四人のうち田中五助が来て松根内蔵・萩森厳助と面会しか。田之浦を出た天保録は佐田岬で機関の故障があったものの夜一一時を過ぎて樺崎に着岸した。長崎に出張していた松根図書・松根内蔵・萩森厳助・下田生駒・万田生馬・清太夫及び治療のため長崎に滞在していた清水飛騨・稲井銕喜代らも同乗して帰藩した。