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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 伊達宗紀による文政改革の成功

伊達宗紀

 幕末における宇和島藩を雄藩の一つとして、日本史の舞台に登場させたのは、八代藩主宗城であるが、宗城の活躍の背景として決して忘れてはならないのが、七代宗紀の文政改革(天保期まで継続する)によって蓄積された財力と、藩校の充実・人材養成などである。
 宗紀の祖父村候は、享保の大飢饉で疲弊した農村を再建し、藩財政の窮乏を救ったところから、中興の英主と称されている。村候が実施した寛保~宝暦期の藩政改革は、農村再建策としての鬮持制廃止(寛保三年=一七四三、以後は高持制復活)にはじまり、倹約令・風俗矯正・文武奨励・半知借上・軍制強化など多岐にわたる。鬮持制(通史『近世上』六三八頁参照)の廃止は、農民の生産意欲向上には役立ったが、反面階層分化を是認することにもなった。また文武奨励については、寛延元年(一七四八)の藩校内徳館創設(京都古義堂から安藤陽洲を招いて教授とした)が特筆されよう。
 村候の改革は、一応の成果をあげた。しかし彼の晩年に天明の大飢饉があって、農村が疲弊したため行き詰まりを見せるようになり、豪農化した庄屋と村人の対立(村方騒動)が多発した。
 次の六代村壽時代には、寛政一一年(一七九九)・文化一三年(一八一六)の二度にわたって幕府の御手伝普請としての東海道諸河川修復工事への出費があり、それぞれ金一万五、三〇〇両・一万二、八〇〇両を要したため、ただでさえ苦しい藩財政は窮迫し、文政六年(一八二三)ころには、銀一万一、〇三〇貫匁(金にして約二〇万両)の負債をかかえるに至った(通史『近世上』六五〇頁参照)。
 宗紀は、文政七年三三歳で藩主となったが、すでに文化一四年(一八一七)父村壽にかわって藩政を担当したこともあったため、文政八年の宇和島入り直後から矢継ぎ早の諸改革を実施し始めた。その主な内容は次の四点をいかに解決するかにあった。①は大坂商人に対する借財、②は銀札の過剰発行に起因する構造的赤字(毎年銀二〇〇~三〇〇貫目)、③は銀札過多によって生じた奢侈の風潮、④は重要財源としての紙・蝋の生産・集荷体制の確立、であった(『近世上』六四八頁参照)。
 藩政改革の第一弾は、文政八年の倹約令(翌九年より実施、五か年)であり、同九年には家中知行の五割借上・年限中他所出差し留め・風俗取り締まりなど一連の通達が出された(「省略箇条申渡覚」)。次いで文政二一年には負債整理(借金の無利息二〇〇年賦償還・棄損令)と銀札の発行量削減(流通を従来の三分の一とする)が実施された。これによって①~③の解決を図ろうとしたわけである(詳細は『近世上』六五〇頁以下参照)。

殖産興業

 改革第二弾は殖産興業政策である。宇和島藩では、文化一二年より紙専売制(藩の資本による楮の買い上げと生産された紙の独占集荷)が実施されていたが、文政八年からは蝋専売も開始されることになった。蝋専売に至るまでの経過を述べれば次のようである。
 蝋の生産については、それまで若干の制限(宝暦四年櫨・蝋実の他所売禁止、安永四年青蝋座数規制)はあったが、青蝋(粗製の木蠟)・晒蝋生産者が一定の運上を納入すれば、生産・販売が可能であった。ところが、天明四年(一七八四)藩が蝋を蔵物として大坂に送るため、保内組庄屋都築与左衛門を世話人として青蝋買い上げを開始してからは販売にも藩権力が行使されるようになった。ただ、大坂市場の開拓による販路拡大は、蝋生産の増大をうながすことになった。その後、寛政五年(一七九三)には、領内産物の取扱商人を限定した。大坂では加嶋屋作兵衛・絞屋善兵衛、宇和島城下町では宅屋喜右衛門・瀬戸屋喜八・味噌屋庄三郎・富屋林蔵・八持屋喜八の五人であった(「宇和島藩における製蠟業と専売制」)。藩は領内の蝋座営業への課税に加えて、大坂への積み出しに際しての分一運上銀を得ることとなり、大坂商人からは商品を担保としての融資を受けることができたのである。藩では蔵物蝋を増加させる方針を打ち出し、文化六年(一八〇九)には、蔵物蝋として納入する者には一割の運上銀を免除する措置をとった。文化八年になると青蝋を蔵蝋とすることを命じた(文化一〇年撤回)。
 文政八年(一八二五)藩は蝋座による個別の大坂送りを禁止し、藩による独占集荷体制を作りあげた。それと共に蝋座保護の観点から、櫨実の購入価格を大坂表の相場を参考にして決定することとし、仲買商人による櫨実価格高騰を防止しようとした。こうした一連の蝋生産の統制と集荷の独占によって、専売制が確立したわけであるが、宇和島藩では、紙・蝋のほか干鰯(千加)などの俵物を蔵物として大坂に送り、大きな利益を得た。宗紀の藩主在任期間は文政七年から弘化元年(一八四四)までの二一年間であったが、この間専売制は姿を変え(文政一一年の青蝋独占集荷中止など)ながらも存続し、八代宗城が襲封した時、藩庫には六万両の貯えがあったという(『新編物語藩史』)。

小池九蔵と若松総兵衛

 宗紀は、文政改革の成果をふまえて、天保二年(一八三一)には伊達家刑律の改正、同六年には融通会所を設け、五〇〇俵の基金米によって商業の振興を図ろうとした。また、家臣小池九蔵と若松総兵衛の二人を佐藤信淵に入門させて農政学を修得させている。
 佐藤信淵は、出羽から江戸に出て蘭学・経済学などを修めた農政学者であり、主著に『農政本論』・『経済要録』・『復古法概言』(天保改革を実施した水野忠邦の下間に応じて著述したもの)などがある。小池・若松の両名は、天保一二年四月に帰藩しているが、彼らが師事していたため、佐藤信淵の本が数十冊宇和島にもたらされることになった。
 佐藤信淵は、美作国津山藩五万石(享保一一年より文化一四年まで、以後は一〇万石)の藩政改革について、藩主の諮問に答え、一六年間で一七万両の蓄積を実現するという劇的な成功を収めており、幕府の天保改革においても諮問を受けたほどの人物である。伊達宗紀が信淵の下に二人の藩士を派遣したのは、そうした信淵の学識を宇和島藩における改革政治に生かそうとする意図があったことは間違いのない事実であった。
 信淵は、宗紀・宗城(宗紀の養子)の依頼によって、天保一〇年九月には「弊政改革秘話」を小池に渡し、同年一〇月には「上宇和島藩世子封事」を書いた。前者は、津山藩の改革前の状況と信淵の策を実施してから以後の繁栄を記したものであり、後者は五項目(国絵図一国家の経済・物産・国政改革・平準法)から成り、殖産興業・物産流通の統制・輸出の増大・藩政改革による統制機構の確立などを主な内容としている(『新編物語藩史』)。
 信淵にあつく信頼されたのは小池九蔵である。九蔵は号を宣直といい、岩松村(現、北宇和郡津島町)に五〇石の知行を得ていたといわれるが、生没年も不詳であり、その行動についても詳細は不明な点が多い。彼は帰藩後も信淵に度々手紙を出して教えを受けており、信淵の書物の整理も九蔵が主となって実施し、若松総兵衛がこれを手伝った(『伊達家御歴代事記』天保一二年一二月一五日条)。九蔵は、農業技術面で働いたが、信淵も彼を支援するため、天保一四年(一八四三)四月に門外不出の『秘伝種樹園法』を贈った。信淵が「奉呈 宇和国英明世子君 左右執事 椿園愚老(佐藤信淵)」と記しているところからも宗紀の後継者としての宗城に期待していること、九蔵に対する信頼のほどが知られる。また、これより前、天保一三年三月若松総兵衛が津島組代官に就任した時、信淵は九蔵に「農政教戒六ヶ条」を贈り、総兵衛に代官としての心得を伝え、指導するよう依頼している(七月二九日付「小池九蔵宛佐藤信淵書状」)。
 このように信淵の理想は、九蔵を経由して宇和島藩に伝えられたが、現在宇和島に残る資料で見る限りでは、宗紀の時代に生産性の向上や国産の著しい増加といった効果を認めることはできない。ただ、信淵が教示した「草木六部耕種法」や、信淵によって激賞された『清良記』などは、若松総兵衛の農政改革構想の中に生かされている。
 若松総兵衛は、文政五年若松甚右衛門の養子となった、扶持米三人分・切米九俵の下士である。七代藩主宗紀は総兵衛の非凡な才能を見抜き、小池九蔵と共に佐藤信淵の門下生として学ばせ(天保九年~一二年)、帰藩の翌年(天保一三年三月)津島組代官に抜擢した。総兵衛はその後、弘化三年(一八四六)には見届役、嘉永五年(一八五二)には野村組代官など、農政を直接担当する役職を歴任している。彼は嘉永三年、人参栽培の功を賞されており、「人参代官」と呼ばれた。総兵衛の著作には『宇藩経済弁』(安政三年一二月)や『改正秘策』がある。
 総兵衛は、山奥筋の人口減少の原因を貧困による間引であるとし、宇和郡で生産される干鰯・油粕などの肥料を荒地に施して土壌を肥沃化することが富国策であると説いた。また、下土層の貧困が軍事力を弱めることになるとして、その救済の必要性を説いている(『新編物語藩史』)。

海岸防備と威遠流

 松平定信が寛政の改革(一七八七~九三)を始めたころ、欧米ではアメリカ合衆国の独立(一七七六)・フランス革命(一七八九)があり、宇和島で伊達宗紀が文政改革を開始したころには、ロシア船をはじめイギリス船・アメリカ船がわが国の近海に頻繁に出没するようになり、幕府としても外国船渡来対策を諸藩に命ずると共に、海岸防備体制の確立を急がねばならなかった。
 寛政五年(一七九三)三月三日、宇和島藩江戸藩邸から「異国船漂着之節手当覚」が通達された。この通達は幕府が寛政三年に発した通達を受けて出されたもので、領内の日振島・沖之島・三机浦・佐田浦・深浦の各番所に侍格の定番を置き、異国船が見えた時には、直ちに城下に通知して、応援の人数が到着するまで代官・庄屋以下の人数で固めることになっていた。
 番所からの知らせを受けた城では、直ちに鐘や太鼓で合図をし、かねて定めていた防備編成の一之手(第一陣)を繰り出すことになっていた。一之手の編成は、侍大将一名(侍三〇人ばかりを召し連れていく)・番頭二人・物頭五~六人(弓鉄砲長柄の者一二〇~一三〇人及び旗差一〇人を連れていく)、このほか、目付・使番・儒者・医師・書記役・徒目付・相図役・走役・徒士・勘定兵根役・小人目付・砲術の者・同手伝足軽から成っていた。砲術の者が使用する大砲は、玉目が五〇目から四貫目までであった(稿本「異国船取扱及海岸防備書類」)。
 この規定は、天保一三年(一八四二)に改訂される。すなわち、アヘン戦争の結果、中国が屈服したのを見て、文政八年(一八二五)に出した異国船打払令(無二念打払令)を緩和して、文化の撫恤令の水準に戻し、薪水の供給をすることになった。但し、海岸防御はこれまで以上に厳重にするよう通達され、併せて海岸絵図の作成が命じられた。
 再編成後の体制は、五〇騎一備を二組配置することとし、侍大将二人・番頭・旗奉行・物頭・長柄頭・馬廻之土など合計約一〇〇人、それに徒士・足軽以下雑兵に至るまで約四〇〇~五〇〇人、大筒(数量不詳、玉目五〇目~六貫目)・船などをもって構成された。当時宇和島藩では四つの戦時体制の組編成があり、異国船対策には桜田佐渡組が常時出動することとし、残りの三組のうち一組が交替で出る定めとなった(「異国船取扱及海岸防備書類」)。
 こうした異国船警固態勢の恒常化は、大砲・鉄砲などの火器の充実を必要としたから、宇和島藩では銃器鋳造・火薬製造などに力を入れると共に、砲台の築造が企画されるようになった。特に大砲の取り扱いについては藩内に熟達の者が少なかったこともあり、宗紀は天保一三年(一八四二)板倉志摩之助・豊田丈之進・堀江平之助の三人を江戸の砲術家下曽根金三郎に入門させた。三人が修行した砲術は、高島秋帆によって創始された西洋砲術であり、弘化元年二八四四)彼らが帰国すると、藩ではこの砲術に威遠流という呼称を与え、板倉らに砲術教授を許可した(『藍山公記』一)。
 それと同時に、会津から来た佐藤初太郎から火薬製造法を習っていた葛西三郎をはじめ板倉志摩之助・小波軍平の三人に火薬二五貫の製造を命じた。宇和島藩における西洋式砲術はこのようにして、藩の手によって導入されたのである。

表7-1 桜田佐渡組

表7-1 桜田佐渡組