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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 職人の生活

職人仲間の形成

 一八世紀は職人の世紀ともいわれる。職人は古代では諸官や貴族・寺社に半隷属的であったが、鎌倉期から賃仕事として独立をはじめ、仕事の注文先に出かける出職、自宅で仕事をする居職の二形態も発生した。室町期には量種とも増え、地位も向上して一つの職業階層として注目され、「職人尽絵」・「職人歌合」などが描かれた。江戸期では各藩領国経済の自給体制の必要から、特に城下町を中心として職人の増加、分化、技術向上が著しく、また在町や郷村でも数多くの職人が存在した。職人の需要の増大は、手工業者の自立を促し、仲間を作って団結し、技術の伝承については独自の徒弟制度を発達させた。しかし藩政の立場からは封建体制維持のため農商同様の厳しい統制を加え、自由な営業や技術・職人の移動は許さなかった。
 中世の職人は座の形で領主に従属したが、近世では藩の支配を受けるものの職種ごとに仲間社会を形成し、自治・独立的な性格を前代よりは強めた。仲間は一人前の職人である親方のみで構成され、徒弟や手伝いは含まれない。仲間は規約を作り、世話役である年行司や肝煎を互選して統制に当たった。野間郡浜村(現、越智郡菊間町)の瓦株仲間による文政二年(一八一九)一一月の「瓦職内申定」によれば、株の管理(株数及びその売買や貸与)及び職人・徒弟の雇い入れは、ともに村内に限るとしている。その他生産数量や品質保持、他所稼の制限、販売競争の禁止、冥加運上など負担金の配分、賃金の公定、原料・燃料仕入の均等主義、道具や仕事場の制限なども規定している。
 仲間は藩に対しては作料や手間賃の値上げを連名して願い出たり、他村職人の入り込みを拒否したりした。自らの技術や労働力の保持については徒弟制度を採用した。職人になるためには保証人を添え、一二、三歳で親方に弟子入りする。弟子は住み込んで技術を習得し衣食を給されるが代償として、奉公人としてのすべての雑用を負担した。一人前になるのは二〇歳前後で、親方の元に手伝いとして残るか、仲間の許可を得て独立した職人となり、株の購入や養子などで脱方となる幾会を侍つかであった。

職人の支配

職人の統制は職人数の制限、賃金の公定の二面から行われた。職人は株または札の形で藩から許される者に限られ、無鑑札者は取り締まられた。大洲藩では例年一月一五日までに大工・樽屋など職種ごとに年行司によって札改めが行われ、庄屋から藩の作事役所に報告された。新願の者は親方を通じて年行司に願い出た上で代官所に出願する規定であった。鑑札交付の礼銀は三月一日から一五日の間に、庄屋がまとめて上納することになっていた(有友家文書)。
 新札願は新谷藩でも師匠と兄弟子の連署でまず仲間の承認を得る必要があり(高市村庄屋文書)、宇和島藩では宝暦八年(一七五八)三月、職人相続の際にはその細工の品を見分する旨を定めている。天明期に、野間郡浜村では鍛冶の半次郎が老齢で仕事が出来ないため役銀を村で立替えて払った。そして松山で修業中の林蔵を呼び戻したが、半次郎の弟半七の子の半次郎も鍛冶職を望み、寛政四年(一七九二)には両者が争った。村方では林蔵に一代限りで鍛冶株を許したが、後にその子勘次郎も庄屋連名で開業を藩に願った。文政七年(一八二四)の職人改帳には両者の名がある。
 各藩とも職人を技術や営業規模から段階に分け、普通上中下に三分した。宇和島藩では寛文三年(一六六三)二月、賃金の支払いなどで作事方へ毎年その技術を調査するよう命じている。また畳屋頭、大工頭のように職種毎に領内の職人の頭を任命した。小松藩では紺屋頭に裃を許し、松山藩では瓦屋頭に、扶持米を給している。安政六年(一八五九)一一月、小松藩は、職分にふさわしくない言動をとったとして、町大工新吉の鑑札を取り上げた。

職人の賃金

 職人の作料・手間賃は、幕令を受けて各藩で公定された。賃銭のうちには飯米を含むこともあり、米で支給される場合もあった。また賃金は物価の動き、特に米価を基準として定められ、職人の要求によって上げられることもあったが、その際役銀も値上げになることが多かった。安永八年(一七七九)、物価の値上りにより小松藩の職人は作料の値上げを願ったが藩は許さず、翌年一一月に、勝手に増作料を取っていた桶屋一七人に、二貫文ずつの過料を課した。しかしその後の再三の願いにより、職人の技能を上中下に分けた上で享和三年(一八〇三)からしばらくの間の値上げを認めた。同藩では奉公人や日雇は、町では宗七と又蔵の二人、各村一、二人の計一八人の口入れを通じて雇う定めであった(小松藩会所日記)。
 宇和島藩は宝永四年(一七〇七)六月に、日雇賃を上げて七分とし、同七年一月に上大工・木挽賃を先規の一匁二分に戻した。享保四年(一七一九)四月これを一匁九分に上げ、米一升二合(代二匁一分)を加えた。同一六年には米価下落により賃金を下げたが、翌年秋には米価が回復したため賃金も同一八年五月から元に戻した。元文四年(一七三九)四月には文字銀通用により五割増の賃金としたが、寛政三年(十七九一)九月からは一匁五分(飯米一升二合)に引下げた。
 この時期、宇和島藩では日傭稼ぎの増加が著しく、寛政九年六月、奉公札・村夫奉公札を発行して、家中や他領への出稼ぎを禁じ、他組他村への出稼ぎや他村からの雇いは庄屋の許可制とした。同藩は農業労働力の確保のため違反者を処分し、無用の者の外出までも禁じたが、農業のみの渡世は既に難しくなっており、奉公札や商札を希望する者が続出した。また職人についても文化九年(一八一二)一〇月、職人札を持たず内弟子の形で仕事をすることを禁じている。天保一三年(一八四二)六月、宇和島藩は幕令を受けて全職人の賃金を二割引下げ、慶応元年(一八六五)五月には引上げているが、その理由を近年米価の上下が激しく職人も職札に書かれた額を無視して人毎に異なる状態であるからとしている。幕末には公定賃金も有名無実となっていたようである。
 米価の高騰が慢性化した幕末の大洲藩では、職人の賃金を米で規定した。また藩作事方の雇夫賃も四匁から賃米二升とした。西条藩の木挽賃は、材木の種類で定めている。宇和島藩は職人の運上銀・役銀を天和二年(一六八二)一〇月、享保一五年(一七三〇)五月などに、上中下三段階に分けて上納を命じ、天保五年二月にもこの区分を守るよう指示している。同藩の天和令では大工・木挽上が一二匁・中一〇匁・下八匁、鍛冶役は上一二匁・中六匁・下三匁・樽屋銀上六匁・中四匁・下四匁・紺屋は一一匁から四匁であった(『家中由緒書』)。

大工職

 諸職人のうち町・在を問わず需要度が高く、その数が多かったのは大工・鍛冶・紺屋の三職である。城下町の建設期にも彼等は屋敷を拝領し、集住して大工町・鍛冶屋町などの発生の因となった。慶長六年(一六〇一)三月、加藤嘉明は松前町に二人の桶大工を指定し、御用召には直ちに出頭すべき旨を命じた(資近上一-91)。嘉明時代には在郷の大工も初期には年貢を免ずる代わり六〇日間の労役を提供した。寛永四年(一六二七)ごろ、蒲生家はこれを一〇〇日とし、屋敷を与えようとしたが、大工らは大工を止めて百姓になると拒否した。町大工の藩御用については作料を与えたが、これにも六〇日間の労役を命じ、紺屋にも何らかの役目を充てようとしたが、ともに拒否をしている(資近上一-130)。
 西条藩の寛文一〇年以前は、大工鋸挽役は江戸へ出て労役を提供したため、西条領内では役儀を勤めなかった。しかし松平氏入部以降は諸役を命じられた(資近上五-4)。いずれにしても城郭や城下町の建設が一通り終わると、大工の仕事量は減少し、諸負担も他の職人同様金納となった。
 宇和島藩の大工は作事方に、船大工は船手方に属し、地域ごとに仲間を形成した。寛文期の大工の種類は譜代桶大工・町大工・在郷大工・日用大工、船大工は町船大工・浦方船大工・旅船大工・城下日用船大工・浦方日用船大工と区分されており、賃銭はともに上中下又は上、上ノ下から下ノ下まで六区分された。人数は定数があり、今治藩延宝九年(一六八一)五月では、城下の大工は上中下各三六人ずつの一〇八人、鍛冶役も同様の一〇八人であった。同藩の大工のうち大工役を納める者は初期からの居住者二五人で、他の八三人は一般町人同様の町役を負担するか、借家人であった(資近上三-60)。
 享和二年(一八〇二)ごろの小松藩の大工数は上大工一九人(町九・北条四・今治一・村方五)、中大工一三人(町五・在八)、下大工三(町二・在一)の計三五人であった。木挽は上三人(町二・在こ、中四人(町二・在二)で下はいない。同藩では領内大工が不足して不便なため、明和五年(一七六八)九月や寛政四年(一七九二)八月などに他領大工の雇い入れを町・在から藩に願ったが、領内大工が仕事がなくなり難渋するとして反対したため許さなかった。嘉奥冗年(一八四八)三月、町大工全員が会所に呼び出されて、他の職人や村大工の手本になれと訓示を受けた。町大工の肝煎は袴と小脇差が許されたが、安政二年(一八五五)一一月、利三次が老齢のため肝煎辞退を作事方へ申し出、代おった久六が江戸藩邸普請のため大工九人をつれて二二日に出帆した(小松藩会所日記)。
 宇和島藩三浦村の、家大工の初見は天明二年(一七八二)で、嘉永五年には一〇軒あった。当時同村には他に樽屋三、紺屋六、鍛冶一、籠作り七の諸株が許されていた(『三浦田中家史料』)。
 船大工は、宇和島藩では横目と船大工頭が領内船大工の役銀を取立て、大工数の増減に責任をもった。各地元での漁船や回船の建造の他、藩の船手作事所の命により藩船の建造や修理にもあたった。無札の者や仕事の出来の悪い場合は、年行司が道具箱に封印をして庄屋へ預けた(菊間浜村庄屋史料)。西条藩には元文四年(一七三九)に、船大工が領内で四〇人おり、うち黒島には四人と家大工六人がいた。しかし大船四肢と三~七反帆九四艘を持つ同村は船大工数が足らず、増株を藩に願っている(「新居浜浦万控帳」)。
 小松・今治両藩では、小漁船は地元で建造したが、網船や回船などの大型船は安芸倉橋島に注文することが多かった。文久三年(一八六三)から明治二年までの八年間で、同島が伊予から受注した船は一一六艘もあった。同期同島の建造数は五三二艘(領内九八・領外四三四)で、伊予分は領外の二七パーセントにあたる。慶応三年(一八六七)一月一四日、今治領津倉村の庄屋池田四方輔の発注した八百石積船は一、一五〇両の請負で、四方輔は手付として一〇分の一を即日支払っている(「近世倉橋島造船業の展開と船大工職人」)。

紺屋株

 藍・紅花・紫根・茜草などは近世の染料源である。伊予では藍・紅花が中期から重要商品作物の一つとなり、上方へも移出した。文化三年(一八〇六)に大坂町奉行が扱った事件のうちに、大坂在庫の藍のうち、伊予分は阿波・久留米についで三位とあり(体系日本史叢書『産業史』2)、『倭漢三才図会』では今治を全国五位の優良産地としている。宇和島藩では天保五年(一八三四)に谷口文六が四国巡礼中に阿波から種子を持ち帰り、同九年に河野六兵衛が床付けに成功した。
 藍から藍玉を作り染色をするのが紺屋で、今治城下では木綿も扱った間口一五~二〇間の豪商が、本町や風早町に集中した。これらは数多くの職人を抱え、町年寄役を勤めたが、間口数間の零細な紺屋も全町に分布した。小松藩では紺屋仲間一五人が許されていたが、寛保四年(一七四四)二月、うち五軒が不振で潰れ、藩に救済を願った。文政六年(一八二三)一二月、藩は染物代の値上げを認めたが、翌年一二月には与右衛門が難渋となり、会所に仕込銀二五〇目の借用を願った(小松藩会所日記)。
 松山藩では在郷の紺屋数は郡ごとに定められ、周布郡は六株であった。同郡北田野村の国広利兵衛は、寛政一二年以前から紺屋を営んだが、天保年間にやめて株と諸道具を八幡屋に売却した(『田野村誌』)。紺屋の役銀は、西条藩明和八年(一七七一)の場合、新居郡古株五株の場合二株が各八匁五分、三株が同五匁五分であった(大生院高橋家文書)。

鍛冶職人

 金属工業では鍋釜などの鋳物師、細かな細工を行う彫物・飾・渡金など多様な職人がいたが、最も重要なものは鍬鋤などの打物鍛冶であった。鍛冶はその性格や居住地から藩御用の御鍛冶・町鍛冶・郷鍛冶・日用鍛冶、仕事の形態から居職・出職、打つ製品から刀鍛冶・鉄砲鍛冶・農(野)鍛冶などに分類される。鍛冶は特に秘伝によって技術を伝え、共通の信仰によって仲間の結束を固めていた。
 今治城下の町鍛冶は、城下町建設時より米屋町の三、四丁目に集中して鍛冶屋町と公称された。元禄一二年(一六九九)では両丁に二七軒が並び、うち二五軒が鍛冶役を負担した(今治各町「寸間改帳」)。これらの鍛冶屋は後の史料によると大半が世襲され、昭和二〇年代までは数多く並んでいたが現在では三軒のみである。城下の東方拝志町にも鍛冶屋町があり、貞享元年(一六八四)では長さ六〇間家数二六軒とあり(国府叢書)、延宝九年(一六八一)の同町の町役負担は鍛冶屋役二五軒、四五一軒借屋、六一軒町役、八五軒年貢役とあり(資近上三-60)、鍛冶屋が最有力町人であったことが分かる。藩御用の鍛冶は城内や藩営の鍛冶場に出入りをし、仕事中は飯米や鍛冶炭が供給された。
 宇和島藩の御鍛冶は、鍛冶方役人の支配下に鉄材や炭を供給され、上中下三段階の給銀を受けるか製品の出来によって藩買上げとなり、元〆から仲間へ代銀が支払われた。町鍛冶は四分され、本屋(家持)鍛冶は年一二人役と役銀上一二匁・中一〇匁八分・下九匁を上納した。借屋鍛冶は五人役と役銀上四匁五分・中四匁・下三匁六分、弟子鍛冶と手伝鍛冶は共に二人役と役銀一匁二分の負担である。松山藩の柴田九兵衛は陸奥柴田郷の生まれで、初代定行入封とともに松山へ来住し、代々鍛冶棟梁を勤めて明治に至った(『松山叢談』)。小松・今治藩では、町鍛冶も修業のため江戸・堺に派遣される史料が散見される。
 各藩とも御抱えの刀鍛冶一、二名を持つが、ほぼ代々明治まで世襲された。鉄砲鍛冶は『清良記』では永禄八年(一五六五)早くも来住の記事がある。宇和島藩では藩所有以外に宝暦ごろ二、〇〇〇挺以上の鉄砲があり、各藩とも大量に所有していたと思われる。堺系の鍛冶は宮内村平井氏、五反田の某、大洲の井上一派や吉田にもいた。国友系は宇和島藩におり、城下宮下に作業場があった。種ヶ島系の鉄砲鍛冶については不明である。
 農鍛冶は鍬・鎌・包丁など耕作や生活上不可欠の物を生産した。城下の鍛冶も農村とは関係が深く、注文を受けたり小商人・出商人が行商に歩いた。大村では数軒の鍛冶が許されるが、株札によって職人数は制限された。松山藩では天保ごろ、中絶していた職人が再願する場合は、製品を作事場が検査し、合格すれば鑑札が渡されて職人帳に記載された。天保一五年(一八四四)二月、越智郡岩城村では平次ら三人の無給が、小普請所から鍛冶新株を許されており、貧民救済策の意味合いも感じられる(宮浦村御用日記)。対岸の尾道や輛は農具・錠・釘などの著名産地で、松山・今治両藩の村々からも注文をしている。

表6-34 宇和島藩職人質銭の規定

表6-34 宇和島藩職人質銭の規定


表6-35 西条藩諸職人賃銀改

表6-35 西条藩諸職人賃銀改


表6-36 小松藩職人の作料

表6-36 小松藩職人の作料


表6-37 宇和島藩の役銀

表6-37 宇和島藩の役銀


表6-38 大洲藩職人の賃銀と職札銀

表6-38 大洲藩職人の賃銀と職札銀


表6-39 川之江県諸職人賃銭定

表6-39 川之江県諸職人賃銭定


表6-40 伊予の主な刀鍛冶

表6-40 伊予の主な刀鍛冶