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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 町方支配と自治体制

町奉行

 伊予八藩の城下町・陣屋町の各町の支配にあたったのは、藩の行政機関である町奉行であった。藩によっては、他奉行が町奉行を兼帯することもあった。在町の中にも松山領三津・大洲領長浜両町のように、松山・大洲両城下町のそれぞれの外港として建設され、城下に準ずる格式や取り扱いをうけ、町方支配のために町奉行が置かれた場合があった。なお三津町奉行は、安永二年(一七七三)以降は廃止された。今治領拝志町には、藩初町奉行が置かれたが、元禄七年一一月町奉行支配から郡奉行支配に変おった(資近上三-65)。
 例を松山城下町にとって、町奉行について以下説明しよう。松山町奉行所は、松平氏入部以来古町のうち府中町に設置されていたらしい。『手鑑』によると、最初は南・北町奉行とよばれ、元禄一六年(一七〇三)八月奉行所の位置が、南北から東西の隣り合わせに変わってから、東・西町奉行とよばれるようになった。寛政一〇年(一七九八)五月、それまで府中町にあった東町奉行所が代官町に移転し、以後東・西町奉行の支配区域が、外側と古町に明確に二分されることとなった。
 町奉行は、城下町を支配する一切の権限を掌握していたので、一〇〇~三〇〇石くらいの知行取クラスの藩士のうち、有能な人材が選任されていた。なお寛政一三年には、町奉行在役中に限って足米を給与され、二〇〇石高に待遇されるようになった。東・西両町奉行所の役人には、寛政一〇年五月以降御歩行役の中から抜擢された四人の町方改役(八石二人扶持)が配置され、その下に同心小頭二人・同心四〇入を従えていた。彼らは主として町の治安警察行政にあたり、それ以外の実務は、ほとんど町奉行に委ねられていたらしい。

町役人

以上述べた藩の町方支配機構に対して、町人側では自治組織を作り、町政を司る町役人としては宇和島城下町・吉田陣屋町では、町年寄・横目・丁頭などが置かれていた。大洲城下町では、全町を三二組に区分し、各組を「十人与(組)」とよんで、組頭が組内を統率し、この三二人の組頭達の上に五人の町年寄がいて、全城下町の自治を統轄した。西条城下町では当初各町に各一名の町年寄、総町に二名の大年寄が置かれた。小松陣屋町では、新屋敷村庄屋とは別に大年寄が置かれ、その下に四町毎に有力町人達が町年寄に選任された。今治城下町では、大年寄―年寄―五人組というように組織された。松山城下町では、大年寄をぱじめ大組頭・町年寄・組頭などを置いていた。以下松山城下の町役人について『松山町鑑』一(資近上二-173)によって述べてみよう。

松山城下町の大年寄

 町政の最高機関である大年寄の地位につくのは、藩当局の任命によるもので、一般町人の公選によるものでなかった。定員制ではなかったが、たいてい四~六人くらいで、見習を合わせて七~八人いたこともあった。『手鑑』によって職務をみると次のごとくである。

(1) 城下および三津町の全町人の総代として、大年寄のうち一人が、藩主の参勤在府中には、江戸へ行って、藩主に対し年頭の御礼をしたり、官位昇進・家督御相続などの御歓びを申し上げる。これは享保六年(一七二一)中止されたので、以後は藩主の在府・在国を問わず、年頭・節供などの御礼や諸祝儀の際には、全町人の代表として三の丸に伺候し藩主に拝謁し、鳥目や酒肴代目録などを献上する。
(2) 藩主の参勤・帰城の際、前もって通り筋及び縄手の清掃・整備を検分したうえ、縄手筋一〇間ほど東から並んで送迎する。
(3) 藩主松平家の葬式祭典には、総町を代表して参列すると共に、式典期間中町の警備を指揮する。
(4) 町奉行の就任・退任にあたって、町人を代表して挨拶をする。
(5) 三月と九月の一五日に行われる味酒神社祭礼の際、参列奉仕する。
(6) 正月・五月・九月の二百・一五日に行われる五穀神の祈祷に参列する。

以上は主として儀礼的な関係について述べたが、以下主として総町の行政関係についてみよう。

(7) 大組頭とともに町奉行所からの伝達をうけて、幕藩の触書・条目を全町に伝達する。
(8) 正月二四・五日頃、巡視するのをはじめとして、随時町を巡回して、町勢を査察する。
(9) 宗門人別改めを実施して報告する。
(10) 町人の賞罰について町奉行の相談にあずかる。
(11) 商売やそのほかの町人の諸願を受理し上中する。
(12) 公儀より請け取った手形をはじめ、社司(味酒明神)・町役人・女の出船・旅行の際の手形、旅僧および町寺九か寺の揚手形、旅人宿・御門出入・借家替・御家帳直しなどの諸手形に、表判や裏判を押す。津留(穀物の移出禁止)中は、一俵以上の米の移動についても、必ず裏判を押す。
(13) 水害・火災の節、それぞれの出張所に詰めて、町役人を指揮する。
(14) 毎月一人宛交替で当番となり町政をとる。毎日四ッ時(午前一〇時ごろ)から七ッ時(午後四時ごろ)まで勤務。大年寄下役・小頭を指揮して町政をみる。

 大年寄役は、大年寄・大年寄次・上・並・格・助役・見習など、いくつもの身分に分かれており、同じ大年寄であっても、その身分の高下によってきびしく待遇され、席次などが区別されていた。なおこのような繁雑な区分があらわれるのは、明和年間(一七六四~七二)以降である。
 大年寄は、藩当局からだいたい三人扶持の給与をうけていた(貞享三年に三人扶持を与えられたのがはじめで、元禄一一年五人扶持を与えられたこともあった、一人扶持は年に米一石七斗~一石八斗)が、宝暦一三年(一七六三)以降古役扶持として、大年寄古参が一人だけ二人扶持を与えられることになった。二~三人扶持というのは、彼らの全収入からみれば、極めて少額であったが、藩の扶持を与えられることは、士分に準じて待遇されることであり、町人としては破格の光栄であると思われた。
 また大年寄の礼席は、城内大書院御縁側か許されており、彼らの多くは苗字帯刀を許されていたし、明和期以降は草履持一人を供にすることも許されていた。大年寄に対して、このようないくっかの恩典が与えられていたのは、藩の町方支配に対する彼らの貢献に、報いるためであったのだろう。ここで大年寄の苗字についてみると、初期の大年寄には苗字を許されていないものもあるが、幕末に近づくと、ほとんど例外なしに苗字が与えられている。これはこの頃藩財政が窮乏し、彼らの財力に頼って財政難を切り抜けようとし、彼らに御用金を賦課し、献金と引換えに准士の栄典を与えたものであろう。文政期(一八一八~二九)以降、大年寄の中から、藩の掛屋・銀札場用掛を兼ねる者が多く出だのは、彼らが藩財政に対して、きわめて大きな役割を果たしていたことを証明している。
 『松山町鑑』によって、大年寄を出した家と大年寄としての就任期間を、表六-6にまとめてみると次のようなことがいえる。大年寄に選任される家は、特定の家ではないが、藩政初期では藩主と特別の縁故があったいわゆる門閥町人の家から、藩政中期以降では藩当局に財政上多大の貢献をした家などから選任された。それらの家は当時の城下町人を代表する富家・豪家であり、格も従って高い家で、大年寄に選任される者の人物・識見などが勘案されていた。
 藩初から藩末までの約二世紀半にわたって断続的ではあったが、大年寄を出しだのは、松前町の栗田(廉屋)・後藤(豊前屋)の二家だけであって、藩初から文政頃まで続いた古川家は、これらにつぐものである。町家は武家・百姓家と違って、栄枯盛衰が激しく、大年寄を輩出するような富豪であっても浮沈は免れない。村山(満屋)・廉屋などは中期までに、木村(布屋)・小倉(河内屋)・曽我部(八倉屋)などの各家は明和~寛政(一七六四~一八〇〇)頃から大年寄を出し、藩末期から明治にかけて栄えた仲田(久代屋)・黒田 (亀屋)・大野(讃岐屋)などの各家は、文政頃から、井門(三島屋)・藤岡・小田などの各家は、天保(一八三〇)頃から、それぞれ大年寄に選任された。これら大年寄を出した家は、前期頃はほとんど古町地区の町家であったが、後期にはいって寛政年間以降になると、外側地区の町家からも出るようになり、文化文政頃には大年寄六名のうち半数を、それ以後は六名のうち四名までを外側地区町家で占めるようになった。このことは外側地区が繁栄し、富豪が多数現われたことを反映しているものであろう。

松山城下の大組頭・町年寄

 大組頭は大年寄と町年寄との間を連絡する中間機関として設置されたもので、町会所に七一町の町年寄を一人一大集めていては、あまりにも多大数となり煩わしいので、永年勤務の町年寄のうち、二名を大組頭として町組内の各町年寄を代表させた。城下で二二名いた大組頭は、大年寄につぐ有力町家から選出され、場合によっては大年寄並・大年寄格の身分の者から選任されることもあり、したがってその席次も大年寄悴より高かった。その職務は、大年寄の指揮をうけて、町組の行政に当たることであった。その他、各町ごとに年寄二名・組頭五~六名がいたが、いずれも大組頭の指揮をうけて、町および組内の行政に当たった。なお大組頭・年寄にも、それぞれ上・並・格の身分格式が設けられていた。

表六-6 大年寄の選任

表六-6 大年寄の選任