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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 陣屋町の形成

川之江陣屋町

 川之江陣屋町の形成は、寛永一三年(一六三六)一柳直家が、父直盛の遺領のうち、宇摩郡・周布郡と播磨国加東郡のうちで約二万八、〇〇〇石余に封ぜられ(資近上一-134~136)、翌年宇摩郡川之江村にとってはじめての在国領主として入部し、村内字神ノ木の内裏町に川之江陣屋を構えた時である。しかし直家は寛永一九年五月継嗣なく死去したため、領地は収公され(資近上一-136)、翌年伊予国内の領地は天領に編入され、松山藩預所となった。その後延宝五年(一六七七)から享保五年(一七二〇)まで大坂代官所直轄支配となった期間を除いて、幕末まで松山藩預所であった。松山藩は、一柳陣屋跡に陣屋代官所(手付二・手代二の役員)を置いて、伊予国全天領を支配した。川之江村は、村方・町方・浜方から成っているが、陣屋のある町方についてみると、享保六年頃で金生川沿いに古町(三町六間)・新町(三町一五間)があり、金毘羅道沿いに農人町(二町六間)・塩谷町(一町三間)があり、ほかに鉄砲町もあった。文久三年(一八六三)の人口は古町で一、〇七六人、新町で八九七人であった。幕末頃の記録によると、酒屋一〇軒・素麺屋八人・呉服屋二軒・紺屋七軒・大工二〇人・桶屋八人・鍛冶屋五軒・瓦屋五軒・船大工七人・菓子店三軒・質屋一〇軒などがあり、海陸交通の要衝にあたっていた関係からか、町勢は盛んであった。

西条陣屋町

 西条陣屋町の形成は、寛永一三年に一柳直重が父直盛の遺領のうち、西条三万石に封ぜられ(資近上一-134・135)、入部後直ちに着手されたものである。まず新町川・喜多川の水路を付け替え、陣屋の堀に引き入れ、堀の水は新たに掘った御本陣川によって、北の海に流れ込むようにした。四周に城堀を巡らした敷地内に陣屋を建立し、続いて陣屋の堀の東側と西側に武家屋敷を建て、東側武家屋敷の東に町人屋敷の本町・中之町・魚屋町の南北の町筋と、その東に大師町・紺屋町の南北の町筋をつくり、この二つの町筋の南端を東西につなぐ横町とその町続きの東町の計七町を開いた。
 藩は総町の繁栄を図るため、旧村の大町から近江屋・広島屋・大和屋・備前屋など西条町開基八人といわれる有力商人を招き、それにっれて多くの商人・職人らが来住し、町は発展した。寛文一〇年(一六七〇)には、和歌山藩主徳川頼宣の次男松平頼純が西条三万石に封ぜられ、陣屋町を藩府とした(資近上四-1)。寛文七年の『西海巡見志』には、「西条新町」として高二百石、家数二百六拾五軒とあり、天保一三年(一八四一)の『西条誌』によると、総町の家数三一〇、人数一、三四七とある。

小松陣屋町

 寛永一三年、一柳直頼が父直盛の遺領のうち、新居・周布二郡の内一万石に封ぜられ、同一五年に周布郡新屋敷村の一部塚村を開墾し小松と改称し、ここに陣屋を開設(資近上四-一-1・2)した。武家屋敷がつくられ、その北側の金毘羅道沿いに東西に細長い東町・本町・中町・西町などに町割された町人町が形成された。

新谷陣屋町

 大洲初代藩主加藤貞泰の遺領六万石のうち、一万石の内分について長男の大洲二代藩主泰興との和解ができ、幕府から公認された次男直泰は寛永一九年に在所を大洲城より約八キロメートル隔たった喜多郡上新谷村と定め、村内に陣屋と三一軒の侍屋敷を開設した。元文五年(一七四〇)の『大洲秘録』によれば、侍屋敷の家数は徒士小姓以外のものが八三軒に及んでいる。侍屋敷は北部山地から矢落川に流人する大久保川によって、川東・川西の両地に区分されていた。
 侍屋敷が拡大されるにつれて、その南に(一直線に東西に走る幅半間の水路を隔て)町人町が建設され、東から商家職人店が建ち並ぶ上之町・中之町・下之町が形成された。『寛政元年(二七八九)御巡見二付手鑑』には、町人家数一三四、人数七二五とあるが、幕末期の「新谷藩政時代新谷町町家図面」(河内正吉作成)によると、上之町の南側と北側に各一二軒、中之町には北側九軒南側八軒、下之町では南側・北側に各二〇軒、その他を合わせると七六軒の町家があったことがわかる。陣屋町の町人の出身地は、寛政八年の記録によると、宇和島・吉田領各一名、松山領二名のほかは、すべて大洲領内で上新谷村七名をはじめ替地の五名、大洲・内子・下新谷各四名というぐあいに大洲領各地に分散している。

吉田陣屋町

 明暦三年(一六五七)伊達宗純が宇和島一〇万石のうち、吉田三万石を分封され、翌四年正月尾川孫右衛門の縄張りで陣屋が建設され、七月藩主宗純が吉田に初人した。翌年から従来の吉田新田に加えて、立間川と河内川のつくる三角洲状の低地を埋立て、陣屋町を造成した。
 陣屋町の構成は、その北西にある戦国期からの要害石城の山麓に陣屋、その東部立間川と河内川の河間地に家中侍町を建設し、横堀川を境に南部立間尻浦に接した低地に町人町が造成された。
 町人町の中央部に南北に通ずる街路を挟んで、細長い町域の本町があり、北から一丁目・二丁目・三丁目と区画され、宝暦一一年(一七六一)の『御町中役家数元帳』によると、家数が各丁目にそれぞれ一六・一九・一九軒あった。本町は、陣屋町商業の中心であったから、大店が軒を並べていた。一丁目に藩の出納事務・金融業務を預っていた扶持米取の御掛屋があり、二丁目には酒造業の鳥羽及び紙取引・藩の紙専売に携わっていた叶高月があり、いずれも御用商人であり、町年寄を勤め藩内きっての豪商であった。全町の自治機関である町会所は、二丁目にあった。
 裏町は町人町の東部を占め、本町の東側に並行した通りで、北から一・二・三丁目と区画され、宝暦一一年の『御町中役家数元帳』によると、家数がそれぞれ二三・二三・一七軒あった。この町は職人町であり、鍛冶屋・鋳掛屋・紺屋・樽屋などの手工業者が軒を並べていた。
 魚之棚は町人町の西部を占め、本町の西側に並行した通りで、北から一・二・三丁目と区画され、宝暦一一年の『御町中役家数元帳』によると、家数がそれぞれ一九・二二・二八軒あった。この町は海港に近いので、町名が語るように、鮮魚を売買する店、魚問屋が多かったし、また運送業の店、上方との取引きをする問屋も多かった。二丁目にあった法華津屋三引は、御用商人で藩の紙専売の問屋であり、運送業を営んでいた豪商であった。三丁目には、「廉屋」「竹内」など藩に魚類を納める御用商人がいた。