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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 小山田騒動

紛議の勃発

 前期の百姓一揆のなかで、五か年にわたって紛争を続けた松山藩領の小山田騒動と、六八年の長期間争論を続けながら、対象の藩主の異動に悩まされた新居郡の大保木騒動とは、特異な色彩を持つものであるから、それらについて項を改めて述べることにしよう。
 前者は従来のものと性格を異にし、庄屋対農民の間におこった紛議であった。風早郡小山田村(現、北条市)は、松山藩に属し、北条平野の中心部にほど近い山村であって、村高は三五〇石四斗であった(『元禄村浦記』)。庄屋六左衛門は村政を粛正しようとして厳格に対処したので、村民たちは彼の行動に反感を持ち、これを専断であると批判した。
 慶安元年(一六八四)に、小山田村で土地割換制が実施せられ、これから農民の間に紛議を生じた。それはこの機に乗じて、庄屋が隠田六反八畝二〇歩を所有したとの風聞がおこり、農民はこの事を代官に提訴した。同村では三年のちの同四年に、再び農地の割換えが行われた。この時、六左衛門は同村の農民次兵衛・久助の隠田を発見したので、これを没収した。
 そこで次兵衛は、これを不服として庄屋の措置を怨み、多くの農民らと連署のうえで、藩庁に再び庄屋の悪事として強訴した。彼らの訴状は慶安二年から承応二年(一六五三)にかけて数度提出されたようであるが、残念ながら同二年の「乍恐言上申上ル御目安之事」が伝来しているに過ぎない。次にこの史料によって、農民側の主張を記述してみよう。

 1 六左衛門は慶安元年の土地割換制が実施されて以来、六反八畝二〇歩の隠田(高八石五斗九升余)を所有し、その田地から生ずる物成を承応元年に至る五か年にわたって横領している。この総額は利子を加えて二四一俵一斗九升余となり、しかも庄屋給米として五三一俵三斗を収得している。小山田村くらいの村落であれば、庄屋給米は三五俵程度であるにかかわらず、六左衛門はあまりにも過分の収入を独占している。
 2 藩庁から農民に貸与される種子米・作食米の利子が、三割~一割の規定であるのを無視して、五割も取りたてその差額を横領している。
 3 六左衛門は貸借の代価の一部分として三二人の農民を使役して、自己の農地を耕作させた。もと彼の家は貧窮した小百姓同然であったにかかわらず、私利を貪って村の分限者となり、高利貸を営み、一か年に六割の暴利を得ている。
 4 さらに、彼は四人の農民と共謀して隠田をつくった。四人のうち三人は、この田の貢租を上納しようと主張したにかかわらず、彼はこれに反対して納付を拒んだ。

 以上は農民らが庄屋を弾劾した訴状の要点であるが、彼が庄屋としての地位を利用し、いろいろ非違の行動をなし農民を苦しめていた。農民としてこれ以上我慢ができないから、早く庄屋を処罰して村民を救済してもらいたいというにあった。

庄屋の反駁書

 これに対して、六左衛門は直ちに「乍恐御目安返答」と称する反駁書を藩に提出して、農民の訴状が全くの私怨に端を発し、虚偽を捏造したと弁訴した。その要旨を列記すると、

 1 農民たちは慶安元年の土地割換の節、田地について不正があったと主張しているが、公正であったことは地坪帳によって明瞭である。その際に、三か所合計して壱反四畝拾歩(高壱石八斗四升)の余剰田が生じたので、その処理に当っては農民だちと協議した。それらの面積も狭小であるから、これに近接している次兵衛・久助と庄屋とがこの余剰田を分割して耕作することに決定した。これらの田地の年貢を確実に毎年上納したことは、算用帳によって判明する。
 2 すでに慶安二年に、農民たちは庄屋が隠田を所有していると、手代村田孫左衛門に訴えた。その際に、孫左衛門は、代官中野藤兵衛と協議のうえ、猿原・萩原・猿川三村の庄屋・組頭の立会いのもとに厳重な調査をしたが、不正は発見されなかった。そこで訴人たちは、前記三村の庄屋たちを通じて謝罪した。
 3 慶安元年以来、庄屋が年貢の納入に際し、農民から過分の取りたてをして横領した旨を訴えた時、代官中野藤兵衛は手代を派遣して検討した結果、全く農民側の誤解であることがわかった。そこで訴人たちは、北条辻町の年寄らを通じてその軽卒なことを謝罪し、「詫言之書物」を差出した。
 4 種子米・作食米の利息の取りたてに当たって、庄屋が内証で高利を貪ったように訴えているが、この両米を農民が返済する際には、藩の規定に従って三割の利子と、年内から春までの利息一割半を加えて上納させた。このため農民たちはこれを高利のようにいいふらしているが、どの村でも事情は同様であって、特に当村のみが高率なわけではない。
 5 次に庄屋が高利貸をして暴利を貪っているかのように訴えているが、これは大きい誤解である。それは庄屋が貧困な農民に金銀を融通し、また元利金ともに返済できなかった農民一〇人に対し、その代償として庄屋所有の田畑を耕作させたことがあった。それは私か庄屋の事務に熱中のあまり、田畑の手入れができなかったので、やむを得ず、このような手段をとった。決して多数の農民を私用に使役したのではない。
 6 農民たちが数度も私を訴えた事情は単純でない。私か幼少の時、庄屋職をついたので、万事組頭まかせとなり、いつの間にか村政が紊乱した。そこでこの四、五年の間、私は村政の粛正を断行したため、かえって一部の農民から怨恨をうけるようになった。また次兵衛・久助らが訴人となったのは、慶安四年の土地割換の際、隠田四か所を発見し、その所有者を取調べたところ、前記の両人であったので、その隠田を没収した。これらの事情が、彼らに執拗に訴訟を繰返さす素因となった。

 この六左衛門の反駁書によると、農民側の訴訟の各項は弁明せられたことになる。庄屋の主張はその根拠とするところも明確であるから、その農民側の弾劾するような虐政はないように考えられる。

紛争の結果

 慶安二年(一六四九)および同四年の農民側の訴訟に対し、藩庁は厳重な調査をして、その理非を明確にした。そのたびに農民側は敗訴して、庄屋に詫状を差出した。ところが、承応二年(一六五三)にすでに解決ずみと思われる事項を、蒸し返して訴状を提出し、庄屋の非政を攻撃して、藩庁の処断を要求した。これに対して、庄屋は反駁書を書いて農民側の訴訟の不当な点を力説して、論争を続けた。誠に残念なのは、この承応年度の紛議の結果がいずれの勝訴に帰したかを物語る史料のないことである。おそらく前後の事情―庄屋が処罰されなかったこと―よりすると、藩庁の前回にも勝る厳重な調査の結果、農民の敗訴となり、紛争は解決したであろうと推察される。
 要するに、慶安元年の土地割換実施の結果、これに関する不平が近因となって紛議が発生した。この紛争は再度の地坪の断行を余儀なくしたが、これによって農民側の不満を解決することは不可能であった。庄屋自身が認めているように、村政に対する刷新強行が農民側の反撃に拍車をかけたのであろう。封建制下における農民が紛議を重ねることは、よほどの事情が伏在していたに相違ない。もし彼らのなかに有力な煽動者がいたにもせよ、彼らが団結して騒動を起こすには、異常な雰囲気のなかに生活していたのであろう。この五か年にわたる紛争は、実に執拗をきわめ、いったん解決したはずの事項が再三繰り返して論争されるのをみると、両者の対立抗争は根強いものがあったに相違ない。これらの点からすれば、単に農民側にのみ非違があったとし、全責任を負わせることに賛意を表しかねる。