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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 江戸初期の一揆

百姓一揆の形態

 近世社会に出現した百姓一揆を、ことごとく封建的な統制に反抗した農民の暴挙であると解すべきではない。江戸幕府は二六〇余年間にわたり、武家政権を維持するために、諸侯に対して巧妙な統御策を講ずるとともに、庶民に対しては厳重な身分制度を施行し、農民に対しては土地に緊縛した。かつ農民には生産者、また年貢納付者としての存在を認め、その生活万般に統制を加えたばかりではなく、重税を課した。さらに、封建支配の展開するにっれて、武士階級の増加する生活費は、農民に転稼された。そのため、農民のなかにはその負担に苦しみ、一致団結して課税の軽減を政庁に嘆願する場合があった。これらの要求が聞きいれられなかった場合、彼らは同一行動をとることを誓約して結束し、非合法的手段で藩庁や幕府の出先機関等に訴願した。前者を徒党といい、後者を強訴と称し、当局者はともにこれらを厳禁していた。また強訴の場合には、勢いのおもむくところ、打ちこわしとよぶ暴力行為を伴うことも多かった。
 そのほかに、農民が共謀して秘密のうちに村出して藩境を越え、他藩・他領へ赴き、他の領主権力に強訴するのを逃散と称した(『徳川禁令考』)。徒党はその時の情勢によって、強訴・逃散の領域への発火点となるものである。伊予国でも徒党の段階で藩吏・村役人に説得、あるいは武力による強圧を加えられて、それ以上に発展しなかった例も多かった。

伊予国における一揆と地域性

 百姓一揆はその発生・発展過程においても決して単純ではなく、これらを総合し統一することが困難なほど多様である。この分野の研究の進むにしたがい、その件数は激増している。青木虹二編『百姓一揆綜合年表』によると、全国で三、二一二件の数字があげられ、伊予国のそれは一四六件となっている。その数字が全国的に見て、信濃国・岩代国についで多いことに注意すべきであろう。
 つぎに、伊予国における百姓一揆を見ると、宇和島・大洲の両藩の南予地域に多く、とくに宇和島藩における件数が最も多い。これに反して、東予地域では極めて僅少である。例を西条藩にとると、他藩に相違して、藩政時代の草高が維新後のそれよりも減少していない。それは江戸時代に同藩の検地が寛大であったことを物語っている(大蔵省地租改正復命書)。
 いっぽう宇和島藩(石高一〇万石)は明暦三年(一六五七)に、吉田藩三万石を分知したにかかわらず、依然として一〇万石の格式を維持するため、検地および地割制度・専売制度・新田開発等を断行したので、他藩に比して農民の負担は過重であった。また同藩領は南部の山嶽の重畳した地域を占め、海岸地帯においてすらも、平坦部のほとんど発見されないリアス式の特異な地形を呈していた。このような自然的条件によって、同藩はつねに農業の低生産性と零細性とに苦悩しなければならない運命となった。天災・飢饉の襲来に際して、とくに同藩領の農村は甚大な打撃を蒙らざるを得なかった。百姓一揆勃発の原因は決して単純なものでないが、これらも誘発の素因になったことは明らかである。

前期一揆の特質

 江戸時代に多発した百姓一揆は、時代の進運によって構成上にも大きい変化が見られる。一揆自体が相異なる要素を持つ以上、これらを厳格に分類することは困難である。時代区分のうえから見て、江戸幕府が成立してからおよそ一世紀半のちの寛延年間(一七四八~五一)を画期として前期・後期に分け、さらに維新期を「世直し」一揆の時期とする説が、普通に認められている。
 前期では、藩庁の課税による過重負担から、村落代表者である庄屋、あるいは組頭らが農民を統率して蜂起し、その団結力によって藩庁・藩吏に当たる場合が多かった。もし一揆に失敗してその目的を達成し得なかった時は、彼らの多くは責任者として犠牲となった。享保年間(一七一六~三六)までは、先進地域を除いて、伊予のような後進性を持つ農村では商品生産量が少なく、その流通による貨幣経済の未発達な時期であった。

前期初頭の一揆

 まず前期初頭における主要な騒動を見ると、天正一五年(一五八七)の戸田騒動、慶長五年(一六〇〇)の荏原・久米騒動、宇和盆地を中心とする松葉騒動、同一〇年の小浜騒動、元和元年(一六一五)の宇和島騒動、寛永六年(一六二九)の蒲生騒動等がある。
 まず戸田騒動は南予の実力者であった西園寺氏にかわって入国した戸田勝隆の暴政に対し、農民が蜂起したものである。勝隆はこの一揆の背後に旧領主層の教唆があったものとして、西園寺氏をはじめ、その武将の旧豪族らを殺害した(『宇和旧記』)。荏原・久米騒動は河野氏の遺族および残党が、関ヶ原の戦いに西軍に属した毛利氏の後援をうけて、浮穴・久米の両郡の農民を刺激して起こしたものである。時を同じくして、宇和郡松葉町の名主三瀬六兵衛が毛利氏の軍に呼応して騒動を企てたが、大洲にいた藤堂高虎の藩兵によって鎮圧された。これらの騒動は、中世における旧領主の没落に反発した遺臣・地主層の反乱とも考えられる。
 宇和島騒動については明確な史料を欠くが、元和元年三月に、伊達秀宗が宇和島に就封して以来、家臣の山家清兵衛に政務を、桜田玄蕃に武事を担当させた。清兵衛は藩財政の困窮を克服しようとして緊縮政策をとったため、玄蕃と衝突した。この政界の動揺のなかで、生活に窮迫した農民が蜂起したが、やがて藩兵に抑圧されたと伝えられる。
 蒲生騒動は松山城主蒲生忠知の家臣団のなかに知行割に不平を持つものがあるのに乗じて、浪人水無瀬又兵衛が農民を煽動して蜂起し、乱暴狼籍に及んだ。この騒動は藩兵の出動によって鎮圧され、又兵衛は処刑された(寛永日記)。これらの騒動を通じて見られる特色は、中世紀末に残存した旧勢力と、近世期に登場した新勢力に不満を懐いた農民層との結託によって醸成された傾向が濃く、著しく政治的色彩の強いものであった。
 これらに対し、庄屋が農民の利益代表者となり、課税の減免を主張して蜂起したものに、小浜騒動と片平騒動とがある。前者は俗に「一ツ免騒動」ともいい、大洲藩領小浜村では村民が水主役を勤務する関係から、年貢を一割軽減されていた。ところが慶長一〇年(一六〇五)にこの特権を廃止されたのに反対し、庄屋が村民とともに強訴に及んだ。藩はこれを承認したが、庄屋を責任者として処罰した。
 片平騒動は松山藩領久米郡片平村(のち古川村と改名)の庄屋久兵衛が、寛永七年(一六三〇)におげる旱魅の被害の甚大さを憂慮して、藩庁に対し検見による免租を嘆願したのにはじまる。藩庁はこれを拒否したので、農民は田圃に放火して不作の稲を焼却した。藩吏はその犯人を探索するため、多数の農民を逮捕した。久兵衛は農民の窮状を察し、みずから主謀者であると訴え出て、ついに本件の責任者として、朝生田原で傑刑に処せられた(『伊予百姓一揆資料』)。