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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 大洲藩の備荒貯蓄

村貯え

 寛政元年(一七八九)九月一五目、幕府は諸大名に対し高一万石について五〇石の割合で、寛政二年から同六年までの五加年間囲籾をするよう命じた。大洲藩では、同元年のうちに領内村々に命じて厳選された粒選りを囲籾とした。しかし、この地方の米の質は油分が多く三年程度しか保存できないので藩は老中に申請して、寛政五年から摺米一、二五〇石を囲い、毎年詰め替えることを認可された。藩庫に貯えられたこの囲米は年々新米に詰め替えられながら天保七年(一八三六)に及んだ。
 幕命による囲籾は一応達成したが、藩としては凶年対策のためには、なお不安があったので、村々にも貯米させようとした。寛政五年は豊作であったので、九月に入って代官谷次郎右衛門・菊原円助の名で村々へ貯穀に関する通達を出した。文部省国立史料館蔵「玉井家文書」によれば、近年不作が続いたが、当秋は格別の豊作のようであるから、凶年の備えとして村人から少しずつ出させ、庄屋役人らが預かっておけば、村にとっても後々のためになるであろう。百姓たちにも納得をさせ、無益にならぬよう取り計らうように、というものであった。
 この寛政五年の呼びかけは、村高一石について一升を出して貯えさせるもので、「癸丑一升高掛貯」と呼ばれ、普通これを「小貯」と呼んだ。領民の協力によってこの貯えは実績があがったようであり、藩ではこれに力を得て、同七年五月二六日に三か年間高掛村高一石につき一斗貯米の令を出した(寛政一斗高掛三年貯米)。藩では貯穀奨励のため総高に対し二歩(二パーセント)の米を与え、これを合わせて貯えさせた。貯えられた米は希望者に貸し付けられ、この利米によって凶作時に窮民を救済することを目的としていた。
 この村貯えは、代官支配のもとに庄屋代表数人が貯え方の年行司として管理し、利殖をはかった。この寛政一斗高掛三年貯米は、文化三年(一八〇六)「大貯」と名づけられた。

郡中貯

 大洲藩領域には、寛永一二年(一六三五)に松山藩と替地した伊予郡一七か村と浮穴郡一七か村の合計三四か村があった(『大洲旧記』)。これを一般に「お替地」と呼んだが、文化一四年に郡中と公称されるようになった。郡中のうち、灘町・湊町・三島町は「郡中三町」と呼ばれ、商業地として繁栄したが、この地を郡中と通称するようになり、現在に至っている(この項で、「郡中」と表記するのは、郡中三四か村のことである)。
 さて、郡中三四か村でも藩命によって貯米を実施したが、寛政七年から同九年の実績を掲げれば表五-92のようである(『大洲藩の凶荒備蓄制度』)。
 享和三年(一八〇三)七月、大貯の総額が一、八七九石余に達したので、このうち一、二〇〇石を貯蔵に残し、余りを年行司が売却し、新米に詰めもどした。古米の売却資金は、新米の出回る時期まで利殖に回し、米相場が下がった時に詰め戻したから、諸経費を引いても二七石九寸余の浮米(余剰米)を得た。年行司は毎年この方法によって浮米を蓄積し、これも利殖元米とした(表五-94)。
 小貯・人貯は凶年に備えるために発足した制度であったが、そのうちの一部を低利で貸し付け、減損米の補充や運川に当たる者たちへの役料などに充当した。利率は、丈化元年(一八〇四)の場合、郡中貸付が三歩(九〇〇石に対して三パーセントであるから利米は二七石)、その他は七歩から一割であった(女化五年の郡中貸付は二歩)。
 貯方年行司は、郡中三町からも五〇石を預かり、一割の利率で貸し付けた。この利益の半分は浮米勘定に編入し、残り半分を三町預かり米勘定に加えて複利で運用したため、文化元年の元米五○石は文政七年(一八二四)には一〇〇石を越えた。文政九年以後は一○○石を定額詰米としていたが、人保六年(一八三五)に一六石余を買い入れて本蔵に貯えた「新貯米」が、同八年の一三石余、同一〇年の二〇石余及び利子を加えて、同一三年には元利合計六二石八升になったので、「三町預かり米」を一五〇石に増額した。三町預かり米は、弘化二年(一八四五)には一六〇石、嘉永元年(一八四八)には一七〇石と積み増しが行われたが、同二年以後は一〇〇石と定められ、明治に至った。
 明治三年(一八七〇)九月一五日、大洲藩は領内村々への預け米をすべて回収することを布達した。その概要は、預けた時の約束通り五合摺の米を一〇月一〇日から一五日までの間に、最寄りの藩庫に上納せよというものであった。
 替地郡中は藩割当の六四五石六斗を含めて、一、二三〇石七斗六升八合を村々預け米としていたが(表五-97参照)、この中から六四五石六斗を藩庫に返上した。自治的に村々預け米としていた五八五石余は他の貯穀米に合わせて保管し、松山藩領久万山と同様に「原町村外八ヶ町村共有物組合」を設立して郡中の村人たちの生活に恩恵を与えることになった。同組合の由来書が昭和一〇年一月に作成されている。その要旨は、

 領主や我々の祖先が、領民や子孫を餓死させないようにと、収穫の少ない苦しい中を膏血(あぶらと血)を絞って積み立てたのが、一四〇年余り後の今日ある貯えである。領主や祖先の子孫を思う広大無辺の恩愛には感謝感激のほかはない。当時は現在よりも収穫が少なく、そのうえ高税率であったから、村高の一割を積み立てることがいかに苦しかったことか、これも餓死を思い、子孫を救おうとする一心がこの積み立てを成しとげたのである。稀有の旱害(日照りの害)のため、今この貯えを積み立てた領主や祖先に対し、一粒の積み立てもせずに恩沢に浴する我々子孫は、感謝と共に一層家業に精励し、禍を福に転じ、報恩の誠を致さればならない。

というものである。この郡中貯は、本来の目的である難渋者救済・凶作救済ばかりでなく、関係村々への貸し付け、郡中波戸の築造などにも活用されてきたが、明治以降は産業組合・耕地整理組合への貸し付けをはじめ、道路修築・溜池改修・学校建設・債券購入などへの融資がなされた。「原町村外八ヶ町村共有物組合」は、昭和一五年米穀の国家管理実施にともなって解消し、地元民から「お蔵」・「お貯え蔵」などと呼ばれた郡中貯蔵(現在の伊予市中央公民館の位置)も昭和二一年の南海大地震で倒壊し、取り払われた。

表5-92 寛政一斗高掛三年貯表

表5-92 寛政一斗高掛三年貯表


表5-93 大貯累積高

表5-93 大貯累積高


表5-94 浮米と利米

表5-94 浮米と利米


表5-95 天保6年諸貯米勘定

表5-95 天保6年諸貯米勘定


表5-96 明治元年諸貯米勘定

表5-96 明治元年諸貯米勘定