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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 義農作部衛

松前周辺の餓死者

 表五-78は享保一七年七月一五日および一六日の各郡代官所の報告をまとめたものである。この中にある餓死者の記載は、恐らく八月以降に追記したものであろう。このうち稲作については、最終的な作柄ではないが、麦作も含め伊予郡の凶作が特に強かったことがわかる。
 海岸に面した松前町浜・筒井にある大念寺と大智院の過去帳から死亡状況をまとめたのが図五-22である。一七年の死亡数が圧倒的に多い。一七・一八年の死亡者の月別分布によると、七月に増加の兆候が見られ、八月から翌年四月までの間、死亡曲線は極端なカーブを描いている。この九か月の死亡者は大念寺の場合三六七人、大智院は三五七人で、合わせて七二四人は餓死者と推測される。この数は両年の死亡者の九一パーセントに当たる。したがって餓死者は、一七・一八年の死亡者のうちから一〇パーセントを除いた数が目安とされる。浜・筒井には合わせて四か寺あり、両年の死亡者は一、〇二六人で、その九〇パーセントとすると餓死者は九二三人である。筒井・浜の飢饉直前の人口は明らかでないが、元禄元年(一六八八)の人口二、〇四六人(『伊予郡廿四ケ村手鑑』)に対して四五パーセントが餓死したことになる。この四か寺の死亡者の中には、現在の松前町以外の村人も含まれている。例えば大智院には西垣生村(今津)の檀家が相当数ある。またこれとは逆に他村寺院の檀家もあるので、両者によって死亡数の出入は相殺されると考えてもよかろう。このことから松前地区では人口のほぼ半数が餓死したものと見られる。餓死者が最大に達するのは筒井(三か寺とも)では一一月、漁業集落のある浜(大念寺)ではやや早く一〇月である。松山付近でも死者(餓死)が最大となるのは、各村ともほとんど例外なく一一月である。伊予郡市坪村玉善寺の過去帳によると四人以上死亡しているのは、一一月一二日の六人、一六・二一日の各四人である。

義農作兵衛の事績

 筒井村は寛文一一年(一六七一)松前村を四つに分村したうちの一つである。作兵衛は、この筒井村で貞享五年(元禄元年=一六八八)二月一〇日、父作平二六歳、母ツル二四歳の子として生まれた。当時、生活程度は次第に向上する時期ではあったが、土地を持たない「無給」または「無縁」と呼ばれる小作農家であったので、生活の余裕などは全くなかった。
 作兵衛の結婚の年は明らかでないが、母の死亡する前年の正徳元年(一七一一)作兵衛二四歳、妻タマニ○歳の時と推定されている(表五-79)。実直で勤勉な作兵衛は、貞淑、従順な妻をむかえ、野良仕事や夜なべの縄ない・草鞋つくりなどに精を出した。享保期は貨幣経済の浸透と災害の頻発に伴って、階層分化による貧農化か進んだ。したがって、この時代の流れに逆行する「無給分」から「百姓分」にはい上がることは決して容易なことではなかった。ところが幸いなことに正徳から享保の前半にかげては米価が高く、作兵衛のような働き者には、それなりに報われることの多い時期でもあった。作兵衛は子供にも恵まれ、四〇歳ころまでには、荒蕪地を買い求め良田とした自作地三反三畝、麦作の可能(麦田)な二毛作田一反五畝歩の小作地、合わせて四反八畝を耕作する篤農家に成長した。
 享保一六年に入って、麦の収穫、田植えの地ごしらえ、田植え、三番草修理まで終わった七月一〇日妻タマは過労が重なって四〇歳で死亡した。二〇年にわたって苦楽を共にした妻の死は、作兵衛に量り知れない悲しみを与えた。翌一七年は麦が赤サビ病の発生で大凶作となった。筒井村は浜村と同様に土地が低湿で春田(一毛作田)が多く、麦田(二毛作田)は少なかった。当時の農民の食糧は麦が主体で、このため自作地に麦田がなければ、これを小作しなければならなかった。したがって麦の凶作は直ちに飢人・乞食・餓死人に結びつくことになった。作兵衛の父作平が死亡したのは六月一〇日であった。筒井村庄屋の上申書には餓死とあるが、年齢から考えて老衰とも思われる。このころから稲にウンカが付き始め、七月に入って収穫皆無は決定的となった。長男作市が餓死したのは八月五日のことであった。妻に先だたれ、父を失い、長男までも餓死させた作兵衛の悲しみは、筆舌に尽くすことはできない。村人達は城下町松山への袖乞(乞食)、山に入っての蕨根・葛根掘り、畑物・糠などで飢えを凌いだが、遂には最後まで残した麦種も食い尽くす始末であった。
 作兵衛も九月に入るころから飢えのため極度に衰弱したが、麦を蒔き終えることが職務であり、天命であるとして、野良に出たがついに力尽きて田面に倒れ、隣人に助けられて家に連れ帰されたが、すでに起き上がる体力はなかった。しかし枕もとには麦種が一斗ばかり残され、村人はこれを食用とすることを勧めたが、麦種は食糧にすべきではないとして、頑として聞かず、倒れたその日、九月二三日麦俵を枕に餓死した。長女カメも後を追うように九日後の一〇月二日餓死した。

作兵衛の顕彰

 作兵衛が餓死に直面して執った毅然とした態度は、村民を勇気づけた。筒井村庄屋八兵衛入右衛門)は、一一月一七日に作兵衛の餓死に至るまでの事情および幼女二一晟)と作兵衛の田地(作職)を従弟の三郎右衛門に預けることを藩庁に上申した。藩はこれを受理すると共に、一二月二二日三郎右衛門に対し、作兵衛の襲名と追善供養を行うことを命じて米五俵を与えた。さらに二日後の同月二四日には、作兵衛の墓を藩で建立すると申し渡した。この墓碑には「道葉信士 不生位」と刻まれている。作兵衛の餓死から四四年後に当たる安永五年(一七七六)、松山藩八代藩主松平定静は、作兵衛の事績を永久に顕彰するため、墓碑を建立することを命じ、明教館教授丹波成美に碑銘を作成させ、翌年四月一五日建立された。「義農」の文字が使用されたのは、この碑銘が最初であった。
 作兵衛は西古泉金蓮寺の檀家である。この過去帳によると、当初の戒名「道葉」は安永六年に「道英」と変更され、義農と贈り名されたと註記している。天保二年(一八三一)三月二三日に実施した一〇〇回忌の追善供養の際、「義農道葉贈居士」とするとしている。明治になって敬神思想の高まりと共に、作兵衛の示した農道の神髄を永久に伝えるため、明治一四年義農神社が建立された。さらに大正一一年には尋常小学校の修身教科書にも事績が掲載されるなど、作兵衛の義農としての顕彰活動は今日に至るまで続いている。表五-80はその顕彰経過を示したものである。

図5-22 松前町大念寺・大智院過去帳による死亡状況

図5-22 松前町大念寺・大智院過去帳による死亡状況


表5-79 作兵衛一家の生没年代

表5-79 作兵衛一家の生没年代


表5-80 義農作兵衛顕彰の経過

表5-80 義農作兵衛顕彰の経過