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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 農村統制と負担①

近世農村の成立と分立

 太閤検地のねらいは、農村を近世封建制度の基盤として位置づけることにあった。検地帳は村ごとに作成され、田・畑・屋敷一筆ごとに、所在地(ホノギ)・面積・推定生産量(分米)、それに耕作者名を収録した。この耕作者を検地帳登録人、または名請人と呼び、耕作権が与えられると共に、年貢納入等の責任を負わされた。このようにして、中世以来農村に根づいていた地代(生産物)労働を収取した中間搾取階層が一掃され、近世の農村が成立することになった。検地帳に記載された一筆ごとの石高、すなわち分米の合計が村高で、これが年貢納入や夫役負担等のよりどころになった。なお村単位、すなわち独立村を区画することを「村切り」と呼んだ。この場合、地縁的な生活集団である集落が区画設定の目安となった。したがって村の領域の広狭、村高の大小等は集落の状況に多分に影響されることになった。
 慶安元年(一六四八)の村高は、太閤検地(松山藩は城下町の建設、河川の大改修による村高の修正があって下限は寛永二年の検地)の数字そのまま受け継いでいる。表五-1・図五-1は郡ごとに、村高を石高別、階層別に示したものである。これによると伊予国九三六か村(浦を含む)の平均村高は四二七石余である。この平均の村高を大幅に上回っているのは、伊予郡の七〇六石余、和気郡六四七石余、温泉郡の六四一石余等である。これに対して風早郡の二一五石余、浮穴郡三六三石余、宇和郡三七四石余等は小さい。村高二、〇〇〇石以上の巨大な村は、宇和郡来村の二、四九三石余、新居郡別名村の二、四四一石余、宇和郡山田村二、四三五石余、周布郡周布村二、二三九石余、新居郡金子村二、一四六石余、伊予郡南神崎村二、〇二三石余の六か村ある。これらの村は公簿上は一村として扱われているが、このうちの大部分は、実質上いくっかの村を含むかまた後に分割されている。来村は『大塹截』『大成郡録』によると、里方四か村、浦方四か浦の分立した独立村として扱われている。別名村は国領川扇状地の扇央部に位置している村で、洪水の乱流によって耕地は極めて不安定であった。慶安元年には村高のうち九六三石余の不足分があると記している。表五-2にあるように後に上・下泉川の二か村に分割されている。周布郡周布村では一、八一九石余は幕府領(後に西条領)、四一九石余は小松領で、実質上二か村に分割されている。南神崎村の名称は荘園の名残りで、江戸時代初期には宮下・上野の二か村に分割されていた。正徳三年(一七一三)一、五〇〇石の上知が命ぜられ、南神崎村の東半分に当たる宮下村分、それに上野村東半分が幕府領に編入された。なお幕府領は安永九年(一七八〇)大洲領に再編入された。
 温泉郡湯之山村(湯山)は石手川上流に位置する高一、二六六石余の村で、山間部としては石高が大きい。しかし、事実上は一七か村に分割されている。なぜ完全な形での村切りが実施されなかったものか、宇和郡来村の場合も含めてよくわからない。五〇石以下のごく零細な村は、比率的には宇摩郡が最も高く一八パーセントを占め、村数では一八か村の宇和郡が最多である。宇摩郡は背後にある急峻な四国山地(法皇山脈)、宇和郡は、広い山地とリアス海岸等の地形に影響された結果である。
 表五-2は江戸期における村の分割、新田村の成立をまとめたものである。慶安元年の九三六村・浦に比較すると、村の変貌は極めて少なく、宇摩・桑村・喜多郡は変動はない。角野村は寛永年間の立川銅山の開発、元禄四年(一六九一)の別子銅山開発に伴って、宝永元年(一七〇四)に角野村とこの枝郷が幕府領に編入されたが、恐らくこのころに分郷したものであろう。氷見村は燧灘に面した一、六六九石余の大村で、正保二年(一六四五)~寛文元年(一六六一)までの間に、西泉村を含む四か村を分立した。後の禎瑞新田は正式には西泉村下分と呼ばれていた。久米・浮穴・伊予郡等の分村は、ほぼ均等に二村に分割したものが多い。久米郡越智村は、天保六年(一八三五)越智郡からの入百姓村で、周辺四か村から本田畑合わせて二二六石七斗余を分割して立村した。

農民の階層と身分

 農民はごく一般には、耕地を所有する高持百姓と、土地を全く持たない無高百姓、あるいは水呑百姓・小作百姓と呼ばれる階層があった。宇和島藩は、正保三年(一六四六)に伊達氏入部以来はじめての検地を実施し、従来の間竿の六尺五寸を三寸縮小した。さらに寛文一〇年(一六七〇)から同一三年にかけて内扮検地を行ったが、間竿は六尺であった。これらの検地によって、吉田藩の分知に伴う三万石の減少分を補てんすることに成功した。しかしこのうち、寛文検地は「うちならし」と呼ばれるように、真のねらいは鬮持制を実施するための手だてであった。
 検地の終わった寛文一三年、村中の耕地を肥沃度に応じて上・中・下に区分し、所有面積を考慮して均等に組み合わせ、抽選によって耕地を割り当てた。この際、村の耕地面積全体を農家数で除した平均面積以上の農民を本百姓、これ以下を半百姓、さらに四半百姓、土地のきわめて少ない毛頭、皆無の無縁の五階層に区分した。この鬮持ち制度は、寛保三年(一七四三)までの間、数年の間隔で繰りかえされた。また吉田藩の百姓階層は、宇和島藩のものに七半百姓(七歩五厘)が加わっている。表五-3に南予で最も平野の広い宇和盆地を中心に、その周辺を含んだ地域(現在の宇和町)の、本百姓一人前の耕地面積、百姓階層の内訳を示したものである。面積の最高は下川村の一町七反三畝を最高に、最低は当時宇和島藩の在町として発達していた松葉町(卯之町)の四反七畝で、一町三反~一町一反の間に集中している。なお本百姓の百姓総数に占める比率は、小野田村、永長村、松葉町の八一パーセントから最低は久枝村の三五パーセントの間に分布している。
 表五-4は吉田藩に属していた宇和郡是房村(現、北宇和郡三間町)の享保九年(一七二四)の農民階層を示したものである。これによると、廉(鬮)数は庄屋三・五、組頭一・五、横目一、本百姓五人で五・五、七半百姓五人で三・七五、半百姓八人で四、四半百姓は六人で一・五、百姓は合わせて二七人、二〇・七五である。この外に毛頭と呼ばれる零細な土地所有者一〇人と無縁九人がいた。これらの百姓の階層別の名称は、鬮持制が廃止されてからも長く続いた。
 大洲領内の宗門帳は、家数・人数とも本門・家子門別に記載することになっていた(『宗門沿革集成』鷲野文書)。寛政一三年(一八〇一)当時に大洲領であった風早郡大浦村(現、中島町・但し幕府領は除く)の宗門帳(『中島町誌史料集』)は、次のような要領で記載されている。

本門一、四人内男弐人女弐人吉兵衛株喜平
本門一、三人内男壱人女弐人吉右衛門株六三郎
本門一、四人内男弐人女弐人源右衛門株仙左衛門
本門一、四人内男弐人女弐人与兵衛株金六
(中略)
家子門一、八人内男三人女五人惣右衛門
家子門一、三人内男弐人女壱人長七
一  (後略)

このように、本門にはすべて戸主名の上に株名を記入している。この株名は村落内部の同族的組織、恐らく村成立当初からの本家筋を意味しているものと思われる。表五-5にあるように、大浦村の本門は一八戸で、八五戸の家数のうち、わずかに二一・二パーセントである。この宗門帳より約一〇〇年さかのぼった元禄一一年(一六九八)の大洲領忽那島七か村の宗門帳の集計(『中島町誌史料集』)によると、表五-5にあるように、本門は二一九戸で三三・三パーセント、家子門四三〇戸で六五・五パーセント、無縁門八戸で一・二パーセントであった。
 村の概況を知るために「大手鑑」が編集されたが、現在残存しているものも多い。享保一九年(一七三四)の和気郡、延享元年(一七四四)ころと推定される浮穴郡久万山、弘化三年(一八四六)の久万山を除く浮穴郡、同四年の野間郡(以上いずれも松山藩)の大手鑑によって、郡ごとに本門・無給門・無縁門の家数を表五-5に示した。これら資料の時代差は約一〇〇年あるが、本門の比率の最高は、享保一九年和気郡の八七パーセント、最低は弘化四年野間郡の七六・四パーセントとなっている。無給門と無縁門については、和気郡・久万山分は両者の区分がないので、比較にはならない。文政一三年(一八三〇)「久米郡水泥村地坪御窺書」(『松山市史料集』第六巻)によると、村中屋敷地は五町一反五畝一歩と定められていた。この算定は、百姓本門七四軒に対して、面割り二畝、田一反について二二歩五厘余の割合であった。無給七人には各二畝一五歩、無縁三人には各一畝を割り当てている。もちろん無縁三人の屋敷地は所有地ではない。
 松山領に属した越智郡岩城村の万延二年(一八六一)二月の「値安御売渡米頂戴人別家内附帳」によると、松山藩は貧窮者に安値の米を払い下げたが、この中には百姓分八二戸と無給分九七戸が含まれていた。これには各戸ごとに所有面積が記されている。これによると百姓分八二戸の所有面積は一七町九反余で平均一戸当たり二反一畝二四歩、無給分は一町五反余で平均一戸一畝一六歩になる。貧窮者が対象であるから百姓でも零細な者に限られているが、最多は五反、最低は八畝五歩である。これに対して無給分は最高で八畝一五歩、最低は八歩で、上地皆無の者はない。この無給一戸分の面積は、ほぼ屋敷地に当たるものと推測される。なお岩城村には、屋敷地も持だない地元民を抱え主とした漁業者もあった。

庄 屋

 庄屋の基本的な任務は、貢租を完全に徴収することであった。したがって、ごく初期は、小領主・土豪層の中から庄屋(肝煎とも呼んだ)を取り立てることによって、旧勢力の抵抗を最小限に押え、在地支配を進めることができた。
 寛永三年(一六二六)二月、当時久万山を知行した佃十成に対し年貢・農民使役の過重を理由に、久万山庄屋らが領主加藤嘉明に訴えた。この時の代表者は、大川村庄屋土居三郎左衛門、日野浦村庄屋船草次郎左衛門であった。この両名は早くから庄屋に取り立てられ、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣にも出陣した。嘉明はこの訴えを容れ、十成の知行を取り上げ嫡子三郎兵衛に相続させることにした。加藤嘉明は翌年会津に転封したので、この問題はこれ以上は発展しなかった。初期の庄屋層は、南予は西園寺氏、中予は河野氏・大野氏らの流れをくむものが多かった。しかし藩体制の整備に伴って、庄屋は支配体制の末端機構に位置づけられ、近世的庄屋に移った。
 庄屋としての職務を記したものに、吉田領の国遠村(現、広見町)庄屋今西幹一郎の書き留めた『神務・村政規則』がある。これによると、表五-6に示したように四八か条にも及ぶ職務を挙げている。年貢の完納が藩の至上命令で、これを背負って、多岐にわたる村政の総括責任者として、支障なく運営することは、容易なことではなかった。したがって、藩側でも莫大な特権を与えた。吉田藩でも、仮名帯刀御免、帯刀御免等の特権を与える一方、庄屋給地に対しては無年貢、庄屋が代々引き継ぐ庄屋家督(約三町歩)についても、年貢以外はすべて免除する無役地とした(表五-7参照)。また百姓から軒別に三升(後に一升五合、半百姓は半分)の「百姓いや出し」が徴収された。さらに農繁期には、合力夫(労力奉仕)として本百姓からは年間三人役、半百姓二人役、四半百姓一人役、なお田植には別途二人役(『松野町誌』)を受け入れるなどの特権が与えられた。
 嘉永三年(一八五〇)ころ編集の『野間郡手鑑』に記された庄屋抜地、役料等を表五-7に示した。庄屋抜地は、宇和島藩・吉田藩の庄屋家督に当たるものであろう。これによると一〇石以上は一七か村で、全体の四六パーセント、面積一町以上は一三か村、全体の三五回を占めていた。このうち最も多いのは、種子村(現、菊間町)の一七石九斗余、面積一町三反余である。寛保元年(一七四一)、百姓らの出訴事件で、追放の処分を受けた和気郡安城寺村庄屋の作職は七町五反で、このうちの一町五反が庄屋抜(貫)地であった。松山領内の庄屋抜地は、ほぼこの程度と推測される。庄屋役料は、来島村では銀札、波止浜は塩と銀札で支給されているが、この外は米で支払われている。このうち最も多いのは郷村帳高九七二石余の波方材で六石八斗の役米を受け取っている。小部村は二八石余の村であるが、役料、帳書賃(庄屋の筆墨料)とも村高に比べて多いのは、漁業が発達して人口が多かったためであろう。西条藩では、村高一〇〇石につき四斗ずつの割合で支給された。もちろん庄屋役料は、各藩とも年貢納入の際、農民から徴収されていた。
 松山藩・今治藩・西条藩には、地域的区分によって、各村の庄屋を統括する大庄屋が置かれた。この場合各村の庄屋を小庄屋、平庄屋とも呼んでいる。なお松山藩は大庄屋の補佐役として改庄屋を置いた。大洲藩は、初め大庄屋があったが、後に目付庄屋に改称してからは有名無実になった。小松藩は領域も狭く地域区分の必要もない。したがって大庄屋は、村高の最大の周敷郡北条村庄屋が継承している。西条藩は、大庄屋ごとの地域区分を組と呼んでいる。このうち天保一〇年(一八三九)の組名称と村数は、周布村(1)・氷見組(19)・大町組(18)=以上西分、下泉川組(6)、沢津組(9)・土居組(8)・東寒川組(6)・中之庄村(1)=以上東分、の八組に区分されていた。大庄屋の役料は各藩とも藩から支給した。
 庄屋は世襲制を原則としたが、藩からの任命は代替りごとに行われた。『御領中御庄屋歴代記』は、吉田藩の明暦三年(一六五七)から天保六年(一八三五)ころまで、約一八〇年間の庄屋の相続・処分・移動について記してある。これによると庄屋の処分は、流島・他村への追放・入牢・庄屋召上げ・仮名帯刀取り上げ・庄屋替・家督取り上げ・隠居等であった。このうち最も多いのが庄屋召上げで、この理由は大借のため・不行届・越度・所方出入・不心得・内分不如意・公物不埓・立見不行届・未進方差支え・村方百姓出訴等であった。表五-8は庄屋召上げ処分の件数、庄屋養子等の身分、出身地等について示したものである。これによると召上げのあった村は三四か村で、全村数七七か村の四四パーセントを占め、頻度が三回の村もあった。他藩からの養子は宇和島藩がもちろん多く、他村からの養子は、身分の同じ庄屋一族からが二八か村を占めている。養子以外で他村から入った場合、百姓・組頭等の身分で昇格して庄屋入りをした村も一一か村あるが、庄屋替えが二四か村あって二倍を越えている。村内の百姓・組頭・商人等がその村の庄屋に任命された村も五か村あった。また庄屋の格付けで、帯刀御免の庄屋は六八か村、人数は一一八人である。また庄屋最高の仮名御免も三四か村七八人に達している。
 表五-9は今治領国分村庄屋所の各月行事予定表である。これによると、毎月定例になっているものに、五人組連判帳の確認、村吟味講等があった。このうち村吟味講は、庄屋が村民を直接掌握できる機会で、この日には各自夕食を持ち寄って、会食によって雰囲気を和め、庄屋から藩の法度、村の取り決めを読み聞かせるものであった。また藩内の庄屋の吟味講も一・五・八月の年三回行われていた。

その他の村役人

 一般に幕領では庄屋(名主)・組頭・百姓代を「地(村)方三役」と呼んでいるが、伊予には百姓代はなく横目という名称の村役人がいた。
 表五-10は吉田藩の村役人で、宇和島藩についても、ほぼこれと同様であった。両藩の場合、組頭は東・中予の諸藩における庄屋に相当し、各村に一名を置き、庄屋の推せんによって代官が任命したが、庄屋と同じように世襲制が原則であった。組頭が代々引き継ぐ約五反の無役地もあった(面積は庄屋に比べ少ない)。身分上の待遇としても、庄屋格、庄屋悴格、苗字御免、帯刀御免等が功績によって与えられた。横目は村目付とも呼ばれる。才能があって、経済的にも余裕のある百姓が、藩の郡奉行から直接任命されていた。したがって、代官の下に属している庄屋とは異なって、御目付と呼ぶ藩役人に所属して、庄屋・組頭等村役人、惣百姓の非法を取り締まるものであった。したがって機能的には、村方三役の百姓代に当たるものであるが、庄屋とは所属の系列は異なるものの、実質的には庄屋に従属して、村役人よりも百姓側に監視の重点が置かれたものであろう。
 庄屋以下すべての村役人は、役の軽重はあるが、村の自治を遂行する役職である。ただこのうち庄屋・組頭・横目の任命権はもちろん藩側にある。小頭以下は入札によるものもあった。しかし組頭以下庄屋の意向が強く反映し、この意味では完全な自治の機関といえる。小頭は組頭の補佐役、五人頭は五人組を支配し、相互扶助、相互監察、共同責任、特に年貢皆済の責任者である。年貢徴収にかかおる役に蔵方・舛取役・役座があるが、このうち舛取役と役座は入札(選挙)によって選ばれた。
 図五-2は宇和島領内海浦の庄屋・組頭の分布状況を示したものである。内海浦の領域は、慶安元年の『伊予国知行高郷村数帳』によれば、内海浦、成川坊城村、平山浦、深泥浦の独立した一か村三か浦がある。貞享元年(一六八四)の『残塹截』には、成川坊城村が浦に改められている。宝永三年(一七〇六)の『大成郡録』には、このうちの成川坊城村、深泥浦には「内海内」の注記があって、内海浦の庄屋支配であったことが分かる。宇和島藩・吉田藩は、組頭は原則として村・浦一人であった。ところが、内海浦庄屋の支配する領域は典型的なリアス海岸で、特に由良半島の集落は、正に陸の孤島であった。このため各集落に組頭(この点では他の藩と同様)が置かれたものであろう。『内海村史』によると、庄屋は平山浦(実藤氏)、組頭は平山浦、成川坊城村(浦)、赤水浦、中浦、柏崎浦、平碆浦、家ノ串浦、魚神山浦、網代浦の九か所に置かれた。これらの内海浦の庄屋、組頭ともにほとんどが世襲で、近世を通じて漁業権を独占し、家ノ串浦組頭の吉良氏のように、その子孫は戦後の漁業権改正まで、数多くの利権を所有していた。
 表五-11は和気郡高木村の享保一九年(一七三四)の村役人の給米である。組頭は二人、(和気郡の最多は四人)給米は一人一俵~二俵で、吉田藩の組頭のような組頭家督はもちろんない。作見は稲見とも呼んで、作柄の下見役である。月番給は庄屋の月当番に支払われるものである。この給米は年貢と共に徴収され支給された。松山藩では、農民の治安・風紀の取り締まりのため、各郡ごとに何人かの郷筒が藩から任命されていた。このうちの一人が高木村の百姓安右衛門であった。郷筒の給米は、大庄屋と共に藩から支給されるもので、郷筒は二人扶持、大庄屋は三人扶持であった。

五人組制度と宗門改め

 幕府や藩は、年貢生産の安定を図るため、農民の日常生活に至るまで厳しい統制を加えた。この農民統制の末端に位置づけられたのが五人組制度であった。相互扶助と相互監察、連帯責任制を柱に強制的につくられた自治組織であった。
 古代にさかのぼると、律令制度に「五保の制」があった。秀吉の時代には、都の治安を維持するために、侍や下人を対象に五人組又は十人組が編成されたが、農民とのかかわりはなかった。慶長一三年(一六〇八)藤堂高虎は、養子高吉を今治二万石として残し、伊勢安濃津(津)に転封になったが、この直後新領内で農民を十人組に編成した(児玉幸多『近世農民生活史』)。このことは高虎の旧領伊予でも十人組編成の可能性もある。時代はやや下るが、大洲藩は慶安四年(一六五一)大洲町人に十人組帳の提出を命じている。
 幕府領の一部には、寛永三年(一六二六)に五人組の設けられた地域もあったが、島原の乱の起こった寛永一四年、幕府は郷中御条目を制定して五人組の設置を義務づけ、その役割りを示した。伊予で五人組のわかる最初の記録は、延宝三年(一六七五)松山藩のもので、これによると、伴天連(キリシタン)の訴人に対して褒美を与える、もし隠し置いたことが発覚した場合には、五人組に至るまで処罰するので領内に知らせるように命じている(『松山藩法令集』)。
 越智郡朝倉上村は松山藩領であったが、近接した越智郡・桑村郡の村々と共に、明和二年(一七六五)幕府領に編入された。この上知された直後の同八年に五人組帳(写真五-2)が作られている。これによると、最初に五人組、また農民として守るべき事項を挙げ、次にこれに違反しない旨の誓約書、最後に村役人・五人組員の連署・連判がある。五人組はすべて五戸で編成され、庄屋・組頭の村役人は五人組に含まれていない。五人組帳の最初の部分を「五人組前書」と呼んでいる。條々」の標題で七五条の条目が示されている。この第一条は、最も基本的な公儀法度の遵守を掲げている。ところが、この膨大な七五条は、すべて最初からのものではなかろう。例えば、第三条に提訴・徒党・逃散の禁止、第四条にキリスト教の禁教を挙げているが、五人組に年貢負担を課した年貢上納にかかおった規定は、六〇条以降にある。これは五人組の機能の完成期に追加されたものであろう。この「五人組前書」の簡単なものは、新居郡松神子村(現、新居浜市)の五人組帳(資近上五-38)である。内容は村や地域にかかわったものに限られ、慶安御触書等からの引用は全くない。
 西条領の新居郡郷村(現、新居浜市)には、享保一九年(一七三四)に作られた五人組元帳がある。これには五人組前書は綴られていないが、五人組編成についての実情がよくわかる。五人組数は表五-12にあるように、全体で三八組ある。編成戸数の最も多いのは六戸の一六組、次いで五戸の一四組、七戸の六組、それに四戸と一一戸が一組ずつある。前記の朝倉上村の「五人組前書」に、最寄次第五人あて組み合わせ(第二条)からすると、原則通りではない。三八組のうち、「預ヶ」と記入されたものが一九組ある。この家数は合わせて二一戸で、このうち「後家」が一〇戸、残る一一戸は戸主(男)である。表五-12にある25・26・27・28を除いた三四組の筆頭者名の上に「頭」と記入している。25組の市郎左衛門は庄屋で、26治兵衛組、27弥一郎組と共に一戸以外は、すべて「家頼」と記入されている。28理右衛門組は、実質上はさらに「家頼」二戸を含んでいるが、人数の都合で18・19に入れたと注記している。したがって「頭」の記載のない四組は「家頼」(恐らく作男、または浜子)を主体とした五人組であろう。なお組頭二名は五人組には含まれていない。
 風早郡大浦村の安永六年(一七七七)の文書(『中島町誌史料集』)によると、宝暦六年(一七五六)作成の五人組合と判鑑がみだりになったので、この度改め替えをする、とある。このことから、五人組帳の修正は二一年後に当たっている。新居郡郷村の場合、享保一九年に作られてから、二七年後の宝暦一一年(一七六一)と、さらに二六年後の天明七年(一七八七)に作成される。
 宗門改めが、キリシタン取り締まりのため、幕府領で制度化したのは、正保元年(一六四四)ころからで(『近世農政史料集』1)諸藩に対しては、寛文四年(一六六四)宗門方役人を特別に配置して、毎年宗門改めを実施するように命じた。またこの前後に踏絵も始まったものであろう。宇和島藩は延宝七年(一六七九)「宗門改之衆」一〇人を任命した(『記録書抜』)。また松山藩は、天和元年(一六八一)領内にキリシタン禁制の高札を立て(『垂憲録拾遺』)、元禄七年(一六九四)宗門改帳が作られている(『松山市史料集』)。大洲藩でも、風早郡小浜村・大浦村で元禄一一年の宗門改帳が作られている。したがって一七世紀末までには、伊予の諸藩とも宗門改めが実施されていたものと推察される。
 宗門改めは毎年行われていた。家族人数等の変動の場合は、そのつど庄屋に届けられた。庄屋はこれを前年度の宗門改帳(村控)に順次追記して、これを資料に新規宗門帳を整備し、藩の宗門改役所に提出した。なお五年目ごとの宗門大改めには、次のような起請文を添えた。

一、当村中の宗門について委細に吟味した。
一、切支丹の信者およびその血筋。
一、不受不施、付けたり、悲田宗の信者。
一、右の宗旨は一人もいない、これ以後も疑わしい者は、せんさくし て申し上げる。
一、他所からの来人、確かな寺手形持参の者については、早々庄屋方へ渡し、指図しだい滞留させる。
 庄屋方への来客は、組頭共に寺手形を見せ、相談の上にて逗留させる。
 たとえ親類縁者であっても、宗旨の疑わしい者は、逗留させない、不審の者を隠し置いたことが判明した場合は、その者はもちろん、庄屋・組頭・五人組どもまで、曲事(処罰)を仰せつけて下さい。
 ただし往還の旅人の一宿は例外である。
 付けたり、宗門手形のない者は、御支配様に聞き届けの上、逗留させること。
一、家数人数は、一家・一人も隠さず、差し上げた宗旨人別帳と相違けない。
 右の某々少しでも虚儀を申し上げるにおいては、かたじけなくも、梵天帝釈四天王、日本国中六十余州人小の神祇、殊に伊豆箱根両権現・三島人明神・八幡人菩薩・天満自在天神、部類と一族の者すべて神仏の罰おのおの蒙るべきものなり。

 (張り紙) 眼中に付き黒印す、血判せず。
上吾川村庄屋 宮内次郎 印
(張り紙)  六十歳以上に付き黒印す。血判せず。
同所  組頭  喜代次  印

同村  同   保土助  血判

同村  同   金五郎  血判

同村  五人組  市郎右衛門 血判
  (張り紙) 服中に付き果印す。 血判せず。
同村  同    喜三兵衛   印

同村  同    政 七   血判

 これは天保一四年(一八四三)大洲藩の上吾川村の起請文であるが、当時の農村が庄屋等村役人や五人組によって厳しく規制されていることがわかる。血判の場合、服喪中の者は遠慮し、高齢者も押印に代えた(『伊予市誌』)。

検見と接待

 延宝七年(一六七九)松山藩の高内又七は、通称「新令二十五か条」の中で、百姓にとって検見取りが不利であることを、次のように述べている。

① 検見役人の送迎のための人馬、また村々の道・橋等の整備のための人夫、雨天のときにはさらに多人数の人足が必要になる。その上、早稲・中稲・晩稲があるので百姓の負担は大きい。
② 検見の都合で刈り取りの適期が遅れると、稲が倒れ籾があわれるなど、損失と経費がかさむ。
③ 刈り取りが遅れると、麦田のこしらえや麦播き等も遅れ、百姓が不勝手になる。
④ 検見役人の接待、宿泊のため諸道具の整備に多分の経費がかかる。

 これら指摘の内容は、どれも適切で農政家高内又七ならではの見解である。
 新居郡郷村は文化一一年(一八一四)に続いて同一四年も干ばつで検見を願い出た。これに対応して村は藩役人を受け入れるため準備を進めた。村境および組境には、角取紙を挾んだ一六個の榜示竹と、新田には所々に赤紙、免境に青紙の立札を設置した。村の入口に当たる岡崎の国領川河川敷に、役人の小休息のための小屋掛け(床は畳・毛せんを敷く、大手・屋根共幕張り)をし、宿舎には又野組にある町宿を当てた(表五-13)。又野は前面に塩田があり、商人の往来も多く商人相手の町宿があった。しかし藩役人を受け入れるためには、もちろん道具類は不十分であった。表五-14は、勝手奉行の宿泊に予定された次郎右衛門方に搬入された道具類で、隣村の庄屋等から百姓ら人夫によって運ばれた(福田家文書)。
 このような準備の後、九月二四日検見方役人を迎え入れた。当日の朝、従者を含めた総勢二八人(うち一人は大庄屋)が岡崎御小屋に到着、小休息のさい砂糖餅・香の物・焼飯等で接待をした。検見は、南西~北東に配列する短冊状の村域を横切るような順路で、南から北に進められた。本郷のうち上郷・中郷を終え、庄屋宅で昼食をとった。午後は下郷・落神組を見分け、落神のホノギ山崎で坪刈りを行った。この日は予定通り又野の町宿で宿泊をした。翌二五日は夜半からの雨が降り続いていた。この雨のため、枡取場は勝手奉行の宿泊先の次郎右衛門方の物置きに変更された。前日刈り取った稲束から、稲をすりこなす作業が、藩役人の見守る中で行われ、籾は三合二勺程の収量があった。これは米に換算して一合六勺、反当たり四斗八升で、坪刈りの場所落神組の田方平均石盛七斗九升余の六二パーセントに過ぎなかった。この枡取りを見届けた後、午後は小雨の中を駕籠で楠崎組、さらに新田分の検見を夕刻までには終え、検見方役人は金子村に移った。この二日間の検見に、合わせてどの程度の出費と出役があったか、また藩側からどの程度の経費の補てんがあったかはよくわからない。いずれにしても村側に莫大な持ち出しがあったことに変わりはない。
 喜多郡大谷村(四分市村・現、肱川町)は大洲藩に含まれ、南は宇和島藩に接している。肱川の支流大谷川沿いに階段状の水田と集落が、高度二〇〇~四〇〇メートルにかけて分布している。天保一〇年(一八三九)の旱魃の際、田方の検見を願い出た。この願い出によって、早稲は九月一七~九日、中稲・晩稲は一〇月六~七日に検見が実施された。この検見の状況を表五-15に示した。早稲については、不作引きを一筆ごとに表記したが、中稲・晩稲は概略にとどめた。不作と認定されたのは七四筆で、このうち坪刈り枡入れは九筆であった。検見は一筆ごとの見付籾が算定され、これを米に換算して、石高(分米)との差、すなわち不作引きが計算されている。この七四筆の総石高一〇石九斗九升余のうち、約半数の五石七升余が不作引きと認定された。不作引きは、石高からこの不作分を減額して免を乗じるので、年貢の減額分ぱきわめて少ない。

過重な農民の負担

 村高に租率を乗じたのが本年貢(定米)であるが、この数量に対して割り当てられた口米・目払米等の加徴米(付加税)、村高に対して課せられた夫米等の高掛物、山野・河海の産物に対する小物成等の課税があった。この上に、さらに村割・郡割(大割)等の負担もあって、農民に対する税ははなはだ過重であった。
 表五-16は伊予各藩の加徴米等についてまとめたものである。各藩に共通したものは口米(口豆もある、以下省略)である。これは年貢徴収等の代官所経費、あるいは郡貸付米に当てられたものもある。宇和島藩・吉田藩の乗米は、年貢輸送中の欠損(水沢米)を見越して加徴されたもので、原則としてはその必要がなかった場合は、農民に返却すべきものであった。西条藩の欠米もこれに当たるものであろう。宇和島藩・吉田藩の溢米、大洲藩・小松藩の目払米も共に、米俵からの目こぼれを予想しての加徴米であった。小松藩には特に延米が一石当たり一斗二升五合(『西条・小松藩史』)課せられたとしているが、これは、小松藩に限ったことではなく、各藩とも四斗を越えた分かこれに当たるものと推定される。松山藩の場合も一俵は四斗四升であったが、このうちの四升は延米・溢米であった。貞享二年(一六八五)には、この延米・溢米を免に換算したために、形式上免上げになったとしている(『松山市史料集』5)。
 図五-3は小松藩の大頭村(現、小松町)の年貢(定米)等の徴収状況である。村高八四三石余、租率四三パーセントであるから、定米は三六四石余になる。口米は定米に対する付加税であるが、小松藩の場合は、高掛物である夫米も合わせたものに口米が徴収されている。定米に口米を加えた三八一石余に、種子貸米元利を合わせると、総納め高は四〇五石五斗五升余である。しかしこの数量は形式上のもので、実質はさらに延米が一俵に五升であるから一石当たり一斗二升五合、これに目払米五合を加えると一斗三升になる。したがってこれを加えると実質の納め高は四五八石余で、石高に対する年貢は、定米では四三パーセントであるが、総徴収高は五四賀になる。
 図五-4は元禄六年(一六九三)の大洲藩(後に幕府領になる)風早郡大浦村の年貢徴収状況である。これによると田方は、定米に口米・目払米を加えた九四石余、畑方は定豆に口豆・目払米、さらに種子利豆を加えた二五石余である。この米と大豆は、いったん郷蔵に保管された後搬出された。この場合石当たり五合が徴収された。ただし大豆については、米で納める仕組みであった。この結果総納入高は、米九六石九斗余、大豆二五石四斗になる。このように各藩は、数量として現れない延米・蔵出米、あるいは夫米も口米の対象とするなど、藩の収入を増加するための細かな配慮がなされていることがよく分かる。
 安永九年(一七八〇)、大浦村は村高約一〇〇石を除いて幕府領に編入された。口米・目払米は、大洲藩当時と変化はないが、高掛物については、他の幕府領なみになった。村高一〇〇石当たり、御伝馬宿入用米は六升、六尺給米は二斗、御蔵前入用は正銀一五匁、銀札なら二四匁の三役が加わった。なお年貢納入は、すべて銀に換算され、このうちの三分の一を銀納する仕組みであった。
 表五-17は和気郡姫原村(現、松山市)の本途物成・口米・夫米・小物成、それに村経費も含めた徴収状況をまとめたものである。これによると、租率は本村分八七パーセント、出作分四一パーセントで、本途物成・口米に夫米を加えたものの合計は四四九俵になる。これに年々貸与された種子元米が三〇俵余、村の経費に含まれる庄屋・組頭給米合わせて、一〇俵、村の諸係給米、その他を含めた総徴収高は、五〇二俵余に達している。これにさらに小物成が加わるが、これは表にもあるように、江戸中期以降はほとんど銀納となった。姫原村の銀納分は一四一匁余で、当時の米価で米に換算すると約七俵になる。したがって本途物成の一六五石余、すなわち四一三俵に対して口米以下を総計すると約一〇〇俵増加したことになる。なお外に郡経費「大割」が約一〇俵あるので、さらに負担は上回ることになった。

定免制の実施

 太閤検地が実施されてからの年貢は、石高制に基づいて、村高に租率を乗じて決定する本途物成(本年貢)と、小物成とよばれる雑税とがあった。本途物成は田方は米、畑方は主として大豆で納められた。租率は秀吉時代には、二公一民を原則としたが、以後江戸時代を通じて、六公四民すなわち「六ツ取り」、五公五民の「五ツ取り」が多かった。この「取り」を一般に免と呼んでいた。ところが、検地の際の石盛(生産性の評価)の違い、それに検地以後の生産性の向上などによる地域間の格差が増大したため、表五-18にあるように、免がそのまま「取り」の程度を表わさなくなった。このことは、例えば、久米郡福音寺村の免の最高が一五・五で、租率一五五パーセントとなり村高の一・五五倍の本途物成が納入されていたことからもわかる。
 年貢は村単位に割り当て、村の責任において完納する仕組みであった。免を決めるには、秋の作柄を見て決定する検見法(毛見)と、免をあらかじめ予告しておく定免法とがあった。検見を年々繰り返しているうち、作柄が予想できるような場合には、当然定免制が自動的に発生する。また定免制を恒久化するためには、村内の百姓の租税負担の不公平をなくすることが必要で、このために地坪を伴うことにもなった。
 定免制のうち、その年の秋の免を予告する春免(土免)は、松山藩では、風早郡宮内村(現、北条市)で、加藤嘉明の治世中の元和二年(一六一六)四月、同六年六月「定土免」(『愛媛県編年史』6)として申し渡している。したがって、当時すでに春免制が実施されていたことがわかる。春免制は寛永四年(一六二六)以後蒲生氏の領有時代にも引き継がれた。蒲生氏のあと寛永一二年九月、松平氏が松山に入部したときには、すでに免は決定していたが、翌一三年に検見法に切り替えた。久米郡の場合、寛永二〇年・明暦元年(一六五五)・寛文三年(一六六三)に急激な落ち込みを見たが、大局的には免は大幅に増大した。したがって、藩としては免を高い段階で固定することが得策で、寛文七年(一部の村は翌八年から)定免制に移行した。ところが、延宝二年(一六七四)五~六月の霖雨、八月の暴風雨で、決定的な被害を受けたため中止された。したがって定免制は、延宝元年までの六~七か年続いたことになる。延宝年間は、さらに同四年七月、同六年七月、八月の大暴風雨等大災害が頻発した。
 この時期、藩財政の再建に当たったのが高内又七であった。延宝七年二月、先にも記したように①春免を実施すると秋免(検見)の無駄を省くことができる、②春免は収益の点でも百姓の利益が多い、③春免を実施すると同時に、百姓の利益になる諸方策を実施する、④春免は必ずしも強制するものではない、などの二五項目を含んだ、通称「新令二十五条」を申し渡した。また漂漑施設の整備、不公平税制を排除するための地坪を制度化し、すでに延宝八年久米郡南方村でこれを始めるなど、定免制を定着化するための手だてを尽くした。この結果春免は更新の度ごとに免上げされ、早い村では貞享三年(一六八六)、遅くとも元禄一〇年(一六九七)までには長期の定免制に移った。ただ享保一七年はウンカによる大凶作で破免、翌年一月農民救済のため、免下げを実施して農村の復興するまで続け、寛保三年(一七四二)元に復した。享保一七年は例外として、不作の年でも破免とせず、定免高(定米)から不作引きを差し引く方法で処理された。
 吉田藩の定免制は、『郡鑑』の「春土免替りの時御相談の事」の項目の中に「慶安の頃は御免相五ヶ年限其後三か年限」とあるので、慶安四年(一六五一)には定免制が実施されていた。宇和島藩の場合もこの前後からと見られ、同藩は、正保二年(一六四五)従来の六尺五寸の間竿を二寸縮小して六尺三寸の検地が施行された。これは後の鬮持制と内扮検地がペアとなっているように、定免制の実施と正保検地が密接にかかわっていたものと推測される。
 大洲藩内で春免制の実施されたことがわかる最初の記録は、承応三年(一六五四)四月の浮穴郡猿谷村(現、伊予郡広田村)の土免目録「定米五拾石、定豆五拾石」である。島方では忽那島大浦村の正徳元年(一七一一)七月の「卯辰両年土免相極め候」(『中島町誌史料集』)が最初の記録である。写真五-5は享保二〇年(一七三五)の同村上免目録である。今治藩は貞享元年(一六八四)「定免米のうち、千四百六十七俵余日焼痛二引ル」(国府叢書)とあって、当時定免制が施行されていたことがわかる。
 西条藩の定免制は、元禄年間に春免が始まった。国領川沿いの郷村のように扇状地に分布する村は、旱魃・豪雨の際は鉱毒を含んだ土砂流の流人など、災害が頻発した。このため春免に移ってからも、検見を度々実施した。宝暦三年(一七五三)、豊作を機会に春免を中止することを申し渡し、領内一円に検見を行った。この結果、従来春免で三ツ五分前後であったのに対して、これを大幅に上回る平均四ツ八分の「免定」とした。しかし、あまりにも格差があったため、三分減免して再度申し渡した。ところが、この急激な免上げは、当然農民騒動の原因となった。翌年藩は農民の要求を入れ、四ツ三分位が定免の道理であるが、定免の初年度でもあるとして「四ツ少余」の免に決定した(資近上五-11)。小松藩は宝暦元年定免制に切り替えられたとしているが、これが春免かどうかはわからない。

年貢未納者

 寛保元年(一七四一)一〇月、和気郡志津川村(現、松山市)の村役人から、同村百姓仁左衛門・長右衛門・六右衛門について、次のような願書が提出された。

 右の通り三人の者共、御年貢米納方不届の仕方、かようの者、村に立ち置き候ては、惣百姓御取立の筋とは意味違いになり、裁許が難しくなるので、右三人共家内残らず追放仰付け下さるよう、村中一同願い奉り候
                                    志津川村庄屋 (省略)
                                    組頭 二人  (省略)
                                    百姓残らず連判(省略)

 この願書に対して、内々吟味したところ相違はない、年貢の皆済(完納)以前に米・籾をわがままに処分するのは、不届き千万である。村方願いの通り追放仰せ付けられるようにと、和気郡改庄屋・大庄屋各二名の奥書きで、和気郡代官所元締役まで提出された。この願書の添付書類をまとめたのが表五-19である。
 三人の所有する耕地は、仁左衛門が田六反三畝一五歩、長左衛門は四反二畝五歩、この年の春松山北萱町から入百姓した六右衛門は、田畑一町六反三歩であった。この年の見立米(作柄)から判断して、長左衛門はやや無理な点もあるが、御仕掛高(徴収石高)は、仁左衛門の七石五斗三升六合、長左衛門五石七斗一升七合、六右衛門は一一石七斗九升一合であった。この石高から三人とも貸与される御種子米(元米)、仁左衛門については駄賃馬米と丑歳の見立不足の未払米を含めて差し引き、したがって納入しなければならない石高は仁左衛門六石九斗七升六合、長左衛門五石四斗九升七合、六右衛門は一〇石八斗七升一合となった。これに対して早稲は九月二一日、中稲・晩稲は一〇月一日、同五日に納入された。このうち古米納めは、新米の同量に対して九一パーセントに換算されている。これら納入分を差し引いた未納分は、仁左衛門二石四斗六升九合、長左衛門三石三斗三合、六右衛門は三石八斗八升一合となっている。この未納分に対して強制的に納入させられたものは、仁左衛門の場合、籾出米・稲束つきの籾・代米として麦・木屋町五兵衛及び三津浜善八から取り戻されたものを合わせて八斗九合となり、残る分は一石六斗六升となった。長左衛門の場合、はごき籾(こぎ残りの籾)、木屋町五兵衛からの取り戻り分合わせて三斗を差し引き残る分は三石三合である。六右衛門については、各地からの米・籾の取り戻り分は、遠くは温泉郡湯ノ山・和気郡伊台・風早郡苞木の各村まで分布している。これらの取り戻り分に、庄屋立替分を含めると残り分はなくなる。年貢を完納する以前に、他売・質入・掛け払い等厳禁されている。したがって未納分のなお残る仁左衛門・長左衛門はもちろん、六右衛門についても、このように村から追放の願い出になった。年貢納入は村の共同の責任であることから、このような三人の行動を認めることはできなかったのである。願い出の結果はわからないが、この申し出に添って処置されたことは間違いはなかろう。

表5-1 各郡石高別村数

表5-1 各郡石高別村数


図5-1 各郡石高階層別村数比率

図5-1 各郡石高階層別村数比率


表5-2 江戸期における村の分割と成立

表5-2 江戸期における村の分割と成立


表5-3 宇和地区の一人前耕地面積(本百姓)と百姓構成

表5-3 宇和地区の一人前耕地面積(本百姓)と百姓構成


表5-4 宇和郡是房村の農民層の区分(吉田藩)

表5-4 宇和郡是房村の農民層の区分(吉田藩)


表5-5 農村の身分構成

表5-5 農村の身分構成


表5-6 庄屋(吉田藩)の職務

表5-6 庄屋(吉田藩)の職務


表5-7 野間郡庄屋の役料および庄屋抜地等の状況

表5-7 野間郡庄屋の役料および庄屋抜地等の状況


表5-9 今治藩の国分村庄屋所の年中行事

表5-9 今治藩の国分村庄屋所の年中行事