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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 新谷藩における求道軒の消長

好学の気風と求道軒

 新谷藩は大洲藩主加藤貞泰の遺志によって、元和九年(一六二三)に次男直泰(一六一五~八二)が同藩から一万石を内分されたのにはじまる。しかしこの内分の解釈について紛議があり、寛永一六年(一六三九)になってようやく解決し、陣屋ならびに侍屋敷を喜多郡上新谷村に営んだ。家老の徳田彦六季一は、中江藤樹の門人であり、同藩には用人の戸田孫助および横山小左衛門らも同門であったから、好学の風があったと推定される。また直泰は歌道に秀でていて、北野能円から古今伝授をうけた程であった。
 直泰ののち、泰觚(大洲加藤第三代藩主泰恒の子)、その子泰貫を経て、泰広(前記の泰恒の末子)の治世となった。泰広は歌道を烏丸門派に、俳諧を立羽不角に学び、また徳田寄隆(前記の徳田彦六季一の孫)が陽明学を修めていたのに注意すべきであろう。その子泰官が継承し、ついで泰賢(一七六七~一八三〇)が第六代藩主となった。
 彼は天明二年(一七八二)に藩校を設立し、求道軒と名づけ、教官に讃岐の吉本某を招いたというが、史料がないので詳細は不明である。泰賢の隠退ののち、泰儔が藩主となったが、他の小藩同様に財政困難に陥り、政治・経済はともに大洲藩の支配のもとに置かれ、ようやく危機を脱する状況であった。そのため求道軒も廃校同然であったと推察される。

求道軒の再興

 泰儔の子泰理(一八五一~六七)が、父隠退ののち家督をついた。彼は好学の士で、天保年間に求道軒を再興して、児玉暉山を教授として、藩の文教政策を確立した。暉山は古賀伺庵の門人として名を知られていた。また藩士香渡晋を小松の近藤南海に従学させ、帰藩ののち句読師とした。このころ、求道軒は陣屋の近くにあって、たびたび移転したようである。卒以上の藩士の子弟は、一〇歳に達すると入学する規定であった。のちに藩校内に塾を設げて、卒ならびに庶民を対象として、学問の指導に当たった。嘉永年間の記録によると、職員には司講(家老が兼ねる)・司監・句読師・司読(二~五人)・助読(二人)等であった。
 教科は四書・小学・五経・文選等の素読を授け、自習できるようになると、四書の輪講・歴史の会読・詩文の作成等に進んだ。そのほかに兵学・習礼等を錬磨する規定であった。嘉永年中の一か年の経費は三〇匁であったが、慶応から明治に移ったころは一貫目であった。