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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 文教政策と学問の導入

松山文化の誕生

 松平家第一代藩主定行の隠退したあと、子定頼を経て、その子定長が寛文二年(一六六二)に第三代を継いだ。定行の就封以来とられて来た藩政上の武断政策が、ようやく方向転換を現しはじめた。同四年六月に、長谷川正庵が城中の大書院で、大学の講義を行った。
 この時、定長は在国していたので、大書院に赴いて聴講した。この席に、家老をはじめ多くの藩士たちも出席した。また定長自身が儒教に対し関心を持っていたことは、みずから白鹿洞学規および論語課会説を書き、これを額にして城中に掲げたことによって理解されるであろう(『垂憲録』・『垂憲録拾遺』)。
 そのあとをうけた第四代藩主定直(二八六〇~一七二〇)は、ひろく学問を愛好し、また俳諧になじんだため、藩士の間にも儒学等が鼓吹され、松山文化の勃興期を形成した。彼が学問に強い関心を示したことは、参勤交代で在府中に、将軍徳川綱吉の儒学の講義を聴いた旨が『松山年譜』の記事によって知られる。定直は施政のうえでも学問に留意し、宝永四年(一七〇七)六月に江戸から松山に帰った時、その子定英に対し、「小訓」と題する八か条の心得書を示して訓戒している。この小訓については、定直の近習が写したものが、安井煕載の『却睡草』のなかに記載されている。それによると、人は「人倫の大本」を守り、「朝夕学習」に志すべきであり、学問の道は「博覧を求める」にあるのではなく、「小学四書の講習、幾遍も委細」に繰り返し、その蘊奥を極めるところにあると訓戒している。

藩政における儒者の登場

 定直は宝永六年(一七〇九)八月に、藩の職制のなかに儒者の役儀を認め、その席次を書簡役の次とした。その儒者には、松井甚五兵衛・野村清八・大月履斎(一六七四~一七三四)の三人が任ぜられている(『垂憲録拾遺』)。さらに留意すべきは、南学の大高坂芝山(一六四七~一七一三)、垂加流神道の大山為起(一六五一~一七一三)らの硯学を招聘し、これらによって、松山藩に儒学・神道がその地位を獲得するに至ったことである。芝山は名を季明、号を黄軒・一峰といい、土佐国の人であった。はじめ南学を義兄の谷一斎について学んだが、のち江戸に赴き林家について朱子学を研究した。
 芝山は貞享二年(一六八五)に稲葉正則の斡旋によって、松山藩に召し抱えられた。翌年に、四〇〇石一〇人扶持に昇進し、江戸奏者番の要職に任ぜられた。彼は南学の正系を継承し、『適従録』を著して伊藤仁斎の古学派を論難し、学統の由るところを明らかにするとともに、時弊を痛烈に論評してその名を知られた。彼は儒者としての活動によって、藩士に多大の影響を与えたが、正徳三年(一七一三)五月に、年六七歳で逝去した。芝山の子孫は、引き続き松山藩に仕えて文運の発展に貢献した(「当局坂家記」)。
 大山為起は山城国伏見稲荷神社の神職の家に生まれ、号を葦水といった。彼は山崎闇斎について儒学ならびに垂加流神道を学んだ。彼が京都にいた時代に最も注目されるのは、荷田春満(国学の創立者)の師となり、稲荷社伝の神道の教えを伝授したことであった。貞享四年(一六八七)に定直の招聘をうけ、藩から一八人扶持を給与され、その傍ら味酒神社(阿沼美神社)の神職を勤めた。元禄三年(一六九〇)三月から三ノ丸で藩士に対し、『日本書紀』の講義を開いた(「本藩譜」)。また『職原抄』の講義を行った記録もある。彼はその職にあること二五年の長い期間、山崎学および神道を鼓吹し、かつ寺院に従属する地位にあった神社を独立した存在にするようにつとめた。したがって、僧侶に支配された神職の立場を寺院から切り離し、その地位の向上をはかった功績は大きく、地方の宗教界に一新生面を開いた。さらに苦心のすえ、『味酒講記』五五巻をはじめ多数の書を著した。『味酒講記』の完成ののち、松山藩を辞して京都に帰り、正徳三年(一七一三)三月に逝去した。
 大月履斎は名を吉廸、字を正蔵といい、大洲に生まれ、長じて崎門の俊傑浅見綱斎の門に学んだ。正徳五年(一七一五)四二歳の時に定直に招聘せられ、儒者として二〇人扶持を給与された。彼は経済に関する見識を持ち、藩政に対してもいろいろ助言するところがあった。彼の代表的な著述『燕居偶筆』は、施政の要務および米価を中心とした経済論、さらに福祉社会の出現を論じた。彼は定直の没後、定英・定喬にも仕え、享保一九年(一七三四)三月、松山で六一歳で逝去した。彼の清新な学風は、後世に大きい影響を与え、その門下に松田東門(通居)・三戸新兵衛・小倉正信らの優秀な弟子が輩出した(「高浜家記」)。
 そのほかに、伊藤仁斎に始まる古学(堀河学)が、松山に伝播された。それは伊藤兵助・中村喜左衛門らの努力によるものであって、さらに高木玄林・和田通条らも堀河塾に入って親しく仁斎の教えをうけ、帰って藩士の指導に当たった。これらによって、松山地域における古学隆盛の端緒となった。

享保―明和年間の趨勢

 定直のあとをうけた第五代藩主定英(一六九六~一七三三)、および第六代定喬(一七一六~六三)の治世は、享保~宝暦年間にわたった。この間における学界は、前代に引き続き崎門派と古学派とが隆盛であった。
 まず山崎学の松田東門は名を通居といい、学問を履斎にうけた。松山藩士で一五〇石を給与されて、重要視された。彼の勉学の範囲は広く、堀河学、荻生徂徠の古文辞学派にも関心を示し、博学で名を知られた。東門の著書に『東門夜話』一一冊があったが、残念ながら原本は伝わっていない(「膾残録」)。側用人の地位にあった三戸新兵衛も、履斎門で名を知られ、定喬のあとを継いだ定功(一七三三~六五)の侍読となった。
 同じ古学派に、長野彬々(一七〇二~六七)があった。彼は名を篤興といい、与力として活躍した。彼は主として仁斎の孫東所(一七四二~一八〇二)について教えをうけた。彬々はその性格が篤実方正で、日常の生活において実践を重んじ、その文章には古君子の風があったといわれる(「欽慕録」)。
 この当時、儒学の講義が大書院で開かれ、尾崎訥斎・佐藤勘太夫らがその衝に当たり、また神道の講義が高市相模によって行われた。訥斎は名を時春、字を団次(弾次とも書く)といい、藩の書簡役を勤めた。伊藤東所の指導をうけ、帰藩ののちは、育英事業にっくした。彼は特に詩文に秀で、また書をよくした。松山藩で詩文が盛んになったのは、彼の業績に負うところが大きい。勘太夫は前記の松田東門の弟子であった。