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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

2 小松藩養正館と近藤篤山

竹鼻正脩と小松藩政

 小松藩は寛永一三年(一六三六)に、西条藩主一柳直重の弟直頼が、周布郡塚村(のちに小松と改称)に一万石を封ぜられたのにはじまる。直頼の子直治を経て、宝永二年(一七〇九)に頼徳(直卿)が三代藩主となった。頼徳は号を蝶庵といい、儒学・老荘の学を好み、詩歌・書道さらに茶道にも通じた人物であった。
 頼徳の死後、甥の頼邦を経て、その子頼寿が第五代藩主となった。頼寿は同藩の文運振興をはかるために、明和三年(一七六六)に竹鼻正脩を抜擢して、政治・教育の両方面に全力を傾倒させた。正脩は通称を堅蔵、字を見遠、号を藍谷・流斎といった。崎門派の石王塞軒の高弟山田静斎の門に遊ぶこと五年間、帰藩ののち頼寿の厚い信頼をうけ世嗣頼欽の侍読となった。ついで頼欽の治世には、累進して家老の地位にのぼった。彼は精励恪勤の士で、休日には記録類の整理に当たったばかりでなく、子弟のために寸暇を惜しんで儒書を講じた。

培達校より養正館へ

 さらに正脩は、積極的に家中における学問の振興をはかるために、藩校を設立して藩士の教育に当たるべきであると考え、藩主頼親(頼欽の子)に進言した。そこで、頼親は天明四年(一七八四)六月に藩庁の南側のお竹門の外すなわち新屋敷に、新たに学開所を設立した。藩校名を培達校といい、藩士のうちで徒士以上の子弟を入学させた。そのほかに、神職・医師・農民・商人の希望者にも聴講を許可した(小松藩日記)。これは同藩にとって画期的な事項であって、藩の布達によると学開所での勉学について個人的な出費は不要である旨を述べ、財力の乏しい下級武士の就学を督促した。
 藩ではその翌年に学制を改め、校名を養正館と称した。この時の学制は伝わっていないが、後世の史料によると、養正館には講堂・教官詰所・講義所・文庫・練武場等の建造物があり、子弟は一〇歳で入門し素読に従い、一二~三歳で練武することとなっていた。学科は素読・講義・輪講会読および自習となっていて、素読では四書五経・近思録・古文真宝・三体詩・十八史略等を対象とし、助教・助読がその指導に当たった。講義は毎月二・七の日、輪講は五・一〇の日に行われ、そのほかに儒官による講義が毎月数回開かれ、士分以上のものは出席しなければならなかった。
 武芸では弓術・剣術・槍術・馬術・拳法・砲術・水練および兵学の教科があり、藩士は養正館内の練武場、各流派の師範役の道場で錬磨した。教官には儒官一人、学頭一人・助教三人・同補欠一人、助読三人があり、儒官が学務関係を総轄した。

近藤篤山の略歴

 竹鼻正脩は養正館の発展に心を用いたが、学界に名を知られた近藤篤山(一七六六~一八四六)を迎えて、いっそうの振興をはかることになった。
 篤山は名を春松、通称を高太郎といい、明和三年(一七六六)一一月に宇摩郡小林村(現、土居町)の富農の高橋家に生まれた。ところが不幸にして、同家は旱魃による農作物の減収と商品取引の不振による借財累積のため倒産した。篤山はこの逆境にもめげず勉学に志し、二三歳の時に弟容斎とともに上京し、やがて大坂の尾藤二洲の門に入った。二洲(一七四七―一八一三)は伊予国川之江に生まれ、名を孝肇、通称を良佐といった。彼ははじめ陽明学の宇田川楊軒に学び、青年のころ大坂に出て蘐園学の片山北海に師事し、頼春水・柴野栗山らの朋友だちと詩文を競った。やがて朱子学に傾倒した結果、蘐園学を博識を誇り名聞のための末枝の学として排撃した。
 さて篤山は二洲の庇護を受け、勉学のすすむにしたがい、越智士亮とともに二洲門の双璧とうたわれた。ところが寛政三年(一七九二)に二洲は幕府の儒官となり、江戸に下った。篤山は一時二洲塾をあずかった。やがて師のすすめによって昌平黌に学んだが、その博学と篤行とは全校の注目するところとなった。しかし篤山は故郷にいる老父母のことを配慮して、帰省して川之江に塾を開き、子弟の薫陶に当たった。
 正脩は篤山の篤行に感激し、小松藩に迎えて教育体制を確立しようとしたが、はじめ篤山は応じなかった。それから三年のちの享和二年(一八〇二)に、篤山の父が小松領内の大生院村に隠栖したのを機に、再び交渉してようやく藩に迎えることに成功した。篤山は正脩と協議のうえ、昌平黌の制度を参酌して、学校施設の拡充にっとめた。のちに作成された図から類推すると、養正館は中広道と東横町の角にあって、その向かい側に武芸の稽古場があり、家中屋敷の中央に位置した。さきにつくられた培達校と異なっていることは明らかであるが、この培達校を移築して整備したものか、新たに建築したものかどうかは、享和三年(一八〇三)の藩庁日記が失われているので不明である。
 篤山は藩庁の勧めによって川之江塾を閉じ、文化三年(一八〇六)以降は小松に定住し、それからおよそ四〇年間、藩主頼親・頼紹に仕え、その補佐と家中の教育に専心した。他藩のもので彼の学徳を慕い、その私塾である?蒼亭および緑竹舎に遊学するものが多かった。篤山は学問の目的を人格の完成におき、志を高大にし独りを慎み、常に己に求むべきことを強調した。また庶民の教化に努力し、庄屋・町年寄らに対し、藩政末端の責任者として、言の忠信、行の篤敬を主張し、権力に溺れて不正横暴に走ることを鼓戒した。

近藤南海と同簣山

 篤山は天保一三年(一八四二)に隠退したので、長子南海、さらに次子簣山が相ついで儒官となって明治維新に及んだ。南海は譚を春煕、字を光風といい、父の膝下にあって勉学したが、のち昌平黌に学んだ。帰郷ののち、篤山のあとをうけて、教育に専心するとともに、累進して家老となり、藩政にも貢献した。
 文久二年(一八六二)南海が逝去したので、その弟の百山が育英事業を継承した。彼は名を春燾、通称を真助といい、京都に上って猪飼敬所の門に入った。業を終えて帰国し川之江に、のち小松に私塾を開いた。兄南海のあとをうけて儒官となり、養正館の経営に当たるとともに、藩主の侍講となり、大きい功績をあげた。