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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 西条藩における儒学の発展と択善堂

松平頼渡と山井崑崙

松平家西条藩は、寛文一〇年(一六七〇)一二月に、和歌山藩主松平頼宣の次男頼純(一六七〇~一七一一)か西条三万石の藩主に任ぜられたのに始まる。頼純は翌一一年三月に就封したが、同藩は定府であったから、歴代江戸にいて、加賀の前田、仙台の伊達の諸侯に伍して、大広間詰の地位にあった。したがって、藩とで西条に帰ることは稀であったが、和歌山藩との関係は密接不離であって、政治・経済・文化の各方面にわたって、和歌山藩の影響をうけるところが多かった。
 頼純のあとを継いだのは、子頼致(のちに宗直という)であったが、宗家の和歌山藩では、吉宗が徳川家に入って八代将軍に補せられたので、そのあとをうげて同藩主となり西条を去った。そこで、頼致の弟頼渡が西条藩主となり、兄の事業を継承した。頼渡は学問を好み、享保三年(一七一八)に蘐園学派の山井崑崙を江戸藩邸に招聘して、記録をつかさざる記室とした。西条藩がこの著名な学者を採用したことは、同藩の教学史上に画期的なできごとであった。
 崑崙は紀伊国の人で、本名を鼎、字を君彝といい、はじめ同藩儒の蔭山元質(東門)に学び、のち京に上って伊藤仁斎の堀川塾に入ったが、のち江戸に赴き荻生徂徠に師事し、ついに蘐園学派にこの人ありといわれる進境を示した。彼は専ら江戸藩邸に勤務したので、西条の地を踏むことなく、五年ほどで辞去した。その後、下野国足利に赴き、旧足利学校の古書を研究して、『七経孟子考文』三二巻を著して、西条藩主に献呈した。この書は中国で重要視され、四庫全書にも収録された。
 四代頼邑には嗣子がなかったので、さきに宗家を継いだ頼致(宗直)の第二子頼淳が宝暦三年(一七五三)に入って、西条藩主となった。頼淳は好学の士で、米沢の上杉鷹山、熊本の細川重賢とならび称せられた政治家であった。彼は折衷学派の細井平洲を聘して儒学への道を開き、また士民の教育の実をあげるために『五慎教書』・『童子訓』を著した。ところが治世二三年ののち、安永四年(一七七五)に紀伊徳川家を継承したために西条を去ったことは、藩にとって大いに損失といわなげればならない。

択善堂の概要

 その後、紀伊徳川家から頼謙がつぎ、子頼看を経て寛政九年(一七九七)に弟頼啓の治世となった。文化二年(一八〇五)ころ、頼啓は西条北堀端(陣屋の北方)に藩学を創設した。その名を択善堂といい、講堂・素読所・寄宿舎・書庫・炊事場等の建造物が整備された。また寄宿舎があって、克譲舎とよんだ。同藩では士・卒を問わず武士の子弟は七歳で藩校に入学し、初級では大統哥・四書を、第一級で五経、第二級で十八史略・国史略、第三級で三史略講義等の素読をうけた。一三~四歳になると寄宿舎に入り、初級では新策・孟子・史記、第一級では論語・外史・孫子、第二級では左伝・令義解、第三級では漢書・六国史を自習し、疑義について教官に指導をうけた。教官は一か月におよそ三回講義を行い、生徒の薫陶に当たった。
 武芸ははじめ堂外で実施されたが、文久年間に訓練場を堂内に移したので、文武館といったと伝えられるが、引き続き択善堂の名も使用された。武芸には剣術・槍術・弓術・馬術・柔術・砲術等が訓練された。ただし馬・弓術は堂外で、砲術は海岸で訓練が実施された。なお、択善堂には校則一三条と寄宿寮規則(西条藩紀)とがあったが、これらの規定は創立後間もなく原型がつくられ、順次改訂を加えて幕末期に整備されたのであろう。内容は入学生の遵守すべき諸規則、試験についての条項等を列記したものである。
 択善堂の職員は学頭二人、教授兼大舎長二人、助教兼舎長三人、句読師一〇人から構成された。創立当時の教官は、三品容斎(一七六九~一八四七)であった。容斎は小松藩の儒者として高名の近藤篤山の弟であり、後述の日野和煦一の義弟であった。諱を崇、字を隆甫・宅平といった。容斎は兄とともに尾藤二洲に師事したが、父の命によって医学を研修するために、蘭医小林見宜堂の家に寓したこともあった。帰郷ののち西条藩士三品為堂の養子となり、藩主頼啓およびその子頼学の侍読となり、択善堂の指導者としての地位についた。彼は文教の振興に尽くすこと五〇年に及び、異数に累進して馬廻組頭に任ぜられた。
 容斎よりおくれて教官となった日野和煦(一七八四~一八五八)は、名を暖太郎、諱を胖、号を醸泉ともいった。はじめ朱子学派の近藤篤山の門に入り、さらに昌平黌に入って朱子学の研究に従事した。帰藩ののち文教に携わること五〇年の長きにわたったので、藩士で彼の指導をうけないものはなかった。天保七年(一八三六)に同藩領内の地誌編集を命ぜられ、七年の歳月を要して『西条誌』二〇巻を著した。この著書は、江戸時代における優れた郷土地誌としてひろく重要視された。彼には、そのほかに『兵備妄言』・『醸泉詩稿』等二五種七〇冊に及ぶ著述があった。
 その後、藩の育英事業に功労のあったのは、尾埼山人であった。山人は小松藩の近藤南海(篤山の長男)に教えをうけたが、昌平黌および麹渓書院等に学び、また水戸藩の鶴峯彦一郎に国学を、松江藩の金森建策について洋学を修めた。さらに安井息軒・佐藤一斎にも教えをうけたことがあった。山人は多方面にわたる学術の研究に従事し、儒学では折衷学派に属した。帰郷ののち藩校の学頭兼参与となり、維新後は権少参事主務文武官総督に進んだ。
 かねてから山人は尊王攘夷論を主張し、三本左三・田岡俊三郎らと提携してその運動を促進した。沢宣嘉が倒幕運動をおこし、生野の変に敗れて伊予に潜入した時、山人はその庇護に尽くした。そのために宣嘉は無事に危機を脱出して、長州へ赴くことができた。山人の著述には、『古家正綜』三巻・『炳燭録』三〇巻・『地球大成』二巻等がある。