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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 交通政策の転換

初期の政策

 中世の交通は、武士や荘園領主が所領からの年貢輸送路の確保を主眼としていた。道路や河川の通行権も領主が握っており、問・梶取らの交通業者も領主のみに奉仕した。しかし織豊政権下に全国統一が進むと、伊予も新領主によって強力な交通体系の整備が行われた。
 近世も基本的には封鎖的な領国経済であり、藩境は国境にも似た厳しい障壁であったが、一方では安定した統一政権と商品経済の中で、全国に開かれた公道である必要もあった。戦乱で荒れた道路今橋は修築され、並木が植えられて一里塚も設けられた。水軍は不要となって大名配下の船手組に再編された。ただ領内外の交通は、人々の往来や物資の輸送の他に、幕府や大名の領民支配の基本としてもとらえられた。したがって交通機関の利用は武士優先であり、牛馬から小舟に至るまで強力な統制下におかれた。その管理や維持についてすべて領民が負担することは、前代と同じであった。
 東予五郡の領主福島正則は、天正一七年(一五八九)二月、大坂への城米発送地である桑村郡河原津に七か条の条目を掲げ、代官といえども規定の船賃を払わせ、非法を取り締まるなど、航行秩序の維持に意を用いた(資近上一-39)。文禄四年(一五九五)に大津(大洲)に入城した藤堂高虎は、長浜を船溜りや作事場として整備し、江戸往来や公物輸送、非常に備えて楼船・関船など一〇〇余彼の船舶を用意した(「長浜町郷土誌稿」)。慶長五年(一六〇〇)春、高虎が伏見から国元へ発した「府中条令」では船の修理を念入りにすること、板島(宇和島)及び諸浦の加子役を先例のままとし、水主を逃亡させぬよう指示している(資近上一-88)。また翌年一一月、二万石の家臣渡辺勘兵衛の知行についても、浦役に関しては高虎自身が指示すること、米や大豆の津出しについては先年の規定に従う旨を命じている(資近上一-94)。
 加藤嘉明も中世来の港湾三津を整備し、勝山築城に先立って伊予川・石手川を改修した。治水工事は加茂川や中山川でも行われたが、これは広く領民の資力や労働力を動員した大工事で、水運や材木流し、河口の船溜りの利用についても考慮された。

諸藩の施策

 既に近世初頭には、現在とほぼ同型の海陸の交通体系の原形が出来上がっていたが、政経両面の必要から更に整備が進められた。その中でも参勤交代や巡見使の通行の果した役割は大きい。また海路は、全国に散在する幕領からの定米の輸送や大量の物資の安全な江戸回送の意味が大きい。領内の海陸交通は年貢輸送や治安のため、城下から各村庄屋所に通じる道路や橋が中心であったが、その管理は普請奉行か作事奉行が担当した。西条藩の普請方は普請奉行の下に元締・副元締各一人、下奉行数人の構成であった。
 他藩や中央との交流では主要街道と海運が主体となるが、港や船の管理は船手方が当たった。藩経済の発展には交通網の整備が不可欠であるが、一方では密売や脱藩、逃亡防止の必要もあり、やや矛盾した二面を持つ。港や藩境には番所が置かれ、特に厳重に取り締まったのはこのためである。しかし、中期以降では諸産業の発達や社寺参詣など庶民の力が伸び、下からの力が交通を発達させて行った。里方では駄賃持や行商、浦方では船稼ぎや船乗りなどが農閑稼ぎの典型となり、生活そのものとなった。これらも庄屋を通じて藩庁の許可を要したが、藩への届は形式でしかなかった。
 初期の各藩は特に海上交通の円滑化と取り締まりに当たった。西条藩は陣屋建設時に、西流していた喜多川を北に曲げて堀とし、小型船の出入りする河口に川手番所を置いた。寛文一〇年(一六七〇)八月、松平頼純就封と共に定書一二か条を発し、交通路の安全を指示した(資近上五-2)。吉田藩でも創設間もない万治四年(一六六一)に、各浦々に掟書一八か条を発した(『郡鑑』)。大洲藩では元和三年(一六一七)八月に入城した加藤貞泰が、直ちに市橋新右衛門重長を長浜船奉行に任じ、同港の整備、船舶の建造、浦手一円の支配を命じた。肱川の水運についても大洲開町時に、大手の下手に「船渡し」を設けた。
 松山藩は松平定行入部と共に三津に船奉行所を設置して港湾整備を進め、諸施設や航海・藩船の管理に当たらせるため船奉行・大船頭・小船頭以下の役人を置いた。また一般回船や漁船の支配、浦水主の手配等もその役目であった。寛永一六年(一六三九)三月には領内の主要港に、船舶や通行人の出入を厳重に取り締まるべき旨の掟書を布告している(『愛媛県編年史』6)。今治藩でも初代松平定房の時に浜手番所が設置され、貞享元年(一六八四)八月の法度により、船舶の種類や旅行者の身分によって必要とする出船手形が規定された(資近上三-81)。

道路対策

 道路網は古くからの農事や生活上、また四国遍路などにより初期に既に密であったが、その状態は良好なものではなかった。新谷藩では要所は鍵型に曲げられており、矢落川の松並木は、戦乱時に伐り倒して防塞とするためのものであった。寛文三年(一六六三)一一月、歩行町二万町を通行した松山藩主松平定行は、町並に広狭高低があって見苦しいため、補助を与えて改修をさせた(『松山叢談』)。こうして各藩の法度には道路保護の条項が加えられた。藩主や代官の回領や野掛、鹿狩等の巡遊は、道路整備状況の視察の意味もあった。
 道路は領内を貫通して隣藩の城下に通じる大道(巡見道・街道・往還)、領内各村へ通じる中道(御検見道・往還)、村内や田畑に通じる小道(山道・作場道)に分げられ、他に山合いの峠道や浦と浦を結ぶ兎道などがあった。今治藩では巡見道は巾二間、御検見道は五尺以上の定めであったが、実状は明治初年の松山街道や金毘羅街道でも一間と三、四合(一合は一間の一〇分の一、計約二・四メートルとなる)以下であった(明治一二年「道路橋梁等取調書」)。宇和島・大洲・三間街道ではもっと悪く、広い所で五合(約九〇センチ)、一般には駄馬がやっと通る二合以下の小径であった。曲折も激しく僅かな雨で泥濘となり、崩れ落ちて通行不能となることが多かった。
 中道以上は公道として藩費や郡大割役で維持する原則であったが、災害による大破や幕吏通行など特別の場合を除いては村普請で行われた。数か村にまたがる場合には郡役の形をとるが、実質は村割の負担であった。今治藩では道路の維持は藩法で厳しく定められ、油断から破損の場所があると、主管の代官は宝暦五年(一七五五)の定めで過料五貫文となった。従って庄屋には常時道路の修理保全が義務づけられ、三か月に一度ずっの庄屋吟味講により、全村人に道路を守らせるべき旨の請書を提出させた(国府叢書)。
 小松藩でも道路修理は村負担の原則であった。天保九年(一八三八)の巡見使通行の準備には出役一人当たり一日七合五勺を給したが、道普請は村役人の勤め、今後は御上に苦労をかけるなと厳命した(小松藩会所日記)。公用伝馬の利用、駄賃や人足賃、宿賃や道中往来の心得などについては、各藩とも度々布告を発している。