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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 綿織物業の展開

綿織物業の成立

 近世初期の庶民の衣料は麻であり、綿布は朝鮮から輸入する高級品であった。しかし製織の簡便さや保温性から、農家の自給衣料として急速に普及し、量産化が容易なところからやがて手工業の重要品目に成長した。綿業の前提には綿作が必要であるが、初期には綿花のまま綿入れとしても用いた。伊予では綿は一七世紀初頭の慶長・元和期に、新居郡福武村で栽培され始めたと伝えられ、その後元禄~享保年間が普及期であった。今治藩では参勤着府の際に将軍家へ綿も献上する例で、元禄六年(一六九三)から正徳三年(一七一三)までは一〇〇把、享保一二年(一七二七)の『武鑑』では二〇把(松山藩一言把、大洲藩三〇把)となり、享和ころまで続けられた。
 綿花は原綿(実綿)→繰綿→綿打→紹糸(篠巻)→木綿と加工されるが、各々の段階でも取引され、分業が早くから成立した。寛文六年(一六六六)には大坂に三所綿問屋と三郷綿問屋が成立し、全国的な集荷体制も確立していた。今治藩では早くから綿の取引が盛んであり、御用商長島惣右衛門が経営不振になると、藩はその立て直しのため享保一〇年四月から一〇年間、綿問屋を許した。但し、従来の問屋は六歩の口銭をとったが、同家には四歩しか許されなかった(国府叢書)。同藩は明和九年(一七七二)から移入綿、翌年から移出綿にも分一運上を課している(資近上三-95)。
 綿織に関しては古田藩が寛文四年(一六六四)一〇月(『愛媛県編年史』6)、今治藩が延宝七年(一六七九)九月に、木綿一反の丈幅を定め(資近上三-80)、不足に織らぬよう請書を出させ、不足品の売買を禁じた史料がある。これは既に領外移出のあることを予想させるものである。元禄一四年刊の『道後温泉由来記』には道後縞の名があり、元文元年(一七三六)刊の『大洲秘録』中、浮穴郡麻生村の産物に木綿がある。天明元年(一七八一)には多喜浜でも織られた。伊予から大坂への白木綿登せ高は元文元年から数字があるが、天明六年では約一〇万反で、河内・安芸・豊後などと並ぶ綿業地となっている。ちなみに寛政五年(一七九三)から文化一一年(一八一四)の間、今治城下の大年寄別宮喜兵衛は、尾道へ年数回、一回一四〇匁前後の布木綿を移出している(尾道市金屋文書)。

綿替木綿

 綿業は農村婦女子の家内労働による副業的生産として出発し、自給原料による自家衣料の生産を目的とした。年代と機の種類は不明であるが、糸紡ぎは一日三、四〇匁、一反には二五〇匁の糸を要し、一日半反を織るのが限度であった。しかし地方でも需要が伸び、上方でも人気商品となると機や製織技術、染色法、紋様などが工夫された。各加工部門が専業化し、資金面では商人層が織元(問屋)となり、前借制によって婦女子に賃織のみをさせ、小規模ではあるが広範囲の商品的生産が展開された。これが天保期に発展した綿替木綿の制である。
 綿替制とは原料綿や織機を問屋が提供し、製品を買い取る形態で、問屋制家内工業の典型である。織子は原綿五〇〇匁から木綿二反を織り、うち一反分か賃織収入となった。今治藩では文政年間に砂田文治が紹糸替を始め、綿糸を大坂へ移出した。天保八年には深見利兵衛が紹糸商を一歩進めて綿替商に転じ、八木治平・片山某ら七、八名がこれにならった。天保一四年から嘉永六年(一八五三)の間、今治地方で生産される白木綿は、年産約三〇万反であった。この綿替制発展の大きな契機となったのが、高機の普及である。
 高機は松山城下の菊屋新助が、西陣の絹織用織機を綿織用に改良したもので、藩も文政五年(一八二二)に銭札三貫目を貸下げて援助した。在来の地機の二倍以上の能率の上に、作業が腰掛げで楽となり、高度な紋様の織出しも可能であった。地機よりかなり高価であったが普及は著しく、藩では天保一一年、同一二年に「諸郡高機差留」を布告した。これは郷中では一家中が織り、商事に馴れて風俗を乱し小百姓や無給が耕作をしない、と村役人に取り締まりを命じ、城下細民の保護からも水呑町以外での高機の使用を禁じたものである(湯山村史料)。
 また紬糸の不足により、紺屋以外の無株の者が染色業を営むため、天保一二年一二月これを禁じたり、領内産の糸を大坂や他領に売る事も禁じた二愛媛県編年史』9)。大洲藩でも同一三年三月に、農業の支障になるとして、四月一五日以降の郡中及び島方の高機使用を厳禁した。小松藩でも弘化ころは木綿の売買が盛んで、滞銀による紛争なども起こしている。安政三年(一八五六)六月には、国産木綿一、〇〇〇反を金栄丸に積み、大坂へ移出した(小松藩会所日記)。

松山の伊予縞

 伊予縞は、伊予絣以前の松山地方の織物で、松山縞・道後縞・伊予結城の名もある。発祥には天正七年(一五七九)の、日向戸郡城主の侍女創始の伝承があり(「日向伊東家記」)、明暦期には木綿座があるので、近世初期、既に生産されていたことが窺える。享保以降は今治藩の代官以下でも、領主廻領の世話の礼として道後縞数反ずつを度々貰っている(『今治拾遣』)。同藩の享保二〇年「越智島十七ヶ村万物帳」の産物にも木綿がある。発展は高機の普及した文化文政期で、文化年間には伊予縞約一〇万反を産して九割を領外へ移出し、文政年間には高機縞を数万反産した。この期には、販路は上方から尾張、江戸へも拡大した。
 同領越智島では、文化初年から多量の綿糸と綿実約八、〇〇〇貫を上方へ積出し、綿織は小百姓の稼ぎの第一となった。文政四年には堺の問屋が代銀約九〇〇匁を滞納し、大坂屋敷に取立を依頼するなど紛争も起きている(宮浦村御用日記)。天保期には今治地方の綿替木綿の影響でいよいよ活発となり、問屋商人が村内の木綿を買集めては上方へ出荷した。越智島一七か村の木綿商は一二名が定数であるが、その後希望者が続出して資格の低い仲買商、が増加した。藩では専売体制の強化により、安政一一年(一八五五)には木綿商を宮浦新地町の薬屋五兵衛、野々江村平市、井ノロ村時之助、岩城村伊左衛門の四人に限り、仲買商も八名に減らし、他の者の木綿の取扱い及び他所売りを禁じた(岡村御用日記)。表三-50中、岩城村の問屋三人の移出量は約三万反で銀一八三貫余、野々江村からは約四、〇〇〇反で代銀二八貫余となっている。本史料は庄屋を通じての代官所への報告であるが、欠損が多いのが注目される。
 伊予郡垣生村今出の鍵谷カナは、享和年間に絣織を創出した。この素朴な絣模様は産地の名から今出絣と呼ばれ、美しい上に丈夫で安いため、少しずつ松山や温泉郡・伊予郡に普及した。これが明治期に発展する伊予絣である。

南予の綿織

 宇和島・吉田両藩でも綿は四色小物成の一つで、近世初期から自家用には広く織られていた。宝暦一〇年(一七六〇)には綿篠巻座が設置され、谷脇六郎右衛門が総頭取となった。高機の導入は文政一〇年(一八二七)八月で、布喜川中村の庄屋摂津八郎が松山から購入し、織女二人も雇って改良に努めた。八郎の勧めで七、八名が絹綿交織を始め、近村にも普及し、天保ころには八幡浜地方に、農家の副業として広く定着した(「八幡浜織物史資料」)。生産は弘化・嘉永ころ八万反、文久三年では五万反で、宇和島藩の手により江戸ヘも移出された。明治初年には穴井浦・垣生浦付近で木綿縞、五反田村・松柏村あたりでは縞物と絣を織った。幕末には綿替商もあり、上方で仕入れた呉服や柳井産の縞物と共に、宇和木綿として九州へ移出した。穴井浦の綿替商兼機業家の三好徳三郎は、染色を研究し、品質向上に努めた。
 宇和島地方でも城下に天保六年木綿座・綿座がおかれ、綿替制が行われた。天保一五年一〇月、三浦豊浦の藤治郎宅に盗賊が入り、盗難品を報告した中に金四両の他白木綿三反、縞木綿二反、形付木綿・木綿各一反と木綿の種類が示されている(『三浦庄屋田中家史料』)。安政年間、城下の綿替商中平三右衛門・玉置雅次郎は、九島の百姓五〇~七〇人に、白木綿一反に対し原綿七五~九〇匁で交換をした(「北宇和郡の織物」)。

今治藩の専売

 天保一二年一〇月、今治藩は綿替木綿を金融の第一とし、郷村の勝手売りを厳禁した。発見されれば白木綿は取上げられた。安政二年二月には柳瀬忠治義広が綿替商を再興したが、藩ではその祖先の功により分一銭を免じた。更に同四年には綿替商の世話方に任じ、専売制の第一歩とした。当時、今治地方の綿替制は内陸から島嶼部の全領に普及していたが、万延・文久のころには粗製乱造から声価を落とし、上方では売行き不振となっていた。この期をとらえ、文久三年二月から専売制を実施したものである。領内では宇佐美利平ら一八軒(一株銀一〇〇匁)を指定問屋とし、製品はすべて大坂の問屋一八軒(今治組という)に売ることとし、抜け売り・他所売りは禁じられた。織元へは、国産品と定めたので念を入れ格別に精製し、増反すべき旨を布告した(国府叢書)。同年九月の「積出定」によると取引は為替又は現金のこととし、木綿は差配方の梅鉢崩しの検印をうけ、町方指定の廻船で出荷し、郷方からの移出は禁じられた。原綿のうち讃岐綿の移入は、嶋屋を経由することとした(資近上三-109)。
 文久三年七月には、沿岸防御費用など大坂表からの借財が莫大のため、婦人も藩の防衛に力を合わすべきの理由で、領内の一五~六〇歳の全婦人に、三か月に一反、年間四反の製織を命じた。原綿と綿打費は藩持ち、綿実は与える、五反以上を織れば一反に付き原綿三〇匁を与えるとした(大浜柳原家文書)。織賃を払わない藩直営生産令である。しかしその後、品質や規格について大坂の問屋から苦情があり、藩では慶応二年(一八六六)二月と翌年二月、全領内に丈三尺九寸・幅九寸三分以上、目方を一一〇匁以上とする布告を出した(国府叢書)。

松山藩の専売

 松山藩は明和六年(一七六九)七月、町方役所以外の機取引を禁じ(『愛媛県編年史』8)、天保九年一二月には領内産の綿糸の移出を禁じて生産増を図った。高機縞は、天保以来郷村の製織を禁じたが、慶応三年二月には温泉郡道後村と湯之町に許し、明治三年四月には、自分消費に限って郷村でも許可した(湯山村史料)。これは綿織の盛行に藩が妥協をせざるを得なかったからである。しかし高級品である高機縞の品質保持のためには藩も意を用い、嘉永四年(一八五一)一一月には乱造をいましめ、丈幅等を規定し、製織や染色についても細かく規定した(資近上二-141)。また機や製織技術の流出を防ぐため、安政六年四月に、高機縞職人の他領稼ぎを禁じた(資近上二-145)。
 専売体制の整備と強化については、安政元年五月、本町一丁目に縞会所を設け、松尾屋伊助ら一〇軒、売捌所に城下五五軒、三津町一〇軒を指定した。同三年四月、再度丈幅や売買の口銭等を規定し(資近上二-143)、縞座元役に木村次五兵衛、翌年一二月、高機縞取捌吟味役に大組頭の門屋八郎右衛門を任じた。しかし同藩では生産に関しては制限を続け、融資面も不充分であったため、余り生産は伸びなかった。藩の綿糸移入禁止策について、野間郡の中通り一二か村は文久二年三月、次の様にその矛盾した政策をつき、藩に旧来の通りを願っている(菊間浜村文書)。

 一菊間地方では以前から篠巻を讃岐・備中・備後から買い入れ、大束や松葉を同地方に売っている。
 一篠巻は木問屋から商人・婦女子へと売られ、綿織が当地方の重要な農間稼ぎとなっている。
 一仕方なく原綿を今治や北条から入れ、綿替制で織っているが利益は少ない。
 一先の篠巻きは豊後・大洲・宇和島方面に売られ、松葉等も同地より積み込んで帰る。
 一当地方の大束や松葉は上方・播磨まで運んで売らねばならず、売れ行き悪く、価格も下落した。
 一結局これは藩の損失であり、村方でも女子供の手稼ぎ・船稼ぎにも困る。他領の利益になるのみである。

 諸制約の解かれた明治初年、今治地方の白木綿の生産四〇万反に対し、伊予縞が八〇万反と急増した事実からも、松山藩の制約の厳しさが窺える。

川之江の綿会所

 宇摩地方も早くから綿作が盛んであった。川之江村はその取引の中心であり、幕末では近村から綿を集めて繰綿七〇〇~八〇〇本を加工し、篠巻一四〇~一五〇本を移出した。繰綿一本は綿六貫一〇〇目を要し、篠巻一把は目方五〇目である。慶応四年(一八六八)九月、土佐藩川之江陣屋へ綿会所設立を願った時点では、同地には高松屋多兵衛、京屋茂右衛門ら四〇軒もの綿問屋と、これに次ぐ一一軒の綿屋があった。会所設立の目的は、資金融通を陣屋へ願うこと、抜け売りの防止、品質保持のため規格を定め会所が改めて上中下の検印を押す、繰綿・篠巻を担保に、時価の七割までを会所が融資し、綿屋中の経営の維持発展を図るためであった。
 会所の建設や運営は村方の責任であり、落成する明治二年一二月までは、村方の質場を会所とした。会所役人である用掛は大庄屋の猪川平七と大庄屋格・年寄加役らの村役人層がつとめ、実務は手代の油屋・坂本屋・布屋があたった。会所設立により綿作百姓・加工業者・綿問屋らが安心して生産や売買に従事した。会所は明治元年一〇月、一二〇石と八〇石積の回船二艘を購入のため金札二五〇両の借用を願い、大坂に出張所を置いて高松屋・田中屋らを駐在させ、商取引の拡大を図った(『伊予川之江村の研究』)。

図3-19 綿替木綿の構造

図3-19 綿替木綿の構造


表3-50 越智島二か村の木綿出荷

表3-50 越智島二か村の木綿出荷