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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 諸藩の興行政策

初期の生産

 中世までの工業は、領主に半隷属して奉仕する職人的生産か、自給的な百姓の農産加工に限られていた。しかし近世では城下町などの発展と政権の安定によって、活発な工業生産が行われた。江戸・大坂を核とした全国的商品経済網の成立により、城下では高度な技術の手工業的生産が行われ、農村では商品作物の普及と共に家内工業が広汎に成立した。工業生産は、初期は地方や諸藩の自給のためであったが、問屋資本の進出や藩の専売制等により、次第に市場出荷を対象とするものになった。
 城下では職人や問屋がまず藩や家中の御用を勤めると共に、株仲間を結成して郷村に対しても利益の独占を図った。松山藩では明暦元年(一六五五)に木綿・鍋・煙草・鹿・紺屋灰などの七座が成立し、寛文元年(一六六一)から運上を上納した(資近上二-179)。株仲間には年行司や年寄を置き、仲間規約を作って結束を固め、寄合場や会所と業務の便を図って融和にも努めた。寛保元年(一七四一)七月、松山藩は酒造・木綿問屋・紺屋藍壷・油絞り・紙問屋など九種の運上や口銭を免じ、商工業の育成を図った(資近上二-185)。これは従来の倹約中心の藩財政策から一歩進めた興業政策として注目される。さらに同藩は、宝暦ころから櫨・茶・綿・楮の栽培を勧めて農村経済の自立を進めた。
 宇和島・吉田両藩では早くから紙と蝋の生産が行われ、藩が独占集荷して販売権を握る専売制をとった。元禄元年(一六八八)十二月、宇和島藩は三〇〇貫の前納金により、領内産の杉原紙・泉貨紙の販売を、大坂の丁字屋市兵衛にまかせた(『愛媛県編年史』7)。ただ初期の専売制は領内への販売をも意味し、天明ころまでは新技術の導入期・特産地の形成期であり、基本的には藩内自給体制確立の傾向が強かった。古田藩は船場、小松・新谷両藩は土佐堀、他の五藩は中之島に大坂蔵屋敷があったが、これは各藩の経済活動の窓口として重要な意味をもった。大坂は江戸と領国を結ぶ政治経済の中継点であり、町人の資金が藩内の工業生産や特に販売面でも必要であった。

国産仕法の強化

 文化文政期には、各藩の商工政策は大きく変化した。藩は財政の窮乏により国産の商品化を益々期待して専売制を強化し、藩自身が積極的に経営に乗り出し、領内外の正貨を手中にしようとしたり、職人・手工業者・問屋に対しては運上が強化された。しかしこの時期の農村工業は、従来の自給・副業的段階を脱し、半専業的なところまで発達していた。砥部の陶磁器生産や桜井の漆器生産等では分業が行われ、村から離れて玉房群を形成した。したがって藩の支配と統制強化に対して必ずしも盲目的ではなく、問屋や村役人の過酷な課役に対しては抵抗も行われた。
 藩や問屋による資金の融資、原料の供給や生活の保障など積極的な商工業振興策は、藩の増収とはなった。しかしそれは農民層を分解して貧富の差を拡大し、封建体制の崩壊を早めるものでもあった。天保期、松山藩は大回荷船松寿丸を用意して上方への出荷に当たった。宇和島藩でも天保九年(一八三八)、佐藤信淵門下に藩士を入門させ、その開明的経済政策を藩政に反映させた。

専売制の強化

 幕末期の各藩の財政はいよいよ窮乏し、雑多な商品・作物なども専売とし藩政の建て直しを図った。初期の専売は数種の重要商品を指定し、集荷と移出入を藩が統制して運上や分一銀の収入を得ようとした。幕末にはほとんどの商品の買上価格を公定し、生産費を貸付げて出荷を強制した。このための機関が特定の少数有力問屋か、藩の物産役所であった。吉田藩の物産役所の構成は上役兼元締一、物産方三、下役五の計九名であった。下役は世話役で、御用商や豪農が任命された。
 宇和島藩では天保六年設置の融通会所、安政三年(一八五六)三月設置の物産方役所、慶応元年(一八六五)の製産場が、藩専売体制の三本の柱であった。明治に入り物産方を中心に「製造場」に統合され、すべての産物関係を扱うが、物産方の役掛は頭取一、引受四、加談二、下役若干名であった。主として販売統制に当たり、初め人参のみであったが、万延元年から寒天・櫨実・蝋・紙・茶・藍玉・銅・縄・鰹節・干鰯など二〇品目以上に拡大された。掛役は初め西江寺の宗門賢諒、薩摩の田原直助、若松総兵衛らを登用し、慶応元年一月の改革で家老松根図書を頭取、井関又右衛門・田手治郎太夫らを下役とした。物産売買の便のため、同三年六月には長崎にも物産方役所を設置し、俵屋新兵衛方を定船宿とした(「大控」)。融通会所は資金の融通、製産場は物産の買上げと大坂への移出に当たった。
 松山藩では明治三年一一月に産物司を設置し、その下に諸掛を置いた(「松山藩布告留」)。