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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 農業生産の発展

米 作

 作物、特に畑作商品作物の多様化は、近世中・後期の大きな特色である。『清良記』巻七によれば、近世初頭既に極めて多様な作物が栽培されているが、この中には山野の野草も多く含まれる(表三-28)。
米と大豆は貢租作物のため、百姓の食用としては裏作の麦、畑に粟、きび、とうもろこし、甘藷、山畑には稗、小豆、蕎麦などが作られた。これらが次第に商品作物に代わり、はじめ自給用であった蔬菜、果実もやがて商品化された。
 稲の品種も初期は多様で、同書によると栽培期を早稲から晩稲まで五分して六〇種、餅米一六種、畑稲一二種、太(大唐)米八種の計九六種をあげている。宇和島藩成妙・黒土二郷の貞享ころの作付割合は晩稲七八・六、中稲一九・三、早稲一・四各パーセントであった(『弐塹截』上)。しかし最大の商品でもある米は、次第に地域に合う品種に統一されて、各地産米の銘柄や評価が固定した。宇摩郡入野村の水田八町二畝余の、天明五年こ七会)の作付けは一町五反白ねそ、一町三反中稲、一町二反木綿、一町一反有馬早稲、一町三畝花早稲、一町二畝御前早稲、五反桜早稲、二反糯米となっている(山中家文書)。特に高野山三宝院から、天明一〇年に僧寛雄が今治地方に伝えた三宝米、四国巡拝の途上、嘉永二年(一八四九)に上松栄吾が土佐国幡多郡から伝えた栄吾米は、上方市場でも高い声価を得た(『愛媛県農業史』)。
 稲作法やその労働については文化年間の大洲藩士井口亦八が記した「農家業状筆録」に詳細である。同書では耕起から俵詰めまでの作業過程に、反当五五人の労働力を計上している。中後期の稲作法については発芽促進のための浸種、反収増のための薄蒔法の一般化、追肥や除草の強化、脱穀調整の能率化などの改良がみられた。

畑作物

 中期以降の農業は、畑作の発展が著しい。米産の技術に限界があるとすれば、農業の発展は裏作と畑地利用が鍵となる。後進地域でも施肥や除草など集約的栽培を行えば、作物の商品化が可能であった。伊予の畑作物の主役は甘藷である。甘藷は『清良記』巻七にも記載がある。元禄一四年(一七〇一)には宇和島藩主に献上されている。植栽の記録では今治藩が早く、元禄五年に越智郡大島に試みられた(資近上三-84)。風早郡宮野村の大庄屋杉野四郎兵衛は、大島津倉村から種芋を持ち帰って植えた(『中島町誌』)。また越智郡岩城島へは、天和三年(一六八三)秋に、安芸の生口島から伝えられた(『芸備地方史研究』五六〇号)。
 越智郡瀬戸村の下見吉十郎は、正徳元年(一七一一)に日本回国を思い立ち、同年一一月に薩摩伊集院で種芋を入手、一旦持ち帰って近所に配布し、再び旅立った(「日本廻国宿帳」)。吉十郎は宝暦五年(一七五五)八月に没したが、感謝した村人は芋地蔵として祀った。南予では野村、俵津などに享保~元文期の栽培記録があるが、一般に普及するのは安永~天明期である。特に南予沿岸部では、麦と共に百姓の主食として栽培され、段々畑の開発が進行した。今治藩でも天明期には甘蔗、菜種、紫根の栽培を停止し、甘藷作を奨励した。また上方への積み出しを禁じ、余った芋は領内へ販売させている(椋名柳原家文書)。大洲藩でも寛政一〇年に、唐芋問屋の増減は藩の指示によるとし、問屋を通さぬ勝手売りを禁じた(堀内家文書)。
 安永ごろ、奥地の山畑では稗・蕎麦に代わってとうもろこしが普及し、山村を飢饉から救った。山間の焼畑(切替畑)は、本来無肥料であるが、次第に厩肥、糞尿などの自給肥料を投じ豆類、綿、煙草、楮、桑などの商品作物に転じた。ただ山畑では、猿や鹿、猪の害を防ぐため、播種と収穫期には八〇~九〇日もの見張番を要した(「農家業状筆録」)。

甘蔗と製糖

 甘蔗は雪や霜を嫌い、砂地を好むので沿岸部に適した。麦の間作として普及したが、糠や干鰯など多肥を必要とし、地力を消耗する。製糖は刈り取り、きびむき、締め、窯焚きと多くの労働力を必要とし重労働であるが、一面よい日傭稼ぎ源となった。伊予では西条藩が明和元年(一七六四)、紀州から砂糖師を招き、西多喜浜の清六に製糖させた例が早いが、この時は失敗している(天野家文書)。宇摩郡では妻鳥村の今村権右衛門が、天明年間に讃岐から移入した。安永四年(一七七五)、宇和島藩は高山浦へ苗を下付し、その後の作付状況や製糖高を、年々報告させた(『高山浦庄屋田中家史料』)。安芸国賀茂郡三津村(現、広島県安芸津町)では、寛政一二年(一八〇〇)に伊予から苗を入れ、そこから海辺各村に普及した(『広島県史』)。
 小松・今治・大洲藩では、文政から天保期にかけて頻繁に甘蔗の本田畑栽培禁止を布告し、野山や荒地に植える旨を指示した。しかし小松藩では文政七年(一八二四)分で鶴印・亀印など九品等一、三五七貫余、翌年一、〇一八貫余の砂糖を産し、大量に大坂へ出荷した。藩が干鰯を移入し、耕作者に代銀を融通して栽培を勧めているのをみれば、本田畑への作付禁止は、幕令を受けた形式的な布達の感がある(小松藩会所日記)。宇摩郡でも連作によって田畑を傷め、百姓から休作願いが出る程であった(資近上三-100)。越智郡大浜村では慶応元年(一八六五)五月、藩から苗を下付されて二一人が一反四畝に植え、一八貫目の干鰯を代官所から受け取っている(大浜柳原家文書)。
 西条藩の製糖は藩営であったが享和二年(一八〇二)一二月から自由とし、幕末には数百樽を上方へ出荷した(黒島神社文書、西原大庄屋文書)。大洲領中村・若宮の二か村の作付けは、天保二年(一八三一)で一町四反と勘定所甘蔗掛りへ届けている。同藩の当時の黒砂糖の生産は、約三、〇〇〇斤であった(「江戸御留守居役用記」)。伊予郡松前の砂丘地帯では文政ごろから栽培され「武田家年々砂糖代付込帳」によると、弘化三年(一八四六)の四貫四四匁余が、文久二年(一八六二)に一〇貫四六〇匁、慶応二年には三一貫余と増加している(『塩屋記録し。

綿 作

 伊予で綿作を示す早い例は、慶長一九年(一六一四)七月と元和二年(一六一六)七月の新居郡福武村の年貢綿一〇四匁(高橋家文書)、同年八月宇和郡古市村の綿年貢三八五匁、寛永一二年(一六三五)八月の周布郡大頭村小物成のうち綿三三四匁などがある(『愛媛県編年史』6)。松山藩では、寛永一九年の幕令を受けて、本田畑への植之付けは禁じたが、逆に浜風が霜を薄くし虫害も少ない沿岸の砂地や用水の乏しい新田へは奨励し、明暦元年(一六五五)には、銀二五〇枚で木綿座を開設した(資近上二-179)。栽培法については「耕作仕方控」(宇和島市個人蔵)に詳しい。綿花は多肥多労を必要とするが収入もよく、温暖乾燥地を好むために各藩ともに沿岸や島嶼部、新田畑を中心に栽培された。
 今治藩領大浜村では、元禄一五年(一七〇二)四月、水田七畝余に綿作を願っており、寛延二年(一七四九)以降は毎年作柄を記録している。天保八年(一八三七)五月の届けによると、一四人が三反二畝に耕作をした。今治藩では明和九年(一七七二)八月から、出綿実と入綿に歩一税を課しており、一八世紀中頃には同藩の重要作物であったことが分かる(資近上三-95)。同藩宇摩郡馬立村には、天明五年(一七八五)六月に綿歩一役所が置かれ、庄屋豊田庄助か掛役となっているので、綿作が山間に伸びていることが分かる(川之江市立図書館蔵「藤枝雑記」)。幕末の今治藩は、綿花の売買も木綿同様に準国産として、藩の統制下においた(資近上三-107)。新谷藩では天明八年(一七八八)に、綿年貢を、綿一〇〇目につき二二匁と改めている(「新谷藩御書付写」)。
 幕領の宇摩郡別子山村では、享保元年(一七一六)の定免帳に定納綿代銀四六匁二分八厘とある。同郡西条領の入野村の天明五年の綿作は、田八町二畝余のうち一町二反余、畑一二町八反のうち二町七反で、耕地の約二割をしめていた(山中家文書)。

煙草と茶

 煙草の栽培は、渡来後の喫煙の習慣と共に急速に普及した。幕府の慶長期の度々の禁令にもかかわらず、近世初頭には全国各地に産地が形成された。慶長一四年(一六〇九)九月、加藤嘉明も幕令を受けて、領内に耕作と売買を禁じた(『愛媛県編年史』6)。しかし、松山藩下では延宝七年(一六七九)二月に本田畑へは禁止、野山の開拓地へは許可となった(『松山藩法令集』)。その後、元禄一五年に幕府が耕作を許したため、本田畑への禁止の基本原則も有名無実となった。同年今治藩内では二四町四反余(高九三石九斗余)に耕作され、島方ではかなり普及していたと思われる(『愛媛県農業史』)。山間部の多い大洲藩の元文期では、米・麦・大豆・蕎麦を主作物とし、特産物に商品作物をあげる所は少ないが、その中では煙草は比較的多い(表三-30)。
 茶は『清良記』巻七に、正月に植え四月に取るものとして記されている。広い山間適地を持つ伊予は、山茶の摘み取りや焼畑への栽培に古い歴史を持っている。小物成としては宇和島藩の元和二年(一六一六)、大洲藩の寛永一二年(一六三五)四月、小松藩の同一三年の記録が早い(『愛媛県編年史』6)。しかし改良品種や新技術が先進地から導入されたのは元禄期である。宇和島藩では初期から本茶を雑税とし、元禄四年(一六九一)には山奥組の番茶の他所売りを禁じた。富岡村の例では、元禄以前は中下・下茶の上納が五斤と少ないが、元文ごろ一〇斤、天明~文政期一八斤、嘉永ごろ三二斤と増加した(『富岡村庄屋杉本家史料』)。同藩では慶応元年(一八六五)に、八幡浜浦の幸兵衛を召し抱えて製茶改良に努めさせると共に、領内産のすべてを物産方買い上げとした。大洲藩も元治元年(一八六四)に領外移出を禁じ、慶応二年四月から専売制を実施した(「大洲市誌」)。
 山間地が少なく適地の乏しい今治藩でも、玉川地区では幕末に植栽が増加する。藩も重要移出品の一つと考え、慶応二年九月領内各村に、茶の開発植え付げ適地の調査報告を命じた(大浜柳原家文書)。宇摩郡では幕領別子山村で享保元年(一七一六)に、茶の上納と売買への分一税が課せられた(「別子山村定免帳」)。また川之江村の嘉永六年(一八五三)の小物成では、合計一貫五〇〇匁の過半八〇七匁が茶であった。同村では二二軒の茶問屋が、年間約四、〇〇〇貫を近村や土佐から仕入れ、今治や尾道などへ販売をした(『川之江天領史』)。
 松山領久万山の茶は、初代藩主松平定行が宇治から新種を入れて改良した。販売は毎年銀一〇貫目の上納で町人が独占したが、米価に比して百姓からの買い上げ価格が次第に下落し、寛保元年(一七四一)の、久万山騒動の一因となった。しかし天保ごろからは庶民の喫茶量が増加し、荒れた茶園を再び開発する程であった(『松山叢談』)。松山城下での販売は、元禄七年(一六九四)に一一人、天明四年(一七八四)では、一八軒の茶仲間に限って許された。同藩の製茶、売買等が全く自由となるのは、明治三年七月である(湯山村史料)。

他の商品作物

 薬用人参は茯苓、天南星など薬種一五種の一つで、幕府の統制品であった。松山藩は享保七年(一七二二)九月、久万山産の人参を幕府に献上し、産地二か所を五年間ずつ留山にすべきとの助言を受けた(『垂憲録拾遺』)。同藩は当初人参座を設けて直営としたが、天明八年(一七八八)に廃して自由とした(「慶蔵むかし噺」)。大洲藩では寛政一二年一一月、美濃から土岐新甫を招いて栽培の指導を受けた(加藤家年譜)。宇和島藩では、宗紀の命によって若松総兵衛が、佐藤信淵に栽培と製法を習い、帰藩後に津島・野村組の代官となって領民に植えさせた。天保末から嘉永ごろには、かなりの生産をみたようである(『宇和島吉田両藩誌』)。
 大洲領では中山・出淵両村から藍玉を藩に納入しており(『中山町誌』)、寛政六年(一七九四)閏一一月に、他領移出を許している。葉藍生産では宇和島藩中間村で、安政四年(一八五七)一月に一、五六〇貫、幕領川之江村で明治三年二月に二、〇〇〇貫の記録がある(『川之江天領史』)。
 麻・苧は木綿以前の主要繊維原料で、強靭さを特長とした。衣料の他、縄や漁網・蚊張などに用いられ、自給用として近世を通じ全村で栽培された。しかし大釜で蒸し、川水に晒して皮をはぎ、糸にするまでの工程が綿よりも労力を必要とした。早い例では、足立半右衛門が慶長一五年(一六一〇)から元和七年(一六二一)ごろまで、風早郡宮内村から毎年八〇〇目の苧請取状がある(資近上一-113)。同村は蒲生領下の寛永五年(一六二八)~九年の間は、買請八〇〇匁と年貢八〇〇目の計一貫六〇〇目を、権太夫から上納している(『愛媛県編年史』6)。半右衛門はまた、宇摩郡中村・畑野・土居・入野・小林・野田の各村から、寛永二年七月に計五貫一二〇匁以上の苧を受け取っている(加地家文書)。西条藩では嘉永三年(一八五〇)に、野菜類と共に苧の他所売りを禁じ、販売に困る者は藩が援助する旨を布達した(山中家文書)。
 宇和島藩では特に麻苧の栽培を保護し、全村で栽培させた。麻畠は無年貢地とし、小物成のみを課した(『松野町誌』)。特産の苧網については寛政二年(一七九〇)に問屋一一軒を指定し、他所売りの場合には分一銀を上納させた(田苗真土亀甲家文書)。富岡村の上納量は、宝永~文政期は六貫二七二匁三分、天保~安政ころは少し増え六貫五四二匁九分であった(「富岡村苧綿取立帳」)。
 伊予の蜜柑の記録は室町期からあり、大島や大三島には古株も残る。正徳三年(一七一三)の『和漢三才図会』には美味の産地として松山がある。宝暦年間では松山、今治両藩とも二籠が幕府への献上品となっており、松山藩では献上時に御坊主方へ七、七〇〇個を贈る例であった(『愛媛県編年史』7)。天明二~四年に平野屋米吉ら三人が、紀伊国から喜多郡沿岸部に小みかんを導入し(『長浜町誌』)、宇和郡立間村へは寛政五年(一七九三)に白井谷の加賀山平次郎が土佐から移入した。

牛馬の飼育

 牛馬は農耕や運搬の他、厩肥源としても重要で、売買も盛んであった。しかし、高価(寛政ころ、牛一疋銀一七〇匁の記録がある)なだめ貧農では飼育できず、宇和島領では宝永~宝暦期に牛が三割、馬が三割五分内外の農家に限られた。但し、豪農層では数頭を飼うのでこの数字は更に低率となる。牛馬の分布には地域差があり、伊予は一般には牛型であるが、久万山では寛保元年(一七四一)ころ牛二〇六頭、馬一、一五四頭(久万山年譜)、明治初年では牛三七二頭、馬一、三九八頭(『愛媛県地理図誌稿』)で、馬が圧倒的に多い。
 牛馬数の動向については各藩とも意を用い、他領への移出を禁止したが、松山藩は島方については生活上ということで許した。今治藩は、庄屋から藩の牛馬目付へ毎年牛馬の改帳を提出させ、生死は翌月に届け出させた。また各村に中継役をおいて売買価格や売り渡しが公正かどうかを監督させた(国府叢書)。近世は放牧飼育から舎飼への移行期であるため、各所でまだ放牧の記録がみられる。宇和島藩御荘組には、正徳元年(一七一一)に二五か所、合計七二〇町八反の放牧地があり、各村の庄屋が百姓に牛を放牧させていた(『城辺町誌』)。西条藩でも加茂川辺りに馬の放牧地があり、宝暦一二年(一七六二)五月、中野村百姓らが通行に困る旨を訴えている(久門家文書)。預かり牛の風習は大洲領で元禄期、西条領では宝暦期の記録がある。牛馬市は享保一〇年(一七二五)に、久万の野尻市が開設された。寛政二一年(一八〇〇)の春秋には宇和島領東多田村、弘化年中のころ野間郡浜村でも牛馬市が開かれている。
 伯楽は、庄屋に人物を保証された百姓が許された。松山藩では安永五年(一七七六)と寛政一一年に二二か条、文化元年(一八〇四)一六か条などの「伯楽定法」により、牛馬の売買に従事させた。同藩越智島では、文政~天保期に二〇人の伯楽が許され、うち二名の札頭の指示にしたがい、藩には礼銀を上納している(宮浦村御用日記)。宇和島藩御荘組では宝暦一三年(一七六三)四月、伯楽札一一枚が交付され、組内より運上銀一一〇匁を納入した(『愛媛県編年史』8)。小松藩では牛馬の売掛代金が滞って百姓が困窮するため、天保一四年(一八四三)九月に、翌年から現金取引とすべき旨を厳命した(小松藩会所日記)。なお養豚は慶応年間に卯之町の清水甚左衛門が始めた。鶏卵の小売りは、嘉永ころには野間郡阿方村の小店でも行われている(阿方越智家文書)。

初期の養蚕

 近世前期に、養蚕が広く行われたことは、各藩の小物成中の真綿銀によって知られる。麻と共に自家用として飼養されたが、初期は技術も低く、製糸と未分化で、春蚕一回に限られていた。桑も自生のものを使用し、林地や荒地、屋敷地等にわずかに栽培される程度であった。しかし宇和島藩では四色小物成の一つである。西条藩でも延宝七年(一六七九)一一月、新居郡大島浦の小物成に「真綿五百十五匁代真綿銀四十一匁二分綿百目に付銀八匁」とあり、宮崎安貞の『農業全書』には主要産地として、新居郡の繭をあげている。寛延二年(一七四九)、宇摩郡入野村でも真綿一貫九六匁六分代、上納銀八七匁七分三厘で、一〇〇目に付き八匁であった。松山藩、延宝七年の高内又七の新令には、屋敷回りに桑、漆を植えよとある。養蚕の適地とはいえない同藩越智島一七か村でも、享保六年ころの小物成に、上真綿銀目計四貫一三六匁が課せられている。
 中国産白糸の輸入制限や京上方での絹織物の需要増により、貞享~元禄期から生糸の生産が伸び始め、移出も行われた。大洲領宝暦七年(一七五七)の小物成は銀七九貫一三匁余である。しかし、その後は度々の倹約令や綿作の普及により、東・中予の平野部では養蚕が衰退した。

養蚕の奨励

 寛政期には先進地から桑の接木や仕立法、進んだ掃立法が伝えられ、専門の養蚕家も現れた。夏蚕に加え、天保ころから秋蚕も行われた。寛政九年(一七九七)一一月、松山藩は久万町村の西村屋六右衛門、宇都宮兵助に桑植方用係を命じた。同一二年には直瀬村信右衛門が命じられ、文化ころから菅生、上・下畑野川村でも養蚕が盛んとなった。宇和島藩でも寛政一二年五月、養蚕と製糸、絹織は女職の第一と布告し、桑の苗木を配布した。同藩には、他にも天明~寛政年中の桑植栽の記録がある。
 嘉永以降、各藩では更に蚕業が本格化し、開港以後は藩が先進地から技師を招き、普及と改良に努めた。大洲藩では嘉永四年(一八五一)に藩士石河孫左衛門と山本嘉兵衛を甲府へ派遣するや数名の技師を傭い、苗一、〇〇〇本を購入して帰国し、小田郷に植栽した(『愛媛県農業史』)。宇和島藩でも文化五年(一八〇八)五月以降、度々養蚕奨励を布告し、慶応二年(一八六五)二月勧業係を設置し、翌年三月に苗二、〇〇〇本を無償配布した。明治三年四月、物産方は近江から女工三名を招き、中間村生産場で藩士の子女に伝習をさせた。また卯之町の事業家清水長十郎は、安政ごろから蚕業を営み、文久元年(一八六一)には、上野国吾妻郡(現、群馬県)の上田(笛木)庫之助の指導を受けた(『愛媛県農業史』)。
 小松藩は安政四年(一八五七)五月、西条絹屋の紹介で丹波から技師二人を招いた(小松藩会所日記)。幕令を守り、長く桑の植え付けを禁じた今治藩でも、文久ころには栽培が盛んとなり、田に植える者もあって藩を嘆かせた。しかし、間もなく植栽を勧め、明治二年三月には物産方が蚕業技師を招いた。

表3-28 『清良記』巻7記載の農作物・食用植物

表3-28 『清良記』巻7記載の農作物・食用植物


表3-29 稲作の所要労働力

表3-29 稲作の所要労働力


表3-30 大洲領各村の主な商品作物

表3-30 大洲領各村の主な商品作物


表3-31 宇和島藩の麻苧生産

表3-31 宇和島藩の麻苧生産


表3-32 宇和島藩川原淵組の麻苧生産

表3-32 宇和島藩川原淵組の麻苧生産


表3-33 宇和島藩内の牛馬数

表3-33 宇和島藩内の牛馬数


表3-34 宇和島藩の養蚕

表3-34 宇和島藩の養蚕