データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 西条藩の塩田開発と禎瑞新田

黒島前干潟と深尾権太夫

 西条藩領新居郡垣生村・郷村・松神子村(現、新居浜市)の地先海岸は、屈曲のほとんどない遠浅海岸であり、干満の差が大きく、また垣生山・黒島・大島などによって風波の影響を受けることが少なかった。垣生村ではすでに室町末期から製塩が行われており、慶長一三年(一六〇八)伊藤彦左衛門らが村の南部に前浜と呼ばれる塩浜(二〇町歩余)を開発した(『明治以前日本土木史』)。
 黒島前の干潟に着目し、塩浜築造を奨めたのは、阿波の浜師(塩田経営者)六左衛門である。六左衛門の話を聞いた黒島浦の年寄五兵衛は西条藩留守居役森惣兵衛に届け出たところ、元禄一四年(一七〇一)九月西条藩より五兵衛に対して塩田開発の世話をするよう指示があった。
 五兵衛の奔走により、元禄一六年升屋源八・讃岐屋新左衛門・奥村丈助・深尾権太夫らが塩浜開発を承諾した。開発の中心になった権太夫(信濃国出身)は、宝永元年(一七〇四)着工したが、資金難や災害(宝永四年の大地震、同六年の高潮)の連続で工事が進まず、享保五年(一七〇二)権太夫の死によって開発計画は中絶した。

天野喜四郎開発を継承

 権太夫らの開発が挫折して後、黒島の好兵衛・武左衛門は吉和浜(現、広島県尾道市)で塩田経営に従事していた天野喜四郎を説得することに成功した。享保八年七月、天野喜四郎ら六名が提出した開発願書は認可され、同年九月九日鍬初め式が挙行された。
 喜四郎らは権太夫が計画した壮大な計画を縮小して比較的風波の影響を受げにくいところから順次開発することにした。享保九年、銀一一七貫目余の工費を投入した、いわゆる古浜が完成し(一〇町四反余、のち一九町八反余)一一軒の塩浜は同一〇年九月、開発者六人で分担経営することとなった(資近上五-57)。開発地は同一二年になって郷村に所属することになった。

享保の大飢饉と多喜浜

 享保一七年の大飢饉は西条藩にも打撃を与え、難民が多数出た。天野喜四郎は難民救済事業としての塩浜開発を藩に献策し、同一八年には総工費銀二七五貫目を投下した二五町三反余(一七軒)の塩田が完成した。この事業が飢人救済に貢献するところが大であったため、それにちなんでこの地を多喜浜と呼ぶようになった(これまでの古浜は西多喜浜、新開地は東多喜浜と呼ばれ、文化元年に西多喜浜を多喜浜と改称するまでこの呼称が用いられた)。
 天野喜四郎は、この功績によって西多喜浜庄屋役を命じられたようである。天野家文書「多喜浜庄屋役由緒書」によれば、開発から九年目に検地が実施されて、岡畑年貢米上納が義務付げられたのを機に庄屋給が与えられるようになった。

天野家の開発継続

 天野喜四郎は宝暦六年(一七五六)一二月二九日に没したが、子孫は代々喜四郎を称し、初代喜四郎の遺志を継いで塩浜を開拓した。久貢新田(多喜浜西分)九六町五反五畝は、二代目喜四郎の奔走によって完成したものである。
 久貢新田の銀主は五四名にのぼり、銀主惣代は金子村真鍋伝左衛門・畑野村嘉右衛門・小林村藤助・大島浦弥市右衛門の四名であった。天野喜四郎はこの四名と共に開発願書を提出し、宝暦九年九月二七日に受理された。
 汐留工事は、同年一〇月七日に行われた。西条藩の支援によって四、二五〇人の人足を使い二万八四五俵の土俵が投入された。同年一二月一二日には早くも銀主に土地配分が実施されたが、久貢新田の名称が示すように、塩田として利用された部分は、総畝高九六町五反五畝のうち一四町四反七畝にすぎなかった(塩浜は当初九軒の築造が計画されていたが立地条件の悪さから経営廃止が相次ぎ、幕末にはわずかに二軒に減少した)。
 久貢新田の検地が実施された宝暦一三年、天野喜四郎は西多喜浜・久貢新田庄屋役を罷免され、垣生村庄屋甚左衛門がその後任となった。喜四郎の罷免理由については不詳であるが、これ以後文政六年(一八二三)まで、天野家主導の塩浜開発は休止状態となった(喜四郎が西多喜浜庄屋役に復帰するのは明和四年である)。

北 浜

 多喜浜塩田のうち、久貢新田(多喜浜西分)に次いで築造されたのが北浜(新浜)である。文政六年(一八二三)天野家四代目の代助が藩に対して再三干拓事業の実施を働きかけた結果、西条藩直営の塩浜として一七軒分か造成された。総面積は四〇町六反余で、工費は五、〇〇三両余と藩札一、二〇〇貫目を要している。
 この塩浜は、一軒当たりの面積が約二町歩と広く(これまでの開発分では一町から一町一「三反」、製塩効率も余り良くなかったのか、開発から二〇年後に編纂された『西条誌』に、七浜は未だ成らずと記されている。塩浜の運営には藤田庄三郎と天野喜四郎が当たり、藩から世話料として毎年銭一五〇目を支給されていた。
 多喜浜地区の塩田築造の最後は、慶応元年(一八六五)より造成された三喜浜である。この塩浜は、五代目天野喜四郎が元請となって、前神寺積善講の講金を資金として築かれた。総面積は約四〇町歩、塩浜は六軒であった。
 北浜・三喜浜の完成によって、いわゆる多喜浜塩田の築造はほぼ終止符が打たれる。総面積約二四〇町歩(田畑及び付属施設を含む)の大塩田地帯は、天野喜四郎とその子孫の努力に負うところが大である。なお、初代喜四郎は塩田地帯を見下ろす大久貢山の山頂に葬られている。
 伊予最大の多喜浜塩田は、入浜法を最初に伊予に導入した波止浜塩田と共に昭和三四年の第三次塩田整理で廃止された。

禎瑞新田

 西条藩領内の新田開発のうち、最大であり、藩主直営新田として造成されたのが禎瑞新田である。新田は加茂川と中山川の河口部に形成される干潟を利用したもので、約三〇〇町歩の広さがある(遊水池・潅漑施設などを含む)。禎瑞の名は、汐留工事後八幡地区で自噴した「金泉」にちなむものである。
 開発は安永七年(一七七八)一月一六日(「根元帳」では二月二日とする)竹内立左衛門が新田築方御用掛に任命されて具体化する。同年四月七日には鍬初、安永九年一二月七日には汐留に成功している(『西条誌』)
 工事を担当した竹内立左衛門は、西条六代藩主松平頼謙の家臣で、抜群の力量を認められて安永五年郡奉行に抜擢された。彼は新田築造が開始されて間もなく(七月二一日)現場の御普請小屋へ引っ越して陣頭指揮をとった。
 工事の概要は、干拓地周囲の堤防二、八〇二間(高さ平均二間三歩、馬乗幅一間六歩、基底部幅九間五歩)の構築、用・排水河川としての猪狩川(禎瑞のほぼ中央を南北に流れる。『西条誌』には妹背川とある)の堤防など九七四間(高さ一間四歩、馬乗幅一間、基底部幅四間八歩)の構築、及び南蛮樋二本(長さ五間、幅二間半)・大石樋一本(長さ八間、幅六尺五寸、高さ四尺八寸)・中石樋一本(長さ八間、幅五尺五寸、高さ三尺五寸)・木大埋樋一本(長さ二一間、幅八間、高さ三尺九寸)の築造であった(『西条干拓史』)。
 堤防の構築は、沖合の作業拠点としての産山築造と併行して比較的順調に進められた。海中に作った産山の位置決定には、禎瑞の南部に隣接する新兵衛新田開発者である日野新兵衛らの意見も聞いたと伝える(西条(蒼に利からのぎへんを除けたつくり)記稿)。
 禎瑞で最も重要な施設は南蛮樋である。この樋は一日二回の潮の干満を利用して、干潮時に堤内の水を放流し、満潮時には海水の侵入を防いだ。樋門の開閉には、小林弥作とその子孫が南蛮樋掛りに任命され、九人の部下を使役してその任に当たった(五つの樋の管理も担当)。
 造成工事がほぼ終了したのは、汐留工事の翌年(天明元年)である。天明二年、竹内立左衛門は藩庁から賞詞を受け、同年六月二八日には御馬廻組頭格に昇格し、それまでの三〇石から四五石に加増された。立左衛門は干拓地造成後、農民の入植奨励・小作地配分その他の新田御用を命じられ(郡奉行と兼任)、塩崎盛蔵・長谷川与市・真鍋半左衛門が補佐した(根元帳)。
 禎瑞は藩主直営であり、藩をあげての経営努力が実を結んで、汐留後から入植者が相次いだ。移住してきた人々の出身地は伊予のほか、阿波・讃岐・備後・備中・安芸・石見に及んでいる。地域内の戸数・人口は、享和年間(一八〇一~〇四)で一二九軒・六八〇人、天保年間(一八三〇~四四)で二〇八軒・一、一七八人、文久元年(一八六一)には二四八軒・一、四〇三人であった(通史近世上二章四節参照)。
 開発から約六〇年後の様子を『西条誌』は次のように伝えている。

 堤総回り七八町三七間、田二一九町余、畑一四町余、田畑総計二三四町三反二畝二一歩、宛米総計一、五八四石四斗四升、百姓屋敷および宛添一〇町余、家数二〇八、人数一、一七八、船数六艘、東部の在所(相生・加茂)、西部の在所(八幡・高丸・産山)

 禎瑞は前述のように藩主の家産であったため、公簿上ではその村名を見い出すことはできない。文化五年(一八〇八)の伊能忠敬による海岸部測量の時や、寛政元年(一七八九)・天保九年の巡見使通過に際して、藩では「禎瑞」の呼称を用いず、氷見村・西泉村の内であると答えるようにと通達している。その通達には、氷見村新田畑高一、一八二石四斗七升四合、西泉村新田畑高四〇九石四升八合とし、そのうち禎瑞分として氷見村へ六〇六石三斗、西泉村へ四〇五石三斗を割り振っている。
 ところが、実際には阿波国麻植郡内原村(現、徳島県鴨島町)からやって来た茂平が、才覚者であったため抜擢されて庄屋になったという。村が正式に成立していないのだから、村庄屋という表現は使用されなかったと思われるが、役地として二町四反が与えられ(天保一三年に『西条誌』が編纂されたころは、役地の代わりに役米一八石と四厘米と称して高一〇〇石について四斗が支給され、これに筆墨代・小走り給など三石五斗が加えられていた)、天保六年には藩主が来訪している。これは当時の庄屋藤平(茂平の孫)の報告にもとづくものであるから、信憑性があると思われる。
 なお禎瑞の風物詩に打抜泉があって、今日でも生活用水や田畑の灌漑に利用している。これは、鉄棒で穴を穿ち、加茂川の伏流水である被圧地下水を自噴させたものである。用水、除塩のため約五〇か所あったという。

表3-26 多喜浜塩田開発の推移

表3-26 多喜浜塩田開発の推移