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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

1 天災の頻発と開発政策の転換

災害の頻発

 戦国時代の末期から近世初期にかげて、河川の改修が進んだ結果、新田開発が急速に進み、新田開発の世紀と表現すべきほどの田畑が造成された。全国統計によれば、一四五〇年ころ九四万六、○○○町歩であった(「拾芥抄」)ものが、享保五年(一七二〇)ころには二九七万町歩になっている(「町歩下組帳」)。約三倍の増加であるが、これはどの増加を見た時期はない。明治七年(一八七四)の「第一回統計表」では、三〇五万町歩であるから、約一五〇年間に八万町歩ということは、開発の急停止を意味していると言えるであろう。
 急速な開発によって採草地(肥草山)が不足したため、採草地を求めて雑木林の伐採が進んだことや、宇和島藩の開発の項でも述べたように、新畑(焼畑)の開発が急速に進められたため、山地が荒廃した。そのため、わずかな雨でも表土が流出するようになり、一たび大雨ともなると河川ぱ氾濫し、新田は勿論のこと本田畑にまで被害が及ぶようになった。宝永四年(一七〇七)の大地震も海岸部の新田に大打撃を与え、その復旧に多大の出費を強いられたから、開発速度を鈍らせる一要因となった。労働力不足も開発阻止要因であるが、ここでは触れない。
 松山藩の場合、延宝元年(一六七三)の大洪水以来、石手川の河床上昇に悩まされ、享保一一年から普請組に一五〇人を新規に雇用し、同八年からは大川文蔵を石手川普請専属とするなど、治水対策に苦心している。
 荒廃河川を領内に持つ伊予諸藩でも事情は同じであった。今治藩では総社川・頓田川の洪水に悩まされ、享保七年の洪水では城下町が濁流に洗われた。藩では享保九年より宗門掘り(瀬掘り)を実施して防災に努めている。 

 開発政策の転換

 開発による国土の荒廃と労働力不足による本田畑の生産力低下は、年貢収入に頼る幕府・諸藩にとって、経済基盤を揺るがす大問題であった。幕府が寛文六年(一六六六)二月二日に発布した「山川掟」は、無秩序な開発を戒めるものであった。掟は三か条から成っており、大要はほぼ次のとおりである。

 ① 近年開発のために山野の草木の根まで掘り取ってしまうから、風雨の時川筋に土砂が流出して河床が上昇し水の流れが悪くなる。今後は草木の根まで掘り取るような開発はしないように。
 ② 川上の山々のうち樹木のない所については、当春より苗木を植え、土砂が流出しないようにしなさい。
 ③ 従前より川筋の河原(向川敷)に新田畑を造成しているが、新規の開発は禁止する。また新規の焼畑も禁止する。

 また、同年一一月一一日、本田畑で作付をしていない所は毎年正月に届け出て許可を受けるよう命じている。天和三年(一六八三)九月には永荒地(一度開発した土地が災害などで荒廃し、耕作者の独力では復旧不可能であるため、放置されたままになっている)の再開発を命じ、村もしくは領主の事業として復旧させようとした。貞享四年(一六八七)一一月には、町人請負新田も原則的には禁止の方針を打ち出し、享保六年に幕府が出した農政基本方針でも本田畑や秣場の障害になる開発は禁止するなど、本田畑中心主義をとっている。
 伊予の場合、幕府の法令をそのまま踏襲したか不明であるが、寛文以前に散見された山林の伐採・原野の開拓がほとんど見られなくなり、それ以後の開発は海岸部(島嶼部を含む)に集中しているところから、かなり幕府の方針が浸透しているように思われる。以下松山藩・宇和島藩の事例によって述べてみよう。
 開発政策と災害の関係を示唆する記事が「松山俚人談」に載っている。その大意を要約すると、石手川は昔深くて水底には大きな石が見えていた、ところが山奥で本の根を掘り出し、薪にし、跡地を畑として耕作するために、年々砂が流れ出して、川底を上昇させるものだから、現在川底が民家の屋根よりも高くなった、と記している。石手川が年々天井川化する状況を述べているわげだが、領内の諸河川でも同様の傾向か見られたようであり、延宝七年(一六七九)には、高内又七が諸郡に対して出しか「新令二五か条」のうちで、治水こそが村々の平穏な生活の根本であると強調している。幹線水路の工事は藩の担当であったから、河川上流域での開発は、年貢増徴をもたらしたが、反面災害を続発させることになり、河川改修・復旧費は藩財政を圧迫することになった。
 松山藩は本田畑重視策として、正徳四年(一七一四)災害によって荒廃した田地(永川成)を復旧した場合は五年間の鍬下年季を許可し、新田並課税とした。また同時に旱魃の年には新円への送水を止めると布告した。
 宇和島藩の場合、江戸時代初期の新畑開発による森林破壊とそれに伴う災害の続発に対処するため、植林を奨励するとともに、樹木伐採禁止区域を設げて森林保護を積極的に行っている。正徳五年(一七一五)には、「ほんとや・たかつく・おく鬼ケ城」の三か所を、享保四年には「水ケ森・笹ケ森・なべわり・車坂・やくらヶ森・あぶらうす・ほんとや・たかつく」の八か所を薪採取禁止とし、許可地域は「大窪平・成川平・若山平」の三か所に限定している。

開発政策の復活

 このように本田畑中心主義が定着したかに見えた(海岸部や島嶼部では小規模な干拓・開墾が実施されている所もあった。特に宇和島藩に事例が多い)が、享保七年に幕府は財政難打開のため新田開発を強力に推進する方針を打ち出し、再び開発の時代となった。当時の八代将軍吉宗は町人資本を導入(町人請負新田)すると共に、地方に派遣している代官に報償を出して開発を実施(代官見立新田)させている。ただ、町人請負の場合は、開発にかかおる関係諸村の同意を得ることを条件としている。
 幕府の政策転換以後の伊予における開発は、河川の河口部におげる干拓の活発さが注目される。特に西条藩における多喜浜塩田の開発(享保八年の古浜=西多喜浜にはじまり、慶応年間の三喜浜で終了する)と禎瑞新田はそれぞれ二四〇町歩・三〇〇町歩に及ぶ大規模なものであった。松山藩では、明和二年(一七六五)の一万石上地の結果、財政が窮屈になった。藩では格式を保つため、既開発の新田畑を杢局に編入したが、収入の増加とはならなかった。この時本高に編入された新田を御償新田と呼ぶが、その石高は九、一四四石余で、それ以後幕末までの開発分は七、一八五石弱であった。一万石上地以後の新田のうちもっとも規模が大きかったのは大可賀新田(五〇町歩余)である。
 今治藩では、越智郡島嶼部を中心に塩田開発が行われた。その最盛期は化政期から幕末にかけてであり、伯方島木浦村の瀬戸浜(文化一二年から文政二年の開発)一九町八反余をはじめ、多くの塩田が築造され、松山領越智郡の塩田も合わせると、多喜浜塩田をしのぐ面積を有するに至った。

表3-19 伊予の主な災害(慶長~享保期)

表3-19 伊予の主な災害(慶長~享保期)