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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 中世後期の仏教と寺院

禅宗の諸派

 鎌倉時代に移入されたわが国の禅宗には、中国から帰朝した日本人僧によってもたらされたものと、来朝の中国人によって将来されたものがある。前者には栄西・円爾・無本を派祖とする臨済の諸派と、南浦を祖とする臨済宗大応派(大徳寺・妙心寺両派を含む)、および道元を派祖とする曹洞宗があり、後者には、蘭溪・無学等を派祖とする臨済諸派と、東明によって伝えられた曹洞宗宏智派がある。また、別のとらえ方をすると、南北朝以後、幕府の宗教統制のもとに、無学の法系から出た夢窓派と円爾の法系である東福寺派を中心に形成された五山派(叢林)と、永平寺・総持寺によった曹洞宗、大徳寺・妙心寺によった臨済宗大応派など地方布教を主とした林下(山林)に分けられる。そして、まず五山派が栄えたあと、室町時代後半から林下の盛行をみる。

臨済宗聖一派の布教

 栄西・行勇・栄朝ら鎌倉時代初期以来の禅宗は禅密兼修が濃厚であった。栄朝の門から出た円爾(聖一国師、一二〇二―一二八〇)は、東福寺によって臨済宗の発展に貢献、その門下による布教は伊予に及んだ。いまその法系を伊予関係のものについて摘記すると左図のとおりである。(図表 「法系伊予関係」 参照)
 そのうち、山叟恵雲(一二三一―一三〇一)は、正嘉二年(一二五八)入宋、円爾門一〇禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世。宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(一二八〇)恵雲による開創と伝える。また、円爾の高弟癡兀大恵(一二二九―一三一二)は、平清盛の遠孫、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わったが、保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財として有名である。初め聖武天皇勅願寺金光院と伝えられ、のち天台系寺院であったが、永仁二年(一二九四)、時の住職叔瓊が、伊予に巡錫した禅師を迎えて開山としたと伝える(万年山保国寺歴代略記)。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であるとみられる。
 ついで、円爾の孫弟子に鉄牛継(景)印(?―一三五一)があり、観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされる。しかし、前にも記したように、越智盛氏により文永年中(一二六四―七五)の開創とみられる同寺は、もと時衆による念仏道場であったとの説もある。その後盛氏より三代目の盛康代、元弘二年(一三三二)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺とした。鉄牛は諱を継印、菅氏、河内の人、越智郡もしくは周桑郡の菅氏の生まれである。晩年の祖師円爾に従って参究したあと無為昭元に嗣法、のち元亨三年(一三二三)渡元、雪峯・雲巌・古林そのほかの諸師に学び、在元一〇年にして帰朝したのであった。なお、同寺の伝承に、鉄牛以前に南溟殊鵬(?―一三六一)が入寺していたという説があり、現に開山堂には鉄牛像と共に南溟像が祀られているから、ごく短期間の入住とみられる。ちなみに、南溟の法系は仏光国師―仏国国師―玉峯妙圭―南溟殊鵬である。
 同じく円爾の法孫悟庵智徹(?―一三六七)は近江の人、豊後を中心に九州に布教の後伊予に来たり、現宇和島市において最古の寺院とされる西江寺を開創したのが正平二〇年(一三六五)、この寺はもと現龍光院の地にあったが、寛永三年(一六二六)現在地に再興、中興開山的堂によって妙心寺末となった。また、同市の西光寺も同様の開創を伝える。つぎに、伊予に最も深い関係をもつのは円爾の弟子南山士雲(一二五四―一三三五)およびその法系である。東福寺・円覚寺・建長寺に歴住して北条・足利両氏の帰依を受けたが、落魄の河野通盛が遊行上人安国のすすめで建長寺の南山士雲の下に剃髪して善恵と号し、建武新政崩壊後足利尊氏の知遇を得て通信以来の旧領の安堵を得たという『予章記』以下の伝承がある。のち建武三年(一三三六)、通盛は、自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその弟子正堂士顕(?―一三七三)を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 正堂士顕が長福寺に住していたことは『予章記』に記するところであるが、ほかにたしかな記録はなく、同寺の縁起によると、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞(?―一四二一)を開山として弘安四年(一二八一)に開創したと伝えるが、いささか年代があわない。同寺は、のち、江戸時代の寛永一四年(一六三七)長福寺に入った南明東湖を中興開山とし、この時から妙心寺派になった。
 同じく正堂士顕を招請開山として応永二一年(一四一四)に中興したという宗泉寺(美川村大川)があるが、正堂士顕の没年は応安六年(一三七三)とみられるから没後のことである。ついで、南山士雲の弟子中溪一玄(?―一三四九)は、暦応二年(一三三九)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられている。さらに、河野通盛を開基として中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山とし、事実上の開山はその法孫枢浴玄機であり、河野通朝の女婿西園寺公俊を中興開基として文中元年(一三七二)に開創した願成寺(丹原町北田野)は士雲の法孫古心士遵(?―一四一四)を開山とする。
 最後に、円爾の高弟東山湛照の弟子に、『元亨釈書』で有名な虎関師錬があり、その弟子回塘重淵(?―一三九二)が宇和町常定寺の開山となったのは応永年間(一三九四―一四二七)のことである。また、同じく東山湛照の弟子月浦湛環が開山となった宇和町伊延の大安楽寺の開創は嘉暦元年(一三二六)である。そして、右の二寺はいずれも東山湛然を開山としているが、実は勧請開山である。

その他の臨済寺院

 建長寺南浦紹明(?―一三〇八)の法系に伊予に関係する高僧が多い。南浦紹明(大応国師)―峰翁祖一(大暁)―大虫宗岑―月菴宗光である。
 美濃国大円寺に住した峰翁祖一(?―一三五七)は、貞和年中(一三四五―五〇)創建の大通寺(現曹洞宗、北条市下難波)開山で、大暁禅師として有名である。のち明応年間(一四九二―一五〇一)、中興開山玄室守腋によって曹洞宗になった。大暁の法嗣大虫宗岑(?―一三六二)は、元弘元年(一三三一)創建の宗昌寺(現黄檗宗、北条市八反地)開山となった。二世は有名な月菴宗光であり、二五世まで大応派に属していたが、のち黄檗宗に転じた。その月菴(一三二六―一三八九)により応安七年(一三七四)ごろ再興されたのが最明寺(現臨済宗妙心寺派、北条市上難波)である。月菴の仮名法話『月菴和尚法語』は、室町時代に板行されたもので、庶民教化と臨済禅の布教に大きく貢献した。この寺は、慶長八年(一六〇三)南源宗薫(松山市天徳寺)によって再中興されて以来妙心寺派になっている。こうして、大応派(建長寺)の高僧によって創建または再興された寺が北条市に集中していたが、いずれも他派に転じている。
 同じ南浦紹明の法系(大応派)が禅宗の地方布教の中心寺院としたものに大徳寺と妙心寺がある。大徳寺がまず栄え、これが一時衰えると末寺であった妙心寺が盛んになった。大徳寺派は開山宗峰妙超に始まるが、七世言外宗忠(一三一五―九〇)は伊予越智氏の出、同じく一〇七世笑嶺宗訴(一四八九―一五六八)は河野一族高田氏の出身で宗昌寺に住持した。
 円覚寺派仏国国師の法系を嗣ぐ真空妙応(?―一三五一)は、西禅寺(大洲市手成)の開山とされるが、実はその弟子定室祖定が開山であるとの説もあって明らかでない。この寺は、地頭として喜多郡地方を領有した宇都宮氏の支系宇都宮貞泰の部将津々喜谷行胤を開基とする、地方にも稀な大寺で、歴代住持がこの地方一円に末寺を開創し、その数は一八か寺にも及んだ。同じ臨済宗ながら、初期の禅密兼修的色彩を濃くし、さらに、禅浄双修的傾向の強いのが、心地覚心(法燈国師、一二〇七―九八)であり、覚心を祖師とする法燈派の影響が伊予では上浮穴郡以南にかなりみられる。
 久万町定徳寺は、正応二年(一二八九)、覚心の弟子円祖子鏡による開創と伝え、覚心に始まる普化尺八を継承してきたが今は廃寺となっている。中山町盛景寺(現臨済宗妙心寺末)は、伊予に巡錫した法燈国師による弘長二年(一二六二)の開創と伝えるが、おそらく覚心系の高野聖によるものであろう。同町佐礼谷誓明寺(現同)も、もと法燈国師の道場であったと伝えるから、盛景寺と同様の開創であろう。
 宇和島市来応寺(現臨済宗妙心寺派)は、至徳二年(一三八五)の開創、開山は法燈国師法孫首宗賢禅と伝えられる。また、松野町豊岡照源寺(現臨済宗妙心寺末、江戸時代は宇和島市選仏寺末)は、応永元年(一三九四)ごろ、法燈派慧燈(虚明)(?―一四一〇)による開創と伝え、法燈派下四道場のうちの南方道場で、多くの末寺を有する地方屈指の大寺であった。なお、法燈派の流れに関係ある寺院に城川町報恩寺(現曹洞宗)、宇和島市選仏寺(現臨済宗妙心寺派)・仏海寺(同)、三間町竜泉寺(同)などがある。
 つぎに、伊予の臨済宗で多いのは臨済宗妙心寺派で、それも南予地方で圧倒的に多いが、これらの中心寺院はほとんど近世の開創になるので、ここでは省略する。

安国寺と幕府の宗教統制

 南北朝初期、足利尊氏にすすめて天龍寺を開いたことで知られる夢窓疎石は、尊氏・直義に重く用いられた。元弘以来の戦没者の霊を弔うため、夢窓のすすめで尊氏・直義は各国に一寺・一塔を建立することを発願した。そして、建武五年(一三三八)から貞和年間(一三六二―八)にかけて全国に設置、康永四年(一三四五)二月六日、光厳上皇の院宣により安国寺・利生塔の称号が与えられた。利生塔の一部は足利氏と関係の深い五山派の禅寺院にも設けられたが、ほとんどは真言・天台・律など旧仏教の有力寺院に造立され、安国寺は各国守護の菩提寺など五山派の禅院が指定され、おおむね旧寺院を安国寺とした。安国寺は北宋の天寧禅寺や南宋の報恩光孝禅寺に、利生塔は阿育王塔や隋の舎利塔などにならったものといわれる。その目的は、表面は戦没者の慰霊であったが、民心を収めて社会秩序を保ち、あわせて各国における五山派の拠点とし、各国の守護勢力の維持拡張を図ろうとするものであった。そして、その企画と推進は、文化人であり宗教的資質にすぐれた直義によって行われたが、直義が兄尊氏との不和で失脚したことがきっかけになり、各国の守護勢力、ひいては足利幕府の基礎がかたまるにつれて次第に有名無実となった。
 伊予の安国寺(現臨済宗妙心寺派、温泉郡川内町則之内)は、暦応二年(一三三九)、足利尊氏を開基、夢窓国師の法嗣普明妙葩(?―一三八八)を開山として、守護河野通盛が建立したものである。寺地はもと保免にあり、同地には現在も旧寺院の跡とみられるものが残っている。現在地への移建は元禄六年(一六九三)とみてまちがいなかろう。当時はもちろん天龍寺の末寺であったが、長福寺(東予市北条)開山南明(一六一六―一六八四)による中興以来妙心寺末となった。全国の安国寺がほとんど廃絶したなかにあって、大壇那河野氏も滅亡したにもかかわらず、ともかく今日までこの寺が存続したのは、松山城主の外護によるところが大きいであろう。
 こうして、安国寺が無力化するにつれ、幕府が力を入れたのは五山・十刹・諸山の官寺機構の整備であった。
 もちろん伊予には五山も十刹もなかったが、諸山は何か寺か確認できる。諸山が初めて設置されたのは鎌倉末期で、その後各国に増設され、中世末期には全国で二三〇か寺にもなっていた。伊予で諸山に列せられたのは、安国寺・善応寺・観念寺・保国寺の四か寺であったが(嘉慶元年=一三八七、諸山甲刹位)、のち永禄七年(一五六四)ごろ常定寺(現臨済宗東福寺派、東宇和郡宇和町常定寺)が乾室による中興に際し一時諸山に加えられたことがある。

曹洞禅の展開

 道元没後の永平寺教団は、かたくななまでに道元の遺風を固守しようとする義演などの旧派と、教団の発展を強力に推進しようとする徹通などの新派が対立、徹通派は加賀大乗寺に移って独立、能登に進出した。その法嗣□(宝のうかんむりの上部がツ)(けい)山紹瑾は能登に永光・総持の両寺を開創(もとそれぞれ真言・律の寺院)、以上の三寺を拠点に地方進出を図り、宗勢は永平寺を圧倒した。□(宝のうかんむりの上部がツ)山のあと峨山―通幻―石屋の法系を主流として発展するが、特に各国守護や地方豪族の外護を得て基礎を固め、また、旧仏教ならびに修験の遺跡を復興して改宗、それらと習合しながら飛躍をとげた。そして、そのころ峨山派の能登総持寺が中心になっていった。
 石屋真梁(一三四五―一四二三)は、島津忠国の子で総持寺にあったが、島津元久に招かれて福昌寺を開創したあと、大内氏の帰依を受けて周防国泰雲寺などを開き、ついで開創された同国龍文寺とあわせて、これら三寺を拠点に九州・中国・四国へ教線を伸ばした。石屋の法弟仲翁守邦(一三七九―一四四五)は、島津元久の子、一五歳で石屋の福昌寺に投じ、総持寺に出世した後帰郷して常珠寺などを開創、のち嘉吉三年(一四四三)伊予で修行中魚成に留錫、元亨三年(一三二三)徳翁によって開かれた龍天寺を現在地奈良谷に移して中興、禹門山龍沢寺とした。その後歴代住持の積極的な布教活動により、東宇和郡を中心に末寺五〇余か寺を数える大寺になった。御荘地方禅宗の中心寺である興禅寺は、開山直心宗白による応仁元年(一四六七)の開創といい、のち龍沢寺末になった。
 つぎに、石屋の開いた周防国泰雲寺の流れを汲む寺に高昌寺(現内子町城廻)がある。すなわち、石屋の法孫大功円虫(?―一四七三)が、この地を巡錫中、嘉吉元年(一四四一)浄久寺(今その地名を浄久寺という)に建立し、天文二年(一五三三)、この地方の領主曽根高昌が現在地に移築して菩提寺とし、さらに弘治二年(一五五六)高昌寺と改称した。これまでこの地の寺院は願成寺を本寺とする時宗が多かったが、願成寺を除いてほかはすべて高昌寺末となり、その数二四か寺に達する大寺になった。
 同じ泰雲寺系で、安芸国勝運寺末の大仙寺(今治市本町)は、勝運寺開山以天圭穆(?―一五九一)の開創になるもので、もと安芸国豊田郡矢野村にあった新興寺を、天文初年ごろ同寺五世代に現在地へ移して大泉寺とし、江戸時代に入って元文ごろ大仙寺に改めたという。また、同じ泰雲寺系で、豊後安楽寺末とされる(総持寺史)大通寺は、さきに記したように、貞和年中(一三四五―五〇)に大暁禅師によって開創された臨済寺院であったが、明応年間(一四九二―一五〇一)、中興開山玄室守腋(備中総社華光寺)、開基河野通宣によって曹洞宗に改宗した。その後最後の鹿島城主来島康親が豊後森に移封となるに伴い、大通寺の系統を移して安楽寺を開創した際、大通寺七世大室永廓の弟子が開山となった。したがって、伽藍系からは大通寺を豊後安楽寺の末寺とするのはおかしい。
 その大室永廓(?―一六〇五)は、慶長元年(一五九六、『小松邑志』には元亀三年=一五七二)郷里に帰って天福寺(小松町大頭、現臨済宗妙心寺派)を再興して宇野氏の菩提寺とした。大室永廊は、妙口村剣山城主黒河氏の配下宇野氏(獅子ヶ鼻城主)の嫡系家綱のことで、家督を弟為綱(識弘)に譲って出家した。この寺はその後妙心寺派の臨済寺院になった。
 つぎに、同じ福昌寺末周防国龍文寺大菴須益(?―一四七三)を開山として招請、その弟子月湖契初(?―一五二四)を実質の開山として、河野通直により、開創(開創年不明)したのが龍穏寺(松山市御幸)であり、河野氏滅亡後の変遷を経、末寺一三か寺をもつこの地方の曹洞宗の中心寺院となった。また、同じく大菴須益を開山とする寺に大雄寺(今治市室屋町)と隆慶寺(今治市米屋町)があり、それぞれ文明五年(一四七三)、文明一一年(一四七九)の建立というが、龍穏寺と同様おそらく招請開山であろう。なお、峨山の法系にある茂林芝繁(一三九三―一四八七)は興雲寺(小松町明穂)の開山といい、通幻派の福島県長源寺末の寺院という。
 さかのぼって、総持寺の基礎を確立した峨山は、貞治三年(一三六四)、「嗣法の次第を守り五筒寺住持すべし」と遺誠した。その五箇寺とは、峨山直嗣の太源・通幻・無端・大徹・実峰がそれぞれ総持寺山内に開創した普蔵・妙高・洞川・伝法・如意の五院である。さらに、各院には相ついで塔頭が建てられ、その数は二二箇寺にも達した。ここで特筆すべきは、総持寺の宗派僧団が、総持派が全国に展開して大宗派になった根源になったことである。その秘密は開祖□(宝のうかんむりの上部がツ)山・二祖峨山と継承された輪住制度にある。
 それは、まず五院の住持が嗣法の順位によって本山に輪番で出仕することから始まった。そして、その後は五院が三年を一期に順番に輪住者を出し、その期間は、さらに一年、半年、三か月、七五日と短縮された。これまでを五院による輪住時代とするが、天正一五年(一五八七)の改革で五院それぞれに輪番地が設けられ、地方の輪番地寺院が出仕することになった。そして、五院それぞれに設置された輪番地寺院は合計三三九箇寺に達した。改革後の輪住任期は一年となり、輪番地からそれぞれの五院に出仕常住し、その間七五日間を本山当住とした。すなわち、地方輪番地の住持が、短期間とはいえ本山総持寺の貌座に登る光栄に浴するわけで、ここに輪住制度のもつ効果の秘密がある。
 いま、伊予にあった輪番地をみると、五院のうち第四院(開祖大徹)の輪番地四九箇寺中に溪寿寺(現大洲市菅田町宇津)があり、五回輪番に出仕したことがわかる。これを溪寿寺作成の年表についてみると、宝永元年(一七〇四)以降の五回が確認され、大洲侯の援助によって果たした輪番用の遺品を伝えている。
 溪寿寺は、大徹宗令の法嗣春巌祖東(?―一四一四)が応永元年(一三九四)に開創した寺院である。祖東は大洲地方の出身者とみられるが、俗姓は伴氏、大野村の人というだけでわからない。大徹に参じて曹洞の奥旨を極め、溪寿寺開創後、応永一八年(一四一一)総持寺の首座となり、応永二一年(一四一四)大隅国瑞光寺(応永九年祖東による開創、現廃寺)で没したとみられる。ちなみに、江戸時代末期の末寺は七、この地方曹洞宗の中心寺として栄えた。
 これまでにあげた曹洞宗の寺院とその末寺のほか、中世末期までに存在した主なる寺院をあげると、東予地方では瑞応寺(新居浜市角野、一四四八年開創)・真光寺(新居浜市中村、一四八九―九一年間開創)・長法寺(越智郡岩城村、一三九二年開創)、中予では秀禅寺(伊予郡広田村、天正初年開創)、南予では保安寺(八幡浜市五反田、一五五八―一五七〇年間開創)などがあるが、なかでも特筆すべきものは瑞応寺(安芸国徳雲寺末)である。同寺は、文安五年(一四四八)生子山城主一一代松木景村が、鎌倉から月担を招請、白翁長伝を開山として開創した臨済寺院であったが、天正の兵火で焼失、万治三年(一六六〇)、安芸国東城徳雲寺九世分外恩鈯が再興して以来曹洞宗の大寺院となった。したがって、曹洞宗となったのは江戸時代であり、今でも僧侶養成道場として有数の大寺である。

浄土真宗と日蓮宗

 浄土真宗の布教については、この時代、組織的・集中的に布教された跡がみられない。いま、開創を伝える年代順に主なるものをあげる。
 浄蓮寺(松山市本町、本願寺派、享禄四年=一五三一年河野通直が道後に建立、その後伊予郡松前へ、慶長一一年釈善了によって現在地へ再興後改宗か)、明勝寺(小松町新屋敷、大谷派、天文一一年=一五四二年再興して真宗に改宗、開基は小松藩家老喜多川氏)、定秀寺(松山市三津、本願寺派、永禄元年=一五五八年創立、開山宗徳)、明源寺(宇和島市追手、本願寺派、慶長二年=一五九七年釈順信開創)、法泉寺(松山市松前町、大谷派、もと持田村にあって真言宗、河野家菩提寺、のち伊予郡松前村に移建、慶長八年=一六○三年現在地に移る際真宗に改宗。ここまでの経歴は右の浄蓮寺と全く軌を一にしている。再興開祖道鎮は加藤嘉明の伯父加藤氏、教如に帰依して真宗に、慶安三年寂)などである。
 右のうち、松山市三津定秀寺については特に記すべき重要事がある。開山宗徳は鹿島城主河野通定の予通秀。父通定は蓮如上人に帰依して中西村(現北条市)に一寺を開いて蓮如から拝領の名号等を安置、子通秀を摂津国石山に遣して信長と戦う顕如を助けた。石山合戦は元亀元年(一五七〇)に始まり天正八年(一五八〇)に終わったが、通秀がいつ出陣したかわからないものの、伊予の河野水軍が石山合戦に参加したという記録とあわせてこのことはたしかであろう。ちなみに、伊予では一向一揆は起こったことはなく、石山合戦の応援に出た記録はほかにない。定秀寺という寺名は、通定・通秀父子の名を一字ずつとったもので、顕如の命名という。この寺が現在地に移ったのは慶長一〇年(一六〇五)で、加藤嘉明の命によると伝える。
 日蓮には本弟子として日昭・日朗・日興など六老僧があり、それぞれ門流を開いて布教したが、その地域は関東を中心に東海東部に限られていた。日興の法孫日尊は京都に上行院を開創して初めて洛内布教の端を開き、教線は安芸・出雲に及んだ。同じく日興の法孫日華は、その弟子日仙と共に教線を土佐・讃岐まで延ばした。
 いっぽう、日朗の門下には九鳳と呼ばれた九人の高弟がおり、うち日像は、日善・日行らの助けを得て洛内の弘通をはかった。日像の開いた法華堂はやがて妙顕寺と呼ばれ、建武元年(一三三四)には後醍醐天皇の綸旨により勅願寺となった。しかも、建武の新政崩壊後、建武三年には室町将軍の祈願所、さらに翌年には北朝光厳天皇の祈願所となり、妙顕寺の地位は保たれた。その信徒には富商が多く、その外護によって繁栄した。やがてその弟子大覚は瀬戸内海地域への布教を始めた。また、京都における日像の成功が東国に伝えられると、各派が競って西国に下り、洛内に多くの法華寺院が開かれた。つぎに、中世伊予における日蓮宗の寺院を古いものからあげるが、その本寺は、久遠寺のほかはすべて京都の寺院である。(図表 「中世伊予における日蓮宗の寺院」 参照)

理玉と等妙寺戒壇

 以上は、伊予における新仏教の布教について述べたのであるが、ここに旧仏教側の動向に顕著な事例がある。
 淡路国出身で京都法勝寺の天台僧理玉は、天台大乗戒壇を伊予に建設して天台の弘布を図ろうとし、宇和鬼北地方に入った。現在広見町芝にある等妙寺(天台宗山門派)は、もと奈良谷にあって、延暦二二年(八〇三)叡山南溪聖明の開創と伝え、当時荒廃していた。理玉はここに入り、西園寺宣房の庇護と、特にその地方の開発領主で西園寺氏の配下にあった開田善覚(宇和開田郷)の外護を得、元応二年(一三二〇)この寺を再興、一〇年にわたる造営を経て元徳二年(一三三〇)大伽藍および一二坊を完成、のちには末寺七二か寺を擁する大寺となった。うち、特筆すべきはその戒壇である。当時天台は南朝に味方しており、理玉は延暦寺座主であった尊雲法親王(護良親王)に接近し、白河天皇の御願寺法勝寺(現廃寺)の円観(?―一三五六)をたよって元弘元年(一三三一)上洛、後醍醐天皇から勅願寺と定められ、勅許により比叡山延暦寺円頓戒場のひとつとなった。法勝寺を中央戒場とした遠国四個の戒場で、東方は相模国宝戒寺、北方加賀国薬師寺、西方肥後国鎮興寺、そして南方は伊予国等妙寺である(宇和旧記)。理玉は広見等善寺に隠居しここで歿した。
 同じく理玉を中興開山とすると伝える歯長寺(現宇和町伊賀上、天台宗山門派)がある。同寺は、天平勝宝二年(七五〇)孝謙天皇勅願寺として建立されたと伝えるが、また、治承年間(一一七七―八〇)、足利(田原とも)又太郎忠綱(歯の長さ一寸という平家の勇士)が源氏に敗れて西国に下り、歯長峠一本木奥の谷に草庵を結んで隠棲したという伝えもある(宇和旧記)。同寺の縁起とされる『歯長寺縁起』は、開田善覚の子で同寺に住持した寂証が至徳三年(一三八六)に録したものの書写本で、重要文化財に指定されている。標題は『歯長寺縁起』となっているが、これは後世はりつけたものであり、その内容からは、冒頭にあるように等妙・歯長両寺にかかわるもので、立間郷大光寺において開田善覚と理玉とが会見し、宇和において一寺を興すべきことを決定、このことを神五左衛門が京都に上って西園寺家に報告したのであった。こうして歯長寺は、理玉を中興開山として元応二年(一三二〇)までには再興している。もちろん開基というべき者は開田善覚であり、開田善覚は、西園寺領五千余貫(そのうちに立間地域も含む)と宇和にあった法勝寺の香田をあわせて管理していた長者であった。法勝寺長老円観の伊予下向に際しては、等妙寺に止宿すべきところ、主に歯長寺にとまった。善覚・寂証父子は理玉に奉事し、ひいては理玉の師円観に奉仕することになった。ちなみに、吉田町立間大乗寺の前身を大光寺とし、理玉が再興したという説があるが、大乗寺の前身ということもさだかでなく、まして理玉の再興というのはまちがいで、理玉と善覚がこの寺で歯長寺再興のことを協議したとみられる。

法系伊予関係

法系伊予関係


中世伊予における日蓮宗の寺院

中世伊予における日蓮宗の寺院