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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 中世城郭の形成

伊予史上最初の城郭高縄城

 愛媛県下には、東・中・南予の各市町村にわたっておよそ七百を超える中世城郭の跡が散在する。その多くは山岳・丘陵・台地など、天嶮の高地地形を利用した山城であって、城を中心として広がった自己の領地の管理支配に適した要地に構築されていた。これら中世城郭は、いったいいつごろから構築され始めたものか、いつごろから歴史に記され始めたか、以下述べてみることにしよう。
 多くの中世城郭のうち、史上にはっきりとその姿を現わした最初のものは、風早郡東部に築かれた高縄城であった。その名は、『吾妻鏡』をはじめとして、『源平盛衰記』、『予章記』等に明記されている。
 河野氏が、当時平家の海とよばれていた瀬戸内海の真中に突出する高縄半島の一角、高縄城から反平氏の旗揚げを敢行したのは、ここが河野氏一族の本貫河野郷のうちにあり、高縄山塊周辺地域に同氏一族を中心として組織された河野武士団の勢力圏の中核に位置していたからであろうか。『予陽河野家譜』によると、河野通清はこれよりさき機先を制して、国府に目代を攻め、これを追って周敷郡の文台・大熊の両城とこれを前衛とする赤瀧城を陥れたとあり、また平氏方備後・阿波勢の高縄城攻撃に備えて、大内・高井ら一族に、高穴・日高等の諸城を守備させたとある。『予章記』には、通清の息通信が元暦二年(一一八五)正月、平氏方の高市俊則と伊予郡の鴛小山で戦って、開城させ、つづいて阿波の田内左衛門尉則能の率いる平家勢三千余騎と喜多郡比志城で戦い、勝利をおさめたとある。
 以上歴史書に記された源平合戦当時の城郭をあげたが、十指にも足らぬ数で、反平家の河野氏と平氏との合戦に関係していた諸城郭、それも主として中予地域にある城に限られていた。しかしこの外に史書に記載されていない大小の城郭が多数構築されていたことが推察される。

河野氏一族の居館・居城

 通清が高縄城に楯籠った際、河野氏の居館は、おそらく城域のなかに含まれている「河野郷土居」に建てられていたとおもわれる。彼の嫡子通信以降宗家代々の居館も引続きここに定められていたことは、『予章記』に「河野ノ土居ハ善恵(河野通盛)ノ屋形也、郷ノ毘沙丸ト云所ニ御館(河野通盛の二男通朝の居館)アリ、仍土居ヲハ上殿ト申、郷ヲハ下殿ト申ス」とあり、『予陽河野家譜』巻之二には、通盛が風早郡河野郷土居荘に住み、また郷の毘沙丸館―越智郡立花郷―に在りとし、これをそれぞれ土居上殿・郷正殿と言ったと記している。このような記述からみると、河野氏本宗の居館は、鎌倉期当初から鎌倉末期にかけて、風早郡河野郷土居にあり、通盛かその子通朝の代になって新たに越智郡立花郷毘沙丸に居館が設置されたとみられる。なお河野郷土居の居館は、建武三年(一三三六)通盛によって、寺院に改築され氏寺善応寺となったから、河野氏本宗の居館は、新しく構築された道後の湯築城内に移されたものとおもわれる。
 つぎに河野氏本宗以外の一族の居館をみよう。『予章記』には、父通有とともに弘安の役に出陣した嫡子通忠は、風早郡河野郷柚木谷に居館があり、柚木谷殿とよばれ、二男通茂は和気郡吉原郷柏谷に居住して、柏谷殿とよばれたとあり、『予陽河野家譜』巻之二には、通忠の居城を神途城といい、通茂は柏谷城に住すという註釈がついている。なお同書には、通茂の二男通武が、河野氏一族南通広の遺跡を継ぎ、風早郡粟井郷麓村の横山城に住んだことを記している。
 おそらく河野氏は一族の勢力拡大発展につれ、うえにみたように、本貫と周辺地域の要地につぎつぎと一族の居館を建て、居館をキャンバスのなかに構えた中世の城郭を漸次形成していったものとおもわれる。

南北朝期の城郭

 元弘の乱に始まり、建武新政を経て南北朝期の動乱の間に、東・中・南予にわたって、中世城郭は続々と姿を現わしてくる。
 源平合戦の際、その城をめぐって戦われた高縄・根来城などの諸城、鎌倉期を通して逐次築かれた風早郡の神途・恵良などの諸城も戦乱のなかに大きくクローズアップされ、攻防の標的となる。元弘三年(一三三三)、長門探題北条時直が、伊予に侵入し構えた、温泉郡星岡山城のような臨戦応急の新城も出現するが(忽那家文書・五四三)、延元三年(一三三八)、南朝から忽那義範に宛て、忽那島に城郭を構え、凶徒を退治するよう要請された(同・六四三)場合のように、戦略上の必要から新城が構築されることもあった。
 祝安親・忽那重清らが、元弘三年攻略した喜多郡根来山城(三島家文書・五五〇)、建武二年(一三三五)攻城破却した周敷郡赤瀧城(同・五七五)のような古城復活の例も生じた。建武三年祝安親が攻め落とした伊予郡松前城(同・五八九)もみえる。
 忽那一族軍忠次第(忽那家文書・六八一)には、宮方に属する忽那氏が攻め落とした武家方城郭と武家方から防衛した宮方城郭がつぎのように記されている。すなわち建武二~三年に浮穴郡会原城、延元二年(一三三七)に温泉郡桑原城合戦、翌延元三年に久米郡高井城・風早郡河野城・越智郡宮山城・新居郡西条城をそれぞれ攻め落とし、延元五年に越智郡大浜城を攻め、興国元年(一三四〇)忽那嶋泰山城を安芸国守護武田氏から防衛し、同二年には風早郡恵良城に籠り、同三年には湯築城を攻めたとある。
 湯築城については、前述したように建武年間、河野氏が本拠地を風早郡河野郷土居からここに移したとみられるが、築城の経緯、年代などについての確実な史実を伝える古記録は見当たらず、前述の忽那一族軍忠次第の興国三年の条が、初見の記録である。なお湯築城は、建武年間築城以来、天正一三年(一五八五)開城までおよそ二五〇年にわたって、河野氏本宗代々の拠城として、領国支配上重要な役割を果たした。
 以下『予陽河野家譜』巻之三に記された河野氏関係の諸城を列挙してみよう。暦応三年(一三四○)と貞治三年(一三六四)に東予地区に侵入した細川勢によって陥落した宇摩郡河江城、桑村郡の世田山城、河野通朝戦死後、嫡子通堯が拠った風早郡の神途・恵良の両城、細川勢が一時占拠した湯築城・大空城、応安元年(一三六八)通堯が陥れた和気郡の花見山城、応安二年通堯が、細川氏の支配下に置かれた東予地域奪還のため戦った新居郡生子山城、引籠った同郡の高外木城などがある。
 ここで三島村上水軍(本章第三節参照)の拠城能島・来島についてみると『萩藩閥閲録』巻二二の二に、北畠親房の孫師清が内海地域に下向し、能島・務司之城に討ち入ったとあるが時代が明らかでなく伝承の域を出ない。能島の名の初見は、貞和五年(一三四九)一〇月の弓削島荘串方并鯨方散用状(東寺百合文書・七四七・七五〇・七五一)に「野島酒肴料」とあるのがそれであり、この時に幕府使者の尾道から弓削島への渡海の際、警固料をとって身辺の安全保障をする海賊衆の基地があったとおもわれる。来島城の名の初見は、宝徳三年(一四五一)二月二三日の河野教通書状写(小早川家証文・一三〇四)で、この頃になると、海賊として戦力を備えるようになったとみられる。
 以上主として東・中予の城郭についてみたが、南予宇和郡地方の城郭について見ると、『宇和旧記』上巻に、嘉禎二年(一二三六)橘氏に代わって宇和郡の領主となった西園寺氏の後裔公良卿が、永和二年(一三七六)京より所領宇和へ下向し、松葉城に住んだとある。おそらく西園寺氏の下向以前に、松葉城は構成されたのではあるまいか。

室町~戦国期の城郭

 この期は、下述するような理由から、伊予各地に大小の戦いが熾烈に展開され、それも城郭の攻防を主とする戦闘が中心であり、戦いの決は堅固な城の存否によるところが多かったので、当該地域の要所要所に新城の構築(たとえば文明六年忽那島の本山城、忽那家文書・一四八〇)・旧城の復興・再活用が盛んにおこなわれ、戦国末期までに、伊予全域にわたって城郭が形成されることとなった。
 この期を通して著しい現象は、国外勢力が侵入進攻して戦いを激しくしたことである。宝徳三年(一四五一)、河野教通は予州家通春と対立抗争し、小早川・吉川の両家など安芸勢の来援を求め、安芸勢により予州家方の国中城二〇余か所が退散させられる事態がおこった(小早川家証文・一三〇七)。弘治元年(一五五五)の厳島合戦を機に、河野・毛利両氏の提携は緊密となり、国内の紛争などに安芸勢が来援し、関係諸城での攻防がみられた。
 文明一一年(一四七九)、阿波勢を率いた細川義春の侵入があり、河野氏は世田山・大熊山・由並・鷺森・獅子鼻山など道前諸城によって撃退した。元亀三年(一五七二)には、三好将監の率いた阿波勢の東予侵入、川之江・高尾・高峠・鷺森などの諸城の攻防戦があり(予陽河野家譜巻之四)、いっぽう織田家臣山岡対馬守の軍勢が中予に来襲、葛籠葛・恵良など諸城をめぐる戦があったと伝えられる(同巻之五)。戦記類の伝えるところによると永禄八年(一五六五)六月には、豊後国大友氏の軍勢一万騎が伊予灘沿岸に来襲、同七月には、大友氏と組んだ土佐国一条氏の軍が宇和郡鬼北地区に侵入、大友勢二万余騎が板島・立間尻地区から鬼北地区に進出したという。永禄一一年正月には、一条氏の土佐勢が久万山に打入った。これらの戦に当たって深田・中尾・河原淵・大除の諸城主が活躍する。四国統一を志した土佐国の長宗我部元親は、天正七年(一五七九)から、宇和郡へ再三にわたって侵入し、諸城を攻略、黒瀬城下に進攻し城主西園寺公広をはじめ、宇和郡諸城主を降服させ、最後には河野氏との講和を誘った。
 ここで国外勢力との関係を考慮して構築されたとみられる二つの城についてみよう。一つは宇和郡黒瀬城である。西園寺氏が、かねて本拠としていた松葉城から、天文一五年(一五四六)~弘治二年(一五五六)の間に、宇和盆地の南端にあって新たに構築したとみられる当城へ移転したのは、大友氏の宇和侵入に対し防衛上の有利性を配慮したからであろうか。もう一つは浮穴郡大除城で、土佐国一条氏らの久万山への越境侵攻に苦しんだ久万山衆が、明神村に当城を構築し、喜多郡宇津城主大野安芸守直家に防衛させた城で、城名は敵を払い除くという意から出ているという(予陽河野家譜巻之四)。
 以上毛利・細川・三好・大友・一条・長宗我部などの諸氏の侵入による戦乱に加えて、河野家の部将の反乱が多発した。戦記類によって記すと大永三年(一五二三)、正岡紀伊守は府中鷹取山城で、享禄三年(一五三〇)、重見通種は府中石井山城で、それぞれ主家に反乱を起こし、天文一〇年(一五四一)には、通直の後継者をめぐる紛争勃発、家臣団が湯築城を囲み来島城を攻撃する事態になった。天文一三年には、大除城主大野利直が反乱を起こし、浮穴郡小手瀧城・大熊山城を攻めたが、同二二年には、再反し浮穴郡花山城を攻めた。同二三年には久米郡岩伽良城主和田通興も反乱を起こし、荏原城主平岡房実に追討された。天正元年(一五七三)と同七年には、地蔵ヶ嶽城主大野直之が土佐国の長宗我部元親に通じて、河野氏に反し、後者の場合忽那・土居氏ら河野勢の討伐をうけ、花瀬城を中心に激闘が繰り返された。来島城主村上通総は、元亀元年(一五七〇)河野氏の上意に背き、天正七年には風早郡鹿島城代二神豊前守と結んで、河野氏に反抗した。天正一〇年には、川之江城主妻鳥采女正が、河野氏に反し、屋形の命をうけた河上安勝によって落城させられる。
 以上河野主家に対する部将の反乱を見て来たが、喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏の場合も同様であり、それにつれ所属の城を中心とする戦いが各地に展開された。
 いっぽう戦国乱世の時代相をうつして、伊予の各地で中・小城主間の紛争が頻発した。たとえば天正七年喜多郡内山盆地の南北ニキロメートルの間隔で対峙していた龍王城は、土佐長宗我部氏の後援をえた曽根城主曽根宣高によって落城し(大洲旧記)、同年風早郡鹿島城代二神氏と野間郡高仙城主池原氏との間に紛争が起こり、前者の援軍二〇余艘の軍船を率いる来島城主村上通康勢と後者の援軍横山城主南美作守勢数百騎が、海城をめぐって行った合戦は、池原氏の勝利に終わった(予陽河野家譜)。天正一〇年地蔵ケ嶽城主大野直之は、西園寺氏勢に対抗し喜多郡の南境にある鳥坂城に拠って、激闘を繰り返し、河野通直の仲裁によって和睦した(予陽河野家譜)。これら紛争戦闘の間に、防備が拡大充実された城もあれば、他方落城、やがて廃城の憂目をみた城もあり、戦国乱世の激しい政治的軍事的淘汰による城郭の盛衰興亡は、すさまじかった。
 戦国末期、伊予国の各要地に、構築されていた城郭のうち、主要なものを、全中予と東・南予の一部に、永く支配権力を及ぼしていた河野氏配下の部将の氏名・居城などを記した『河野分限録』を中心に、表4―1に列挙した。

表4-1 戦国末期の主要城郭表①

表4-1 戦国末期の主要城郭表①


表4-1 戦国末期の主要城郭表②

表4-1 戦国末期の主要城郭表②


表4-1 戦国末期の主要城郭表③

表4-1 戦国末期の主要城郭表③


表4-1 戦国末期の主要城郭表④

表4-1 戦国末期の主要城郭表④


表4-1 戦国末期の主要城郭表⑤

表4-1 戦国末期の主要城郭表⑤