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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 豊臣秀吉の四国征圧

小早川隆景の出陣

 羽柴秀吉は、全国統一事業が順調に進むなかで、毛利氏との和睦ができあがると、四国平定事業に着手した。これよりさき天正一二年(一五八四)一〇月、来島通総の帰国を指示した(阿波国徴古雑抄・二四三四)。毛利氏は、はじめ来島の帰国に難色を示したが(村上文書屋代島・二四四一)、秀吉の意志にさからうことはできなかった。こうして、翌一三年(一五八五)正月、秀吉は毛利氏に出兵を要請し、それを受けて、二月、小早川隆景は能島家に協力を求めた(村上文書屋代島・二四四九)。
 同年五月二六日、毛利輝元は小早川隆景が出発する旨を家臣に告げているが(中村文書・二四五九)、実際の出発日程はそれより一か月遅れた。その間、隆景の懇望によって秀吉は彼に伊予一国を与えることを約束した(小早川家文書・二四六三)。そして六月下旬、安芸国の三原や忠海の港は将兵であふれ、つぎつぎに乗船して遠征の途についた。隆景のひきいる第一陣は、同月二七日、今張浦(現今治市)に上陸し(萩藩閥閲録・二四六四)、東禅寺に本陣を置いたという。つづいて七月五日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らにひきいられた第二陣が同浦に到着し(吉川家文書別集・二四七五)、竹子という所に布陣して、平定戦は現実のものとなった。

金子元宅の奮戦

 今張浦に全軍集結して、伊予勢の動向を見守っていた四国平定軍が行動を開始したのは七月一四日のことである(吉川家文書別集・二四七五)。その平定軍の最初の攻撃目標となったのは長宗我部氏の与党として反抗的な態度をとった宇摩・新居二郡領主石川氏であった。
 この石川氏の家臣団中の実力者であり、実質的に両郡の主導権をにぎっていた金子元宅が、いつごろから長宗我部氏と接触するようになったか明確ではないが、天正六年(一五七八)、毛利氏と親交のあった西讃の香川信景は、ついに長宗我部氏の圧力に耐えかねてその軍門に屈し、毛利氏と絶縁した。その時、信景は以前から親しい関係にあった金子氏との提携を強めていたが、元宅にあてた書状(金子文書・二二二六)のなかで、このころの元宅の外交方針にふれて、「芸土入魂相替わらず侯」と、彼が長宗我部・毛利両氏と意を通じていることを記している。その後、毛利氏の対織田戦の戦況がしだいに不利になり、それに加えて河野氏の権勢の後退が続くなかで、元宅の毛利離れは決定的となった。天正九年(一五八一)、彼は長宗我部元親と起請文を交わして同盟を結び(金子文書・二二六六)、完全に同氏の系列下にはいったようである。このような金子氏の動きに対して、毛利氏も元宅に働きかけを行ったが効果はなかった(金子文書・二二六七)。それから以後彼は長宗我部氏と積極的に結ぶことによって(金子文書・二四〇六・二四〇七)、新居・宇摩二郡の旗頭としての地位を不動のものとした。さらに元宅は、永年の宿敵黒川氏をもおびやかす勢力に成長した。このような関係から、四国平定にあたっても、元宅はかたくなに毛利氏の意思を拒否し、徹底抗戦の構えを崩さなかったと伝えられる。
 七月一四日、新居郡に姿をあらわした芸州勢は、たちまち高尾城(西条市氷見)と丸山を包囲した。まず丸山がその日のうちに落城した(吉川家文書別集・二四七五)。この圧倒的に優勢な平定軍に対し、『予陽河野家譜』によると、防備軍は劣弱であったように考えられる。高峠城(西条市洲之内)主石川虎竹が幼少であるので、元宅は近藤長門守を後見人として守備にあたらせ、自らは高尾城にたてこもった。しかし、高峠城の守備は薄弱であったので、元宅は真鍋・野下・加藤・松木・塩見・藤田・矢野・薦田・上野・横尾・加地・野田・下山・寺川・黒瀬の諸勇士を送り、金子城には元宅の弟の対馬守、里城には高橋美濃守と大久保四郎兵衛を配置して守備を固めたという。
 中国勢は、翌七月一五日から高尾城の攻撃を始めた(吉川家文書別集・二四七五)。これに対して、元宅は兵を励ましてよく戦ったが、真鍋孫太郎らの将卒が相ついで戦没したばかりでなく(萩藩閥閲録・二四八八)、長宗我部氏派遣の援兵も討ち取られ(小早川文書・二四七〇)、同月一七日、ついに落城した。この戦いについて、『予陽河野家譜』は、寄せ手の新見・木梨・戸田らの兵三百人が、近くの小丘上から高尾城に一斉射撃を加えたので城中は大混乱におちいり、その機に乗じて総攻撃をかけたので、元宅は意を決して、城郭に火を放って自殺した、と伝えている。いっぽう、金子元宅の死について、隆景の手勢のなかにいた赤木蔵人丞が討ち取ったという史料も残されている(赤木文書・二四七七・二四八〇)。また吉川元長は、高尾城落城の結末について「城勢金子備後守を始めとして、宗徒者六百余一時に打ち果たし候」(吉川家文書別集・二四七五)とその書状に報告している。
 新居郡の将兵は家臣団の中心人物であった金子元宅を緒戦で失い、意気阻喪した。ついで攻撃を受けることになった高峠城では、城兵は楢木(西条市)に赴き、野市原(同)に陣を布いて平定軍に対抗し全滅したという(予陽河野家譜)。その結果、高峠・生子山(新居浜市)・岡崎(同)・金子本城(同)などの諸城もことごとく陥落したと伝えられ(吉川家文書別集・二四七五)、新居郡における抗戦は終了した。

諸将秀吉に降伏

 新居郡の平定が終わると、中国勢は宇摩郡に攻めいって川之江の仏殿城を攻略した(小早川家文書・二四七九)。この城は、まだ長宗我部元親の影響下にあった阿讃両国に程近いところから警戒されていたが(萩藩閥閲録・二四七三)、大きい抵抗もなく落城した。
 新居・宇摩両郡での作戦を終えた中国勢は伊予の中央部向けて西進した。しかし、これ以後の状勢の展開については、正確な史料が僅少であるため、後世の編纂物に頼らざるをえない。そこで主として『予陽河野家譜』によって、経過を見てみよう。平定軍はまず、周敷郡の領主黒川美濃守の拠る剣山城(小松町)を攻めた。黒川氏は善戦したが支えがたく、属城獅子鼻城(同町)の宇野隼人正らとともに、城を捨てて湯築城へのがれたという。しかし、『宇野文書』(『小松邑志』所収)によると、獅子鼻城の宇野一族は、四囲の情勢を察していち最く平定軍の陣営に馳せ参じ、その先鋒として郡内平定に協力したものとみられる。ついで隆景は桑村郡の諸城を攻撃し、鷺森城(東予市)の桑原氏、象森城(同市)の櫛部氏らは抗戦の末、城と運命をともにした。
 続いて府中(現今治市)へと兵を進め、諸城を攻撃すると、国分山城主村上武吉・石井山城主重見孫七郎・老曽山城主村上監物・重茂山城主岡部十郎・鷹取山城主正岡紀伊守らは多少抵抗を試みたが、抗戦の不可能なのを察して降伏し、鷹森城主越智駿河は戦わずして降伏したという(予陽河野家譜)。しかし、当時ほとんど毛利家臣団のなかに組みこまれていた感のある村上武吉が、国分山城に籠城して隆景に抗戦した可能性はまずなく、『予陽河野家譜』の記事には、検討の余地がある。野間郡では、人遠城の大野佐渡守は来島勢の攻撃を受けて自殺し、重門山城主高田左衛門進は降伏した。ついで高仙山城の池原通成は、あえて城を出て奮戦したが全滅した(予陽河野家譜)。
 ついで風早郡では、来島勢らが立岩(現北条市)の日高山城を攻めて、重見孫四郎が戦死し、二神・宇佐美・目見田・尾越といった難波衆の拠る高穴山城(北条市)も桂左衛門大夫の攻撃を受けて落城した。その後、鹿島城・善応寺城・横山城の諸城もつぎつぎに陥落したという(予陽河野家譜)。とりわけ河野氏発祥の地の善応寺衆は、寄せ手に対する敵意はなはだ強く、徹底抗戦のすえ全滅したという。同郡の場合、鹿島城や、高穴山城に拠ったと記されている武士は、来島通総の兄得居通之(幸)の支配下にあった武士ではなかったかと思われるので(河野分限録)、この辺の事情についても検討の余地がある。

湯築落城

 新居・宇摩・周敷・桑村・越智・野間・風早の諸郡を討掃した平定軍は、道後平野に進撃し、八月下旬には湯築城に迫った。河野氏では、寄せ手が大軍であるので、和気・温泉・久米・伊予・浮穴五郡の小城主を湯築城へ集結した(予陽河野家譜)。こうして、平岡通倚・大内信泰がニノ丸を、戒能通森・松末通為・土居了庵が三ノ丸を、垣生加賀守・三好長門守は大手を、和田山城守・佐伯河内守は搦手を、枝松光栄・久松肥前守は艮(東北)の郭を守って、平定軍と攻防戦を繰り返した。やがて隆景は通直に書を送り、降伏して越智姓の血脈を守るよう諭したので、通直も大勢を察して城を開き、降伏を申し入れた。さらに大野直昌以下の諸将も、平定軍の陣営に赴いて隆景に謁して従順を誓った(予陽河野家譜)。
 いっぽう、平定戦以前から長宗我部氏の援助を得て毛利・河野両氏に反抗していた喜多郡の諸将も、隆景の部将桂元綱の攻撃を受けて没落した(萩藩閥閲録・二四八五)。その後隆景が三五万石の大名に封ぜられたので、伊予国は完全に秀吉の統一政権に掌握せられるところとなった。また、平定軍の先鋒として勇戦した来島通総は、野間・風早二郡領主(鹿島城主)として一万四千石、得居通之は風早郡のなかで三千石(恵良山城主)を与えられた。

通直の逝去

 通直の下城後、湯築城は小早川隆景の居城となった。通直は蟄居して河野氏復興の日を期待していたが、天正一五年(一五八七)、隆景は筑前国に国替えとなり、その跡は福島正則に与えられたので、通直の伊予復帰の願いは絶望的となった。通直の室は毛利元就の孫姫であったこともあって毛利輝元や隆景は通直の援助には労を惜しまなかった。その輝元の勧めで、通直は室の里方である安芸国竹原に移住することにした。
 『予陽河野家譜』によれば、敗残の身を病んでいた通直は、七月九日、湯築城を出て三津浜から船に乗ったが、この時彼に従ったのは、南通具・松末通為・土居了庵・井門義安・枝松光栄・由並通資・栗上通宗・平岡通倚・斉宮通高・別府通興・忽那通泰・大内信泰・久枝宣盛・正岡常政・大野直昌・垣生盛国・和田通勝・宇野為綱・三好秀吉・中通言・大西通秀・佐伯惟之ら譜代の一族郎党五〇余名であったという。
 その後、通直の病勢は日に日に募り、同一五年(一五八七)七月一四日、病歿した(河野系図・二神文書・予陽河野家譜)。享年二四歳と伝えられ、ここに伊予の名家河野氏は断絶した。
 通直の死期については異説があるが、『二神文書』のなかの「前予州大守河野四郎通直公有御逝去以来御年忌元来之覚」に、「天正十五年丁亥年七月十四日、芸州於竹原郷長生寺御逝去也」と記されており、一般にはこの期日が採用されている。なお、竹原の長生寺は、隆景が通直の菩提を弔うために建立したと伝えられている。
 なお、『築山本河野家譜』によると、通直には嗣子がなかったので、毛利氏の重臣宍戸元秀の子を養子に迎えて通軌と称した。また通宣左京大夫の子通昭は河野氏の命脈を断った秀吉を怨んで狙撃を企てたが果たさず、その災禍の及ぶのを恐れた子の通許は、母方の姓を名乗って築山氏と称したという。