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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

四 倭寇と水軍

海外進出への動き

 中世から近世初期にかけて、大陸や朝鮮半島の沿岸を荒らした日本の海賊による侵略を彼の地では倭寇とよんだ。倭寇とよばれた海賊は日本人ばかりではなく、時代を下るにしたがい彼の国の遊民・無頼の徒が多くなった。
 倭寇が朝鮮半島の歴史に初めて登場するのは貞応二年(一二二三)のことで、彼の地の人々は、その後長い間倭寇の被害に苦しんだ。その主力は、壱岐・対馬や北九州松浦あたりの海辺の民であったが、やがて一五世紀に入ると、瀬戸内海の海賊衆もそれに加わるようになったとみえ、永享元年(一四二九)に来朝した朝鮮通信使の朴瑞生は、倭寇の基地の半分は北九州にあり、あとの半分は赤間関以東の瀬戸内海沿岸や島嶼であるといっている。
 また、永享六年(一四三四)には、因島家は山名入道の推薦で、島津・松浦・千葉・大内・伊集院・菊池の諸氏とともに、幕府から遣明船帰国警固を命じられた(満済准后日記)。この年六月、幕府は明官人の訴えによって、倭寇を働くのは主として壱岐・対馬の海賊で、これに下松浦の海賊衆も参加していると断じて、倭寇行為の停止と取り締まりを命ずる御教書(満済准后日記)を下したことが知られている。この時点で、三家など伊予の水軍が海外貿易や倭寇活動を行っていたという証拠はみつかっていない。

海賊大将軍

 三家が積極的に海外に進出した時期は、一五世紀後半に限定できそうである。このころの日本人の海外進出をみるうえに欠かせない文献の一つに、朝鮮の学者であり外交官でもあった申叙舟が一四七一年(日本では文明三年にあたる)に著した『海東諸国紀』がある。そのなかに、そのころ海賊大将軍という称号を名乗って朝鮮半島の港に出入りした内海沿岸の諸大名や、海賊衆・商人の名を四〇名ばかり記している。このなかで、伊予の水軍に関係ありそうなものを抜粋すると、つぎのとおりである。

  備後州友津代官藤原光吉
  同 海賊大将軍楱原左馬助吉安
  安芸州海賊大将軍藤原朝臣村上備中守国重
  伊予州川野山城守越智盛秋
  伊予国鎌田関海賊大将軍貞義
  長塩備中守吉光

 ところが、これらの人物を三家や河野氏の系譜で照合してみても、その存在を正しく確認できるものは一人もいない。このうちで、楱原左馬助吉安を因島家二代備中守吉安(吉資)に、友津代官藤原光吉を因島家の四代吉光(吉充)に、村上備中守国重を代々備中守を名乗っていた因島家に、川野山城守越智盛秋を河野氏にそれぞれ比定する説もある。三家や河野氏が海外に進出していた可能性はひじょうに強いので、ここに記された人物も架空のものばかりともいえないであろう。今後の研究課題は多いが、ここに記した人物も含めて、以下、三家の海外進出の足跡をたどってみよう。

三家の海外進出

 嘉吉三年(一四四三)、友津代官藤原光吉は、鞆ノ津で宗貞国および朝鮮通信使を接待した。当時、鞆ノ津の港湾支配権は因島家が握っていたと思われるので、光吉は吉光でないかも知れないが、同家に縁のある人物であった可能性が強い。彼は応仁二年(一四六八)、半島に侵略している(海東諸国紀)。
 応仁二年(一四六八)の遣明使天与清啓の『戊子入明記』の記事には、この年の遣明船の副船の名をくわしく記しており、そのなかの備後国院島熊野丸六百斛・同田島宮丸七百斛の二艘は因島家に関係した船とみられている。勘合貿易では、官船や勘合船に何艘かの副船が同伴して私的通商を行うことが認められていた。副船を派遣できるのは、有力大名とか、三家のように大内氏や山名氏の傘下にあって、船団の警固を委任された警固衆などに限定されていた。
 つぎに、長禄三年(一四五九)一二月四日の「三島宮法楽連歌第九賦何田連歌」(大山祇神社所蔵)に、つぎのような連句がみられる。

  まどゐして酒のさかづきさしかわし   重当
  かどでをいわゐ旅をはじめつ      行次
  三年経ん唐までの舟の道        元与
  須磨にて聞けば海のあらなみ      恵秀

 もとより、歌を詠んだ人物たちがどのような素性の者たちか知る由もないが、歌の詠まれた場が大山祇神社の神前であったことを考えるならば、村上氏と無関係の者ではないであろう。彼らは、このように神前で酒をくみかわして門出を祝い、遠い異国に向けて船出していったのであろう。
 ついで寛正五年(一四六四)、安芸国海賊大将藤原朝臣村上備中守国重が半島を侵略した(海東諸国紀)。備中守を名乗っているところから、彼はおそらくは因島家の者で、同家は安芸国生口島の瀬戸田を足場に、小早川氏とともに対鮮貿易に従事していたという説もある。また同年、国重は朝鮮王から「図書銅印」を授けられた。わが国の商船がこの印をおした図書をもって渡航すると、朝鮮側では彼らのもつ左半分の印影と照合し、正規の使船と確認の上で交易を許すしくみとなっていた。年一艘の割当てであるところからこのような船は歳遣船とよばれた。この図書銅印の所有者を受図書人といい、通商上の特権を持っていた。
 応仁の乱のころ、三家の海外進出は最高潮に達し、その後は急速に衰えていったようである。『明朝平壤録』によると、応仁二年(一四六八)の記に、「凡師を行るに、倭中野島人之に先んず」とあって、能島家が先頭に立って中国で侵寇行為を働いていたかのようである。野島を能島と断定する根拠は持ち合わせていないが、公貿易を重視した因島家とちがって、同家は私貿易(密貿易)中心であったことは確かであろう。
 同年(一四六八)には、前記伊予の川野山城守越智朝臣盛秋なる者が朝鮮に使者を送ったといい(海東諸国紀)、文明二年(一四七〇)には、湯築城主河野教通(通直)は、朝鮮国王成宗に使者を送って通商を求め、もしこの要求に応じない時には侵略すると通告した(同)。このようなやり方は、当時の倭寇の常套手段であって、河野氏の代理人として渡鮮したのは能島家か来島家であったろうが、三家が倭寇行為を働いたであろうことは、こういう点からも推察できる。

海外進出の終焉

 天文二〇年(一五五一)、勘合貿易の主導権を握っていた大内氏の努力で、遣明船が派遣された。しかし、同年家臣陶晴賢の反逆で同氏が滅亡したため、勘合貿易もこれが最後となった。この最後の遣明船派遣に際して、大内氏は「渡唐船法度条々」を触れ出したが(南海通記)、この掟書の署名人の筆頭に、「加賀守源朝臣沙弥」の名があって、因島家の村上加賀入道尚吉に比定されている。
 その後、元亀三年(一五七〇)三月、対馬の宗義調が、村上忠重名義の貿易権「給付印冠」の跡付(銅印図書)の所務権を立石駿河守を通して、配下の康忠軒に与えている(竹内理三、対馬の古文書)。この所務権は、一定の収入源となるため、宗氏が勲功のあった部下に毎年与えていたものであるが、これによって、三家が宗氏を通して対鮮貿易に従事していたと推察されるであろう。