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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 西園寺氏と宇和郡

伊予への下向

 鎌倉中期の嘉禎二年(一二三六)、西園寺公経が鎌倉幕府に強要して、橘公業から手に入れた宇和郡の所領も(第一章第五節参照)、南北朝時代の社会的混乱のなかで、その維持が次第に困難になってきた。そのような状況のもとで、西園寺氏は、一族を現地に派遣することによって、荘園年貢の確保をはかろうとした。『歯長寺縁起』が「永和年中、西園寺御方、御所へ当国静謐のため、御下向」と記しているのは、おそらくそのような事情をさしてのことであろう。こうして宇和郡には西園寺氏の一族が三か所にわかれて土着することになった。松葉西園寺殿(現宇和町松葉)、立間西園寺殿(現吉田町立間)、来村西園寺殿(現宇和島市来村)がそれである。彼らは一時相対立して、不和状態にあったが(管見記永享十年条)、後には松葉西園寺がほかの二西園寺をおさえて、彼らの上位に立つようになった。内陸部にほとんど平地をみない宇和郡内にあって、宇和盆地は唯一の平坦地であり、水田耕作地帯である。米が富の象徴である時代にあっては、宇和盆地を確保することは、宇和郡内に優位な立場を築くことであった。松葉西園寺氏の居所は石野郷松葉山下に置かれた。松葉殿と称されるゆえんである。

軍制

 石野郷松葉山下に拠って、周辺の土豪層を傘下に結集することを得た西園寺氏は、戦国期にはいちおう宇和郡の総帥として、土佐の一条氏・長宗我部氏、豊後の大友氏、時には隣郡喜多郡の宇都宮氏とも、干戈を交えることになった。以下そのような西園寺氏の軍制についてみることにしよう。
 西園寺氏には、同氏を盟主として多くの殿原衆が結集していた。彼らはそれぞれ独自の家系を誇っているが、もちろん、それをそのまま信じることはできない。信じられることは、彼らは在地に根をはる有力な土豪層であることである。彼らの祖先は、場合によっては彼ら自身も、自ら鍬をとって農耕に従事した存在であったのである。彼らは相互に寸土を争って紛争の絶間がなかった。今日この地方の山上に数多く見られる削平地は、彼らが相互の争いに備えて構築した小城砦の跡である。彼等が西園寺氏へ「見参」の礼をとった理由は、かつての伊予の知行国主、清華西園寺家の流れをくむ宇和の領主西園寺氏の権威にすがることで、自領の安全を確保し相互の争いに終止符をうつことであった。以後彼らは戦国土豪として、西園寺氏の有力な直属家臣団を構成するが、まず西園寺氏の直轄領についてみ、つぎにその直属家臣団についてふれることにしよう。
 近世の知見で書かれた『宇和郡記』によると、西園寺氏の知行高は二万五九〇石余、このうち蔵入地の高一万四四四〇石余となっている。その蔵入地は永長郷の内一六か所、石野郷の内二三か所、保内郷の内一か所、周知郷の内一か所、計四一か所となっている。また旗本衆は御城衆六人、戸川衆二八人、七人衆七人、このほか城持ち旗本衆八人であった、とされている。この城持旗本衆の領地の生産高が六一五一石余で、前記蔵入地の一万四四四〇石余に、これを加えた数が、知行高二万五九〇石余となる。これらはいずれも近世的な記述であり、もとより戦国期の実態を正確に示すものではないが、西園寺氏の軍事力を知るうえでひとつのてがかりとはなるかもしれない。
 しかし西園寺氏の軍事機能は、以上のみにとどまるのではない。西園寺軍団は以上の旗本衆を中核として、その外周には「与力衆」(同盟軍)がいた。『宇和旧記』・『宇和郡記』・『元親記』・『長元物語』・『南海通記』等の諸書に、しばしば記されている戦国土豪層(殿原衆)がそれである。その主なるものを挙げると以下のようになる。

 津島殿一万石 河原淵殿一万六千石 北之川殿三千石 野村殿二千石 東多田殿三千石 法華津殿四千石 有馬殿四千石余 土居殿二千石余 中野殿五千石

これらの土豪武士は、西園寺直属の家臣団同様その地の開発者、ないしその子孫であり、前者同様の理由によって西園寺氏の膝下に結集した人々である。しかし彼らは一応西園寺氏に臣従の礼はとったが、両者の間には土地を媒介とした強固な主従関係が結ばれていたわけではない。彼らは西園寺家の軍事力の大きい支柱とはなったが、それは西園寺氏が彼らの領土の「一円知行権」を承認することの代償として、戦時の協力を約束したのみの、ルーズな主従関係にすぎなかったのである。それだけに両者の関係はいつ破綻を来すとも限らない、危険な間柄でもあった。
 なお「与力衆」と「直臣衆」が、同一性格であり、同一理由によって西園寺の傘下に結集しながら、なぜ与力、直臣の異なる性格に分かれたのであろうか。その点は不明であるが、類推されることは、後者に比して前者の領土が圧倒的に広く、その上前者は西園寺氏の勢力地盤宇和盆地からは、隔絶した地域にあったということである。(東多田殿は例外であるが、彼は喜多郡の宇都宮氏と領界を接しているので、しばしば西園寺氏から離反している。)
 西園寺軍団を理解するうえの一助として、与力衆の一人土居清良についてふれておこう。土居氏は現北宇和郡三間町宮ノ下・末森・石原・土居中・迫目地域を領した戦国土豪で、与力衆のなかでは小身の部である。同氏には『清良記』と称する戦記があって、詳細な「侍付」が残っている。戦記物の常套として甚しく誇張され、フィクションさえも挿入されていて、とうてい額面通りに受けとれるものではない。しかし、その侍付を詳細に検討すれば、土居家の軍制は数人の一門旗下の周辺に、「里侍、引渡衆」(共に平時は農耕従事者)に統率された百姓足軽、百姓小人の戦闘集団を配した農民部隊であったことが推定される。そしてこれが西園寺家与力衆の、軍事的実像ではなかったかと思われる。

国法と勧農

 分権的封建領主のいわゆる分国法は、彼らが領国支配をより強化するうえで、軍制とともに重要な法律であった。西園寺氏の場合も、僻陬南予の一領主であったとはいえ、近世風にいえば二万石余の領主である。たとえ整備された法制はなくても、領土支配の必要上禁制や定書の類が、「壁書」として掲示されたはずであるが、それがどのような内容のものであったか、今となっては知る由もない。
 ただ与力衆土居家については、『清良記』に、「国法、奉行衆の沙汰、御目安、四民の沙汰、田畑の沙汰」、あるいは「御当家にては先一番に国法、二番軍法とある事に侯」(巻一四下)とか、「数多の御へき(壁)書を出され候に、時移り事去りてはあまた失念ありて、不審晴かたきより、箱の底より其壁書の写を取出し」(巻七下)など、裁判、法律に関する事項が随所に散見され、同家の家法の片鱗を垣間見ることができる。
 戦国大名や武将たちの富国強兵策は、必然的に勧農策に重点をおくことになる。小土豪土居清良一代の軍記『清良記』が、世の注目を集める理由は、同書三の巻のうちの巻七上下「親民鑑月集」(古本系は、新民鑑月集)が、わが国最古の農書として重視される点にあることは論ずるまでもない。農書に付随して微細にわたって述べられた勧農策が、中世と近世の間の激動の時期にあって、近世的秩序の到来を告げる特異な様相を伝えるものとして、特筆に価する。しかし同書には、検見・名寄せ・地割・下札等、近世幕藩制的施政が、既成事実として記されていて、この書の信憑性を著しく損している点は、注意しなければならない。
 以上のような法制および勧農策は、ひとり土居家に限らず、西園寺家にあっても重大な関心事であったと思われる。しかし分国法の弱点は、分国の名が示すとおり一国内の効力に終わる点にあった。『清良記』は、「天下大にみだれ(中略)軒を並ぶる村里の領主ながら合戦たえず、有馬(土居領隣村の領主)にて罪有る者は土居へ走り来り、中野(同)にて科有る者は有馬へゆきて不返法、死中に活あり、活中に死あり」(巻九)と、諸家の家法とその効力の限界を述べている。

商業と文芸

 西園寺家の荘政所周辺の集落を、「松葉町」と町名をもって称するようになった時点は不明であるが、この町について『宇和旧記』に簡潔な記述があるので、それを引用しよう。松葉城は要害の城ではあるが連絡の砦がなく、そのうえ九州勢の侵入が頻繁なので、黒瀬山(現宇和町卯之町)へ本城を移した。その時松葉町も黒瀬山下の集落鬼ヶ窪村の中央へ引移し、町名はもとのままとした。現在この町の両端に鬼ヶ窪の地名があるのはそれによる、というのである。
 松葉町を引移した時期は天文年間(一五三二~五五、西園寺実光代)と推定されているが(西園寺源透編『東宇和郡沿革史』)、町の規模などは判っていない。ただ村の中央へ引移したというのであるから、大略の想像はつくであろう。この町の性格はいうまでもなく「黒瀬殿(西園寺氏)」の軍需品、日常物資そのほかの購入の場であり、ささやかながら周辺村落の需給にも応える市場として、連雀商人の宿泊施設や、常設の店舗もあったはずである。町の商業活動を伝える資料はないが、『清良記』は「金銀米銭十を貸て十六取(ママ)」「代物一をかして二をとる」「黒瀬領内の有徳の者共五十九人より金銀米銭を借る」「国に事の欠様に買せよ」などと町の様子を伝え、そのほか質屋・酒屋・高利貸・博労・行商人たちの活動を記している。もちろん彼らが松葉町や土豪居住地周辺の市場に集住していたとは限らないが、商業活動に便利な地といえば、松葉町やそのほかの市場が考えられる。なお土居清良自身も「金銀米銭十を貸して十六を取る」高利貸業者でもあったと伝えられている(清良記巻九、同廿一)。以上によって、西園寺氏をはじめ麾下の諸将は別としても、黒瀬周辺の一般農民の到達した生活水準は、松葉町の存立を必要とするまでに、成長していたことが推測される。
 しかし町は単に商業行為の場のみでなく、情報の伝達や文化の交流の場でもあった。松葉町も軍需、日常物資の移動に伴い、領国内外人の移動、ことに文化人の交流も意外に頻繁であったように思われる。応仁の乱によって京都は荒廃し、衣食に窮した公家たちが、田舎の知音を頼って放浪の旅に出たことはよく知られているところである。勧修寺中納言経茂の乞食のような風体は極端な例としても(大乗院寺社雑事記・応仁二年一一月一六日条)西園寺実遠・公藤・実宣・公朝等も、一時松葉の館に身を寄せたという説もある(東宇和郡沿革史)。
 また、宇和郡の住人と伝えられている鎧の□(金に実)(さね)打乗覚は、もと宇和の住人であったのか、それとも荒廃の都をさけて宇和郡に来住したのかは不明であるが、当時日本で有名な□(金に実)打であったことは、一条兼良の『尺素往来』によって知られる。
 松葉、黒瀬の城主西園寺実光(従五位下左少将、大徳寺において落髪、松葉入道と称した)は、西園寺家三条亭において西園寺左府・四辻亜相・山科言継・冷泉民部・三条黄門・四辻新相公・甘露寺頭弁・連歌師紹景らの人々と和歌の会を催し、また来村の西園寺宣久には、『伊勢参宮海陸之記』の記行文がある(『愛媛県史資料編文学』第三章に収録)。また西園寺麾下の将士たちも、囲碁双六将棋を弄し、『平家物語』に耳を傾け、茶事をたしなむ数奇の道は解していた(清良記巻二八)。なかでも西園寺与力衆の一人有馬(今城)能親(現三間町戸雁、金山城主)は連歌をよくし、「天文年中の始め、千句の連歌を京住周桂に見せければ、珍敷とて辱くも後奈良院の叡聞にそなえけるとなん、後能親祝儀のため上洛せしめ、又千句を催し伊予千句と号すとあり」(吉田古記戸雁村分、清良記巻一六)と伝えられている。ここに句を寄せたのは近衛関白をはじめとして、宗牧・周桂などは当代一流の連歌師である。四条河原の落書以来の風尚とはいえ、僻陬南予の地にもこうした風流をはぐくむ土壌はあったのである(「伊予千句」も『愛媛県史資料編文学』第三章に収録)。
 また一例を挙げると、西園寺家の重臣三善三郎左衛門尉春澄(現宇和町鳥付城主)には、亡父一三回忌の追善に「奉手向霊前」の漢詩があり、これに和して菩提寺西林寺の住持祖雲をはじめ、僧徒の詩がみられる。詩歌を通じての祖雲との交わりをみると、春澄は「作庭」にも意を用いたことがうかがわれる(宇和旧記郷内村)。『清良記』には清良の祖父宗雲をはじめ、一族の辞世の詩があるが、これを全面的に認めるには危険があるので、これ以上はふれないことにしよう。

熊野信仰

 西園寺氏とその周辺の人々の信仰を語る場合、彼等の精神生活を大きく支配した種々雑多な現世利益的宗教や、文化的粉飾上必要とされた禅等についてふれなければならないが、ここでは西園寺氏をはじめ、家臣たちの精神構造に強い影響を与えた熊野信仰をとりあげることにする。
 西園寺家直属家臣団のなかに、「上甲七騎」と称する在地小領主の一団がいた。塩崎・米良・亀甲・堀内・新宮・朝利・宮崎の諸氏がそれである。彼らの祖先は紀州出身と称しているが、その姓が語るように、彼らは熊野の御師塩崎・米良・堀内・宮崎らの旦那(かすみ)であった。同じ一族に属し(ここでは上甲一族)、同じかすみ場に属する彼らは先達に引率されて、熊野に巡拝しそれぞれの宿坊へ案内されるシステムになっていた。彼ら旦那の熊野巡拝は、このように整然と組織され、かつ先達、御師たちの有力な財源となっていた。前記「上甲七騎」衆のそれぞれの苗字は、所属の御師の姓であったが、「上甲七騎」の称も、実は「熊野七乗綱」(熊野御師)になぞらえたのでなかったか。
 『清良記』によって土居清良の熊野信仰をみることにしよう。同書(巻一)によれば、土居家は紀州藤代を本貫とする鈴木三郎重家を祖とし、紀の党の総領から清良まで一三代であるという。また土居家の旗の紋は楓であるが、指物小旗には丁字の丸のうえに熊野の神使三足の烏二羽を表し、城中には熊野神社を勧請している。
さらに同家出頭山伏三人のうち一人は大峰熊野三山へ参詣し、残る二人は「諸国を徘徊」して種々な情報活動に従事するという。また清良自身も兵馬倥傯の間にあって熊野三山を巡拝するなど、真剣な熊野信者であった。同家の祖を鈴木重家と称するゆえんも、おそらく同家が御師鈴木氏の旦那であることによるのであろう。
 以上西園寺氏所従の将士たちの熊野信仰について簡単にみてきたが、西園寺氏自身も熊野御師の大旦那として、同信の所従将士の精神的中心となり、西園寺武士団の団結を固めたのである。

滅亡への途

 南予の群将のうえに立って、彼らに臣従の礼をとらしめた戦国武将西園寺氏の出自・軍制・国法・信仰等を概観してきた。
 西園寺氏の周辺には一条・長宗我部・大友氏などの強剛が常に隙をうかがっていた。一度は大友氏の侵攻によって、立間・三間・来村等、現北宇和郡地方の全域を占領され、天正一二年(一五八四)には長宗我部氏の軍門に降り、翌一三年の豊臣秀吉の四国平定戦には戦う気力もなく、城を開け渡した。秀吉の九州侵略には西園寺公広も、小早川隆景の軍に従って出征したが(宇和旧記)、戦後は何ら酬われるところもなく、九島(現宇和島港口の小島)の願成寺に蟄居した。その地で追放同然の日々を送ったが、そのあげく南予に入部した豊臣大名戸田勝隆に誘致され、喜多郡大津(現大洲市)において自刃した。時に天正一五年(一五八七)一二月一一日、久しく南予に君臨した西園寺氏も、公広の代をもって全く滅亡したのである。
 なお、宇和郡の西園寺氏と中予の河野氏にはさまれて、喜多郡には宇都宮氏とその一族の勢力があった。宇都宮氏は本来下野国の有力豪族であるが、鎌倉時代に一族の一人頼綱が守護となって以来、伊予との間に密接な関係を有するに至り(第二編第一章第二節参照)、戦国期にはその末裔が国人領主として喜多郡を本拠として活動した。この宇都宮氏の動向については第四節で述べることにする。