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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 河野氏の衰退

弾正少弼通直

 長く続いた河野本家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は、以上のように予州家通篤の衰退・死去によって終わり、河野氏は本家通宣によって統率せられる時代となった。彼は上述のように明応九年(一五〇〇)父通直の跡をつぎ、同じく刑部大輔に任じられ、諸寺に禁制・安堵状(国分寺文書・一五九一・一六〇三、天徳寺文書・一五九九)などを発し、永正八年には平岡・八倉・出淵・得能らの兵を宇和地方に派して反対勢力を平定している(予陽河野家譜)。これはあるいは予州家側の盛り返しであったかもしれない。なお『予陽河野家譜』によると通宣は、周防の大内義興とともに前将軍義稙を後見して京に上り、永正五年(一五〇八)二月一〇日には反対勢力の細川・三好氏らの軍を難波浦で追い、同年一二月その巻き返しで入京した三好長基の軍を大内義興の軍と挾撃して、三好氏を丹波に追い、さらに翌六年には義稙将軍を援けて佐々木氏綱を江州に攻め、また将軍に供奉して丹波に赴いた旨を記している。しかし、これら中央における通宣の活動についてはほかに傍証する史料が見えない。
 弾正少弼通直は通宣の嫡男で、永正一六年(一五一九)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし恩顧の武将のなかには自立の志を持ち、あらわに河野家に反意をあらわす者も出て来た。まず大永三年(一五二三)七月に府中(今治市)鷹取山城主正岡経貞が一族とともに謀反を企て、近隣を攻略して来た。そこで通直は重見・来島氏らの家臣団を送り、その討伐に当たらせた。正岡氏も防戦につとめたが終に敗れ、城を出て寄手の陣に降った。経貞は囚人として来島氏に預けられ、通直は高山・得重の両氏を鷹取山城の城番として、後顧の患いを絶った(三島家文書・一六三二・一六三三)。また享禄三年(一五三〇)三月に同じく府中石井山城主重見通種が命に従わず、村上通康が討伐の命を受けてこれを攻め城を囲んだ。城兵は敗れて周防に逃亡し去った。
 隣国からの侵入もつづき、まさに河野氏にとっては内憂外患である。『予陽河野家譜』や『南海通記』によると、天文八年(一五三九)一〇月、讃岐の細川持隆が攻め入り、河野家の家人国人らは周敷郡で防戦につとめた。宇摩・新居両郡は去る永徳年間に河野通義と細川頼之が和談したとき、細川方の所領となっており、この地方の国人は代々細川家の恩顧を被っていた。しかも細川氏は天下の管領として権勢を恣にしていたので、伊予の住人であっても常に細川軍の先陣を承って攻め込んでくるのが常道であった。ところが、『予陽河野家譜』によると細川軍は宇摩・新居両郡の国人に迎え撃たれ、思いがけぬ反撃に合ってたちまち敗走した。このころすでに細川氏の権力は家臣の三好氏に奪われて、昔日のおもかげがなかったうえ、両郡の国人たちが河野氏への旧恩に報いんとしたものかと推論している。
 天文九年(一五四〇)八月には防州大内氏の家臣白井房胤・小原隆名らが兵船を率い、忽那島に攻め入り(萩藩閥閲録・一七〇五、白井文書成簣堂文庫・一七〇六)、翌一〇年七月には大三島に攻撃を加えている(白井文書岩瀬文庫・一七一三・一七一四)。大祝安舎らは湯築城に急を告げ、得居・来島・正岡氏らを遣わして、これを援けた。大祝氏一族のなかに死傷者も多かったが、白井房胤の軍忠状には郎従八人の傷者名をあげ(白井文書岩瀬文庫・一七一三)、『予陽河野家譜』には敵方二〇余人討死し悉く退去したと記している。同年一〇月一九日、小原隆名は大勢を率いて重ねて大三島に来襲したが、大祝安舎は手勢三〇余人を率いて大勝を得て、通直からの感状を賜わっている(三島家文書・一七一五・一七一六)。

家督をめぐる紛争

 河野家の相続争いが弾正少弼通直の晩年におこった。『予陽河野家譜』によると、通直には嗣子がなかったので、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政を迎えることを進言した。しかし通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。これは老臣たちの承服出来ぬところで、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち通直を湯築城から追放しようとして、互いに起請文を書き同志の盟約を結んで、予州家に馳せ参じた。そして通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
 城中、通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦したが、終に戦術尽き通直は自害しようとした。通康はこれを押しとどめ、囲みを脱して来島城に逃れ帰った。これによって寄手の通政は、彼を支援する湯築の諸将とともに、湯築城に入った。つづいて通政は将士に命じて来島城を攻めさせた。来島は周囲ニキロにたらぬ小島であるが、背後に補給源の本土を持ち、前方は名にし負う来島の瀬戸で、島全体が要害堅固な海の要塞をなしている。寄手も容易にこれを陥れることは出来ない。そこで和議の声がおこり、両者の間で種々交渉がもたれた結果、河野家惣領は通政とし、通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。
 このような『予陽河野家譜』の記述がどこまで信用できるのかは明らかでないが、天文一一年(一五四二)三月二八日二神氏宛の安堵状(二神文書・一七一八)を初見として、その後しばしば通政(晴通)名の安堵状が発せられていることからすれば、その頃に、通直から通政への政権交替が行われたことはまちがいないであろう。また両者の対立には、幕府も関心をよせたとみえて、同年七月には、「河野父子」を和解させるよう、豊後の大名大友義鑑に命じている(大友家文書録・一七二二・一七二五)。
 通政は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文一二年(一五四三)四月に早逝した。その跡は予州家から通政の弟通宣が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えたが、今度は別のところから紛争がもちあがった。それは、このころからしばしば見られるようになった一門諸将の間の対立抗争である。

家臣団の抗争

 『予陽河野家譜』の記すところによると、年代は定かではないがまず久万山大除城(上浮穴郡久万町東明神)主大野利直が兵を起こして、小手滝城(温泉郡川内町井内)主戒能通運を攻めた。戒能方は矢石を発して防戦につとめた。大野方は城の用水を絶とうとし、これを知った戒能方は第二の城、大熊山城(温泉郡川内町則之内)にひそかに移って引きこもった。大野方は兵を進めてこれを囲んだが、城は高い山頂に構えられていてなかなか屈せず、夜を迎えてついに退却した。城兵がこれを追撃し、そのため大野方の多くの者が命を落とした。そのなかでも大野方に与力していた剣山城(周桑郡小松町大郷・妙口)主黒川通俊は馬を射られて進退きわまり、洲之内(温泉郡川内町則之内)で自害して果てた。大野氏は辛うじて久万山に逃れ帰った。通俊の嫡子黒川通堯は深く戒能通運を恨み、大野氏と結んで再び大熊山城を攻めたが、棚居城(松山市西野)主平岡房実、岩伽良城(温泉郡重信町樋口)主和田通興らが戒能を援助したため、終に素懐を遂げることを得なかった。
 天文二二年(一五五三)八月、大野氏は再び兵をおこして平岡房実の花山城(温泉郡重信町上林)を攻めた。城代相原土佐守は防戦につとめたが敵せず、城は落ち利直は多年の欝懐を散じ、森家継を城代として置き、部下数百騎をこれにつけて、久万山に引き揚げた。
 さて岩伽良城主和田通興は近年武威を誇り、主家河野を侮り勝手に兵権を振るうに至った。通宣は平岡房実にこれを討つように命じた。天文二三年(一五五四)九月、房実はにわかに岩伽良城を攻めた。彼はまず兵を田窪(温泉郡重信町)の林中にひそませ、小勢を以て城に向かわせた。通興の嫡男は寄手の小勢を侮り城を出て逃げる兵を追い、田窪に至った。その時伏兵が前後から迫って帰路を絶ち、通興の嫡男はここで自害して果てた。房実は大いに勝利し、直ちに兵を進め岩伽良城を攻め立てた。通興はかなわずとみて囲みをといて逃れ去ろうとしたが、平岡氏の兵の追撃することが急であったため山之内(温泉郡重信町山之内)で自殺した。
なお、この和田攻めのことは、村上吉継が高野山上蔵院に送った書状のなかにも「志津川表の働、和田三河守同右京進其外数多討ち取り候」と見える(高野山上蔵院文書・一七九〇)。通宣は平岡の功を賞し、和田通興の所領の三分の一を与え、その支城吉山城(重信町志津川)を預けた。後年、通興の一族通勝という者が浪々して民間に蟄居するのを見て河野通宣はこれを召し、通興の遺領を相続させて岩伽良城主とした。これが和田山城守通勝であるという。
 その後、豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵した(第四節参照)。
 こうした危機に河野家を預かる病弱の左京大夫通宣は責務に耐えられず、永禄一一年(一五六八)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城(越智郡菊間町種)主河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(四郎通直)が継ぐことになった。通吉は湯築城に入り、牛福丸を補佐した。