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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 河野通堯の武家方復帰と細川頼之の侵入

通堯の室町幕府接近

 いっぽう、三代将軍足利義満の管領として敏腕を振るった細川頼之は、宗教界から反撃をうけたばかりでなく、土岐頼康・斯波義将らの政敵とも衝突した。その結果、康暦元年(南朝天授五=一三七九)二月にこれらの諸将は頼之の排斥を謀り、義満に対して彼を弾劾するに至った。やがて頼之の管領職は義将にとって代わられ、彼は出家して常久と称し、ほどなく分国の讃岐国に引きあげた。
 この中央政界の大きい変動は、河野氏にとって見逃し得ないできごとであった。ことに通堯は細川氏対策を考慮すれば、速かに河野氏の保全をはからなければならなかった。ここに通堯は従来の宮方との親善関係を絶ち、幕府に降伏して反細川派の諸将との接近をはかった。同年七月に、義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた(明照寺文書・一〇〇九)。またその間の事情は、管領の斯波義将から通堯にあてられた文書によって知ることができる(萩藩譜録・一〇一〇)。
 なお注意すべきは『予陽河野家譜』によると、通堯はこれから五年前の応安七年(南朝文中三=一三七四)に幕府に降伏し、義満の宥免をうけたとしていることである。その理由として、幕府の大軍が義満指揮のもとに伊予に進撃したこと、また九州の菊池氏が武家方に降ったこと等をあげている。そこで通堯は長門国赤間関に赴き、義満に謁して伊予国守護職に任ぜられた旨を記述している。しかし、このような史実はなく、かつ通堯についてこれからのちに天授年間の宮方関係文書が存在し、南朝と連絡を続けている(河野通堯文書)から、この予陽本の説に従うことはできない。
 通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる。またそれは通堯が反細川派の山名時義と緊密な連絡をとっていた書状によって諒解できるであろう(河野文書臼杵稲葉一〇一一)。これによると、時義は通堯に軍事行動をおこした旨を報じているが、これは頼之打倒に関連した策動から出たものと推定される。

佐志久原における通堯の戦没

 反細川派の諸将はすすんで頼之を打倒することに踏みきり、九月五日に幕府から諸将に追討の御判御教書が発せられた(花営三代記)。この日に、義満から通堯に対しても、同じ趣旨の御判御教書が出されている(長州河野文書・一〇一二)。すでに述べたように、通堯と細川氏との抗争は正平二三年(北朝応安元=一三六八)以来持続しているのであるから、義満の御判御教書は頼之征討の正当性を是認したに過ぎないものであった。
 康暦元年(南朝天授五=一三七九)一一月に頼之は機先を制して、まず東予に向かって進撃を開始した。通堯は頼之征討の気運のもりあがったなかで、桑村郡吉岡郷(現東予市)の佐志久原に陣をとって、頼之の来侵に備えた(予章記)。この時、通堯は宇摩・新居の両郡が細川氏のために占領されていると聞き、精兵をその方面に派遣した(築山本河野家譜)。頼之は通堯の佐志久原の本陣の劣勢なのを察して、これに総攻撃を加えた。六日に城兵は包囲されて苦戦におちいり、彼自身も一族とともに自害するに至った。この戦いの結果は、京都に伝聞されて反細川派に大きい衝撃を与えた(菅原秀長の『迎陽記』)。通堯と親密な関係のあった山名時義は、これを憂慮したと見え、兵を率いて備後国に下向した(花営三代記)。通堯の伊予に帰着して以降、河野勢を応援していた南予地域の実力者西園寺公俊も、佐志久原で通堯と運命をともにした(南方紀伝・築山本河野家譜)。
 通堯はいったん九州に難を避けて以来、一六年間にわたる苦心の経営によって、巧みに河野氏の危機を脱出したばかりでなく、伊予全土にわたる勢力圏の拡大に邁進した。その結果、彼は動揺していた河野氏の旧勢力を回復することに成功し、一時的であったが新居・宇摩両郡の実権を細川氏から奪取し、伊予国守護職としての権威を誇示し、その政権も安定するかと思われた。しかし、彼の雄図もいったん細川頼之の猛反撃のもとに空しく潰れ去り、再び河野氏は悲境に苦しまなければならなかった。とくに以後、河野氏が宇摩・新居両郡の実権を細川氏に譲渡し、東予の重要地帯を喪失する端緒をつくることとなった。