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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

四 土居・得能両氏の衰退

土居通増の戦死

 建武新政以来、土居通増・得能通綱は長い期間近畿にいて、義貞の配下に属し活動していた。さきに述べたように、延元元年(一三三六)正月に体勢を挽回した尊氏が再入京したので、宮方との間に京都の各地で抗争が展開した。両者が激闘を繰り返すなかで、二月一〇日の摂津国豊島河原での戦いに、通増・通綱は義貞を援けて、尊氏の軍を撃破した(太平記巻一七、山門攻附千種忠顕坊門正忠討死事)。『土居氏系図』に、この時の彼の功労について「摂州豊島河原に到り、足利直義の大軍を攻め靡き、忠賞の綸旨を賜はり訖ぬ」と書かれているのを参考とすべきであろう。
 しかし形勢は宮方に次第に非となり、天皇は義貞とともに比叡山に難を避けねばならなかった。義貞は北国に赴くに際し、弟脇屋義助、子義顕および通増・通綱らの武将を従えて延暦寺を出発した。その途中、険阻な山路で知られる越前国の荒乳の中山にさしかかった際、武家方の足利高経(越前足羽城に拠る)の襲撃をうけた。そのうえ、一行は予期しなかった降雪による寒気と、食糧の欠乏に苦しみ、戦わずして人馬ともに倒れる惨状を呈した。ことに後陣にあった通増・通綱は、高経らの集中攻撃にあって悪戦苦闘し、通増は一族とともに壮烈な戦死をとげた(梅松論)。
 『太平記』巻一七、北国下向勢凍死事によると、通増は木芽峠を越えて天の曲にかかった時、前軍と離れて道に迷い、力つきて戦死した旨を記しているが、この峠は敦賀の東北にあり、府中に通ずる山路であるのに対し、荒乳の中山(七里半越ともいう)は敦賀に出る順路であるから、『梅松論』の記述に従うべきであろう。なお『河野系図』の一本に「通増北国落之時、雪中自害、三十二歳」とあるので、参考のために記載する。

得能通綱の最期

 いっぽう、得能通綱は荒乳の中山における遭難をまぬがれ、義貞とともに敦賀を経て、気比大社大宮司の気比氏治に迎えられて、越前国金ヶ崎城に入ることができた。金ヶ崎城は敦賀湾に突出した岬にあり、東北西の三方は断崖となって、海に接する自然の要害であった。なお金崎神社は、城跡の西方の丘陵に位置する。
 まず義貞の最も意を注いだのは、金ヶ崎城とならび称せられる重要な杣山城との連絡提携にあった。杣山は同国南条郡の中央部にあって、金ヶ崎の西北三二キロに位置し、これら両城の確保によって越前地域の勢威を維持することができた。そこで、義貞は弟義助および子義顕を杣山城に派遣して防衛させた。これに対して、足利高経は同年一一月にまず越後国の宮方との連絡を遮断して、越前国を孤立させ、金ヶ崎城攻略に着手した。ところが、高経は翌二年二月になると杣山城を急襲して、両城を分離させることに成功した。そこで義貞がこの難局を打開するためには、杣山城との連絡路を回復する必要があった。彼は義顕を金ヶ崎城に留め、みずから杣山城の救援に赴いた。
 これよりさき、尊氏は北陸の戦況の進展しないのを憂慮し、謀将高師直を遣わして武家方の総指揮に当たらせた。高経は師直の支援をうけて、間断なく金ヶ崎攻撃に全力を投入した。金ヶ崎城ではその防戦に死力をつくしたけれども、糧食つき果て城兵は馬を殺して飢えを凌いだが、それも長くは続かなかった。三月六日に餓死寸前の通綱はようやく槍を杖にして起きあがり、搦手門に突入した敵軍を支えたが、衆寡敵せずして戦死をとげた(太平記巻一八、金崎落城の事)。時に延元二年(一三三七)三月六日のことであった。
 恒良親王は城を脱出したが、高経の軍に捕えられ、京都に護送のうえ毒殺された。城郭がおちいった時、尊良親王・義顕・気比氏治らは、城と運命をともにした。義貞は金ヶ崎落城ののちも、越後国の宮方と気脈を通じて、退勢の回復に尽力したが、藤島の戦いに敗れ、閏七月二日に灯明寺畷でたおれて志をとげることができなかった。

土居通重・同通元

 通重は通増の子で彦九郎といい、のち備中守と称した(土居氏系図)。父通増が元弘三年(一三三三)以降ながく京畿にあったので、彼は始祖以来居住の久米郡南土居の地にあって、つねに武家方の河野通盛と抗争を続けながら、郷土の経営につくした。
 前述したように、通増が荒乳の中山に戦死をとげると、通重は父のあとをついで土居氏の統率者となり、あるいは通世(通増の弟)、あるいは忽那七島に拠る忽那義範とますます提携を堅くし、宮方の勢力の回復につくした。来侵した安芸国守護武田氏信と忽那島に、讃岐国の細川定禅の弟皇海と和気郡和気浜(現松山市)に戦って、大勝を得て武家方に大打撃を与えた(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。これらの事績は義範に関係するところが多いので、次章で述べることにする。『忽那家文書』のなかに、延元元年と推定される九月廿一日付の義範あての通重の書状(忽那家文書・六〇八)があるが、これによって両者の親密な関係と、通重が義範に救援を求めた事情を考察し得られる。
 通重は義範の援助を得て、武家方大森春直の拠る久米郡高井城(現松山市)を攻撃した。この戦いは延元三年(一三三八)六~七月にわたる大規模なものであったらしく、その結果武家方の重大な拠点を占領して、通盛の湯築城との連絡網を遮断することに成功した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。また通重らは備後方面から来侵した岩松頼有の軍を越智郡府中にむかえ撃った。しかし、通重は翌四年(一三三九)七月七日に周防国大島(屋代島)の加室に出撃して、同島の宮方中院某の軍と協力して武家方を掃討しようとしたが、武運つたなく叔父の通元とともに戦死した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。

土居通世

 通世は弥治郎といい、のち備前守に任ぜられた。彼は通増の弟であって、通重の叔父にあたる。兄通増を援けて元弘三年(一三三三)以来、府中城に宇都宮貞宗を、赤滝城に大森長治を討伐し、また会原城の戦いにも功績をあげた。兄通増の荒乳の中山に戦死ののちは、甥通重を援助して延元二年(一三三七)三月に忽那島に出撃し、武家方の足利上総入道の代官を追い、宮方の権勢の回復につとめた(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。ついで四月に、河野彦四郎の拠る温泉郡桑原城を攻略したが、この策戦の成功は湯築城主河野通盛に大きい痛撃を与える結果となった(同上)。『忽那島開発記』によると、「河野彦四郎入道通里」とあるので、彦四郎とは通盛の兄通里であることがわかる。もと通里は元弘の乱以降皇室側に応じ、忽那氏と連携を維持して活動した(忽那一族軍忠次第)が、忽那重清が武家方となったころ、彼も従来の態度を変じて通盛方となった。
 いっぽう通世は同年四月~五月にかけて久米郡井門城(現松山市)に、翌三年(一三三八)七月に通重と協力して高井城に、同年九月に久米郡播磨塚に武家方と戦った(忽那一族軍忠次第)。これよりさき、足利直義は安芸・土佐両国の守護に命じて伊予に出陣し、河野通盛を後援するように命じた。そのため、伊予では通重・通世・義範・重見通宗・同通勝らの宮方に対し、通盛・通里・大森氏、安芸・土佐の守護勢、讃岐国細川氏らの武家方との抗争が展開され、内乱は各地域にわたってますます拡大した。
 延元四年(北朝暦応二=一三三九)七月に通重・通元らが周防国加室に戦死すると、通世は惣領職を継承した(土居氏系図)。彼は席あたたまる暇もなく、翌興国元年(北朝暦応三=一三四〇)一〇月には義範を援けて忽那島に出兵し、安芸国の武田氏の軍を撃退した(忽那一族軍忠次第・土居氏系図)。しかし翌二年(一三四一)一二月に道後で通盛と戦って敗れ、いったん風早郡恵良城(現北条市)に引きこもった。同三年(一三四二)三月には、再び道後に進撃して湯築城を攻略したのをはじめ、讃岐国鳥坂・安芸国畑見・備後国鞆浦にも出撃した(土居氏系図)。残念なのは彼の末路の不明なことであるが、同三年を遠く隔らない時期に戦没したのではなかろうか。
 南朝の権勢の不振のなかで、土居・得能両氏らがいかに志操堅固であったかは、『太平記』巻二一、先帝崩御の事のなかに「就中世の危を見て弥命を軽せむ官軍を数ふるに、先つ上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興(中略)、四国には土居得能(中略)皆義心金石の如くにして一度も変せぬ者ともなり」と書かれているので明らかであろう。
得能通時・土居通景
 これらのほか土居・得能両氏に属して宮方として活動した人物に、得能弾正がいる(築山本河野家譜)。『入川文書』(温泉郡中島町)によると、通有の孫通種の第二子に得能弾正通時が存在するのでこれを指したのであろう。
 また土居通増の弟の通景は三郎と称し、通重・通世らの戦没後、同氏を統率して活躍を続けていた。興国三年(一三四二)脇屋義助が越智郡国分寺に病死するや、阿波・讃岐両国の実力者細川頼春が伊予国に侵入を企てた(後章に述べる)ので、通景は金谷経氏と協力して、これを千町ヶ原(千丈原とも書く)にむかえ撃ったが、細川方の大軍に包囲せられ、衆寡敵せずして戦死をとげるに至った(太平記巻二二、義助朝臣病死の事)。なお千町ヶ原の所在について、『愛媛面影』の著者半井梧庵は荒木由路の説によっていまの小松町付近(旧周敷郡)としているが、桑村郡国安村を妥当とする意見がある。これらの人物関係を理解するため、略系譜を上に掲げておく。

村上氏および義弘についての疑問

 中世史研究の参考史料である『芸藩通志』・『三備史略』『残太平記』等を見ると、鎌倉末期から南北朝時代にかけて村上義弘が現れ、水軍を統率し宮方として目ざましい活動を演じている。
 村上氏の出自については、『後愚昧記』・『残太平記』・『中古治乱記』・『善隣国宝記』、および多くの村上氏系図等によると、あたかも北畠氏から出たようになっている。残念ながらこれについて確証は全くないのであって、それは村上氏の家系を尊くしようとの意図によるのであろう。これについては『入川文書』のなかで、村上氏は「北畠顕家卿之枢機たり」の語が示しているように、北畠氏と気脈を通じ、両者の間に親密な関係があったと解すべきであろう。
 村上氏ははじめ新居郡大島に拠り、のち越智郡大島(芸藩通志・三備史略では備後国因島青影城とする)を根拠地としたといい、元弘の乱がおこると、義弘は皇室側の勧誘に応じ、水軍を率いて備後国鞆津を占領した(残太平記・三備史略)。この行動によって、義弘は六波羅探題と長門探題との連絡を遮断し、後者を完全に孤立させた。そのため、長門探題北条時直は伊予国の反幕府軍を潰滅するため、出撃して星岡の戦いをおこす誘因をつくった。それから三二年のちの正平二〇年(北朝貞治四=一三六五)に河野通堯の苦境を救うため、彼を九州の征西府に帰順させ、宮方のために奮闘を続けたという。
 以上はこれらの諸書等に記述されている義弘の動静であって、これを史実として容認する説が古くから存在する。これを立証する史料として『因島村上家文書』のなかにある元弘三年(一三三三)五月八日付の大塔宮護良親王の令旨をあげ(五四八号)、そのあてさきの備後国因島本主治部法橋幸賀館を村上義弘に擬する説である。もしこれをそのまま容認するならば、これより他に義弘に関する第一等史料は存在しない。なおこの令旨の文中にある「四月三日」の戦いは播磨国の赤松則村が六波羅府を攻めた時のものであり、「同八日」の戦いは千種忠顕が同府を包囲した時のものであり、「廿七日」の戦いは久我畷で幕府側の名越高家の戦死した時のものであって、この説に従うならば、これらの戦いに義弘が参加し功労をたてたことになる。
 ところが、これらを否定し、さきの令旨のあてさきの幸賀が義弘ではなく、同島開発領主上原善監入道祐信であるとの有力な説がある(伊予史談第一〇一号、鵜久森経峰「村上義弘の御贈位顚末と其事蹟の再検討」)。この説に従えば、義弘の存在を証明する第一等史料は一通も存在しないことになる。また郷土の諸書等によると、義弘の根拠地がいずれの島であったかも明確でなく、その行動の記述についても漠然として具体性がなく、その真相を確実に把握することが容易にできない。またその没年が明確でなく、正平年間(一三四六―七〇)に健在であったとするならば、その活躍の期間が余りにも長きに失し、よほど長生していなければならないことになり、きわめて不自然な点が生ずる。このために義弘を仮空の人物とする説も主張される現状である。
 さらに留意すべきは、南北朝期における芸予地域の情勢を考察すると、安芸国の小早川氏が越智郡高市郷・大島等に地盤を持ち、その勢力が伸張していた時期にあたる(小早川家文書)。もし義弘が越智郡島嶼部のどこかにいたとしても、小早川氏の牽制をうけて、その活動の区域はよほど限定され、芸予諸島を縦横に活躍する余裕はとうてい許されなかったと考えるべきであろう。要するに、義弘あるいはこれに類する人物がいたとしても、その活躍を『予章記』等に書かれているように、誇張して立論すべきではなく、きわめて慎重な態度をとるべきであろう。

図2-2 河野・土居・得能氏関係系図

図2-2 河野・土居・得能氏関係系図