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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 内乱初期における河野通盛

建武政権下の地方政界混乱

 後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)六月四日東寺に移り、皇太子康仁親王(持明院統)を廃して、正慶の年号をやめ元弘に復した。翌年建武と改元し、新政の展開とともに論功行賞がなされた。得能通綱は従五位下備後守に、土居通増は従五位下伊予権介となり、のちに備中守に任ぜられた(得能累世一覧・善功録・土居氏系図)。なお通綱が河野家惣領職をついだのは、先祖の通俊が承久の乱に上皇側に属した事情によるのではなかろうか。通増が幕軍に従った河野通久の庶孫であることからすれば、通綱が登用されたことはむしろ当然であったといい得る。
 建武の新政についてはいろいろの評価がなされているが、ここでは積極的な革新政策の分野に限って述べよう。天皇は記録所を再興して政務の統一を企て、また雑訴決断所を設けて政権交替によって生ずる訴訟事務の審議をはかった。地方政治では守護と国司とを並任して、公卿・武家の調和をはかった。さらに革新事業として注目されるのは、私領化した知行国制を廃止し、律令体制の復興を実施したことであった。平安時代後期から律令を根幹とした国司制がくずれ、権門・社寺がその国の実収入を奪取する知行国制が続いた場合もすくなくなかった。伊予国も建仁三年(一二〇三)以来、西園寺氏の知行国となり累代相伝されていた。皇室はこの知行国を没収し、国司補任による大胆な地方行政の改革を敢行した。
 しかし、建武政権の基礎ははなはだ薄弱で、かつ公家・大社寺等の旧勢力を重視した施策は、今まで皇室側に味方していた武士階級を満足させず、新政府に反感をさえ懐かしめるに至った。ことに守護・地頭をはじめ中・小武士の階層の不平を増大させ、そのために地方の政局は動揺を続け、早くも新政はわずかに二年ばかりで破綻するようになった。
 建武二年(一三三五)二月に、北条氏の残党である赤橋重時が風早郡立烏帽子城(現北条市)によって、新政政府に反旗をひるがえした。これにより、たちまちにして伊予国の平和は破られ、深刻な内乱が連続することになる。この時期は北条時行が残党に擁せられて信濃に蜂起する、すなわち中先代の乱の五か月前のことであるから、いかに地方における政局が不安定であったかが想像される。重時の挙兵と同時に、野本貞政および河野通任(通盛の兄通種の子)は越智郡府中城から温泉・久米郡に向かって進出し、土居氏に挑戦した(忽那一族軍忠次第)。
 そこで土居通増は機先を制するため、通綱の軍勢と協力してすすんで立烏帽子城攻撃に向かい、同時に通綱は大三島の祝安親に対し、急ぎ伊予本土への出兵を督促した(三島家文書・五七二)。やがて通増らは立烏帽子城を占領したので、重時は家臣らとともに自殺するに至った(太平記巻一二、安鎮国家法附高政貞義謀叛并諸大将恩賞事)。いっぽう祝安親は越智郡から周敷郡に南下し、四月二、三日に楠窪の要塞を攻めて阿蘇太郎をたおし、蜂ヶ森を包囲して金沢蔵人を追い、進んで七日に大森長治の拠る赤瀧城に迫った。この城の攻防戦は長期間にわたったようで、連合軍の協力によって六月三日に至ってようやく落城した(三島家文書・五七五)。この戦いに忽那氏が参加したことは忽那一族軍忠次第により、通増の弟通世が奪戦したことは『土居氏系図』により明らかである。

足利尊氏の反抗と河野通盛

 七月になると、北条時行が同氏の残党に擁せられて信濃国諏訪に蜂起し、すすんで鎌倉に侵入した。時行は執権高時の子であって、鎌倉幕府滅亡ののち、遺臣に奉ぜられて諏訪に逃走していた。鎌倉の守備にあたっていた足利直義―尊氏の弟―は防衛することができず、三河国矢矧に敗走した。
 そこで八月に尊氏は弟直義を援助するのを名として東下し、矢矧で直義と合流して遠江国で北条氏の与党を潰滅させ、さらに時行の軍を追い払って鎌倉に入った。尊氏はかねてから武家政治の再興する機会をうかがっていたから、天皇の召にも応じないで、そのまま鎌倉に留って私に論功行賞をおこない、自己の勢力の拡大をはかった。当時鎌倉に隠棲していた河野通盛は、この形勢をみて尊氏に謁見し、その部下となる決意を述べた。これについては、建長寺の南山士雲の斡旋によるところが大きかったと推察される。
 尊氏も新政に不平を懐く将士を糾合しようとしていた時であったから、喜んで彼をその配下とした。やがて尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認した(予章記・予陽河野家譜)。一一月になると、尊氏は直義とともに義貞誅伐を口実として、新政政府に反旗をひるがえしたので、やがて世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、いわゆる深刻な内乱期に入った。その範囲は守護・地頭・中小武士・悪党はいうに及ばず、農民までも包含する全国的なものとなった。
 ほどなく帰省した通盛は、伊予国における武家方の勢力を確立するため、苦心したようである。この当時、宮方では土居・得能の両氏をはじめ在地勢力の忽那・重見氏らがいたけれども、あたかも土居・得能両氏は新田義貞の軍に属して京都に出征中であり、かつ忽那氏の一部も上洛(忽那家文書・五八二)していたから、通盛にとって伊予国では強力な対抗勢力がなく、比較的自由に行動することができた。そこで、通盛は新たに武家方にくみした越智郡大三島の祝安親と提携を堅くし、伊予郡方面に転戦して土居・得能党の勢力の掃討につくした。翌三年(一三三六)二月に宮方合田弥四郎貞遠の占拠していた松前城(現伊予郡松前町)および柚田孫太郎光宗・河内彦太郎崇性の守備した由並城(伊予郡双海町)等をおとしいれて、宮方に大打撃を与えたのも、この間の出来事であった(三島家文書・五八九)。
 これよりさき、尊氏は直義とともに義貞の軍を撃破して西上し、翌延元元年(一三三六=建武三)正月にいったん京都を占領したけれども、やがて楠木正成らの宮方の諸軍に挾撃されて大敗し、兵庫から船に乗り播磨を経ていったん九州に逃亡した。尊氏が九州に上陸するや、少弐・大友・島津の諸氏は喜んでこれに応じ、さらに三月に宮方の総帥の菊池武敏を筑前国多々良浜に破ってから、再び勢力を回復した。また、この前後に、新政に反感を持つ西国の将兵のうちで、尊氏の勧誘に応ずるものがはなはだ多かった。
 この時、尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認した。尊氏から通盛に与えられた所領安堵状の日付について、『予章記』・『予陽河野家譜』等では建武三年(一三三六)三月一八日としているが、『淀稲葉文書』の安堵状に書かれている同年二月一八日に従うべきであろう(同文書・五八七)。

足利尊氏の東上と通盛の随従

 いっぽう、尊氏は再挙の準備を完成すると、四月に大宰府を発し、九州・中国・四国の軍を二分し、直義は陸軍を、彼自身は水軍を統率して東上をはかった。通盛は部下の水軍を鞆ノ津に送って、尊氏の水軍に合流させた(梅松論)。これについて『予陽河野家譜』では、通盛の子通朝が尊氏を隠戸(音戸)瀬戸に迎え、それ以来海上の先駆となった旨を述べている。やがて彼自身も尊氏の軍を援助するために、ともに東上したと推察される。
 あたかも、新田義貞は武家方の赤松則村の拠った播磨国白旗城を攻撃していたが、尊氏の東上するのを聞いて兵庫に退き、急を京都に報じた。皇室では楠木正成を遣わして、義貞を援護させた。正成は摂津国会下山のもとに屯して直義の陸軍に対抗し、義貞は和田岬に陣して尊氏配下の水軍の上陸を防ごうとした。尊氏は弟直義の統率する陸兵を三分させ、浜手軍・中軍・山手軍とし、進撃を開始した。中軍はまっさきに進んで義貞と正成との連絡を遮断し、浜手軍は尊氏の水軍を掩護して、和田岬に敵前上陸を敢行させた。山手軍は正成の退路を断ったために徐行した。また、水軍の別動隊は細川定禅に引率されて兵庫を過ぎ、生田森から上陸をはじめた。その作戦の目的は、義貞の軍の退却を阻止するためであった。この時、土居・得能両氏の軍は義貞の陣営にあって、直義および吉良・石堂の大軍と奮戦した(太平記巻一六、新田殿湊川合戦の事)。いっぽう尊氏の水軍のなかに、河野通盛部下の水軍が加わっていた(太平記巻一六、経島合戦)。
 そこで、義貞は腹背に敵をうけて苦戦におちいり、さらに生田上陸軍の進撃を知って驚き、湊川を渡って東走した。正成の軍は直義の軍を支えてよく戦ったが、形勢は次第に不利となり、さらに尊氏配下の大軍も正成の陣営に肉薄した。水陸両軍の包囲攻撃をうけた正成は完全に孤立して、悪戦苦闘のすえ一族とともに最期をとげた。時に五月二五日のことであって、世に湊川の戦いとして知られている。なお『梅松論』・『神田本太平記』によると、河野氏勢のなかに部将大森盛長(彦七)がいて、正成の陣営に突入し、ついで彼を自殺させるに至った旨を述べている。

叡山合戦と伊予諸軍の奮闘

 これら宮方の諸軍の敗北によって形勢は非となり、京都を防衛することが困難となった。そこで後醍醐天皇は難を避けるために、急に比叡山延暦寺に赴いた。尊氏は京都に入って比叡山を攻めたが、かえって義貞らの諸将の猛烈な逆襲をうけて、一時苦戦におちいった。この時、山門に赴いて義貞を援けた伊予勢は、土居通増・得能通綱・忽那義範および同重勝らであった。この間の六月五日から一三日にわたる戦闘は激烈であって、尊氏側の河野通盛が比叡山の南部からの攻撃に参加し、部下に多数の死傷者を出したことは、彼が詳細に氏名を掲げて直義に提出した手負注文によって明らかである(築山本河野家譜、萩藩譜録・五九四)。この最中に、直義は通盛に御判御教書(河野文書臼杵稲葉・五九三)を下して、早く義貞の軍を撃滅するように督促した。この御判御教書のなかで、直義は叡山で戦闘を継続中であり、通盛に対し東坂本を焼払うよう命令している。通盛は直義を援けて指示のとおり行動をおこし、さらに鞍馬口に軍をすすめて、宮方軍を撃破した。
 同月二九日に、直義は在京していた忽那重清に対し従軍するよう指令した(長隆寺文書・五九八)。重清は元弘の乱には土居・得能両氏とともに朝廷側について功労があり、建武の新政瓦解ののちも尊氏征討軍に参加したが、敗れて京都に待機していたと推測される。重清は、中央の動静を観察のうえ、旗幟を鮮明にして武家方となったようである。翌三〇日に通盛ならびに重清らは、京都を奪還しようとした宮方の軍と激闘を交えた(忽那家文書・六〇四)。
 その後、宮方の形勢は諸将の努力にもかかわらず不振となり、ついに叡山も孤立状態となった。尊氏は叡山に使を送り、偽って降伏し天皇に京都還幸を請うた。天皇は仮にこれを許したが、いっぽう義貞に命じて北陸方面の宮方と連携して現地に赴き、再挙をはからせた。そこで義貞は宮方の勢力を再建するために、皇太子の恒良および尊良の両親王を奉じて北国に赴いた。それは気比神社領が皇室料所であって、宮司が心を朝廷に寄せ、また越後国が新田義顕(義貞の子)の旧領であったことなどによる。
 尊氏は天皇が京都に帰られると、花山院に幽閉し、持明院統へ神器の譲渡を迫るに至った。同年一二月に天皇は危機を脱出するために、ひそかに大和国吉野に遷られることになった。その途中、河内国東条に立寄られたとの報を知った尊氏は、通盛らに命じてその地の攻略にあたらせた。その当時東条は楠木氏の根拠地の一つとして、宮方の勢力の強固なところであった。さらに直義は通盛に「廃帝」が東条にいて、これにともなって宮方蜂起の風聞があるので、直ちにその地を討掃するよう命じている(河野文書臼杵稲葉・六一四)。通盛はこれらの出征によって、中央の政界にもその名を知られるようになった。