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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 元弘の乱と河野氏対土居・得能氏

鎌倉幕府の衰微と王政刷新の計画

 鎌倉幕府は元寇の影響をうけて、政治的には封建的土地所有者および悪党の成長、経済的には政策の破綻とくに貨幣経済の混乱等の難局にあい、世の威信を失墜しはじめた。さらに惣領制の解体による御家人体制の衰退、北条得宗専制政治の矛盾と、これにともなう内訌、幕府政権の動揺は、旧弊を打破して革新を企図する後醍醐天皇側に、大きい刺激を与えずにはおかなかった。
 従来の院政を停止した天皇は、萬里小路宣房・吉田定房・北畠親房らの人材を重用して、政治の刷新と幕府への従属の態度を脱却して、朝廷の独自性をはかった。また持明院統系にかかわらず日野資朝・同俊基らを参議・蔵人頭に補任して近侍させた。天皇は幕政の混乱に乗じて、資朝・俊基らを東国あるいは近畿に派遣し、密旨を在地領主に伝え、彼らを組織化しようとした。しかし正中元年(一三二四)早くもこの密計は六波羅探題の知るところとなり、この謀議に参与した資朝・俊基らをはじめ朝臣・武士は処分された。世にこれを正中の変と称する。
 その後、天皇の希望が無視されて、皇太子に持明院統の量仁親王がなり、公武の関係は悪化した。さらに、持明院統側から譲位の督促もありかねない時間的に切迫した状勢となった。天皇は正中の変後七年にして、再び幕府討伐の秘策を練った。この度の計画も幕府にもれ聞こえ、俊基らは再び捕縛されて鎌倉に送られた。時に元弘元年(一三三一)六月のことであって、これを元弘の乱とよぶ。
 執権北条高時は皇室の企図を粉砕するため、大兵を京都に攻めのぼらせた。そこで天皇は事態の急なのを察し、同年八月京都を出てひそかに奈良に赴いた。さらに、天皇は僧聖尋に迎えられて笠置山にうつったが、翌九月に大仏貞直・金沢貞冬らの幕軍の襲撃するところとなり、楠木正成の河内国赤坂城に赴く途中、有王山で幕府の手に捕えられた。
 これよりさき正成は俊基の勧誘に応じて赤坂城にたてこもり、幕軍を悩ますことたびたびであったが、一〇月同城の陥落後はさらに河内・大和両国の境にある金剛山に千早城を築いて、この地に移った。幕府はこれよりさき皇太子量仁親王を擁立して光厳天皇と称し、さらに翌二年三月に承久の乱にならい、後醍醐天皇を隠岐島に配流した。やがて天皇の皇子護良親王は十津川に兵を挙げ、ついで吉野に入り、諸国に討幕の令旨を下して、反幕側の諸将に奮起を促した。この時諸国で北条氏の専制に不満を持つ御家人・非御家人、幕府の圧制のもとにあった在地勢力・悪党たちのなかには、これに応じて幕府に反旗をひるがえすものがすくなくなかった。そのなかでも、同年一一月に播磨国に赤松則村が、翌三年(一三三三)三月に肥後国に菊池武時らが挙兵したのは、世に知られている。

伊予国における幕府方

 元弘の乱のおこった時、鎌倉幕府に味方したものは、風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛をはじめとして、伊予郡砥部荘(現伊予郡砥部町)を領した大森盛長、越智郡府中城(現今治市)にたてこもった守護宇都宮貞宗、周敷郡赤滝城(現周桑郡小松町)の大森長治および喜多郡根来城にいた宇都宮貞泰らであった。
 河野通盛は元寇で名を知られた通有の第七子(異説がある)であって、九郎左衛門・通治ともいい、父の愛撫をうけること深く、その後兄たちをしのいで河野氏の惣領職を継いだ。通有が弘安の役の勲功を通じて同氏の権勢を回復することができたから、通盛も御家人として幕府の厚誼に感じて、心を北条氏に寄せていた。したがって、後醍醐天皇を中心として元弘の乱がおこった時も、同族の土居・得能氏らと全く立場を異にし、彼はあくまでも幕府を擁護しようとつとめた。
 元弘二年(一三三二)に、彼は幕府の指令によって一族を統率し、伊予国を発し摂津国尼ヶ崎に上陸し、京都の六波羅探題の援助に赴いた(参考太平記巻第六、大塔宮并楠兵部正成誅伐事)。しかし、この当時楠木正成が河内国赤坂に、あるいは千早城に拠って奮戦を続けており、また諸国にも反幕府的な気運が充満していたため、鎌倉幕府の権威が崩壊する時期であった。通盛が幕府の苦境を見て、徒らに郷里に安住することができず、東上したのも当然のことであろう。
 かねてから皇室側に応じていた播磨国の赤松則村は、同三年(一三三三)三月に京都に入って六波羅を襲撃しようとした。通盛は陶山義尚(備中国笠岡城主)らの諸軍と力をあわせて、これを蓮華王院にむかえ撃ち、その計画を頓挫させた(予章記・予陽河野家譜)。
 この当時、伊予国では守護宇都宮貞宗が越智郡府中城にいて、幕府の重要な拠点を形成していた(忽那家文書・六八一)。宇都宮氏ははじめ下野国の豪族であり、一三世紀の前半に伊予国守護に任ぜられて以来、伊予とは深い関係を有していた。その支族は各地に繁栄したようであるが、根来城の貞泰と府中城にいた貞宗との関係は、根来城の位置が明瞭でないとともに、これを確認することができないけれども、伊予の武家方の有力者であったに相違ない。
 またその他に、在地勢力としてあげなければならない武将は、大森盛長(彦七)と赤橋重時であろう。大森氏は承久の乱の勲功によって伊予郡砥部荘(現伊予郡砥部町)を領有し(大山積神社文書・一四五二)てから優勢となり、代々河野氏の旗下として活躍した。盛長の居館は同地の五本松にあったと伝えられ(大洲旧記)、そののち同郡松前(松崎とも書く)地域をも統治したという(予陽盛衰記)。この大森氏の支族の春直は久米郡高井城(現松山市)にあり、長治は周敷郡赤滝城(現小松町)に拠った。
 赤松氏は北条義時の孫長時を始祖とし、その子義宗、孫久時は六波羅探題となって活躍した。その子守時を経て(異説がある)、重侍は伊予に入国して風早郡恵良城(現北条市)にあり、そののち立烏帽子城に移って風早地域を威圧し、さらに周敷郡蜂ヶ森・赤滝の両域と気脈を通じ、皇室方の勢力を牽制した。

伊予国における皇室方

 いっぽう、伊予国で皇室側に呼応したのは、土居通増・得能通綱・忽那重清・祝安親らであった。土居氏はもと河野氏の支族であって、元寇に活躍した通有の弟通成を祖とする。通成は土居孫九郎と称し、久米郡石井郷南土居(現松山市)に館を構え、縦渕城を築いて本拠とした。遙かにのちの戦国時代の末期に、土居氏が没落して館が廃絶したのち、延宝年間(一六七三―八一)になってこの地に万福寺(真言宗)が建てられたという。したがって、万福寺の位置が、館跡ということになる。いまもこの付近に化粧井・地蔵院(姫の墓という)・土居殿・札ノ辻・南町地・北町地・鍛冶場等の伝承地、あるいは小字が存在しているので、参考にすることができる。また縦渕城は南土居の北方東石井にあり、城郭の形骸は残っていないが、小野川の南側の要害の地を占めていた。
 得能氏も河野氏の支族であって、鎌倉時代初期に活躍した通信の子通俊(四郎太郎)を祖とする。通俊は伊予国桑村郡得能荘(現周桑郡丹原町)を領有し、得能山上に常石城を築いて本拠とした。『予章記』のなかに書かれている「得能冠者」とは、この通俊のことを指したものであり、城郭もこのころに完成したと推察される。城跡の麓には陣出・的場・山吹谷(水源地という)・掛桶の水・得能口等の小字が残存しているので、その周辺の状況を知ることができる。通俊は承久の乱に後鳥羽上皇側に応じ、その子通秀(太郎兵衛尉、備後介)は西面の武士として活躍し、その子に通純(又太郎、備後守)・通村(通純の嫡子ともいう、弥太郎)らがあった。通純は宗家の通有・同通時とともに弘安の役に活躍し、その功勲によって備後守に補せられたという(得能累世一覧)。通村が兄通純の後を継ぎ、その子は通綱(又太郎、備後守)であった(予章記・予陽河野家譜)。

土居・得能両氏に関する問題

 ここで断っておかなければならないのは、土居通増・得能通綱の姓氏についてであって、古く太政官修史館の編集になる『土居得能名称考』によって明確にされ、すでに解決ずみといってよい。いまさら論ずる必要はないが『太平記』、ことに二人の通治ありとする『参考太平記』の内容を十分に把握しないまま、土居・得能両氏の事績にとりくむと、同書の記述に大きい錯乱があるため、史実を誤解する危険性が存在する。
 その一は同書の巻七河野謀叛の事のなかに「土居二郎、得能弥三郎宮方に成りて旗を挙げ」とあり、さらに『金勝寺本太平記』に土居二郎を通治、得能弥三郎を通言と注記していることである。これが基本となって、この通治を河野通治すなわちのちの通盛と解することになり、『大日本史』・『日本外史』等がこの説をそのまま踏襲し、結局大きい誤謬をおかす結果となった。この点については、すでに『土居得能名称考』に指摘されたとおりであって、前者が通増であり、後者が通綱であることは明瞭である。なお同書では通言について「之は一も所見なし、或は二氏の子弟中に其人ありて、北越地方にて戦没せしものにあらざるか。」と述べている。
 また『太平記』巻一六天皇重臨幸山門の条に「河野備後守通治、得能備中守通益(中略)是等を宗徒の侍として、其勢六万余騎鳳輦の前後を打囲み云々」とあり、これをそのまま信ずるならば、河野通治(通盛)が宮方として後醍醐天皇に供奉したこととなっている。後述するように、通盛は鎌倉幕府に忠誠を尽し、のち足利尊氏に仕えて河野氏の発展につとめた人物である。したがって、この『太平記』の叙述が誤記であって、河野備後守通治とあるのが土居通増であり、得能備中守通益が得能通綱でなければならないことは明瞭である。
 このような錯覚がおこった原因は、得能備後守通綱が皇室側に付き、朝廷より河野家の惣領職を与えられて、河野氏を称したことがあり、その後新政が瓦壊して河野氏宗家の通治が尊氏に呼応し、やがて惣領職を認められるに至ったことによる。
 あたかも鎌倉時代末期は惣領体制の崩壊期にあたり、一時的ではあったが河野氏宗家の没落期に、得能通綱が惣領となったことも理解される。通綱の惣領職留保の期間が余りにも短かったために、通綱の存在を見落とし、これを通治と誤認したばかりでなく、土居氏と得能氏とを入れ間違えた結果と思われる。またさきにあげた天皇重臨幸山門の条の「河野備後守通治、得能備中守通益」とあるうち、河野通治の氏名にとらわれて錯乱を重ねた結果、金勝寺本にある「土居二郎」を通治と断定する誤謬をおかすに至ったのであろう。
 土居氏が通増であり、得能氏が通綱であることは、『正慶乱離志』をはじめ郷土の諸史料のなかにも明記されているので、論議の必要はない。さらに『太平記』巻一七東宮義貞北国落の条のなかの北陸に赴いた人物中に、河野備後守通治、同備中守通綱の名が見え、前には備中守を通益とし、ここでは通綱とする混乱が太平記の筆者自身にあった。この点を自覚することなく、二人の人物のなかの一人にやむなく通治(通盛)を挿入したために記述に矛盾が生じ、史実を誤る結果となった。

皇室方の与党

 この当時、伊予国にあって通増・通綱と連合して、討幕の挙に参加したのは、忽那氏一族のほかに、重見通宗・同通勝・祝安親をはじめ、河野・新居氏の支族の井門・高市氏らであった。忽那氏は平安時代後期に、風早郡忽那七島の開発領主として周辺の制海権を拡大し、鎌倉幕府の御家人として地位を保有して強大となり、鎌倉時代末期には幕府の諭旨に応じないほどの悪党に成長していた。このころには、重義(孫次郎)、重清(次郎左衛門尉)父子、および重清の弟義範(下野法眼)らが、水軍を率いて土居、得能両氏と緊密な連絡をとって活躍し、やがて同氏の黄金時代をつくった。
 重見氏は得能氏より出たのであって、得能通俊―通秀―通純と続き、通純のあとは弟通村が継承した。いっぽう通純の子に通景があり、その子通宗がはじめて重見の姓を称した。重見氏がその本拠としたところは、伊予郡神崎荘内にあって八倉山頂に位置し、のちの金城神社(通宗の子通勝を祭祀する)のある場所と推定する説がある。これに対して、周敷郡徳田村高知(現丹原町)に八倉山館跡と称するものがあり、通宗の子通勝の居城跡と伝えられる。この両説のいずれを採るかはにわかに断定できないが、同氏が得能氏からわかれた支族である点からすれば、後者の方が妥当であるかも知れない。通勝はのち居城を風早郡日高山(現北条市)に移しているので、いまも同地付近には重見姓を多く見ることができる。
 さて旧温泉郡南吉井村野田の得能家に伝わる『善功録』によると、得能兵庫允すなわち通宗は大塔宮護良親王から幕府討伐の令旨をうけたと記載している。ほかにこれを積極的に傍証する史料はないが、忽那島の在地勢力であった忽那重清が同親王の令旨(忽那家文書・五四四)を得ている点と、重見氏が朝廷側に深く心を寄せていたことからすれば、決して不自然なできごととは考えられない。
 祝(大祝)氏はもと河野氏の一族であって、同氏の氏神である大山祇神社の祠官を歴任した。そのうち大宮司の地位につき、同社の総支配にあたるものを大祝職とよんだ。祝氏は大三島を中心にして在地領主化して、島嶼部に隠然たる勢力を振うようになった。安親は第一八代大祝職安俊の孫であって、大祝職にこそならなかったが、同族中の最もすぐれた政治的手腕に富む武将の一人であって、祝氏の名を高からしめた。
 井門氏は新居氏(越智氏と同族といい伝えられる)の一族ともいわれ、浮穴郡井門に拠ったので、その地名を姓にしたという。高市氏ももと新居氏より出て、伊予郡三谷に移って氏寺を建ててこの地を根拠地とし、子孫が付近に繁栄し、鎌倉時代からその名が知られたと伝えられる(予章記)。参考のために河野・得能・土居・重見氏らの略系譜を図2―1に掲げておこう。

図2-1 河野一族関係系図

図2-1 河野一族関係系図