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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 河野氏の没落と乱後の社会

 通信の配流と通久の石井郷領有

 幕府勢勝利の報をうけた鎌倉では、即日後鳥羽・順徳両上皇の配流を決断し、戦争責任の追求をはじめた。幕府にそむいた武士や貴族を徹底的に調べあげて、三千余箇所におよぶ彼らの領地を没収したが、その処分は、幕府直属の身分でありながら、京方に加担した御家人に対しては、きわめてきびしいものであった。
 叛逆者となった西国御家人河野氏も、当然きびしい処分を覚悟しなければならなかった。ことに通信は幕府に反抗した同氏一族の惣領として追及されたが、一族のうち、ひとり幕府に心を寄せて上洛し、幕府勢の先陣に加わった五男通久の軍功が認められて死罪をまぬがれ、奥州平泉へ配流された(予陽河野家譜)。また、次男通政は信濃国の葉広で斬られ、四男通末も同国伴野荘へ流された(河野系図)。『予章記』は、同氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収されたことを伝えている。
 いっぽう、幕府方として軍功のあった通久は、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を与えられたが(保阪潤治氏所蔵文書・一三九)、父祖の地を忘れがたく、伊予復帰を願い出て許され、貞応二年(一二二三)、久米郡石井郷を与えられた(早稲田大学所蔵文書・一三七)。こうして、河野氏の命脈は、かろうじて伊予の地に引き継がれた。そのほか、高繩山城の攻防戦で戦死した長男得能通俊の子孫は、桑村郡得能の地を領することを認められ、同氏の一族で通信と行動をともにした(予陽河野家譜)池内公通は、乱後も所領をもっていたことが知られていて(池内文書・一四四)、乱後の処分で河野一族の所領がことごとく没収されたということはないようである。
 なお、奥州へ配流となった通信は、配所で出家して観光と号していたが、貞応二年(一二二三)、六八才で波乱に満ちた生涯を終えた(予陽河野家譜)。弘安三年(一二八〇)、通信の三男河野通広(別府七郎左衛門)の子(三男)である一遍上人は、諸国行脚のみぎり、奥州平泉を訪れ、祖父通信の墳墓をたずねて、その菩提をとむらっている(一遍聖絵口絵1参照)。

 新補地頭の設置

 承久の乱の当時、前記佐々木・宇都宮両氏のいずれが伊予国守護であったのかさだかではない。しかし、両氏ともに京方に属さなかったことははっきりしているから、この兵乱によって、伊予の大族河野氏の勢力が没落した結果、国内の兵権は完全に守護の手に帰したものと思われる。こうして、河野氏を中心とする伊予の古い豪族の統治組織は確実にくずれ去り、これまでの同族的な結合のかわりに、地域的な結合による社会の誕生を迎えることになった。そのような社会のなかで大きな役割を果たすようになったのは、乱後新たに入部してきた新補地頭たちである。貞応三年(一二二四)、前記のように河野通久は、阿波国富田荘地頭職のかわりに伊予国石井郷を賜わらんことを幕府に請うたが、その理由として、彼は次のようなことを申し立てている。「これすなわち、相伝の下人の中、旧好を忘れざるの輩、自然相訪わしめるの故なり、しかして、当国新補地頭等、制止を加え、ややもすればその咎を行う」(保阪潤治氏所蔵文書・一三九)。すなわち、相伝の下人のうち、昔のよしみを忘れない輩が河野氏を慕って訪れようとしても、新補地頭がその妨げをなすというのである。ここに、承久の乱を境にして、伊予国の社会が大きくかわっている事実を象徴的に読みとることができるであろう。
 しかしながら、新補地頭として伊予に入国した東国武士を具体的に確かな史料で把握することはなかなか困難であって、今のところ確認できる新補地頭は、越智郡弓削島荘の小宮氏のみである。同氏は武蔵国多摩郡小川郷を本貫とする武蔵七党西党の流れをくむ東国武士で、延応元年(一二三九)の弓削島荘所当等注文(東寺百合文書・一五三)に、「ただし近代関東の地頭なり候てのちは云々」とあるところから、同氏が新補地頭であることは確かである。
 同氏のほか、新補地頭であろうかと推測される地頭としては、宇摩郡寒川の小河氏(南海流浪記)、新居郡新居郷の金子氏(金子文書・二八七)、周敷郡北条郷の多賀谷氏(永井文書・一四八)、越智郡三島荘の北条氏(後に三善氏か、臼杵三島神社文書・四七四)、同郡高市郷の小早川氏(小早川家証文・四五八)、久米郡地頭職の金沢氏(金沢文庫文書・五一二)、伊予郡玉生出作の北条氏得宗(河野文書臼杵稲葉・五七九)、恒松名(郡郷不明)の高柳氏(朴沢文書・三〇五)などの名を挙げることができる(表1―2参照)。いずれにしても、新補地頭の動静については、不明な点があまりにも多く、今後の大きな研究課題になっている。

 守護宇都宮氏

 承久の乱前後に、伊予国の守護が佐々木氏から宇都宮氏にかわったことは、先に述べたとおりであるが、では宇都宮氏が、守護として伊予国とどのようなかかわりをもったかというと、必ずしもさだかではない。『予章記』は、正治二年(一二〇○)、梶原景時が誅殺された時、景時追討の功によって、幕府はそれまで景時に与えていた伊予国喜多郡地頭職を宇都宮頼綱に与えたことを記している。この記事は、そのまま信頼できないが、当時、河野氏の勢力が南予にまったくおよんでいないことなどから、宇都宮氏の勢力は、鎌倉時代のかなり早い時期から南予地域に進出していたものと考えてよいであろう。
 また、宇都宮氏が根拠地としていたのは、南予の喜多郡であって、その点については、やや時代は下るが、元弘三年(一三三三)、伊予国の土居・得能氏らが反北条の兵を挙げた時、忽那重清が残した軍忠状(忽那家文書・五四三)に、喜多郡地頭宇都宮遠江守や同美濃入道代官等が根来山に城郭を構えて抵抗するので、数日にわたってこれを攻撃したと記しているところから、ほぼこれを確認することができる。
 ところで、同氏の根拠地が喜多郡であったとはいえ、守護の館は、府中の国衙に近い場所にあり(忽那家文書・五四三)、伊予国における最高権力者として、ことに河野氏の没落以後は、東・中予においても相当の勢力・影響力をもつようになったのではないかと思われる。しかし、現時点では、それを立証できる史料は残されていない。
 以上のように、伊予国守護宇都宮氏は、その足跡を明らかにしないまま、元弘の乱によって守護の地位を追われた(忽那家文書・五四三)。しかし、その一族は、その後も喜多郡一郡地頭として、同郡に勢力を存続させ、戦国期には、有力国人領主として多くの足跡を残した。