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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

第四節 武士の台頭

 越智氏の武士団化

 一〇世紀以降の律令体制の弛緩と、それにともなう治安の乱れは、必然的に地方有力者の武装化を促進した。伊予国においてそのきっかけとなったのは、いうまでもなく天慶の藤原純友の反乱である。その乱ののち、国内においては、在地有力者を中心にして急速に武士団化が進んだ。その先鞭をつけたのは、長らく越智郡の郡司として大きな勢威を誇ってきた越智一族であった。純友の反乱が終息してほどない天暦二年(九四八)、伊予の国衙が、「海賊の時の功により」越智用忠に叙位すべきことを朝廷に申請したことがある(貞信公記)。ここにいう「海賊の時」が、果たして純友の反乱をさすのか、あるいはそれ以降の海賊の活動をさすのか必ずしも定かではないが、叙位の対象となっている越智用忠が、純友追討に活躍した小野好古や橘遠保のような中央派遣の官人ではなく、越智郡司の流れをくむ在地の有力者であることはまちがいないであろう。その用忠が海賊追捕の勲功によって叙位されようとしているのを見れば、彼がもはや単なる地方官人ではなく、一定の武力を有する存在であることがうかがい知られるのである。
 そのような傾向はさらに一一世紀にはいって顕著になる。長保四年(一〇〇二)、用忠の流れをくむと思われる越智為保が伊予追捕使に任ぜられた(権記)。追捕使とは、治安を乱す凶賊を捕縛・鎮定するために中央政府が任ずる官職で、最初は臨時官であったが、のちには常置の官となったものである。一〇世紀の前半から姿が見えはじめ、平安時代の後期には地方の治安維持のための重要な官職となった。伊予におけるその初見が、越智為保というわけである。為保がそのような職に任ぜられたことは、すでに用忠のころから見られ始めていた越智氏の軍事的実力が中央政府の注目するところとなっていたことにほかならない。国司や中央政府は、そのような越智氏の実力を利用することによって伊予国の治安の維持をはかろうとしたのである。そうであるとすると、すでに一〇世紀の後半から一一世紀の初めにかけて、越智氏が一定の地方武士団を形成させていたことはほぼまちがいないであろう。
 この後越智氏は、従来のような越智郡司の地位にあきたらないで、伊予の国衙の中に進出していく。このころ、地方有力者が国衙に進出していく足がかりとなったのは、雑任国司や下級官人の地位である。一〇世紀以降、越智氏の雑任国司就任の記事が頻繁に見られるようになる。雑任国司とは、国司のなかでも中央から派遣されてくる守とは別に、それぞれの地方において任用される介以下の国司をいう。したがって、国司としての実権はあくまでも守が握っていて、雑任国司の地位は決して高いものではない。しかし、数年おきに交替する国司、あるいは遙任で任地に下向しない国司にかわって国衙のなかで次第に実権を有するようになり、その地位は重要な意味を持つようになる。ここで越智氏の雑任国司就任の例を諸記録から拾ってみるとつぎのようになる。(図表 越智氏の雑任国司就任の例 参照)
 これらを見てみると、越智氏と雑任国司との関係が単なる偶然ではないことがよく理解されよう。越智氏は明らかに、かつて郡司として有した勢威を利用して、国衙在庁への進出をはかっている。そして、一二世紀の前半までにはほぼその目的を達し、国衙在庁のなかに確かに一定の地歩を確保したものと思われる。
 このように見てくると、いっぽうでは武装して武士団化をすすめ、他方ではそれと並行して在庁官人化を進めている、かつての郡司的土豪越智氏の新しい姿をそれなりに思いうかべることができるのである。

 新居氏の発展

 平安後期の伊予国において、武士団化をすすめていたのは、ひとり越智氏のみではなかった。
古代以降の伝統的豪族とは別に、新しい勢力も徐々に生まれつつあった。それが新居・別宮両氏や河野氏である。
 平安後期の新居・別宮両氏の姿を伝えるのは『与州新居系図』(以下『新居系図』と略称する)である。本来系図というのは、その性質上家柄を誇示するための虚構や仮託が多く含まれ、歴史の史料として決してすぐれたものではないのであるが、この『新居系図』は、ほかの諸系図と異なって成立事情や成立時期がはっきりしていて歴史的価値のきわめて高いものである。作者は、越智郡高橋郷に生まれ、鎌倉時代に東大寺の高僧となった凝然(彼については、第二編第一章第六節で詳しく述べる)である。彼が故国伊予に帰った際、自分の一族の系譜を諸種の資料にもとづいてまとめたものといわれ、正応年間(一二八八~一二九二)ころの成立とされている。現在、西条市伊曽乃神社の所蔵するところとなり、重要文化財にも指定されている(口絵7参照)。
 さて、その『新居系図』には、新居・別宮という二つの有力豪族の、平安後期から鎌倉初期にかけての系譜が詳細に記されている。そして、その系譜を子細に検討するならば、両氏が平安後期に一族を統合して武士団を形成し、同時に在庁官人として国衙留守所に進出していったさまを知ることができる。まず新居氏は、家祖とされている為世に経世・宗忠・為永・季成の四子があり、第四子の季成流が一族発展の中心となる。季成にはやはり国成・頼成・為成・吉成の四子があり、そのうち吉成流のみは大きく発展することはなかったが、残りの三流は、それぞれ伊予国内の各地に所領を拡大し、武士団を成立させていったものと考えられる。図3-7は、そのような新居氏の武士団の発展の過程を知るために、『新居系図』所載の人名のうち、現在の地名との比較によって、その本拠が判明する者について、その姓のみをひろって図示したものである。これを見ていくと、新居氏について、だいたいつぎのようなことがわかる。
 まず国成流であるが、初期には越智を名乗る者が何人かあり、ついで高市を名乗る者が多くなることから考えて、越智郡内の高市郷(今治市)を主要な拠点として発展していったことがわかる。しかし後には、高市氏のなかから近江・御谷・吾河を名乗る者や、石井・井門・浅生を名乗る者が出てきており、伊予郡や浮穴郡へ進出していった者もあったようである。つぎに頼成流であるが、ここでは大部分の者が越智を名乗っており、この一族は他地域への進出をほとんど試みず、越智郡内での支配の強化をめざしたものと推測される。最も大きな発展をとげたのは最後の為成流であり、ここでは嫡流が多く新居氏を名乗って新居郡に本拠を定めていたほか、周布・桑村・吉田等周敷・桑村両郡(現在の周桑郡・東予市)に進出していった者、拝志・高橋・英多等越智・野間両郡へ進出していった者などがあることがわかる。このような様子を地図の上に図示したのが図3-8である。これらのことを総合して判断すると、結局新居氏は、平安末から鎌倉初期にかけて、越智郡を中心にして、西は浮穴郡から伊予郡、東は周敷・桑村両郡から新居郡にまで支配を拡大していったことがわかる。
 このような武士団としての領域的発展と並行して、新居氏は国衙在庁への進出も精力的に行った。たとえば家祖為世の第三子為永が伊予掾であったこと、第二子宗忠の子忠成が「調所在庁」という注記を有していることなどは、そのことを如実に示していよう。またこのほかにも、案主所・四度使等国衙に関連のある職名を有している者が一族のなかには何人かいて、新居氏と国衙とのつながりがかなり広範囲にわたっていたことをうかがわせている。

 別宮氏

 凝然が『新居系図』を著わすにあたって、自らの出自した新居氏の系譜のほかに、別宮氏の系譜を書き加えたことの理由は明確ではない。おそらく当時人々の間では、新居氏と別宮氏の間に近しい同族関係が意識されていたのであろう。いずれにせよ同系図によって、新居氏とは別の、もうひとつの武士団の姿を垣間見ることができるのは興味深い。
 同じ『新居系図』所載の豪族でも、別宮氏の場合は、国内の各地に勢力を拡大していった新居氏に比べて、武士団としての地域的ひろがりはそれほど顕著ではない。氏の名となっている別宮以外に、一族の関与した地名を系図のなかからひろってみると、わずかに法界寺・上部庄・中村・日吉等をあげることができるにすぎない。このうち本貫と考えられる別宮は、現在の今治市別宮であろうし、日吉もまた同市日吉に相違ない。また法界寺・中村・上部庄は、越智郡玉川町にその地名を残している。これらの地名に共通する点は、いずれも当時の越智郡に属し、しかも同郡の中央部を東流する蒼社川の流域に位置することである。これらのことから考えると、別宮氏は、越智郡の蒼社川流域を主たる支配領域とする小武士団であったといえそうである。そして、新居氏のように一族を他地域に進出させることはほとんどなく、本貫の周辺で小規模な武士団としてのまとまりを保持していたものと考えられる。
 このように別宮氏が、蒼社川流域と関連の深い武士団であったとすれば、そのことは、凝然によって同氏の系譜が新居氏の系譜に書き加えられた理由についてもひとつのヒントとなる。なぜならばさきにも記したように凝然の出身地といわれる高橋郷も、まさに蒼社川の流域に位置しているからである。高橋郷は、別宮氏の一族が居住していた法界寺や中村・上部庄からはほんの数キロメートル蒼社川を下ったところにある。つまり凝然にとって別宮という一族は、ことのほか身近な存在であった。

 河野氏の登場

 河野氏の名前は、伊予中世の雄族としてあまりにも有名であるが、武士団発生期の実態は必ずしも明らかになっているとはいい難い。平安時代以前の河野氏の姿を伝える史料が全くないわけではないが、それらはいずれもはるか後世になって述作されたものであって、史料的価値に全幅の信頼をおくことができないからである。そのような史料の代表としてたとえば『予章記』や『河野系図』をあげることができる。しかし、前者は室町時代以降の成立であるし、後者も諸本があって必ずしも一様ではないにしても、多くは戦国期以降の成立であろうから、ともに平安時代以前の記述については、厳密な史料批判が必要である。したがって、武士団発生期の河野氏の研究は、このことを念頭におきつつ、今後慎重に進められなければならない課題であるといえる。そこでここでは、歴史的事実であるか否かは一応別にして、前掲両書の記述を簡単に紹介してみることにする。
 まず、鎌倉初期の河野氏の惣領として著名な通信から数えて九代の祖になる為世からの系譜を示してみると、図3-9のようになる。このうち為世は、嵯峨天皇の第一〇皇子で、藤原姓を賜わって伊予国に下り、家時の聟となって家をついだという。為世から数えて六世の孫にあたる親経は、源氏の嫡流頼義が伊予守であった時、志を同じうして国中に四九か所の薬師堂と八か所の八幡宮を建立したという。また親経には男子がなかったので、頼義の末子を聟にとって家をつがせたが、それが親清であるという。さらに親清にも男子がなかったので、その妻女が氏神三島神社に参籠し、三島明神の化身である大蛇によって懐妊して誕生したのが通清であるという。
 図3-9の系図、およびそれに関連して伝えられている上記のような伝承がいずれも事実であるならば、平安後期の河野氏の姿もそれなりに明らかになって興味深い。それは、すでに浮穴郡や風早郡に勢力をのばし、武士団としての一定の発展をとげている有力豪族のそれである。そしてその一族は、三島の神を深く信仰し、清和源氏の人々ともすでに密接な姻戚関係を有していたことになる。しかし、それらのことについては、依拠する史料の性格から、やはり一定の留保をつけておく必要があり、ここでは、このような記述をなす史料もあることを指摘するにとどめておくことにする。

 河野氏の実像

 それでは、平安期の河野氏について、確実にその存在と事跡を指摘できるのは誰の時からであろうか。それは、通信の父通清の時代からである。通清は、前記のように母親が三島の神の化身である大蛇によって懐妊して誕生したといわれ、その故に「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ、御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、少シ跼テ背溝無キ也」(予章記)というような異形の人として伝えられていて多分に伝説的なベールに包まれているが、その存在自体は、『吾妻鏡』や『吉記』というような比較的信憑性の高い史料によって確認することができるのである。
 『吾妻鏡』は、鎌倉時代の後半、幕府自身の手によって編纂された日記体の記録であるが、『平家物語』等同時代の軍記物に比して史料的価値は高いとされているものである。その『吾妻鏡』の治承五年(一一八一)閏二月一二日条に、平家に背いて兵をあげた人物として「伊予国住人河野四郎越智通清」の名が見えるのである。ほんの数行のわずかな記述であるが、河野氏関係の信頼できる初見史料として興味深い。そして注目すべきは、挙兵の際の通清の行動を示す言葉として「軍兵を率いて当国を押領するの由、その聞こえあり」というような表現が使われていることである。ここにはすでに通清の擁する軍事力が伊予国の中予地域を「押領」するほどの規模に達していることが示されている。
 ついで通清の確かな姿を示す史料は『吉記』である。これは、平安末期から鎌倉初期に生きた貴族藤原経房の日記であるから、同時代の記録としてその史料的価値は『吾妻鏡』よりさらに高いものである。その養和元年(一一八一)八月二三日の条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことを、伝え聞いたという記事が見える。この記事で興味深いのは、通清がすでに在庁官人の地位を得ていたという事実である。さきの「当国押領」という表現といい、ここに見える「在庁」という言葉といい、いずれもこの時代の河野氏の勢力がすでに一定の規模に達していたことを十分に示唆している。同氏の本貫は、風早郡(北条市)河野郷であろうが、そこを中心にして、平安末期には武士団的発展をとげていたと考えてさしつかえないであろう。もしそうであるとすると、風早郡から浮穴郡等ヘ一族を進出させている状態を示していたさきの河野系図の記載も、あながち荒唐無稽ということはできず、あるいは一定の事実を反映させているのかもしれない。

 伝統的豪族と新興の武士団

 以上、平安後期の伊予国における武士団の成立の状況を、越智・新居・別宮・河野などの諸氏を中心に見てきた。そこで明らかになったことは、まず古くからの伝統的豪族越智氏が海賊の鎮圧や雑任国司への進出を契機にして武士団化を進め、ついで、新居・別宮・河野氏等のいわば新興の勢力が武士団化をとげ、各地に勢力を拡大していったということであった。そうするとつぎに問題となるのは、伝統的豪族越智氏と、それ以外の新興の武士団とはいったいどのような関係にあるのかという点である。
 一般的な歴史の理解のしかたとしては、この新旧二つの勢力は互いに密接な関連を有して連続していたと考える方が理解しやすい。なぜなら、新居・別宮氏にしても河野氏にしても平安後期の時点で一挙に武士団的発展をとげたとはどうしても考え難く、そこにはそれなりの背景なり前提なりがあったはずだからである。その意味で、(図表 前記『新居系図』冒頭部 参照)越智氏の伝統的な勢力を背景にして、新興の武士団の成長があったと見る方が無理がない。そして現実に、これまで多くの人々はそのように理解してきた。しかし、翻ってそのような新旧両勢力の連続面をはっきりと確認させる史料は何かあるかと考えてみると、これがひとつも見当たらないのもまた事実である。つまり史料的には、両者の連続性を跡づけることはできない。こうしてみると、この問題は、今後に研究の余地を大きく残しているといえそうである。
 ただ、ここでひとつはっきりしていることは、後世の中世の人々は、新居氏にしろ河野氏にしろ、自分たちは古代の豪族越智氏の末裔であったという意識を強く有していたという事実である。例えば、前記『新居系図』は、その冒頭部に右図のような記述を残している。
 玉澄・直澄というのは、古代の越智氏を代表する先祖とされている人々である。これによると、新興の武士団である新居・別宮・川乃(河野)の三氏はいずれも、越智氏の流れをくむ兄弟に出自するということになる。しかし、一見して明らかなように、伊予の中世を代表する三つの武士団がいずれも同じ一族の兄弟に出自するという記述のしかたは、あまりにもつじつまがあいすぎていて、真実味を感じさせない。おそらく筆者である凝然も、これを真実と信じて書きつけたわけではないであろう。鎌倉後期の伊予の社会のなかでは、このような通念が一般化しており、凝然もそれに従ったにすぎないと思われるのである。
 また、鎌倉時代以降の河野氏は、みずから積極的に越智姓を名乗っている。前記『吾妻鏡』に「河野四郎越智通清」とあったことはすでに見た通りであるが、それ以外にも、弘安八年(一二八五)通有が肥前国神崎荘内小崎郷の領知を認められた将軍家政所下文に「越智通有」と見え(淀稲葉文書・二九二)、建武二年(一三三五)に通盛が同じ神崎荘を安堵された太政官符にも「越智通盛」と見えるなど(河野文書臼杵稲葉・五七九)、公式な場合には多く越智姓を名乗っている。このことは、河野氏が越智の姓に対して強い執着を有していることを示していよう。このように河野氏をはじめとして、伊予の中世武士団の多くは、古代豪族越智氏との血縁関係を強調した。それはそれで興味深い事実であるが、しかし、そのことは、ほんとうに彼らが越智氏との間に連続性を有していたことを示すものではない。それについては、今後の研究をまちたいと思う。

越智氏の雑任国司就任の例

越智氏の雑任国司就任の例


図3-7 新居氏の発展(『予州新居系図』による)①

図3-7 新居氏の発展(『予州新居系図』による)①


図3-7 新居氏の発展(『予州新居系図』による)②

図3-7 新居氏の発展(『予州新居系図』による)②


図3-8 新居氏の勢力分布

図3-8 新居氏の勢力分布


図3-9 平安期の河野氏の略系譜

図3-9 平安期の河野氏の略系譜


前記『新居系図』冒頭部

前記『新居系図』冒頭部