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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 荘園制社会への道

 在地領主

 在地領主とはさきの富豪層の後裔でほぼ一一世紀のはじめごろから台頭してきた新興の開発領主のことである。在地領主(開発領主)の典型的な例は播磨国(兵庫県)赤穂郡の国司・郡司を歴任した秦為辰である。彼はそれらの公的立場を利用してその所領を拡大していった。公権力の利用こそ、在地領主の出現・成長の前提条件であった。在地領地層は一一世紀ごろ、自己の所領を不輸・不入化し、またその領有権を確立する手段として、皇室や中央の貴族、大寺社などの権門勢家に名目的に寄進し、自分はその荘官となった。こうして成立したのが、寄進地系荘園(寄進型荘園ともいう)である。寄進を受けて荘園領主となった中央の貴族や寺社は、領家と呼ばれたが国司の収公やほかからの妨害を防ぐため、さらに上級の摂関家や皇室などに寄進することもあり、これを本家といった。こうした本家―領家―荘官などの重層的な秩序が社会の基本をなした時代を荘園制社会の時代といい、その時期は一二世紀以降のことである。

 弓削島荘の成立

 弓削島は周囲約二〇キロ、最大幅約ニキロの瀬戸内海上の小島で、島の大半は山地である。弓削島の名がはじめてみられる記録は保延元年(一一三五)のものである。この時、すでに塩浜及び田畠の所当官物の免除と国使(国司の命によって田畠の調査をする役人)の立ち入りを禁止する、いわゆる不輸・不入の特権が国判によって承認されているが、荘号はみられない(東寺百合文書・七七)。荘号のある「弓削御庄」として登場するのは久安六年(一一五〇)のことであるが(同・八○)、実質的な立荘は保延元年の文書からみて、それ以前のことと思われる。ただ、国判(免判)は国司の責任において出される不輸租の許可状であるから、保延元年以前の弓削島荘は国免荘ということになり、太政官や民部省から承認された官省符荘というものではなかったらしい。名実ともに荘園として成立したのは鳥羽院宣から推測して保延元年(一一三五)から久安六年(一一五〇)の間のことであろう。
 弓削島荘の領有者は、治承三年(一一七九)の官宣旨によると、最初の荘園領主は源氏尼真性という女性であり、承安元年(一一七一)に源氏尼から建礼門院(平徳子)の乳母である従三位藤原綱子に譲渡されている(同・一〇○)。この後は、綱子から後白河上皇の皇女宣陽門院に伝領され、延応元年(一二三九)には東寺に寄進された(東寺文書・一五一)。彼らは荘園領主ではあるが、いずれも領主権としての領家職を所持していたと思われ、本家職は久安六年(一一五〇)ごろ鳥羽上皇、建久二年(一一九一)ごろ後白河上皇(長講堂)がもっていたと推定される(東寺百合文書・八〇、京都大学文学部所蔵文書・一一七)。
 「職」は荘園の支配権である荘務権と経済的収益権(得分権)を意味しており、荘務権をもつものを本所といった。したがって、本家職をもつ荘園領主でも、荘務権をもたない場合は本所とはいわれなかった。
 さて、領家に所領を寄進した在地領主については、史料には明確に記されておらず、確証はないが、平氏ではないかと思われる。久安六年(一一五〇)九月・一一月の弓削島荘百姓等解并高階盛章外題によれば、大宅近永以下数名の田堵・百姓(荘民)らと下司平助道が、国使の入部や年貢の塩などを奪取する非法を国司に訴え出ているが、このなかの下司平助道こそ在地領主(開発領主)階層にかかわりの深い人物と思われる。平助道は長寛二年(一一六四)にも単独で同様のことを願い出ているが、その内容や下司という荘官の地位からいっても十分に考えられることである(東寺百合文書・八〇・九〇)。

 国衙官人の非法

 王朝国家の時代にあっては、政治は儀式・先例を重視する形式主義に流れ、官吏は摂関家や朝廷にとりいって、宮殿の造営や造寺の経費を負担し、その見返りとして収入の多い官職を手に入れた。特に国司の地位は希望者が多く、売官の対象となり、この売官を成功といった。国司は任命されても遙任といって任国に赴かず、実際の政務は目代を国衙に送って収入だけをえる場合が多かった。いっぽう、現地に赴任した国司は受領といわれ、国衙領を私領のように扱い、私腹をこやす者が多かった。国司が赴任しない現地の国衙を留守所といい、目代(代官)の指揮・監督のもとに地方豪族のなかから選任された中・下級役人が実務にあたった。おもにこの中・下級役人を在庁官人といった。在庁官人は、元来在地領主(開発領主)として地方の有力者であることが多く、その官人的地位や公権力を利用して、国衙領(公領)を自己の勢力下におき、これらを事実上支配した。
 弓削島荘もこのような時代に成立した荘園であり、そこでは在庁官人層の非法とそれに対する農民の抵抗の様子をうかがうことができる。久安六年(一一五〇)、留守所の一つの役所である健児所の史官俊清が多数の従者を率いて入部し、院宣により免除されているにもかかわらず伊勢神宮の役夫工米、土御門内裏の材木などのいわゆる国役(一国平均役)や年貢の塩などを強引に徴収している(東寺百合文書・八〇)。国役というのは、国衙領・荘園を問わず、一国ごとに平均に賦課された臨時の課役のことである。
 さて、さきの留守所の非法に対し、当荘の下司や田堵住人らの荘民は院宣・庁宣(国司庁宣)により、国役を免除されていることを在京の国司に訴え、留守所の不当性を非難している(同・八一)。これに対し、国司は荘民の訴えを認め、その都度、留守所にその旨を指示しているが容易に改まらず、承安二年(一一七二)には、国使の平国景が荘園に乱入する始末であった(京都大学文学部所蔵文書・九八)。このような事態は、国衙留守所における実権が中央の貴族である国司から在地領主層である在庁官人層に移行していることを端的に示すものである。また、史官俊清や国使平国景が多数の従者を率いて武力により国役を課したり、乱入をしているところからみると、彼らは郎党・所従を従えた武士であることがわかる。
 一方、荘民たちは解状(上申文)に、数名の者にしろ、自分たちの姓名を明記して、留守所の非法を訴え、要求がいれられないことを知ると逃散さえほのめかす強い姿勢を表明している。彼らは、御荘百姓、百姓等、御荘住人、住人、田堵住人などと称しているが、このなかの「住人」という言葉は一般の荘民を意味するのではなく、居住人の代表、つまり、一般に土地の永続的保有権を認められた農民を名主というが、名主に近い田堵ら上層農民をさしていると思われる。このような「住人」らのたたかいは、留守所を対象におこなわれており、荘園領主に対するものではないことが注目される。
 ところで、弓削島荘は長寛二年(一一六四)の時点では、作田・塩浜合わせてわずか二町余にすぎず、荘地の大部分は畠であり、しかも瀬戸内海上に位置する特異な荘園である。このような塩と海上交通の便に着眼し、この荘園を代表的な瀬戸内型荘園と類型化する説もある。

 大島荘と荘園領主の紛争

 大島荘は越智郡大島にあった京都醍醐寺領の荘園である。醍醐寺は醍醐天皇の勅願寺として建立され、真言宗醍醐派の総本山となった。この荘は村上天皇の孫である源(土御門)師房家の旧領甘原方の田三〇町と畠七六町および吉浦方の田五〇町と畠七六町とから立荘されていた。吉浦方の田畠はかつて伊予国司藤原基隆が上醍醐寺円光院(一品宮)に寄進した元国衙領であるが、鳥羽天皇はこれら都合二三二町の田畠(年貢額にして一八七石一斗四升)を上醍醐寺円光院領大島荘とした。これをうけて、大治二年(一一二七)には、国衙領(公領)と荘との境を明確にするため、国衙から史生らが牓示を打ちこみ荘域を確定している。上醍醐寺領大島荘の立荘の時期は、これまでの経過から推定して、白河院の近臣であった藤原基隆が最初に国司となった天仁元年(一一○八)から、四至の牓示が打たれた大治二年(一一二七)までのことになろう。
 大島荘の荘園領主は、本家が上醍醐寺円光院、領家が源師房(承保四年没)の孫雅定(中院右大臣)である。荘園からのぽる得分(収入)については本家、領家で折半したらしい。本家分としては、田租である所当官物(年貢)を段別七斗、さらに畠の地子(小作料)として麦を反別二斗、塩地子三〇石、ほかに雑公事(雑税)、夫役として桑代が絹二〇疋、宿人が一年に四人であった。このうち麦地子は、年貢輸送の際の食料および運賃にあてられた。以上の得分に加えて、預所分、田反別二升、公文・出納分、各一升の給米が含まれていた(上醍醐雑事記)。公文等の荘官は、一般に、荘園領主への年貢を免除された「給田」や、年貢納入の義務はあったが、雑公事は免除された「給名」を所有していた。しかし、大島荘の荘官の場合は明らかでなく、おそらくは、荘園年貢の一部を割いて給与される給米であったろう。
 預所は本所にかわって下司・公文などの中・下級荘官を指揮して、荘務を行う上級の荘官であり、公文は年貢の徴収・勧農にあたったが、出納は倉庫や荘園年貢などの物資の管理にあたったのであろう。
 「職」には本家職・領家職・荘官職などの種類があった。この「職」が互いに保障されている限り問題はないが、侵害されると紛争がおこった。大島荘においても、領家雅定の孫の通資の代に、本家上醍醐寺円光院への年貢未進(未納)が膨大なものになり、本家から領家職没収の訴えが院庁に出された。これに対し、領家通資は五代にわたる領家職の相伝を理由に反論し、いっぽう、本家の円光院側は、相伝は未進の理由にならないとし、荘地のうち甘原方田地三七町については通資の領家職没収を主張し、吉浦方田地四三町については、もともと円光院固有の所領であるから、本家職、領家職ともに円光院が所持すべきものであるとしている(上醍醐雑事記・寺家雑筆至要抄)。この紛争がその後どのように解決されたのか明らかでないが、年貢未進が表面化するまでは、領家が荘務権すなわち本所権をもっていたようである。
 さて、当荘の荘域は、貞治二年(一三六三)の証明寺鰐口に「大島甘原浦」とあることから、甘原方は宮窪・仁江地域、吉浦方は荘園ゆかりの地名と思われる津倉・本庄・名などの地域と推定されている。なお、津倉の地名は荘倉がおかれ、船津(港湾)として使用された名残りであろう。

 山崎荘と立券荘号

 京都伏見の稲荷社領山崎荘は仁平三年(一一五三)、般若会供米料としての山崎保田三五町をもって立荘されている。なお、立荘に際し、在庁官人である国使惣判官代や公文預大江が署名している。山崎保は久安四年(一一四八)、鳥羽院の御祈料地になっていたものである。立荘にあたっては、牒示(牓示ともいい、荘域を示す四すみの標識)を打ちこんで、荘域を定めている(中右記部類巻一六裏文書・八四)。
 山崎荘は伊予郡の吾川郷内にあったが、現在地に正確に比定するのはむずかしい。古代の伊予郡には、神前・吾川・石田・岡田・神戸・余戸の六郷(和名抄)があったが、そのうち、吾川郷は現在の伊予市上吾川・下吾川地区、石田郷は山崎地区と推定されている。現在、石田の地名は見あたらないが、江戸時代には、山崎荘あるいは山崎郷と呼ばれる一〇か村が存在した。米湊・尾崎・本郡・稲荷・市場・中村・森・三秋・大平・下唐川の一〇か村である(予州大洲領御替地古今集・明治四年大洲県内絵図面)。
 米湊はその地名からして、荘倉が置かれ、船津(港)が設けられていた可能性がある。稲荷には伊予稲荷神社があるが、社伝によれば、弘仁一五年(八二四)、国司越智為澄が山城国伏見稲荷神社を勧請し、稲荷村をその神戸としたという。その史実は信頼できないが、地方の荘園が寺社を中核として成立することが多い例の一つになろう。荘園領主が寺社をもって、宗教的、精神的統制の機関とし、荘民化を図ったことは十分に想像されることである。
 稲荷の西方に接する市場には、かわらがはな窯跡がある。山麓の傾斜地を利用して築かれた登り(穴)窯である。かわらがはな窯跡は名称のとおり、おもに白鳳期から平安期までの瓦を焼いた窯跡であり、また、市場という地名からいっても伊予郡衙あるいは当荘との関連も考慮する必要があろう。なお、大平の堂ヶ谷からは、久安六年(一一五〇)銘の青銅製の経筒が出土している。経筒の埋納者は、乙氏親遠や秦氏是延らであるが、特に秦氏是延が注目される。それは京都稲荷神社の神官が代々秦氏によって世襲されており、経筒の埋納者秦氏も伊予稲荷神社・山崎荘とも何らかの関連があると推定されるからである。なお、山崎荘の荘域は、さきの伊予国山崎荘立券文案(中右記部類記巻一六裏文書・八四)によれば、その四至が東は仁禮河(大谷川か)、西は甲河(高野川か)、南は砥山口(外山、障子山か)、北は海興伍町(海岸部か)とあるけれども、現在地に明確に比定することは困難である。

図3-6 弓削島荘の伝領関係図

図3-6 弓削島荘の伝領関係図