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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 律令税制と民衆

 田租と出挙

 古代の産業の基本は、いうまでもなく農業生産である。『和名抄』(一〇世紀初め頃成立)には、伊予国の田積が一万三五〇一町四段六歩(約一万六千ヘクタール)とみえている。これはほぼ一○世紀初頭における伊予国の本田数と推定されているが、試みにその田品をすべて中田として、『延喜式』に規定されている獲得量(一町四百束)を適用すれば、総収量額は五四〇万束となる。時代による生産諸条件の差異を無視して一律に論ずることは危険であり、またこの田積のすべてが必ずしも見作田というわけでないとも考えられているが、古代伊予の稲の年間総生産高の目安をいちおう右の数字の前後に求めることは許されるのではあるまいか。宇摩・新居浜・道前・今治・松山などの各平野に現存する条里遺構は、特に八世紀ころの伊予国の水田の地域的分布状況をある程度反映しているのであろうが、この条里制区画を前提に耕地の大半が口分田として、班田収授法により公民に班給されたわけである。
 律令国家は、農民より稲を収奪するためさまざまの税目を設けたが、そのうち反別二束二把と規定された田租は比較的低率なもので、原則的に穀(籾)として徴収されたのち、郡ごとに置かれた官倉(正倉という)に収納され、大半が備蓄にあてられた。その倉をたやすく開くことは厳禁されていた。時代は下るが承平四年(九三四)末、海賊が掠奪したと報告された喜多郡の「不動三千餘石」とは、そのような稲穀をさしている(扶桑略記)。
 これに対し地方政治の実際の運営経費にあてられたのは、天平年間(七二九~七四九)ころから強化、拡大された出挙の利稲である。出挙は本来農民生活の再生産維持機能にその意味があり、律令税制下においては当初重要視されていなかったが、このころになると完全に強制的な一税目となり、農民の大きな負担となっていた。利率は時代によって三割―五割を上下したが、一〇世紀初めの伊予国には、正税(国衙運営財源)、公廨(官物の欠損補塡や国司俸禄となる)、国分寺料などいろいろの名目で都合八一万束の出挙本稲が計上されていた(延喜式)。

 伊予国正税出挙帳

 この出挙貸付け状況の報告書が正税出挙帳であり、種々の公文とともに毎年作成され、中央へ進上された。現在その実例としては、天平八年(七三六)度に伊予国で作成されたものが、ただひとつ東大寺の正倉院に保存されている(正倉院文書・一)。これは四片の断簡から成る不完全なものに過ぎないが、残存する部分は桑村郡・越智郡・野間郡・宇和郡および某郡一、二の記載にあたるものとみられる。つぎに掲げるのは、このうち越智郡部と推定される箇所である(□内は復元部分。口絵6参照)。
 天平□(さんずいにヒの下に木)年定正税穀 壹萬 陸(六)仟(千)佰(百)陸拾(十)玖(九)斛伍(五)斗                                               (1)
 頴稲玖萬肆仟肆百 壹拾参(三)束陸把                        (2)
 出挙貮(二)萬参佰束 春 九千九百束 夏 一万四百束              (3)
 借貸壹萬束                                          (4)
 遺陸萬肆仟壹佰壹拾参束陸把                              (5)
 正倉貮拾参間 不動十九間 不盡一間 下盡三間                  (6)
 南第一板倉(略)収納稲肆仟伍佰玖拾陸束天平六年下盡              (7)
 第二板倉(略)収納稲参仟伍拾束天平七年下盡                    (8)
 第三甲倉(略)収納稲参仟貳佰参拾壹束天平六年下盡                (9)
 □□□□(略)収納稲貳萬壹仟壹佰陸拾壹束                      (10)
 下壹万玖仟 肆佰貳拾参束 遺壹仟□(さんずいにヒの下に木)(七)佰参拾捌(八)束伍把天平七年                                                   (11)
 郡司大領従八位上越智直廣國主政无位越智直東人                  (12)
 冒頭二行((1)(2))が前年度までに越智郡に貯積されて来た稲穀の総量であり、このうちの頴稲(穂つきの稲、出挙はほとんど頴稲で行われる)九万四千余束のうち二万三千束が春(二月下旬~三月中旬頃)夏(四月~五月頃)二度におけて出挙され((3))、一万束が借貸(無利息の貸与)として支出されたわけである((4))。さらに後半部分には、それらは本来越智郡衙に付属する正倉二三間のうちの南第一板倉以下四倉(このうち甲倉とは校倉造の倉のこと)に貯備されていたものが引き出されたのであることが記されている((7)~(11))。

 出挙運営の実態

 実際の出挙運営は、このような正倉を直接管理した郡司たちの主導で行われていた。右の断簡の末尾に郡司署名のみえることや、仁和二年(八八六)新居郡が郡司の定員加増を申請したおり、その理由を「部内曠遠」であり、「出挙収納」の往還が激務に過ぎるためとしている点(三代実録)はそれを物語っている。さらに末端の過程においては、里長などの在地有力者たちの関与も考えられている。在地の事情に通じ、一般農民たちとの間に伝統的支配関係を有する彼らの協力なしには、その効果的な運営は困難であったと思われるからであるが、出挙運営に彼らの私的関心が立入る余地もそこから生じてくる。たとえば越智郡の天平八年度の出挙額は二万三千束であるから、一戸あたりの貸付け高を単純計算すれば四六束となる(越智郡は一〇郷、従って五百戸)。ちなみに隣の野間郡(五郷)の場合は出挙総額が一万二千束であるから一戸あたり四八束となり、ほぼ一致した数字を得ることができる。仮に一戸あたりの貸付け人数を四―五人とみれば一人平均一〇束前後という計算である。しかしこのような表面上の数字とは別に、現実には一人あたりの貸付け稲についても上は百束余から下は二束程度まで大きな差があった。貸付け額が担当者の自由裁量で決定されていたからである。
 出挙が春夏二度行われるのは、一般には種籾用(春)と田植期の食糧用(夏)という目的の相異で説明されるが、仮に一般農民への貸付け額が担当者によって恣意的に抑制されたとすると、とうてい国家の貸稲のみでその需要を満たすことは不可能であり、いきおい在地有力者たちが併行して営む、より高利の私出挙に依存せざるを得なくなる場合も生じてくる。公出挙の対象やルートがそのまま利用され、在地支配者の私富蓄積手段となっていくのである。越智郡が計上した借貸一万束も、確かに公的には無利息の貸稲として農民生活の再生産維持にあてられるべきものであるが、現実にそのとおりの機能を果たしたか否かは不明である。借貸運営の責任者が、農民への貸し付け段階では公出挙同様有利子で行っている現状を指弾した史料は数多い。したがってこの借貸も、結果的には在地有力者たちの利殖手段につながっていったということも考えられるのである。私出挙に対する厳しい制限を政府は再三行ってはいるか、私出挙はこのように在地有力者にとって重要な致富のための手段であり続けたのであり、これを通して彼らは在地における農民支配をいっそう強化し得たわけである。
 いっぽうこのような公私の出挙の重圧に耐えかねた農民が、口分田の売却を余儀なくされてゆくさまを示す史料は、奈良時代後半に頻出するようになる。また天平神護二年(七六六)伊予国人大直足山が国分寺に献じた七万七千八百束、神護景雲元年(七六七)宇摩郡人凡直継人の献じた稲二万束という数字(続日本紀)にうかがえる彼ら豪族層の莫大な貯稲は、その墾田経営もさることながら、多くは私出挙活動をぬきにしては語れぬものであろう。

 京進される春米

 田租や出挙によって徴収された穀稲の多くは地方政治の財源として国ごとに貯備されたが、一部は春白(もみがらをとり、つく)ののちに京進され、中央政府諸官司の貴族、下級官人たちの食糧とされた。『延喜式』に年料春米とみえるものがそれである。現在奈良の平城宮や京都長岡京跡より出土する伊予国関係木簡の多くは米貢進付札であるが、その大半は年料春米に関するものとみられる(表2-7)。
 『延喜式』には、年料春米として伊予国から宮内省大炊寮ヘ一四〇〇石、糯(もち米)二〇石を納入するよう規定されている。また田令によれば、その春成は正月に始まり八月三〇日以前に中央への納入が完了するよう定められている。『延喜式』にみえる年料春米貢進国は伊予など二二国であるが、いずれも畿内近国と瀬戸内海沿岸諸国に限られており、これは瀬戸内海の舟運など米の大量輸送手段が考慮されたためとみられている(第三章第二節)。
 実際の春成、俵詰作業は、郡司の指揮、監督のもとに、郡内の各末端単位に割りあてられ行われたらしいが、伊予国の場合、木簡記載例をみると圧倒的に郷戸単位が多いことがわかる。一般の農民は郷戸主のもとに徴発され、稲の春成のための共同労働に駆使されていたわけであり、その負担も軽くなかったであろうことは想像に難くない。郷戸主丹比連首万呂(表2-7の(2))や秦足国((8))らはそうした作業の統轄責任者であり、俵詰の完了したあと郡衙以上の各段階で検括をうけるため責任の所在を明記した付札を作製し、これに添えたのである。神野郡では駅戸が単位となって春成作業にあたっている点も注目される((1))。なお木簡の数量記載が例外なく一俵あるいは五斗となっているのは、一俵の標準容量を五斗(現在の二斗)とする古代の一般規定に沿うものである。
 この他京進される米の税目の一つとして、庸米があった。庸とはもと歳役一〇日の代納物を意味し、賦役令には正丁(男子二一―六〇歳) 一人あたり布二丈六尺と規定された個人別負担であった。しかし代納物は必ずしも布と限られていたわけではない。伊予国の場合、まず『延喜式』に庸として「白木韓櫃廿八合、自餘は米を輸せ」とみえ、さらに年料租春米という税目として二千斛(石)の貢進が規定されているが、これは九世紀末頃庸米に代わって制度化されたものとみられている。また、寛平年間(八八九―八九八)の東大寺諸国封物来納帳(東南院文書・三四)には、伊予国よりの封米四一八斛余のうち一五三斛三斗が庸米とみえている。これらのことからして、少なくとも九世紀段階以降においては米(庸米)が貢納されていたらしい。一人の輸貢量は、慶雲三年(七〇六)以後三斗である。庸米の付札木簡を見分けるのは容易でないが、二人の個人名を並記する例が比較的多いと指摘されており(二人分の庸米を一俵に合成するため)、その点よりすれば、あるいは桑村郡林里よりの付札((3))が庸米のものかもしれない。中央に収納された庸米は、仕丁、衛士さらに雇役民への食糧、功賃に充てられた。
 表2-7に掲げた一〇点の貢進米付札木簡を郡別に分類すると、特定地域への集中がみられ(図2-17)、前に述べた古代条里遺構の分布ともおおむね一致する。さらにこれを、後述する贄など水産物類の貢進を史料的に確認できる風早郡・宇和郡などと対比すれば、古代伊予国の地域別産業構造がおぼろげに浮かび上がってくるように思われる。

 調と繊維生産

 調は庸とともに個人別負担を原則とし、そのすべてが中央に貢納されて国家財源の基本となる税目だった。その品目については、賦役令に列挙されている。すなわち絹・絁・糸・綿・布等の繊維製品類(正調という)、鉄・鍬等の鉱産品や塩・海藻・魚介等の水産物(調雑物という)、さらには紫・紅等の染料および油・紙等の手工業製品(調副物という)などがそれである。ただ貢納される調物は、当時の各地方ごとの生産力水準の差異等にも規制され、きわめて地方特産品的性格の濃いものであったと考えられており、令条に網羅されたそれら品目すべての貢進が国ごとに義務づけられていたわけではない。一〇世紀初頭段階で伊予国から貢進すべく規定されていた調の品目は『延喜式』に詳しいが、それによるとやはり繊維製品類が中心であったようである。
 一口に繊維製品といっても種類は多様であり、八世紀はじめころ伊予国から貢納されていたのは絁だったらしい。絁は絹織物の一種であるが、史料上に見える絹と同一のものではなくその糸質に差があり、絹より粗い生糸で織成されたものとされている。ところで八世紀も半ばの天平一八年(七四六)、伊予国から京進されたその調絁が一例奈良の正倉院に現存しており、そこには次のような墨書銘がある(「」は国印、正倉院御物・二、口絵5参照)。                           
「伊豫國越智郡石井□(郷の最左部が列の左側)」戸主葛木部龍調絁六丈「天平十八年九月」
 すなわちこれは、越智郡石井郷の葛木部龍の戸から調として出された絁というわけである。当時中央への貢進物にはその貢進主体を記し、責任の所在を明確にするよう令で規定されていた。絁への墨書もそのためのものであり、米や海産物等それが不可能な場合には前述した木簡が付札として使用された。この墨書銘の記されたのが越智郡衙なのか、あるいは伊予国府においてなのかについてはいずれとも決し難い。しかし、いずれにしろこの調絁が越智郡内の各地の農民から徴収された調物ともども、いったんは郡衙に集積され、最終的にはさらに伊予国全体として一括され国司の勘検をうけたことはまちがいなく、墨書の文面に二箇所にわたって押捺されている伊予国印はその段階におけるものである。これが天平一八年九月、ないし、さほどそれを下らぬころのことであった。農民より調庸物の徴発が始まるのは毎年八月中旬ころと決められているが、都への貢進期限は国ごとにその遠近によって段階差が設けられており、このうち伊予国は八世紀前半には中国とされていたから(賦役令集解調庸物条古記所引民部省式。『延喜式』では遠国)、その貢限は一一月三〇日であったことになる。
 さてこの墨書銘にみえる「六丈」は調絁の規格をあらわしている。本来調絁は、賦役令では長さ八尺五寸X広さ二尺二寸を正丁一人分の負担とし、その六丁分を一枚に織成してこれを一疋(匹)とする(従って長さ五丈二尺。一尺=約二九・七センチメートル)よう規定されていた。しかしその後養老三年(七一九)と天平元年(七二九)両度の改定により一疋は六丈×一尺九寸となり、かつこれが四丁分の負担となった(続日本紀)。この伊予国調絁も明らかにこの規格を踏襲したものであり、同じく正倉院に保管されている隣国土佐からの、天平勝宝七年(七五五)の調絁に「土佐国吾川郡桑原郷戸主日奉部夜恵調絁壹匹長六丈廣一尺九寸」とあることからもわかるように、その規格表示の一部が省略されたに過ぎないものである。このように伊予国調絁のわずかな例からも、規格、貢納期限等当時調庸制に関する規定はきわめて厳守されていたことがうかがえるであろう。
 その後延暦二四年(八〇五)、伊予、阿波等一一国に対し彩帛を停めて旧のごとく絹を貢ずるよう命じた記事がみえ(日本後紀)、さらに仁和三年(八八七)には伊予等一九国の貢献する絹が殊に麁悪であるという指摘が行われており(三代実録)、また『延喜式』に伊予国の調として絁はみえていない。これらのことから、具体的年代は不明であるが、おそらく八世紀後半のころ、伊予国は絁から絹の貢納国へ移行したものと考えられる。それは当然のことながら、養蚕・製糸技術の発展を背景において考えるべきものであろう。

 繊維生産の実態

 ところで『延喜式』には伊予国の調として、この他に各種の綾・羅等の高級絹織物の貢進が規定されている。これらは令条の中にみられず、もとは国衙財源である正税でもって交易し、貢献物として京進するものであった。ところが和銅四年(七一一)、諸国に挑文師が派遣されて錦綾織成技術の伝習が行われ、ついで翌年には伊予など二一か国においてはじめて錦綾が織られている(続日本紀)。これら高級繊維製品が調の税目にくみこまれたのは、この時以後のことである。最初にふれたとおり、調庸という税目は個人別賦課を原則としており、具体的には成年男子を年齢によって三段階(正丁・次丁・中男(少丁))に区分し、これに負担させるものであった。しかし錦・綾・羅の生産の場合、それに伴う技術水準はとうてい民間のよく達成しうる所ではなく、実際の調達は農民が綾生として国衙の工房に集められ、食料・機具・原材料等のすべてが正税によって賄われるという形で行われた。調庸収取がその実態において、必ずしも令の原則に基づいて行われたのではないことの一端がここに知られる。
 事情はさきにふれた絹・絁・布等の場合においても同様である。確かに八世紀、繊維生産が地方社会においても、すでに一定程度展開していたことは疑いないが、律令国家の指定する品目、規格は一方的なもので、当時の農民の生産力水準を考慮したものでは決してない。したがって一般農民がみずから所有する織機で政府の求める規格の製品を生産することは不可能であり、それは一部の地方豪族や有力農民層に限定されていたであろうことが近年明らかにされている。その意味で神護景雲元年(七六七)、越智郡大領越智直飛鳥麻呂が実に正丁九六〇人分の負担に相当する二四〇疋もの絁を貢献し、叙位されているのは(続日本紀)、その背景に同郡内での越智氏による卓越した繊維生産技術の独占を想定させ、これがまた、さきの葛木部龍と同郡内であるだけに興味深い。それはともかく一般農民は、労働力や代物の提供を通して割りあてられた品目、数量を彼らより調達せざるを得なかったわけである。
 また葛木部龍が貢進した絁の場合、四丁分の負担として六丈×一尺九寸の規格のものが一疋として織成されたわけであるが、当然そのためには戸内での協業が必要となった。また四丁分で一疋とするのは、あくまで国家が一戸あたりの標準正丁数を四とした机上の計算で決められたに過ぎないと考えられており、龍の戸内の課丁の計が現実に正丁四人分に相当したとは考えられず、端数を生じた可能性が大きい。その場合には、また近隣の戸との共同作業が求められよう。葛木部龍とは、そうしたいずれかの範囲での協業に際しての責任者、あるいは取りまとめ役的存在であったと思われる。令文にはこのような事態について「調は近きに随いて合成せよ」と規定されているが、令の註釈はこれに「郡の範囲内で調整せよとの謂である」と解釈を下している。
 古代の調物収取の実態は、法的建前とは別に以上のようなものであった。その収納は最終的には郡司の主導の下に、郡単位でとりまとめられたのであろう。ともかくそれによって、一般農民は郡司を頂点とする地域の有力者層との支配関係のなかに、改めてとり込まれていかざるを得なかったのであり、この点は前にとりあげた出挙の場合とまったく同様であった。ただ律令国家による調としての繊維製品の収奪が、在地の技術水準を無視したものであったにしても、伊予国の調が絁の貢納から絹の貢納へ推移したことからもわかるように、それが古代伊予地域における繊維生産技術水準の向上の一つの契機になった面は無視できないであろう。

 贄貢進と漁業民

 これまで取りあげた米や繊維製品などの主要産品の他に、伊予国からの貢進物として水産物類が注目される。『延喜式』には鰒・塩・煮塩年魚・貽貝鮨・鯖・海藻根などが調や中男作物として規定されているが、これらは古くは贄(天皇家へ献じられた水産物を中心とする食料品一般)として、中央へ貢納されていたと思われる。確かに『延喜式』には伊予国は贄貢進国として規定されてはいないが、律令体制のもとで調・庸・中男作物などとならぶ一税目となる以前においては、贄制は食料品の貢進全般を意味するより広義の概念で伝統的に存在したからである。たとえば藤原宮跡から発見された伊予国関係木簡の中に、つぎのようなものがある(写真2-2)。
 ・宇和評小□代熟
 宇和評という行政単位からもわかるように、これは大宝令制成立以前の七世紀末のものである。「小□代」とは魚介類である可能性が強く(あるいはコノシロであろうか)、これを熟(煮)たものが貢進されたわけであるが、それはおそらく贄としてであったのであろう。さらにこの宇和郡および風早郡に、贄氏という郡司クラスの地方豪族の存在を確認できることもその傍証となる(表2―6)。そのウジナや首という姓から推して、贄氏とは古来伊予の漁業民を部民として統轄して、贄貢納をその職務とした伴造的な豪族であったとみるのが自然である。宇和評を貢進主体とした「小□代」も、なおそうした伝統的関係の下に調達されたのではなかろうか。
 このような水産物の貢納は、八世紀以降一部は贄制としてそのまま存続していったが、大半は調(雑物)や養老元年(七一七)、中男(一七歳~二〇歳の男子)の労働力をあてて制定された中男作物制といった律令税制に継承される。
 ・伊予国風早郡中男作物舊鯖貳伯隻載籠
 平城宮跡出土の右の木簡はその一例である(写真2-3)。しかしそうした税目上の変更にもかかわらず、実際の収取・調達過程においては、在地豪族による漁業民支配という従来の伝統的な関係が完全に否定されていたとは考えられず、これに依存してはじめて律令的収取も可能であったのであろう。右の木簡で風早郡が主体となり、中男労働を組織して「舊鯖二伯隻」を調達し得たのも、そのような現実に立脚してのことではなかったろうか。
 古代伊予の漁業民について、史料的にこれを跡付けるのは容易でないが、まず近年平城宮跡より次のような木簡が出土している(第一三九次調査、一九八二年度、写真2-4)。
 ・伊豫国伊豫郡川村郷海了(部)里白髪了(部)
川村郷海了(部)里はその後の史料(『和名抄』など)では確認しえない地名であるが、とくに西日本を中心に分布する海部という地名が、伊予国でも八世紀前半に存在したことがこれによって明らかである。そうするとその背後に古来海部(部民)として組織されてきた多数の漁業民の存在を考えねばならない。さきにとりあげた例もあわせると、結局文献史料のうえからは古代伊予国において、風早・伊予・宇和郡といった伊予灘~宇和海の沿岸地域に漁業民の分布を想定することができるようである。
 そしてこれらの地域における伝統的な生産関係は、基本的にその後も永く温存されたものと思われる。時代は下るが、寛治四年(一〇九〇)七月、賀茂御祖社(下鴨神社)が諸国に設定した御厨(皇室・王臣家・寺社が魚介類等の食料品を供御物として貢進させることを目的に設置した所領)のなかに伊予国宇和郡六帖網および伊予国内海(郡不詳)がみえているのも(賀茂社古代庄園御厨・六五)、そうした伝統を踏まえたものであろう。
 以上限られた史料からではあるが、古代伊予の民衆のになった負担の実態と、そこに垣問みえる生産活動の一端について述べて来た。そして律令国家によるこのような民衆からの収奪も、郡司をはじめとする在地有力者層の介在によって、はじめて可能となっていること、一般民衆の生産活動自体も多かれ少なかれ彼らとの在地における伝統的関係のなかで掌握されており、これによって従来の支配関係がより強固に再生産されてゆくことを、繰り返しここで強調しておきたいと思う。

表2-7 伊予国関係京進米付札木簡一覧表(昭和57年度現在)

表2-7 伊予国関係京進米付札木簡一覧表(昭和57年度現在)


図2-17 伊予国関係貢進物付木簡の地域別分布

図2-17 伊予国関係貢進物付木簡の地域別分布