データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 古代伊予の豪族と農民

 古代伊予の民衆

 大正末年ごろの古代史家で、古代の民政経済の分野の研究に優れた業績を残した沢田吾一は、『弘仁式』および『延喜式』に規定された出挙稲の額とそれを貸与する課丁数との比例計算から、九世紀における伊予国の人口を約一〇万一一〇〇人と算出した。あくまで推計に基づくものであり、厳密な正確さは期し難いが、少なくとも古代伊予に生活した民衆について考える上で一つ記憶しておくべき数字であろう。もとよりそのうちの階層構成など具体的な点については、うかがい知る由もないが、いま試みに七ー九世紀の史料の中から、伊予国に本貫(戸籍上の本拠地)を有すると考えられる人名を郡別に整理、抽出すると別表のようになる(表2-6)。
 このうち直・連・首などの姓を持つ人物が地方豪族層およびそれに準ずる有力農民層にあたり、葛木部龍(越智郡)や宮末呂(久米評)のごとき部姓、あるいは無姓者が一般農民あたりかと推測される。だがこのようにたまたま史料上にその名をとどめる一部在地有力者たちの背後に、圧倒的大多数の無名の農民、漁民、さらにそれらに較べると少数ではあるが奴婢など一般民衆の存在があったことはいうまでもない。
 両者の支配、被支配の関係は、六世紀を中心とする国造―部民制の時代からさらに古くに遡るわけであるが、七世紀後半から急速に進められた律令国家体制への移行は、原則としてそのような伝統的関係を断ち切った。すなわち民衆は国家の民として個別人身支配の対象となり、一律に戸籍や計帳に登録され、かつ数々の負担を義務付けられたのであるが、その際政治的に編成された戸をもとに地方は国郡里(のち郷、一里=五〇戸)制という画一的な行政区画のもとに組織されていったのである(本章第一節)。
 いうまでもなく、伊予国も例外ではない。全国的な規模で作成された最初の戸籍は、天智天皇九年(六七〇)の庚午年籍であるが、延暦一〇年(七九一)、越智郡の人越智直広川ら五名が紀氏への改姓を申し出た際、その事由に彼ら七世の祖紀博世の孫忍人なるものが越智氏の娘をめとり子をもうけたが、「庚午年之籍」に誤って母方の姓を記載されたため、以後子孫は越智姓を名乗ることになったとみえる(続日本紀)。これによって伊予国においても庚午年籍が作成されたことを史料的に跡付けうるし、また伊予国の郡(評)里制が七世紀末には確立しつつあったこともすでに述べられたとおりである(本章第一節)。

 律令制地方支配の実態

 しかし実際の律令体制下の地方社会において、旧来の豪族と農民との私的な関係がそれによって完全に否定されたわけではない。公地公民制という原則を貫徹させるだけの力量を律令国家が持ちあわせていなかったという面もあるが、むしろ律令国家は在地における豪族層の伝統的支配権に積極的に依拠し、これを公的な枠組の中に取りこむことによって地方支配を可能ならしめようとしたからである。地方豪族層もまた国家公権の中にみずからを位置付けることでこれを利用し、より安定的な在地における権力の維持や財産の形成をはかった。伊予国の旧国造層の多くが、そのまま律令制下で郡司としての地位を確保している姿は、すでに詳述されているとおりである(第一章第一節、本章第一節)。
 また現実の民衆支配においても、国郡里制という公的な行政組織のみが機能していたのではない。里はさらに二~三の自然村落から成り立っていたが、民衆の日常生活の現実的基盤であるこれら自然村落をこそ律令国家は最末端の支配単位とし、これに行政的機能をも期待していた。
 例を越智郡朝倉郷(里)にとってみよう。       
 ・伊豫國越智郡旦倉郷同里       (ア)
 ・伊与国越智郡旦倉村秦足国戸白米伍斗 (イ)
 右の二点はそれぞれ平城宮跡(第一三九次調査、一九八二年度)および長岡京跡(第八〇一八次調査、一九八〇年度)より出土した木簡である。(ア)が郷里制施行期間(霊亀元年~天平一二年ごろ)のものであることは明らかであるが、この郷里制下の里こそが、さきの自然村落を行政的に編成したものとみられている。すなわちこの場合、旦倉郷という公的行政単位は旦倉里と表記された自然村落を中心に構成されていたものと考えられ、そのことが(イ)の木簡の越智郡旦倉村という記載にも表現されているのである。自然村落が古代史料の上で村と表記された例は数多い。つまり旦倉村こそが、単なる戸の集団で人為的に構成された旦倉郷という行政単位の中心にある、実態的な地域的まとまりであったということである。さらに(イ)が税の付札木簡である点も、税徴収の際の現実的な単位がどこにあったかを如実に示す結果となっており、興味深い。
 要するに律令国家は、在地における豪族と農民の伝統的関係、村落の実態的あり方を温存する形でその地方支配を実現しようとした。古代における豪族と農民の関わりは、まさにそのような制度的建前の裏の私的な側面に集約されており、彼らの相貌もそこに最も具体的にうかがうことができる。この点に留意しながら次節では、古代伊予の民衆に課せられた律令制税負担の数々を取り上げながら、それに対する地方豪族層の積極的関与の姿について触れてみたい。

表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)①

表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)①


表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)②

表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)②


表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)③

表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)③


表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)④

表2-6 古代伊予国関係人名表(7世紀~9世紀)④