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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 条里と開発①

 条里のしくみ―段と坪

 条里制は古代に施行された整然とした土地区画とその地番つけの制度であった。碁盤目状に並ぶ方一町(約一〇七メートル)の正方形の区画を坪と呼び、この周囲は約一メートル幅の農道・用水路または畦畔で囲まれていた。坪内部の地割は、大化改新の詔に「凡そ田は長さ卅歩、広さ十二歩を段となし、十段を町とせよ」(日本書紀大化二年正月朔日)と規定されているいわゆる半折型と、坪の一辺と同じ長辺六○歩、短辺六歩の耕地一〇筆が配列する長地型とがある。このような地割は、大化の改新の重要政策の一つであった班田制の実施に役立ったことはいうまでもないが、その起源については、大化前代説と以後説とがあり、また、半折型と長地形の新、旧とも関連して論争が続けられている。

 里の区画と地番法

 坪が縦、横六個ずつ並んだ三六個の坪を含む方六町の領域を里と呼んでいる。この坪は、一ノ坪から順次数詞名で呼称され地番つけされた。その地番の打ち方は国や郡によっても異なるが、平野の平面形態にも影響されている。里の区画の四隅をそれぞれ一ノ坪として打ち始めた場合、まず、縦の進み方と横の進み方、また、六ノ坪から七ノ坪に移るさい(二列以降も同じ)連続式と平行式があるので、各隅ごとに四組み、都合一六通りの坪並(呼称法)が存在することになる。
 方六町ごとに並ぶそれぞれの里を区別するために、条と里の座標軸によって地番つけされた。例えば、縦軸を条とすると横軸は里で、条を一条、二条、里を一里、二里、と数え、各里の区画は、条と里の会合する数詞名、一条二里のような要領で地番が確定することになった。この場合、条と里の座標軸の立て方は、坪並との間に一定の原則があった。すなわち、条と一ノ坪から六ノ坪への進行方向を一致させ、また、里は一ノ坪~六ノ坪、七ノ坪~一二ノ坪の進行方向に合わせていた。この条と里の数詞名による地番法の成立は、地番法としての里と、行政区画の里との混乱を避けるため、郷里制の里が廃止された天平一一年(七三九)以後のことであろう。
 律令時代班田制の基礎作業として位置づけられた条里制は、律令政治の消滅で、その機能面は失うが、後世の耕地や集落に大きな影響を与えている。以下、伊予国内に施行された条里制の具体的様相を郡別に見ていくことにする。

 宇摩郡の条里

 郡の東部を流れる金生川、西部を流れる関川の中・下流には扇状地的三角州、特に後者の場合は三角州も広く分布している。この両堆積面を結ぶ狭長な回廊状の地域は、四国山地の一部法皇山脈の断層崖下に形成された複合扇状地である。
 条里遺構は全域にわたり分布はしているが、『和名抄』の山田郷及び津根郷に含まれる地域を除いては、いずれも分散的である。このうち、山田郷には、南海道の大岡駅もここに位置しており、また、延暦一五年(七九六)には大岡駅経由で、土佐への四国山地越えの駅路も加わり、交通上からもきわめて重要な位置を占めていた。津根郷は和銅二年(七〇九)の記録である西琳寺条々(西琳寺文永注記・一八)のなかに、すでに「伊予国宇摩郡常里」として記されている。この常里は、五〇戸一里制の里で、霊亀元年(七一五)郷里制で制定された津根郷の前身である。また、宇摩郡唯一の式内大社村山神社もここにあった。
 条里は傾斜方向に対応させ、少なくとも六転させている。東から西へ、北四〇度西(旧川之江町域から旧三島町域に至る地域)、北三六度西(伊予三島市中之庄から具定に至る地域)、北二〇度西(伊予三島市東寒川地域)、北二度東(伊予三島市西寒川から同豊岡に至る地域)、北五度西(土居町面白川から古子川流域に至る地域)、北一五度西(同町関川流域)の条里地割が分布している。
 安和二年(九六九)の法勝院領目録(仁和寺文書・四六)にある「伊予国宇摩郡豊村庄田地拾九町玖段佰弐拾捌歩」の中で、寺領の位置が条・里・坪で指示されている。これによると、宇摩郡には少なくとも条は二三条までは存在したことになる。したがって、東西に狭長な宇摩平野は当然条は東から西へ進んだか、またはその逆も考えられる。郡の西部、『和名抄』の御井(近井)郷に含まれる土居町に三和と書いて「サンジョウ」と読ませる小字があるが、ここには条里遺構もなく、これをそのまま三条に置き換えるのは無理である。
 遺存坪名がないので、条里復原は困難であるが、際立った境界線は里界線を踏襲する場合が多いので、この点、山田、山口両郷(和名抄)の郷境を継承した川之江、三島両市の境界線と、これに直交する旧川之江、妻鳥両村の境界(旧国道が通る)を一応里界線と推定し、条里図を作成した(図2-3)。この条里図に、前記法勝院領目録に見える寺領坪付の地名を挿入して検討した結果、二条返谷田里は旧金生村半田(現川之江市)に比定され、この一三・一四・二三・二四・二五坪は金生川の流れる狭い埋積谷のなかに正しく当てはまる。また、四条大岡田里は、旧妻鳥村(現川之江市)の松木・東松木、旧金生村下分の松木・馬木のホノギを含む里となって、南海道大岡駅の位置を推定する場合にきわめて好都合である。また、五条妻追田里は、旧妻鳥村の中心集落を含む位置に当たり、里界線の設定に不合理はない。したがって、条は、東から西へ進行したことになる。
 允恭天皇第一皇子木梨軽皇子の御陵墓と伝承される古墳が、東宮神社とよぶ小さな祠と共に東宮山(高さ二三メートル、周囲四二〇メートルの和泉砂岩の丘陵)上にある。この丘陵下には、東宮と呼ぶホノギがあって、これは、もとの東宮(春宮)神社の位置であろう。東宮山の西が六条で、この三か里に寺領が分布する。このうちの墓部田里は、坪配置と地形との関係から、東宮山の西側の里に固定される。したがって、古墳を中心に東側に東宮神社、西に墓部田里が配置することになり、この三者に関連性があることを示している。寺領は、六条以西では、七条・一二条・一六条・一九条・二三条にも分布しているが、このうち、一二条までは、同一方向の北四〇度西の条里で、里界線をたどることはできるが、これ以西は、条里方向が頻繁に転移するため復原は困難である。一九条胸高田里は、寺領の分布する坪数の最も多い里で、この位置は、条の基点から推定して、豊田川下流豊田の位置に当たる。このことは、胸高田里が「宇摩郡豊村庄」の豊村、そして後の豊田と同一場所を指示したものと思われる。

 新居郡の条里       

 新居郡は、南は四国山地で土佐と接し、東は関ノ戸(平安期の東大寺文書には、継山と見える)で宇摩郡と、西は中山川下流で周敷郡に接している。四国山地の断層崖を浸食した国領川・渦井川・加茂川は、燧灘に向って流れ込み、広い沖積地を形成した。このうち、加茂川の堆積面は扇状地を欠き、三角州のみから形成されている。
 新居郡は『和名抄』に六郷見えるが、島山丘陵で二分され、これより東に新居・井上(高山寺本では丹上)郷、西に島山郷・立花郷・賀茂郷・神戸郷が位置していた。条里関係の記録はまだ発見されていない。条里の分布するのは、国領川左岸の新居郷に含まれる金子から中村(ともに新居浜市)に至る、標高二・五~四五メートルの範囲に分布し、一部は角野(同)にも痕跡を留めている。右岸は国領川の乱流で分布はきわめて限られ、井上郷に含まれる宇高から田ノ上(同)の標高二・五~一〇メートルである。島山丘陵以西は、西条と呼ばれるが、これは鎌倉末期のものと推定される古文書に「新居西条庄」とあるのが初見である(覚園寺文書・五六三)。島山郷の飯岡(西条市)には段丘化した扇状地に一部条里が認められる。しかし、加茂川の堆積面には条里は分布していない。先史時代の遺物・遺跡・古墳・式内大社伊曽乃神社(西条市中野)は、いずれも一段高い台地・段丘面に分布しているが、これは沖積化の新しいことを示している。
 遺存地名は井上郷に属す宇高(新居浜市)に一之坪・二之坪・三之坪のホノギが、南から北に並んでいる。また、新居郷の中村(同)にも俗称一ノ坪のホノギがある。六ノ坪以降の地名がないので坪並の確定はできないが、六ノ坪から七ノ坪に折り返す場合、伊予の他郡の例にならって、右折れ(東側)と想定して里界線を復原した。中村の一ノ坪は多少位置はずれているが、二一ノ坪の転訛であろう。

 周敷郡の条里

 周桑平野は道前平野とも呼ばれ、燧灘へ流入する中山川・大明神川等によって形成された扇状地・氾濫原・三角州の配列する典型的な沖積平野である。平野は、中央部を通る郡境によって折半され、この南半分が周敷郡である。
 律令時代周敷郡の豪族で郡司等にも任ぜられた多治比氏は、その前身が大化前代に、天皇の直轄地に置かれた御名代の多治比部(蝮部)である可能性もあること、また、飛鳥時代(あるいは白鳳か)の創建とされる法安寺跡が中山川右岸の小松町北川にあること(ここは『和名抄』の周敷郡吉井郷に属し、条里地割も分布している)などから判断して、条里としては、ごく早い時期に施行されたものと考えられる。
 条里は、中山川支流関屋川の扇状地と海岸低湿地を除いて、標高三メートル~標高約四五メートル(中山川右岸は五四メートルまで)にかけて分布している。条里方向は中山川左岸、右岸ともに北四一度西の条里である。
 遺存坪名は、旧吉井村石田(かつての吉井郷、現東予市)に一ヶ坪、同玉之江(井出郷、現東予市)に市ヶ坪、中山川左岸にある小松町新屋敷(井出郷)に、一ノ坪(通称)および三ノ坪がある。これらの坪名は、数個の坪にまたがっているため、復原には直接結びつかない。旧周布村(余戸郷、余戸田神社がある。現東予市)に八ヶ坪(地租改正のさい公式ホノギから脱落、安政五年高寄帳に記載されている)のホノギがある。この位置は、従来の条里図に挿入すると一四ノ坪で、八ヶ坪との関連は全くない。いっぽう、これを桑村郡条里図に合わせた場合、一八ノ坪の位置に当たる。このことから、八ノ坪へ地名転訛、または左斜め隣り八ノ坪の転移と考えられる。いずれにしても、周敷・桑村両郡は、同一の条里が設定されたとするのが妥当であろう。したがって、周敷郡・桑村郡の関係について、条里施行と郡境設定が同時か、また、条里施行のさい一郡であったものが、後に郡が分立したのか、今後の研究にまたなければならない。
 東予市上市の臨済宗観念寺に残された古文書のうち、文和二年(一三五三)越智通成寄進状(観念寺文書・八〇六・八〇七)を最初として、応永二四年(一四一七)の礼賢寄進状(観念寺文書・一一九一)に至るまでの記録に、里名(固有名詞)が坪とともに記されている。これによると、塩積里・小鹿西里(オノガ西里、小乃西里とも書かれている)・小鹿里・平田里・曽根田里の五個の里名がある。これらの里は、現存のホノギ、寺領坪付の記載順序、三島神領および条里地割の海岸方向への進出状況等から、ほぼその位置を図2ー5に示すように推定することができた。

 桑村郡の条里

 周桑平野の北半分を占める桑村郡は、大明神川堆積面と新川堆積面から成り立っている。条里方向は、大明神川以北は北二度西、以南は周敷郡と同じ北四一度西である。条里の分布は、標高二・五メートル付近から標高五〇メートル付近まで、ただし、典型的な扇状地の部分および大明神川の両側を除いて認められる。
 平城京出土の木簡に「桑村郡林里」とある。この林里は、郷里制以前の里で、霊亀元年(七一五)以後は郷名に置き換えられた。桑村郡には『和名抄』に籠田(古田)・御井・津宮の三郷があるが、林里がこの三郷のうちどの郷に転訛したものか、また、三郷以外に林里に対応する別の郷名があったものか不明である。ただ大明神川以北の広い条里地域に郷名の空白があるのは不自然である。
 遺存坪名は東予市壬生川(御井郷)、同明理川にニノ坪・三ノ坪(通称)がある。また、大明神川以北の同市楠に尼ヶ坪・久ヶ坪・北久ヶ坪・南久ヶ坪、同市三芳に久ヶ坪のホノギがある。
 さて、東予市明理川のホノギ櫛引のなかにニノ坪、三ノ坪と通称する坪名が残されている。この坪配置から坪並を復原することができる。すなわち、里の手前左を一ノ坪として縦(海岸方向)に進み、折り返し式に右手前三六ノ坪に終る形式である。したがって、明理川(明治初年までの旧村)は里界線で囲まれ、このうちの一辺は周敷郡との郡境である。元応三年(一三二一)の僧頼順譲状(観念寺文書・四九二)から応永一八年(一四一一)の南殿寄進坪付中分帳(観念寺文書・一一七九)に至るまでの文書に条里坪名が記されている。これによると、穴小田里・釣金里・垣内里・小迫里・万田里・藤原里・小通里・角田里・阿尼里・井戸田里・柿本里・綾非里・岡本里・桑本里・ナラノ本里・頭部里・アシヒキ里・深田里の一八個の里で、このうち注記されたホノギから位置の確定をするのは、万田里・綾非里・ナラノ本里・岡本里・角田里で、残る一三個の里については明らかでない。
 大明神川以北にある条里は、以南の地域と条里方向が異なるため、里界線をそのまま延長することはできない。尼坪は三個の坪に当てられたホノギで、北久ヶ坪・久ヶ坪は各二個分、この南に接した旧三芳村の久ヶ坪は五個の坪に当てられたホノギである(旧三芳村は耕地整理が実施されているが整理以前の図面に条里地割が分布する)。やや無理はあるが、尼ノ坪はニノ坪、久ヶ坪を九ノ坪として、尼ヶ坪の東端をニノ坪に固定し、南久ヶ坪の東端を九ノ坪、旧三芳村の久ノ坪の東南端を一九ノ坪として、いちおう以南と同じ要領の坪並で条里を復原した。

 越智郡の条里

 今治平野は、背後を三〇〇メートル前後の低い花崗岩の丘陵で囲まれ、平野面はきわめて低平で、蒼社川・頓田川はともに天井川を形成している。土壌は花崗岩の風化した微細な沖積土で、したがって、開発も容易であったものと考えられる。山麓には朝倉に代表されるような埋積谷も発達している。条里は海岸低湿地を除いて平野全面に分布し、条里方向は傾斜に合わせ北四二度東を示している。越智郡は、大宝令によると中郡に属し、伊予国最大の郡で、『和名抄』による郷数も一〇個を数えている。また、燧灘に面した位置、道後・道前方面との結びつきなど、海上・陸上の交通にも恵まれ、これらの諸点が条件となって、越智郡に伊予国府が設定されたものと考えられる。
 越智郡条里の復原のきっかけは、国分寺所蔵の坪付文書(前葉破損で記載年代不明であるが、中世のものである)であった。この中の半田里の項に「七坪寺内、八坪亀山也、(中略)一八坪寺内」の記述があって、国分寺の所在位置が示されている。この国分寺の位置する坪配置と、旧立花村堀ノ内にある六ヶ坪のホノギを、図上で順次組み合わせ、検討した結果、里の左手前隅を一ノ坪として縦(海岸方向)へ進み、七ノ坪を右に折り返し、以後同じ要領で右手前隅三六ノ坪に終わる坪並であることが明らかになった。
 条里関係の記録は、大山積神社の嘉禎四年(一二三八)検注所下文(大山積神社文書・一四七)を最初として、善応寺にある寛正四年(一四六三)の廣河通長寄進状(善応寺文書・一三八四)に至るまでの、大山積神社・国分寺・観念寺・能寂寺・仙遊寺・善応寺の各文書に含まれている。これによると、角打里・清水里・大田里・石田里・古浜里・舟木里・背見里・柳田里・筒見田里・穴掘里(穴窪里)・川依里・上治田里・大路里・桃本里・窪田里・栗本里・担田里・半田里・高血里・青木里・垣本里・曽根里・胸高里・山田里・松原里の二五個の里が坪名及びホノギをともなって記されている。この二五個の里は現存のホノギによる比定が可能で、したがってすべて復原されている。
 旧富田村町谷(現今治市)に八条・栗ノ町のホノギがある。貞享五年(一六八八)越智郡町屋村地平均検地帳(県立図書館所蔵)には、八条は八上、栗町はくりの町と書かれ、条里地名とするのは問題もあるが、いちおうこれを八条および九里と想定した。ホノギの八条は、舟木里と背見里とにまたがり、入れ方によって一条のずれはあるが、条は越智郡玉川町摺木または大野付近が基点で、これから海岸方向に一二条あるいは一三条を数え、また、里は古墳の集中分布する今治市石井付近を一里とし、越智郡朝倉村まで一六里を数えることができる。
 昭和五六年から国府位置と推定される今治市富田地区で、伊予国府位置確認の発掘調査が行われている。発掘場所は、窪田里・柳田里・胸高里・曽根里の里界線のクロスしている地点を中心にした方八町の地区であるが、ここには小御門・閑ヶ内・天井ヶ町・定入道等国衙を推定させるホノギや、また、これに接して南海道駅路の越智駅に比定される御厩のホノギもあり、国府位置の有力な場所である。さらに、この周辺にはかうまがり(窪田里)、小幡(胸高里)のホノギもあって、これらは国府の名称と直接かかわっている。

 野間郡の条里

 野間郡は、浅川・品部川の形成した埋積谷を中心領域として、高繩山地から流出する宮脇川・山之内川・菊間川等に沿った狭小な沖積地を含んでいる。まとまった平野はないが、怒麻国造も設置され、矢田・神宮・野間(以上今治市)・宮脇(大西町)の丘陵部には古墳が集中的に分布し、開発の古いことを示している。したがって条里も樹枝状の谷の末端まで食い込んでいる。ただ、菊間町域(賞方郷)については条里的な地割はあるが確認はできない。条里方向は地形に合わせて多様で、野間郡の主領域の山路・阿方・延喜(いずれも今治市)にかけて北一七度東、紺原(大西町)・宅間(今治市)の北一一度西、山之内、宮脇(大西町)の北二八度から三二度西、星の浦(同)の北一四度東、別府(同)の北四〇度西の条里がある。
 条里関係記録では、建長八年(一二五六)の検注所下文(大山積神社文書・一七五)に、「宅万郷揚田里廿五坪参段佰弐拾歩(中略)同郷弘道(里脱落か)八坪参段」とあって、宅万郷にある二か里が示されている。また、元亨元年(一三二一)の道一・道覚連署譲状(布施巻太郎氏所蔵文書・四九六)によると、「大井郷塩別府」に「ひふたの里十一のつぽ」、「三船里十七のつぼ、(中略)但十八のつぼのしゃうせう殿が作田をはのそく」、「こすげの里の廿五のつぼ(中略)廿七のつぼ一反かりや田也」として、三か里と五個の坪名があげられており、このうち、「こすげの里二七坪一反」に「かりや田」と注記されているが、別府の刈屋川に沿うて、標高四・五メートルの位置にかりやと呼ぶホノギがあって、ここにはごく狭い範囲であるが条里もある。
 山之内川を二・ニキロメートルさかのぼった標高三五メートルの位置に、市ノ坪のホノギもあって、条里も分布し、条里方向は下流部と異なった北一六度東を示している。条里復原は遺存坪名が少ないので不明である。

 風早郡の条里

 条里の復原に直接結びつくものに文明一八年(一四八六)の宗昌寺領坪付(宗昌寺文書・一五三三)がある。これによると、寺領のうち、条里地域に分布するものは、里と坪によって位置が指示されている。寺領の分布する里は一六個、坪数では一二〇(実数)にも達している。坪にはホノギが併記され、しかも、この中には現存するものもあって、条里の復原にはきわめて好都合である。坪並は、里の手前左隅を一ノ坪として西に進み、折り返し式に里の東手前右隅三六ノ坪に終わる地番法である。各里に含まれる現存のホノギとの関連で、里の位置が判明するものは、鳥熊里・亀井里・松原里・大木里・宗弘里・黒染里(以上那賀郷)、頭日里・社田里・苗代里・堤田里・木村里・芦田里・於夫田里(以上本郡郷)の一三か里である。残る鏡田里・基野辺里・久貴田里の三か里についても、いずれも本郡郷に含まれていること、また寺領の記載順序からその位置を推定することができる。
 寺領のある鏡田里八~九坪、木村里八坪は立岩川と重なり合っているが、これは、流路の変動によったもので、立岩川はもと、国津比古命神社のある正岡丘陵の崖下を八反地から中西内を通り海に注いでいた。このコースは寺領の記述内容からもたどることができる。条里設定の場合、旧立岩川の流路を傾斜方向と判定して、これに平行した今の宗昌寺のある残丘から鹿島に至る見通し線を基準線に、この線上に直交する腰折山(二一四メートル)の見通し線を基線として条里地割を施行したものと考えられる。
 『和名抄』には粟井・河野・高田・難波・那賀の五郷があって、平野の広さに対する郷数は野間郡に次いで多い。これは背後の丘陵・山腹・山脚に分布する約三〇〇個の古墳が、前面の水田、集落に対応する古墳群として分布すること、また風早国造も設置されていたことと考え合わせ、開発の早期に進んだことによる当然の結果であろう。寺領の記録には本郡郷とあるのは、難波・高田郷を含めた名称である。

 和気郡の条里

 幅二~三キロメートル、長さ六~七キロメートルの堀江地溝帯は、主としてこの方面に流入していたと推定される湯山川を中心に、藤川・権現川等の放出する砂礫によって埋立てられ、海岸線は次第に後退し、いわゆる堀江低地帯が形成された。鴨川・久万川はかつての湯山川の下流部であろう。平野面はきわめて低平で、条里は海岸線からほぼ一五〇〇メートルの範囲を除く全域に分布している。なお、和気郡の主条里とは分離して、古三津(姫原郷、現松山市)及び福角から権現(大内郷、同)にも条里の痕跡をとどめている。
 正安二年(一三〇〇)六波羅下知状案(三島家文書・三七〇)に「和介本郡下津平田里参坪内、河並里九坪伍段、同卅五坪伍段、同郡内下津平田里参坪伍段、同四坪弐段」とあって、和気本郡(大内郷)にあった二つの里名があげられている。また、正中二年(一三二五)の地頭越智章長引渡状(大山積神社文書・五一五)によると、和気本郡内に「三戸津田里一坪」があった。このうち河並里は平田町(松山市)のホノギ河村を含む里に比定される。
 遺存坪名と考えられるものに、高木(高尾郷、現松山市)の市ノ坪池(坪三個の広さ)、平田(大内郷、同)の二ノ町、御幸(姫原郷、同)の一ノ坪のホノギがあるが、これを直接条里の復原に結びつけることは困難である。
 志津川(大内郷、同)が方六町の領域であることに着目して、この境界線を里界線として和気郡条里が復原されている。ところが、志津川の北隣にある前掲の高木についても、志津川に対して二町西にずれて、多少の出入はあるが、これまた方六町の領域である。この高木の方六町を里界線に想定すると、高木の市ノ坪池の中央が一ノ坪の位置となって、志津川の方六町を里界線とした場合より多少説得力を持っている。ただ里界線が推定されても、坪並が判明しないので、条と里の進行方向は不明である。しかし、松山平野の他郡と同様とすれば、条は東から西へ進むことになり、また、地形に合わせたとすれば、条は南から北に進んだことになる。

 温泉郡の条里

 花崗岩地帯の高繩山地を流れ出た石手川は、多量の土砂を流出し、松山市石手を扇頂として松山旧市街を含む半径五キロメートルの大扇状地と、その前面には広大な三角州を形成した。条里遺構は、この堆積面のほぼ全域にわたって分布している。温泉郡と久米郡・伊予郡との郡境は、石手川・重信川堆積面との境界とほぼ一致している。
 温泉郡の条里関係文書はわずかに二つで、このうち正安三年(一三〇一)の六波羅下知状に「垣生郷内三宅里卅四坪弐段、恒弘名東方地頭代重明令押領」(三島家文書・三七二)とある。垣生郷は『和名抄』の埴生郷で、温泉郡の西端にあって、三宅里は垣生郷に所属していた。永禄一〇年(一五六七)の河野通宣左京大夫安養寺石手寺由緒書并同寺寺領寺宝等目録(刻板文書)(石手寺文書・一九九二)に「一、元日御供田二段小池尻里(中略)一、神楽田三段小蛇田里尊田(中略)一、寺領拾五町神田里枝松庄明地頭領家一段小明神燈油田」とあって、池尻里・蛇田里・神田里は、温泉郡の東部を占める桑原郷に含まれると推定される。
 遺存坪名は松山市立花(立花郷)に一ノ坪、同小坂(桑原郷)に七ノ坪、同南斎院(埴生郷)の九ッ・十地・南十八(二か坪の広さ)・北十八(三か坪の広さ)、同別府(埴生郷)の三十六のホノギがある。このホノギから坪位置を復原すると、立花の一ノ坪は正規位置、小坂の七ノ坪は東隣から転移、南斎院の九ッは正規九ノ坪の位置、十地は南隣一〇ノ坪から転移、南十八は東半分が正規位置、別府の三十六は斜横隣三六ノ坪の転移である。したがって、里の東南隅を一ノ坪として西に進み、六ノ坪の北に七ノ坪を折り返し、以後同じ要領で里の東北隅三六ノ坪に至る坪並である。したがって、条は東から西へ、里は南から北へ進行するが、旧桑原村にある三町を「サンジョウ」と呼ぶことから、ここを三条とすれば、海岸まで一四条を数えることができる。里は伊予郡・久米郡との郡境が起線となるので、和気郡との郡境まで六里が数えられる。里は伊予郡と整合するが、条は一町西にずれている。久米郡とは条・里ともに一町の食い違いがある。昭和四七年発見された古照遺跡(松山市南江戸)は、条里制地割のある水田の地下五メートルに埋没した古墳時代前期の遺跡である。

 久米郡の条里

 久米郡は、西は伊予郡、南は浮穴郡、北は温泉郡と接し、重信川以北の広大な領域を占めている。このうち条里の敷かれているのは松山市久米(吉井郷)以西で、これ以東の広い面積を占める扇状地には分布していない。
 古く久味国造の支配領域であった久米郡は、藤原宮から出土した木簡にも久米評(大宝令以後は郡)とあって、郡の成立はきわめて早かったものと考えられる。
 元慶五年(八八一)当時久米郡には三郷あった(類聚三代格・二六)。天平二〇年(七四八)の「久米郡天山郷」(正倉院文書・七)、天平勝宝二年(七五〇)の「久米郡石井郷」(正倉院文書・九)、残る一郷についての記録はないが、久米郡の中心地久米付近を含む吉井郷と推定される。したがって、『和名抄』の編纂されるまでの約五〇年間に神戸郷・余戸郷の二郷が加わったことになる。開拓前線が西から東へ進むので、この二郷は吉井郷の分郷とするのが妥当であろう。松山市平井谷から同北梅本付近に条里遺構らしいものがあるが、あるいはこの付近に余戸郷があったのではなかろうか。
 正安四年(一三〇二)の信智・花阿陀仏譲状に「合参段者在石井郷内米田里十三坪 北依西依 右件田地者、往古本屋敷地也」(善応寺文書・三七六)とあって、石井郷は現在の伊予豆比古命神社の氏子部落を含む領域であるが、米田里についてはその所在は不明である。
 久米郡は、地租改正のさい、ホノギが一丁目・二丁目に改正された場合が多いので、旧ホノギの多くは消滅することになった。松山市居相(石井郷)に俗称として市ノ坪のホノギがある。同和泉・古川(石井郷)と旧伊予郡との郡境の五町東に、古川と和泉との境界がある。この間隔は、旧伊予郡の条に接合すると六町になる。この古川と和泉の境界線を基準に、六町間隔に南北線を引くと、古川と西石井・居相、西石井と東石井、星岡・越智・土居と北久米・今在家との境界は、いずれも六町間隔の配列線に沿うている。これに、居相のホノギ市ノ坪を正規一ノ坪と想定すると、久米郡の条里図が復原できる。これによると、条は伊予郡と整合するが、里は一町のずれになる。また、市ノ坪の北一町を正規一ノ坪の位置とした場合、条里共に伊予郡条里と整合することになる。
 『伊予国風土記』逸文の天山を伊予郡に含めた記述、『延喜式』神名帳に、伊予豆比古命神社を伊予郡に含めていることなど、この問題を解決するためには、久米郡の条里を確定することが必要である。

 浮穴郡の条里

 平城京出土の木簡に「温泉郡井門郷大田里」とあるが、『和名抄』には井門郷は温泉郡にはなく、浮穴郡に含まれている。したがって、浮穴郡とすべきを温泉郡と誤記したのか、あるいは、温泉郡とともに国造制から移行した郡でないための一時的な措置か、明らかでない。
 浮穴郡四郷のうち条里の分布するのは、重信川以北にある井門郷のうちの高井以西、それに、重信川以南にある荏原郷に属している旧荏原・坂本両村(ともに現松山市)である。なお、南岸・北岸とも、重信川に接近するのに従って条里地割は消滅する。これは、北岸にある松山市森松・同高井の飛地が南岸に分布することとともに足立重信の伊予川改修以前は、洪水のたびごとに氾濫・乱流を繰り返したことを示すものである。
 遺存坪名が見当たらないので、条里復原を確定することはできない。しかし、試案ではあるが復原の根拠として、旧久米郡窪田と来住との境界がそのまま旧浮穴郡に入って、高井と南土居との境界線に接合していること、したがって、この境界線を重視して南北方向の里界線に設定し、また東西方向の里界線として、旧久米郡との郡境より南六町に南土居と森松との境界線があるので、これを里界線と仮定した。これらの里界線を基準に浮穴郡の条里図を作成した。これによると、浮穴郡の条里は伊予郡に対して、条は三町のずれ、里は整合し、また、久米郡に対して条は三町、里は整合することになる。

 伊予郡の条里

 重信川氾濫原の南部を占める伊予郡は、東の浮穴郡、北の温泉郡・久米郡と条里の地割線で境している。南は伊予断層の崖下に発達した複合扇状地で限られているが、条里はこの部分にも一部食い込んでいる。伊予郡は古代の先進地域でもあり、条里の実施も当然早かったものと考えられる。条里遺構は海岸低湿地及び複合扇状地の急傾斜面を除いて、ほぼ平野の全面に分布している。条里方向は正方位を示し、ただ、南西部の伊予市上吾川から森川流域にかけて北四五度西の条里がある。
 条里坪付関係の記録はほとんど発見されていない。わずかに永正七年(一五一〇)同一二年の曽根高吉寄進状(大洲旧記第十上吾川村・一六〇一・一六一七)に「くほ田壹反(むらいのはら)みなみのより、十四之坪ニ壹反 ひかしのより、ぬのへニ壱反」、「郷窪田 壹段、十四坪二反、同三谷河壹反」とあるのが唯一の記録である。
 遺存坪名は伊予市下三谷(吾川郷)に七・南十四・中十四・北十四・十八・はたち、同市宮ノ下(神崎郷)に八ヶ坪のホノギがある。このホノギから坪並を復原すると、七、八、一八、二〇ヶ坪は、それぞれが正しい位置で、中十四が正規一四ノ坪に当たることが明らかになった。この坪並の復原から、条は郡の東端にある八倉から西へ進み、里は南から北へ進行することになる。
 伊予市上吾川以南の北四五度西の条里については、上吾川(吾川郷)に市ノ坪・十合(一五と推定)の地名があるが、ホノギが広範囲を呼ぶ小字名であるため、復原には利用できない。重信川北岸に伊予郡の条里(余戸郷)があるが、南岸と合わせた統一的な条里が施行されている。
 伊予郡の郡家について、『伊予国風土記』逸文から神崎郷にあったものと考えられる。この神崎郷には、伊予神社(大社)と高忍日売神社(ともに松前町)および伊曽能神社(伊予市)の式内三社があり、また、昭和五二年の圃場整備工事のさい、松前町出作のホノギ町畑から五世紀と推定される大規模な祭祀遺跡が発見された。この遺跡の約二〇〇メートル西の同じく出作にイヨ本郷のホノギもあるので、この周辺に郡家があったと推定されている。またホノギ町畑は、温泉郡を通った南海駅路(延暦一六年に廃止)のほぼ真南に当たり、伊予郡の場合もおそらくこの付近を経由して、東の浮穴郡、南の宇和郡方面に通じていたものであろう。

 喜多郡の条里

 肱川は、下流部の隆起にともなって流れはきわめて緩やかで、長浜から一二キロメートル入込んだ大洲盆地の標高は、わずかに一〇~一五メートルである。したがって、洪水のたびごとに氾濫を繰り返し、大洲盆地には肱川に沿って自然堤防と、その背後には後背湿地が形成された。新谷・徳森・市木・田ノロ(いずれも大洲市)と続く水田地帯は、この後背湿地に立地したものである。前面の自然堤防にさえぎられ、肱川及び支流矢落川からの引水は困難で、背後の溜池が整備されるまでは専ら天水田であった。大洲盆地で水田がまとまって分布するもう一か所は、久米川が肱川に合流する手前の埋積谷の部分である。
 この両地域はとも条里の遺構をとどめている。条里方向は、新屋郷(和名抄)で北一〇度西、徳森以西から久米地区にかけては北二〇度西を示している。大洲盆地周辺には古墳はきわめて少なく、新谷・阿蔵に数基発見されているに過ぎない。このことは、律令時代も後期に入った貞観八年(八六六)喜多郡が宇和郡から分離独立し、さらにこの直後の天慶八年(八八四)には課丁(人頭税負担者)の増加で、郡司一名が増員(類聚三代格・二七)となった。これらはいずれも、喜多郡の条里開発のおくれたことを示すものであろう。

 宇和盆地の条里

 宇和盆地は肱川上流に当たる宇和川流域にあって、標高は二二〇メートル前後、成因は洪積世の湖盆が埋積して形成された盆地である。宇和川の段丘化はまだ盆地面では波及していない。したがって、盆地中央部は低湿で、集落はもっぱら高燥な盆地周辺に位置している。
 『先代旧事本紀』天皇本紀景行天皇に、国乳別皇子を宇和別君として派遣したとある。また、盆地の背後にある丘陵には、多数の後期古墳群が分布して、大化前代から盆地面の開発が進んでいたことを示している。宇和郡の成立もごく早い時期で、藤原京出土の木簡に「宇和評」とあることから、大宝令制定までには存在していたことになる。貞観一六年(八七四)には宇和郡は人口増加で一郷が加えられ四郷となった(類聚三代格・二四)。このうち、石野郷、石城郷は宇和盆地を主領域としていた。したがって、条里制が施行されたことは当然考えられる。
 宇和盆地の東部にある宇和町清沢(石野郷)は、明治四三年から大正四年にかけて耕地整理が実施されたが、実施以前の図面に、一町間隔に配列する坪割と、南北方向を示す典型的な長地型の地割のあることが確認された(『宇和町誌』六〇頁に図面の写真が掲載されているので参照されたい)。しかし、耕地整理によってこの地割の消滅したことはいうまでもないが、基本的には、坪割は一町間隔の地割として、そのまま受け継がれている。ところが、坪の内部については、南北の農道で二分され、これを東西方向の一段の一筆割で左右六筆、都合一二筆に区分された。耕地整理の結果として、坪の一〇筆割が一二筆割に組み替えられ、しかも、南北方向の長地型から、東西方向の半折型の地割に転換された。
 確実な遺存坪名は発見されていないが、清沢と杢所との境界を里界線として、二畔をニノ坪、七枝を七ノ坪と想定し、坪並を復原すると、里の東北隅を一ノ坪として南に進み、七ノ坪を六ノ坪の西に折り返し、以後同じ要領で里の西北隅三六ノ坪に終わる呼称法となる。このような坪並に想定すると、条は北から南へ、里は東から西へ数えることになる。宇和盆地は全域にわたって耕地整理が実施されているので、広範囲の条里の復原は困難である。

 三間盆地の条里

 三間盆地は、四万十川・広見川水系の最上流に当たる三間川の流域にあって、標高一五〇メートル前後の細長い盆地である。成因は、宇和盆地と同様に、洪積世の湖盆が埋積して形成された。盆地北側には、成家・戸雁・宮野下・中野中・金銅(いずれも三間町)の二~三キロメートルにも達する樹枝状の埋積谷が分布し、これに対し南側の迫目・土居中(同)には扇状地が発達している。三間川の流水量は水源地に近いため、きわめて少なく、盆地内の水田化は、谷頭および山麓に築造した溜池によって進展した。盆地面は排水不良のため低湿で、集落はすべて背後の山麓に位置している。
 この三間盆地は、宇和郡四郷(和名抄)のうちの三間郷に含まれ、条里地割もごく一部ではあるが、三間町務田で確認することができた。なお図示した耕地図はその一部である。秋成・市坪・石橋・クツノミ・七反ノ町は、耕地整理が実施され、現状とは大きく異なっているが、その他の部分は現状のままである。この図からも分かるように、条里の坪割は、ほぼ明確であるが、坪内部の一筆割について整然とした地割は認められない。市坪(三筆ある)の北は成家との境界線で、この配置から考えて、坪並は北から南へ進んだものであろう。したがって、条は北から南に進行したことになる。

図2-1 条里のしくみ

図2-1 条里のしくみ


図2-2 旧妻鳥村(現川之江市)の地籍図の一部

図2-2 旧妻鳥村(現川之江市)の地籍図の一部


表2-4 仁和寺法勝院寺領分布表(豊村庄)

表2-4 仁和寺法勝院寺領分布表(豊村庄)


図2-3 宇摩郡の条里図(東半分)

図2-3 宇摩郡の条里図(東半分)


図2-4 新居郡の条里図

図2-4 新居郡の条里図


図2-5 周敷郡・桑村郡の条里図

図2-5 周敷郡・桑村郡の条里図


図2-6 今治市富田付近の地籍図

図2-6 今治市富田付近の地籍図


図2-7 越智郡の条里図

図2-7 越智郡の条里図


図2-8 宗昌寺坪付文書復元図

図2-8 宗昌寺坪付文書復元図


図2-9 風早郡の条里図

図2-9 風早郡の条里図