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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 白村江の戦いと伊予の豪族

 白村江の戦い   

 六世紀の朝鮮半島は激動の時代である。この時代、新羅の対外的発展が百済・高句麗との間の緊張関係をもたらし、これに加えて唐の半島進出がこの情勢をより複雑にした。六世紀前半、新羅はまだ強固な統一政権が樹立されていない加羅諸国への侵入を始め、六世紀後半、それを滅亡させた。いわゆる任那日本府の滅亡である。さらに、従来より親日的であった百済もまた斉明六年(六六〇)に滅亡するに至った。しかし、百済の臣鬼室福信らは大和朝廷に対し、救援軍を依頼した。朝廷はこの要求を受け入れ、翌斉明七年(六六一)斉明天皇らの一行は難波を出発し、備中国から伊予の熟田津を経て筑紫に向かった。九州の朝倉宮に到着した天皇は同年七月、高齢のため死去したが、派遣軍の準備は続行された。そして天智称制二年(六六三)、ついに二万七千人に及ぶ軍隊の派遣にふみきった。
 白村江の戦いは同年八月二七日から二八日にかけておこなわれたが、「ときのまに官軍敗れぬ」(日本書紀)とあるように大敗を喫し、まさに「白江赤し」(旧唐書)の惨状を呈することとなった。この敗北は大和朝廷に大きな衝撃を与えた。朝廷は直ちに対外防備の充実をはかるとともに、敗戦後の国内の動揺を防ぎ、その支配を強固にする必要から律令国家の建設に本格的にとりくむことになった。それでは、白村江の戦いは伊予国においてどのような影響をもたらしたのであろうか。

 越智直

 この白村江の戦いに参加した伊予の豪族に越智直がいる。彼に関する記事は仏教説話集である『日本霊異記』にみえる。ここでは同書によって越智氏の動向について述べていくことにする。
 まず、同書の内容は概略次のようなものである。伊予国越智郡の大領先祖越智直は白村江の戦いに参加したが唐軍に捕われた。同じ島に住む同族八人は観音菩薩像を信仰し、舟を造り、帰国できるように祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府は事情を調べたが、天皇は憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は郡をつくり、そこを治めたいと申し出、天皇はこれを許可したというのである。この越智直について『予章記』越智系図第二〇代越智守興に擬する説もあるが、同書そのものの信頼性が低いため、疑問としておくのが妥当であろう。
 ともあれ、越智直は大領の先祖とされていることから越智郡内の有力豪族であったことは疑いない。また、越智氏は小市国造の系譜をもつ伝統的勢力であることからみて、白村江の戦いにおいても一兵士として参加したのではなく、その一族や農民を率いた指揮官の立場にあったと思われる。そして、推古期に越智氏が海上に根強い勢力を有していた紀氏と結びついていることなどから(続日本紀)、越智氏もまた水軍兵力をもって外征に参加したと考えられる。
 ところで、さきの説話の中に観音菩薩信仰がみられる。彼らはかつて在来の氏神信仰を持っていたと思われるが、それに頼ることなく仏教の加護を求めている。それは氏神信仰によっては抑留という困難な状況から脱出することが不可能であり、ここに従来の共同体を超えた信仰の必要があったのであろう。また、朝鮮での敗北は越智直の在地支配にも深刻な影響をもたらしたであろう。そこで彼は寺院を建立し、新しい外来文化を伝えることによって自らを権威づけ、越智郡内における在地支配を維持・再編しようとしたと思われる。それゆえ、仏教信仰は単なる信仰にとどまらず、このような政治的意味をもっていたということができる。
 このことは、建郡(評)についても同様である。越智氏は旧来よりこの地域の最高首長である国造であった。しかし、国造の支配する領域内には多くの中小豪族がおり、彼らはいずれも独立性が強く、その支配は比較的ゆるやかなものであったと考えられる。このような状況下での建評は大和朝廷の支配により深く組み込まれることを意味するとともに、越智直の側からみれば、地方官吏として朝廷の権威を背景に支配できるという利点もあったわけである。このように、白村江の戦いを契機として越智郡に律令的な地方行政組織の前身である評が成立し、郡制創始の前提条件が形成されたのである。

 物部薬

 伊予国風早郡の人、物部薬は白村江の戦いの時に出兵し、その結果、三〇余年の長期間にわたって唐に抑留された。帰国した後、朝廷は彼の忠節を賞して持統一〇年(六九六)に追大弐を授け、絁四匹・絲一〇絢・布二〇端・鍬二〇口・稲千束・水田四町を与えたと記されている(日本書紀)。この時、与えられた追大弐の位階は大宝令以後の官位では八位にしか相当しない。それゆえ、彼は地方豪族として指導的立場にあった人物ではなく、おそらく一般の公民であったと思われる。
 ところで、百済救援軍に参加した兵士の本貫地をみると、陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予であり、陸奥国を除けばすべて西日本地域に集中している。また、備中国邇磨郷で兵士が徴発された例があり(風土記)、物部薬の場合もこのような兵士徴発の際に参加したものと思われる。したがって、この例からもわかるように、百済救援軍は地方豪族層はもとより、彼らの支配下にあった多くの一般公民層をも含んでいた。このような広範な兵士の動員は兵士自らの負担であるだけでなく、兵士を徴発された地域にも過重な負担を強いる結果となった。そのことが従来の氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていった。つまり、白村江の戦いは伊予国をはじめとする西日本の地域において律令的支配を促進する要因として作用したのである。

 国造軍の遺制

 律令制の成立以前、地方の軍事組織は主として国造支配下の軍隊、いわゆる国造軍であった。この国造軍が外征に動員されたことは雄略・欽明・推古朝などの記事からも明らかである(日本書紀)。
 先にみた伊予国の越智直や、これと同じく白村江の戦いに参加した備後国三谷郡の大領の先祖などの例(日本霊異記)は、その代表的なものであろう。律令制下の軍団制や防人制などでさえ、国造軍の遺制が濃厚に残存していることからみれば、天智朝の百済救援軍が国造層を中心に編成されたことは当然であった。したがって、国造の系譜をもつ越智直などの外征軍への参加は例外的なものではなく、むしろ、当時の一般的状況を反映したものであったといえよう。

図1-2 百済派遣軍の進路

図1-2 百済派遣軍の進路