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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 伊予の国造

 国造制の成立

 大和朝廷の最も古い地方組織は県であり、これは一般に国造制に先行するものと考えられている。全国的な県の分布をみると、大和・河内・吉備・筑紫など、畿内や西国地方に集中しており、そこから伊予国にも県が設置された可能性も考えられる。しかし、伊予国の県についての史料は皆無であり、現在は、わずかに地名からその存在の可能性を推測するにとどまっている。文献からみる限り、伊予国には県は存在しなかったとするのが妥当であろう。したがって、大和朝廷が伊予国を支配した最初の行政制度は国造制であったと考えられる。この国造制は大和朝廷の地方支配の制度であり、国家成立の重要な指標ともされている。しかし、その実態や内容については案外不明の事が多く、それは伊予の国造についても同様である。
 伊予の国造についての基本的な史料は『先代旧事本紀』所収の『国造本紀』である。これは、一〇世紀初頭に国造家の家譜類を材料として編纂されたものであるが、内容的に矛盾もあり、また、大宝令以後の国名や郡名と多く一致することから、その信頼性に疑問がもたれている。しかし、一方で、国造名と令制下の国名や郡名とが相違するものもあり、また、令制前の国名などのみえることから、六世紀~七世紀にかけての国造の存在を反映したものとみなす見解もある。そして、『国造本紀』には何らかの原史料があったと思われ、大化前代の状況をある程度反映しているといえよう。
 ともあれ、同書にみえる国造の数は一三五にのぼり、その分布はほぼ全国に及んでいる。そして、その成立した時期は成務・景行期に集中しており、さらに、一一次にわたる国造の拡大が記されている。この成立期についてはそのまま認めることはできないとしても、この記事によって国造制が数時期にわたって編成・拡大されたことは確かであったと考えられる。

 伊予の国造の分布と出自

 さきに述べた『国造本紀』にみえる伊予の国造は、表1―1に示したとおりである。一般に、国造は一国一員のところが多いが、表1―1からもわかるように、伊予国の場合五氏あり、このような小国造が分立しているところにその特徴がある。また、この国造名と令制下の郡名とが全て一致していることから、国造の系譜が造作された可能性も否定できない。しかし、伊予国の古墳の分布をみた時、国造の設置されたとする地域には伊予国の代表的な古墳が多く存在しており、他地域と比較して明らかに優越した状況を示している。それゆえ、これらの地域に国造が存在したことについてはかなりの妥当性があると思われる。
 つぎに、それらの分布は今治市から松山市の限られた範囲に集中しており、その他の地域には一名の国造も見出すことはできない。このような国造の存在しない空白地域が大和朝廷の支配が浸透しなかったことを必ずしも示すものではないが、その支配が国造の存在する地域より遅れた可能性は考えられよう。このような分布のあり方は、古代伊予の生産活動や地域発展の状況を示しているようである。また、国造の分布する地域はいずれも瀬戸内海沿岸に面しており、古代の海上交通との関連にも注意する必要がある。
 さて、『国造本紀』にあらわれた国造の系譜について述べていくこととする。表1―1に示したように、まず伊余国造は速後上命であり、印幡国造の祖先である敷桁波命の系譜をもつと記されている。しかし、『古事記』には速後上命は神八井耳命の後裔とあり、両書の間に矛盾がみられることから、その系譜には疑問の余地がある。
 第二に、久味国造は伊與主命とされ、神魂尊の一三世孫という系譜をもっている。しかし、一方で、伊與主命は神魂尊の八世孫味日命の後裔とする系譜(新撰姓氏録)もあり、ここでも伝承に相違がみられる。また、一三世孫というあいまいな表現をしていることからも、この系譜の信頼性は低いというべきであろう。
 第三に、小市国造は小致命とされ、物部連と同祖である大新川命の孫であると記されている。この大新川命は饒速日命の七世孫建膽心大禰命の弟であるとされており(天孫本紀)、垂仁天皇の時代にはじめて大臣となり、物部連の姓を賜わって大連となったが、大連の名はこの時よりおこったとされる。
 このほか、怒麻国造は若彌尾命であり、阿岐国造と同祖である飽速玉命の三世孫とされ、また、風早国造は阿佐利であり、物部連の祖である伊香色男命の四世孫の系譜をもつとされている。
 このように、久味国造は孝元天皇に関係をもつ皇神別であるが、その他の国造は物部・印幡・阿波など他国の国造と同祖という伝承をもつ。これらの中で比較的信頼できると思われるのは物部連の系譜をもつ小市国造・風早国造であろう。それは、伊予国に物部氏が多く分布していることから確かめられる。しかし、久味国造を含め、伊予の国造の系譜が確実とはいえず、たとえば、これらの系図に一三世孫、四世孫というようなあいまいな表現が多くみられることからもそれをうかがうことができる。いずれにせよ、これらの系譜が成立した背景には大和朝廷の勢力拡張という情勢の中で伊予の国造層はみずから朝廷と結びつく系譜をつくり、また、それを誇示することによって国内の中小豪族層との格差を明確にするという目的があった。それによって在地支配を有利にすることができたと考えられる。

表1-1 伊予の国造

表1-1 伊予の国造