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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

一 文字の普及と律令制

 文書としての木簡

 全国各地で文字が使用されはじめるのは七世紀、それも後半期の律令制が実施されるころからである。庚午年籍(天智天皇九年=六七〇)制定以後、全国的に戸籍が作成されはじめると諸国に書生(書記官)が配置され、文字は普及することとなった。
 律令体制は中央集権的な官僚国家であり、そのためには文書による支配、行政制度の確立が必要であった。しかし、紙が貴重品だった古代には詔勅など特別なものを除いて事務連絡用の文書、帳簿(付札)や習書などには木簡が用いられた。
 木簡の貢進付札に書かれた納税者の氏名、本籍地、税目の種類、品目、量、収納年月日などは文字の普及を示すとともに律令支配が全国に及んだことを意味している。ところで、七~八世紀ごろの伊予にあっては、文字はどの程度まで普及していたのだろうか。また、租税体系など律令支配の仕組も木簡から検討し、その一端を明らかにしたい。

 木簡からみた社会と税制

 現在、伊予国に関した墨書痕のある木簡は一八点であるが、ほかに形状からみてほぼ木簡と断定しうるものが四点あり、これを合わせると最低限二二点の木簡が確認されていることになる。その概要は次のとおりである。(5―6)
 5、14は周敷郡の郷戸主丹比連道万呂や温泉郡箆原郷戸主千縫田人が白米(春米)一俵を貢進した付札である。
 付札は貢納物につけた一種の荷札であるが、それには単なる物品の整理用付札と貢進用付札の二種がある。後者は地方の特産物である調、春米、天皇の飲食物に供する貢進物である贄、一七~二〇歳の男子に課せられた貢納物の中男作物など租税につけられた木簡である。
 文中の郷とは里を改称したものである。大化改新以後、五〇戸で一里とし、里長を定めて村落行政をおこなったが霊亀元年(七一五)、従来の里を郷と改称、その下部組織として新しく一郷に二~三里を置きそれぞれ郷長、里正を任じた。郷戸はこの霊亀元年の郷里制とともに成立したもので、郷戸は戸籍・計帳の作成、租庸調の徴収、口分田の班給における基本単位となった。郷戸は房戸一~三戸から構成されており、房戸が実際の生活の基本単位であったとみられている。木簡に記された郷戸主はこうした郷戸の家長であり、彼らが租税制度などを通して律令支配の末端に組みこまれた最下部の識字層であったと思われる。そして彼らの多くが地方豪族の族長かその一族であったことは木簡にみえる鴨部首加都士や他の文献資料からも推察されることである。
 次に白米であるが、これは諸国の国衙が貯蔵する正税を精白して京進する春米のことである。白米とある4、14や16も春米付札である。
 さて、1、2の木簡は藤原宮から出土したものであるが、評とあるところから大宝令(七〇一)以前の木簡で、久米郡、宇和郡の前身が久米評、宇和評であったことを裏付ける貴重な資料である。3の中男作物は賦役令で定められた「調副物」に代わって養老四年(七二〇)から中男に課せられた作物のことで伊予国では紙、砥、鯖などがあった。
 9は付札とは異なり官職名を書いた文書用木簡である。17は第一節で述べたように官衙遺跡推定地出土の文書用あるいは習書用木簡であるが、18と同様に文字は解読されておらず内容は明らかでない。
 以上の木簡以外に文字の普及状況を知ることができる資料は墨書土器である。前川Ⅰ遺跡(松山市北久米)出土の墨書土器は土師器皿の底部外面に「甲」を、久米窪田Ⅱ遺跡のそれは須恵器の杯の底部外面に「上」と墨書している。文字は器物の所属や場所を意味しているのであろう。前川Ⅰ遺跡は白鳳時代の来住廃寺跡に近く、同廃寺や久米窪田Ⅱ遺跡との関連が注目される。
 このように木簡や墨書土器からみた文字の使用者は地方にあっては郡司などの官人、地方豪族、僧侶などの寺院関係者、郷戸主などに限られたであろう。先にみたカメ谷窯跡出土の「庄」、「加」などの文字は仮に指導者的工人が書いたとしても窯印などの意味合も考えられ、特殊な例とみてよかろう。むしろ、この場合は律令制度を衰退させた荘園の荘官層か工人を支配する者が書いたとみるべきであろう。文字の意味は、「庄」は庄司あるいは新居庄の庄をさしているとも考えられるが断定はできない。
 文字は律令国家や社会を維持するための手段であり道具であった。この意味で文字は下級官人あるいは僧侶のシンボルといってよかろう。

5-6 久米窪田Ⅱ遺跡実測図

5-6 久米窪田Ⅱ遺跡実測図


5-43 伊予国関係木簡一覧表

5-43 伊予国関係木簡一覧表