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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

二 銭 貨

 貨幣制度の導入と皇朝十二銭

 律令社会を特色づけるものの一つに貨幣の出現がある。七、八世紀の経済は一般的には米、布を中心とした物々交換の時代であったが政府は他の律令制度と同じように貨幣制度の導入をはかるため鋳造貨幣の制度を唐から導入した。文武天皇三年(六九九)の鋳銭司の設置などはその例である。本格的な貨幣である和同開珎に先立って貨幣の先駆ともされる無文銀銭がつくられた。このことは大阪府船橋遺跡や奈良県川原寺塔跡などから出土例があることからも知られていることである。
 八世紀になると和同開珎にはじまる皇朝十二銭が鋳造されはじめた。和同開珎(一文目=三・七五グラム)は唐の開元通宝を参考にして、和銅元年(七〇八)、銀銭と銅銭の二種が催鋳銭司によって鋳造された。この年武蔵国秩父(埼玉県)から銅が献上され、これに因んで年号が和銅と改元されたことはよく知られている。
 貨幣発行の目的は律令国家体制の整備、貨幣経済の導入などにあったが、一つには膨大な国家予算を要した平城京の造営を推進するためであったともいわれている。このような国家事業を推進するためにも多額の銅銭が発行され、その結果、銭の価値を落とし和銅三年(七一〇)に米一斗が三三文であったものが、天平宝字三年(七五九)ごろには四〇文から五〇文に値上がりしたという。これより先、政府は銭の流通をはかるため和銅四年(七一一)禄法を定め、禄の大部分を銭で支給する一方、蓄銭叙位令を出し、蓄銭を奨励していた。しかし、なお続く物価上昇に驚いた政府は天平宝字四年(七六〇)に銀銭「太平元宝」、最初の金銭「開基勝宝」、二番目の皇朝十二銭である銅銭「万年通宝」の三種類の銭貨を発行した。新銭の交換レート(率)は金銭一枚に対し銀銭一〇枚、銅銭一〇〇枚であり、また、以前の和同開珎一〇枚に対し銅銭の万年通宝一枚をあてた。貨幣価値の下落である。天平神護元年(七六五)には三番目の神功開宝の改鋳をおこない、旧銭一〇に対して新銭一とした。このように銭の品位を低下させて差益をかせぐ政策は皇朝十二銭の最後の貨幣である乾元大宝(九五八)まで続いた。なお、太平元宝、開基勝宝はともに皇朝十二銭には数えられない。
 このような政策と私鋳銭の流通は物価を高騰させ、宝亀二年(七七一)には米一斗あたり新銭で六〇文、もとの六〇〇文にもあがったという。この後も隆平永宝(七九六)、富寿神宝(八一八)、承和昌宝(八三五)、長年大宝(八四八)、饒益神宝(八五九)、貞観永宝(八七〇)、寛平大宝(八八九)、延喜通宝(九〇七)、乾元大宝(九五八)などの皇朝十二銭が発行されたがそれらの多くは旧銭を改鋳し、一対一〇の発行差益を目的としたものであった。和同開珎では銅の含有率が九〇パーセント近くを占めていたものが、延喜通宝、乾元大宝では三・一六パーセントから九パーセントにまで減少した。このような政府の政策や地域によって経済発展に格差があるなど、一般にはなじまなかったことなどが影響し、一〇世紀の律令体制の衰退とともに廃止されていった。こうした状況は一二世紀の日宋貿易によって流通経済が発展し、貨幣の需要が高まるまで続いた。

 伊予国における銭貨の流通

 伊予国は古くから銀、銅を産出していた。持統天皇五年(六九一)、伊予国司の田中朝臣法麿らが朝廷に宇和郡御馬山産の白銀三斤八両とあらがね一籠を献じ、また、文武天皇二年(六九八)の白鉛(錫)、朱砂の献上、天平神護二年(七六六)、安倍小殿小鎌が朝命により伊予国で朱砂を採取し、秦首の女をめとり、その子孫が伊予に土着したことなどによって知ることができる(日本書紀、続日本紀)。
 ところで、この鉱物資源と銭貨との関連であるが延喜式に「伊豫国鋳銭司俸料二萬八千束」とあり、伊予国における鋳銭司の存在が問題になる。これに関連して「三代実録」に「常乃鋳銭司」とあることなどから、これを宇摩郡土居町津根に比定する説もあるが定かでない。鋳銭司は持統天皇八年(六九四)にはじめておかれた令外官であるが、考古学的に確認されているところは山城(京都)、長門(山口)、周防(山口)である。寛平八年(八九六)の太政官符には周防国鋳銭司に鋳銭料物を備後、長門、伊豫、筑前、豊前、肥後等の諸国から送らせたとあり(類聚三代格)、すくなくともこの時期には伊予国に鋳銭司が置かれていなかったと思われる。しかし、いずれにしろ、鋳銭と伊予国は密接な関係にあったことは確かである。
 さて、伊予国内での銭貨の流通状況はどのような有様であったろうか。平安中期までの古代貨幣の出土地は新居浜市中村本郷(岡ノ窪)、同市黒島明正寺、周桑郡小松町、越智郡朝倉村字高太寺飛谷(山神社跡)、今治市国分、今治市桜井字旦などわずかしか周知されていない。
 新居浜市黒島の明正寺出土の銭貨は皇朝十二銭の一つ、承和昌宝(県指定)である。陶製の小壷に五〇余文納められていたもので明正寺建立のさい、鎮壇具として埋納されていたのではないかとみられている。承和昌宝は仁明天皇の承和二年(八三五)に詔勅によって鋳造された六番目の通貨である。
 新居浜市中村本郷出土の銭貨は和同開珎一枚である。岡ノ窪の畑地から宋銭七万三千八百余枚入りの銭がめが発見されたが、その中に含まれていた一枚である。中村本郷は新居郡家が置かれていたと推定されている地域である。小松町からは和同開珎七枚ほどの発見が報告されているが、その所在、出土状態などは明らかでない。
 越智郡朝倉村山神社跡出土の銭貨は和同開珎一二枚、万年通宝一枚である。この銭貨は須恵器小壷、瓶に埋蔵されていた。
 今治市国分の銭貨は和同開珎(一〇〇枚)で、江戸時代に現在の国分寺近くの谷から発見されたという(愛媛面影)。なおこの和同開珎のなかに、新(西暦八~二五)の王莽がつくったという「貨泉」が混入していたと伝聞されている。
 今治市桜井字旦のハサ又出土のものは皇朝十二銭の一つ富寿神宝である。宋銭約一万八千余枚のうちの一枚であるが、灰色の甕に埋納されていたという。
 これら銭貨の出土状況をみると新居浜市明正寺の承和昌宝を除き全般的に銭種も量もすくない。出土銭はその性格により備蓄を目的とした埋蔵、鎮壇・社寺への賽銭などを目的とした奉賽、無作為な放置品である遺失品などに大別できる。これまでにあげた県内出土銭はその出土状況からみて埋蔵、奉賽の性格が強い。
 出土銭の分布状態は宋銭を除き、これまでの資料から判断する限り古代の越智郡、新居郡に偏在しており、道後地区においては未確認であることを指摘できようか。このような実態からいえば、奈良時代の伊予国内ではさほど貨幣が通貨として流通していたとは思えない。地方によっては和銅四年(七一一)この蓄銭叙位令により銭貨の流通を奨励せざるをえなかった事情も理解できるようである。こうした政府の奨励策に対し、神護景雲元年(七六七)に宇摩郡の人、凡直継人が銭百萬、紵布一百端、竹笠一百蓋、稲二萬束を献じて外従六位下に叙せられ、また、同年、越智郡大領越智直飛鳥麻呂が絁三百三十疋、銭一千二貫を献じて外従五位下を授けられている(続日本紀)。
 平安時代になると伊予国のような地方にもある程度銭貨が流通していたと思われる記録がみられるようになる。寛平年間(八八九~八九六)の「東大寺諸国封戸物注文」によれば、産物の代わりに銭で納めさせている。すなわち、東大寺への貢納物である調絹、油、仕丁八人分の日功料(手間賃)を銭二百六十八貫一八文で納入したものである。中央では銭を必要としたためと思われるが、伊予国のような地方でこれに十分に対応できたかどうか疑問が残る。長徳四年(九九八)になると東大寺への納入は産物でおこなうように改められており地方における銭貨流通の困難さを示しているように思われる。