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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 伊予国府の位置

 位置についての諸説

 伊予国府の所在地については「伊予国 国府在越智郡 行程上十六日 下八日 管十四」(和名抄)にもとづき、越智郡にほぼ限定して(一)古国分説 (二)郷・八町説 (三)中寺・町谷・松木説(四)出作土居説(五)上徳説などが主張されてきた。しかし、近年、上徳説が有力視されているが、確認のための調査がはじまった段階で、確認されるまでにいたっていない。上徳に比定する説では(1)国分僧寺、国分尼寺に近いこと(2)越智氏、新居氏が在庁官人として付近に居住していたこと(新居系図)(3)新居氏の一族が氏寺の観念寺(東予市)に拝志郷内の所領を多く寄進しているが、その中に小御門・土居西ヶ内(胸高里卅二―卅五坪)、閑ヶ内(胸高里卅六坪)などの小字があり、国府の位置を推定しうること(4)年代不詳であるが国分寺坪付に「拝志郷内正月修正田一町」とあり、近くに正月の転誂とする松ヶ月の小字が残存し、また、国分寺文書応永一九年(一四一二)の仏神用途に「御仏名」とあるが、その料田であろう仏名の小字名が残存していること(5)一般に国府所在地の駅は国府の府頭におかれており、小字御厩を越智駅とみること(6)条里制がよく残り、下胡遺跡や宮内遺跡などから古代の遺構や遺物が出土していることなどが指摘されている。なお、この中の(3)の新居氏が氏寺の観念寺に寄進した拝志郷内の所領については観念寺文書に詳しいが、その時期は康安二年(一三六二)のことであり、仮に上徳地区に国府が置かれていたとしても、この時期の国府がその機能を有していたかどうか疑わしい。こうもひん繁に所領の寄進が行われていることは国庁が他に移転していることを示唆しているようにもとれよう。もっとも国衙(国庁)自体はその比定地がはっきりしないが、永正一七年(一五二〇)ころまでは存続していたようである(国分寺文書)。
 伊予国府設置の時期については定かでないが、初見の伊予の国司としては持統天皇三年(六八九)に伊予総領田中朝臣法麿の名がみえ、同五年にも伊予国司田中朝臣法麻呂とある(日本書紀)のも参考になろう。

 式内社との関係

 国司が祭祀した総社は通常、府域の四隅近くにおかれ、これに延喜式内社が当てられている場合が多かった、という一般例からの考察も行われてきたが、十分な成果をうるに至っていない。
 古代の越智郡には「延喜式」神名帳に記載され、社格を示す式内社として名神大社三座、小社四座の計七座あった。大社は大山積神社(越智郡大三島町宮浦)、姫坂神社(今治市宮下)、多伎神社(越智郡朝倉村古谷)であり、小社は大須伎神社(今治市高橋)、大野神社(玉川町大野)、伊加奈志神社(今治市五十嵐)、樟本神社(今治市八町)であった。式内社は今治平野の北西部や南西部に多く分布しており、上徳とは距離があるようである。上徳地区には惣座ヶ内、高森、神宮寺などの小字名があり、総社にあてる説もあるが定かでない。