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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

一 律令時代と考古学上の諸問題

 本章の範囲

 本章で扱う時代は七世紀代前後の飛鳥時代から一〇世紀の平安時代中期までとした。そして飛鳥時代については大化改新(六四五)以前を飛鳥時代、改新後から八世紀初期までを白鳳時代とする文化史的概念にしたがった。ただし、律令時代という場合は大化改新後をさす。以下、この時代区分にしたがって記述をすすめることにした。

 律令時代と考古学的対象

 伊予、愛比売の名は『古事記』の国生みに由来している。伊予国などの行政区画が定められたのは大化改新の詔(六四六)以後のことである。改新前の古墳時代の伊予には五国造に支配された五つの国があった。伊余国、怒麻国、久味国、小市国、風早国である(国造本紀)。これらの事実は首長墓ともみられる前方後円墳などの古墳や延長五年(九二七)の「延喜式」神名帳にある式内社の存在によって推定可能である。伊余国の領域に比定される伊予郡には伊予岡八幡神社前方後円墳・三角縁神獣鏡(伊予市上三谷)と伊予神社(久米郡の説もある)、怒麻国にあたる野間郡には野間神社、久味国に相当する久米郡には波賀部大塚前方後円墳・伊予豆比古命神社(延喜式には伊予郡とある)がある。また、小市国の越智郡には国分前方後円墳・相の谷一・二号前方後円墳や大山祇神社・多伎神社、風早国の後の風早郡には櫛玉比売命神社前方後円墳、国津比古命神社があり、ほかに式内社ではないが宇和郡に宇和津彦神社(三代実録)もある。このうち式内社は古代の有力豪族が中心となってその氏神や土地の守護神である産土神を奉祀した社から発展したものと考えられ、これに加えて前方後円墳など首長墓の存在から国造部落国家の系譜を推測することもできよう。
 大化改新前後の文化の中心地は熟田津石湯(道後温泉)のある松山平野にあった。聖徳太子、斉明天皇、中大兄皇子、額田王らが訪れ、殊に聖徳太子は日本最古の金石文とされる温泉碑文を伊佐爾波岡に建立したと伝えられている(伊予国風土記逸文)。額田王らは白村江の戦い(六六三)にのぞんで熟田津で万葉歌を残した。碑文や熟田津の所在地をめぐって論争は続いているが、いまだに結論をみておらず、考古学的調査がまたれている現状である。こうした松山平野と朝廷との結びつきは仏教文化の興隆という形で開花した。しかし、松山平野の文化的優位性も日本の朝鮮半島経営の失敗による内政優先という政策転換により色あせざるをえなくなった。
 大化改新により私地私民制の氏姓制度から公地公民制の中央集権国家体制の確立を目的として、全国を国、郡、里に分け、それぞれに国司、郡司、里長を置く行政体制が整備されることになった。七世紀末の伊予の場合は藤原宮出土木簡に「・伊予国久米評・天山里人宮末呂」とあるように、伊予国という国名は使用されているが、郡制には移行されておらず、改新前の評制が存続していたことが判明する。このことは大宝令制定(七〇一年)以後、評制が郡制に移行したことを示すものである。
 伊予国は南海道の一国に属し、伊予国府は越智郡におかれ、豪族越智氏の根拠地である今治平野が松山平野に代わって政治・文化の中心地となった。久米氏の軍事力や広大な平野を背景に生産力を誇っていた松山平野は、朝鮮半島からの脅威、内政の充実という内外情勢の変化により、瀬戸内海航路上の要衝にあり、また、前方後円墳の分布状況に示されているように古くから大和朝廷に従属していた今治平野にその地位を譲らざるをえなかったと思われる。
 さて、郡には宇摩、越智、温泉、久米、伊予、宇和など一四郡があり(和名抄)、郡には郡香衙(郡庁、正倉)がおかれ、郡司が徴税などの政務をとった。郡司はかつての国造から任ぜられることが多かった。
 都と伊予国府を結ぶ官道は南海道といわれ、原則として三〇里(今の一六キロ)ごとに一駅がおかれた。大岡駅(川之江市)、越智駅(今治市)など五駅が知られているが、駅家跡など考古学的な調査がおこなわれたわけではなく、先の熟田津論争と同様、将来の課題の一つである。
 律令国家は行政制度の確立とともに租税制度の確立につとめ、班田収授法を実施した。その基盤として本格的な条里制が施行されたが、伊予国においては松山・今治平野を中心に宇摩平野、宇和盆地などに広く遺制が残っている。条里集落は県内にあっては明らかにされていないが、畿内では六町四方(一里)を村域とし、その中央部の一坪に計画的に宅地を配置した例もあるが、一般には自然村落に近いものであったとされる。住居の配置は数戸の家屋の中に一つの倉と井戸を含む例が比較的多く報告されている。
 財政、行政とならんで律令制の基盤であった兵制には軍団があった。国司が統轄し、国内正丁の三分の一を徴兵していた。伊予国に軍団が設置されていたことは「類聚三代格」の延暦一一年(七九二)の条に軍団に代わって健児五〇人が設置されたことにより明らかであるが、軍団跡としての遺構は確認されていない。もっとも推定跡として今治市旦、東予市旦之上、新居浜市中萩町旦ノ上などが指摘されているが、その根拠はいずれも団が転誂して旦になったという字名によっている。伊予の軍団跡推定地の地形は扇状地上の扇頂部や段丘上の小高いところに位置しており、その点では共通している。このようなことから、軍団は国府や郡衙の所在地にさほど遠くない軍事的要地に設置されたと考えられる。
 なお、軍団は例えば越智団というように必ず団名でよばれていたはずであり、何々軍とはよばれなかったらしい。そういう意味でも宇摩郡土居町天満の八雲神社保管の「伊予軍印」は「伊予団印」となっておらず、疑問が残る。これは形状からみて、軍団制がくずれて健児が採用されていた平安時代のものとする説が有力である。
 平安時代の九世紀後半からは荘園制に基盤を置いた藤原氏による摂関政治がおこなわれた。荘園制の発展とともに公地公民制も有名無実化し、名主などの農民階層の台頭により律令制は変質、衰退しやがて武士団の発生をみるにいたった。
 律令制度を崩壊させる要因の一つになった荘園制の考古学的調査も律令制と庶民の実態を明らかにする上で留意せねばならない問題の一つである。
 奈良・平安時代の伊予国の産業には生名島、弓削島などの製塩業(東寺百合文書、石清水文書)、喜多郡などの製紙業(正倉院文書、延喜式)、鰒、宇和海の鰯などの漁業(延喜式、加茂注進雑記)、喜多郡などの養蚕業(正倉院文書)、伊予砥(正倉院文書)、窯業などの産業があった。これら産物の多くが租税の一つである調として京に貢進されていたことは木簡等によって明らかである。ほかには、平安時代に牛馬を朝廷に貢進した忽那島(中島)の官牧(延喜式)、記録にはないが北宇和郡日吉村の富母里水銀鉱山(水銀、辰砂)などの鉱業も興味深い課題になろう。以上によって伊予国産業の特質の一端を知りえよう。