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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 後期古墳と群古墳の実態

(1) 川之江市における後期の様相

 東宮山古墳

 川之江市は愛媛県の東端に位置する都市であり、古代より金生川流域には文化が開けており、しかも弥生時代には銅鉾・銅剣を保有するまでに発展していたが、古墳時代を象徴する高塚墳墓の営造においては、大いなる立ち遅れが見られる。特に山一つ越えれば、香川県の三豊平野であり、三豊平野には前期の古墳が営造されており、また弥生時代の銅鐸も出土している。この境界線をなす雲辺山系の意味は大きく今後の課題とされよう。
 高塚をなす古墳の営造の時期は川之江市においては、やや他地域とは遅れて伝わったと理解されよう。ただこの間川之江市の歴史は決して断絶したものではなく、前述の箱形石棺墓でふれたごとく、明らかに弥生文化を継承した一文化圏を造り出していたことは明白である。このことは東宮山一号(箱形石棺)や瓢箪山にみられる土壙墓を内部主体とする、墳墓の出土遺物がよくそれを物語っている。
 この余勢を十分に駆使した古墳の営造が此処に東宮山古墳として表現され、また一円をなす山口地域に広がる一方、金生川流域にも大いに波及して、金川古墳群、半田柴生古墳群、向山古墳群へと展開され、しかも雄大なる巨石墳でもって古墳時代の終末を飾り古墳営造の幕を閉じる。この点に宇摩地域の当代の輝かしい特色をうかがいうるものがある。
 いま古墳が、大和朝廷における勢力伸張による営造観念から各地域に波及したものとするならば、その勢力の伸張性を顕示しうるための墳形が造り出されたと見るべきであろうし、特におくれての支配下への参画を想定すればなおさらである。ここに東宮山古墳は、前方後円墳としての可能性を秘めたものとして遺存しているとも考えられ、その墳丘立地を示す範囲の一隅に円墳が所在することを十分に考えながらその全貌をながめてみよう。
 東宮山古墳は、東宮山の山頂にあり妻鳥町字東宮山二二五六の二にあたる。本墳は木梨軽太子(允恭天皇第一皇子)の伝説を持ち、宮内庁妻鳥陵墓参考地である。かつて明治二七年二月(一八九三)に伝説にもとづき地元民が発掘し、多数の遺物が横穴式石室より発見されたが、その後宮内庁に提出した当時の記録の一部はその次第を左のように伝えている。

   奇 穴 発 見 報 告

 本月廿日春季皇霊祭ニ際シ有志申合当妻鳥村春宮神社ヘ参詣仕リ処々参歩之析柄西南ノ小高キ処ニ至リ石ノ五七個並例致シ有之場所ノ落葉等取除キ候所、不思儀ノ穴ヲ見認侯ニ付取調候所莫大ナル穴ノ模様ニ有之侯得共山頂ニ如此穴ヲ造ルハ不思議ノ至ニ御座候間不取敢此段報告仕侯也

  明治廿七年三月廿一日              妻鳥村    前 谷 嘉久郎
  川之江警察署御中
   
   埋 蔵 物 発 見 届

  一、天冠ノ如キモノ     一個 但青色ヲ帯ビ細密ノ細工ヲナシ質ハ金銀製ト想像ス
  一、曲玉壷ノ如キモノ取交  八個
  一、太刀ノ腐リタル如キモノ 六本 但シ是ハ悉皆破損数十個ニ相成居候
  一、玉           二個 但シ一ツハ長凡八部回リ八部棗形 又一ツハ直径壱部位ニシテ極小サキモノ何レモ質不詳
 一、兜ニ似タルモノ     二個
 一、金環          壱個
 一、鏡           壱面
 一、矢ノ根ノ如キ腐リタル鉄製数十個
  右ハ本月廿日廿一日 両日中前記物品当妻鳥村字春宮山ニテ埋蔵品発見仕候間別紙理由書相添此段不取敢御届仕侯也
      宇摩郡妻鳥村    前 谷 嘉久郎
 明治廿七年六月一十二日
愛媛県知事  小牧昌華殿


いま「妻鳥陵墓参考地東宮山古墳の遺物と遺構について」の記載による遺物は

  装身具類
  一、長宜子孫銘内行花文鏡 一、
  二、金銅透彫帯冠     一
  三、金     環    二
  四、銀  平  玉    二
  五、水晶切子玉      七
  六、碧 玉 管 玉    三
  七、瑠 璃 棗 玉    一
  八、銅  小  鈴    一
  
  武 器 武 具
  九、横矧板鋲留衝角式冑  一
 一〇、三葉透金銅環頭柄頭  二
 一一、馬     鐸    四
 一二、鹿  角  舌    一
  
  日 常 器
 一三、須 恵 広 口 坩  一
 一四、須 恵 蓋 坏    三
 一五、土 師 高 坏    一
 
 
 これらの出土遺物からして大陸文化の影響を直接に、または間接的に受けたものであり、特に金冠や三葉透金銅環頭柄頭は、現在朝鮮半島にしか例をみぬ遺物である。またその他の遺物においても優れており宇摩郡に君臨していた大首長といえよう。また副葬された須恵器から見て、六世紀初頭から前半にかけてが営造時期と思われる

 山口古墳群

 妻鳥町字山口に分布する後期終末に近い古墳で四基が現存しているが、中でも保存のよい一号墳では、奥壁を一枚の巨石で築造しており、更に奥壁面には石棚を横架している両袖式の横穴式石室である。玄室の規模は奥行(長さ)五メートル、幅二メートルである。羨道部は堆積土のため不明であったが、両袖は立石(柱石)により造られ全般に大振りな石材を利用している。二号、三号は半壊から全壊に近い状況にさらされている。二号でわずかに石室の規模を知る状態で全長三・六メートル、幅二・二メートルであった。

 朝日山古墳

 三角寺に向う金田町西金川地域に点在する数基の古墳がある。原峰一号、二号墳、城塚古墳、陵宮古墳などで、中でも原峰一号墳(朝日山古墳)は南向に開口した両袖式の横穴式石室があり、奥壁は直立した一枚石で壁面をなし、両側壁面の基段石は巨大な一枚石を構え上部に大振りの自然石を積んでいる。
 外形は直径約一七メートル、高さ約四・五メートルの円墳で墳裾部に一・五メートルの周溝をめぐらして、墳丘をはじめ羨道部及び玄室部を完全に保存しているものとしては、県下でも例がなく主体部全体からうける優美なたたずまいに胸をうたれる。ちなみに石室全長七メートル、玄室長四・五メートル、羨道長二・五メートル、玄室幅二メートル、羨道幅一・六メートル、天井の高さは玄室内で二・四メートル、羨道部で二メートルと高い天井となっており、しかも羨道部入口部と玄室部には柱石をたてた立派な石室が構築されている。出土遺物の内一部の須恵器が三島高等学校蔵品となっている。
 また金生川上流地域に広がる半田柴生の一群をなす古墳があり、それらには箱形石棺と横穴式石室墳とが相半する状態で分布している。横穴式石室を有する古墳では、金田町半田大畠に営造された三基の古墳が今はその全貌を知るすべもなき程に荒廃し、わずかに石室の一部石材を残す状態にある。また柴生町には西塚穴・東塚穴と呼称される各々三基に近い古墳があるが、これとてまた同様に荒廃し、わずかに東塚穴一号墳が片袖式石室を構築した玄室全長二・八メートル、幅一・四メートル、高さ一・四メートルで天井石なく、玄門部に柱石を配することが判る。

 向山古墳

 金生町下分に向山古墳(昭和二十四年七月十七日県指定史跡)があり、この向山を取り囲む形の分岐丘陵端部や残丘上に古墳が営造されている。名付けて宝洞山古墳、お姫山古墳、鈴元古墳、二天山古墳といい、いずれも古墳時代の後期のもので、巨大な石材で石室を構築して群集し、実に雄大な古墳群をなしている。北条市新城においては稠密な群集を示すが、当地での群集にはやや空間的な広がりを持った群集であるところに今一つの問題を提示していると言えよう。
 さて向山古墳は、築造当時はおそらく瓢箪形をした双円墳であろう。東西の墳丘に各々一基の横穴式石室が構築されており、西側の石室を一号墳(雌塚)東のものを二号墳(雄塚)と呼んでいる。墳丘は共に約二〇メートルの円墳が想定され二基を並行させての営造に対する省力化と、合葬墳としての共存性が強調されている。当地の墳墓形態と類似するものに伊予郡砥部町の大下田2号古墳があり、共に細い共通する墳丘の構築がみられ、東西方向に長径でしかも横穴式石室を構築しており、さらに南面に開口するという類似した古墳の営造観念を共にする古墳である。一号墳は完全に近い保存状態での石室で、全長一一メートルの羽子板形の石室は、羨道部幅二・八メートルが玄門部で二・二メートルに狭まり、玄門立石(柱石)により両袖式の玄室を造り出している。玄室部長さ四メートル、幅二・四メートル、天井高二・五メートルの長方形の玄室壁面は、奥壁は巨石一枚によるをもって構築され、両側面はそれぞれ巨石一枚を横転させ基段石とし、さらに大石による二段の石積みがなされている。ちなみに天井石は羨道部で三枚、玄室部で二枚の計五枚の奇数配置である。本墳は明治二六年頃(一八九三)に発掘されたその記録によれば須恵器の蓋坏四、坏一、台付坏二、子持坏の破片二、子持壷の破片一、平瓶一、金銅環一、勾玉一が出土している。二号墳は天井石の一部が転用され一部は露出しているが、石室内は流入土砂により埋もれている。一号墳に劣らない立派な石室が構築されている。

 宝洞山古墳

 宝洞山の山裾に一号墳を、二号墳は一〇〇メートル上方に営造された円墳で、内部主体は横穴式石室を構築している。一号・二号はともに斜面をL字にカットして墳丘を造り出しており、共に周溝をめぐらしている。円墳の直径は二号墳がやや規模は大きく二〇メートルを越す墳丘である。二号墳は埋没しており主体部の詳細は理解しがたいが、一号墳は完全に近い形で遺存している。石室の全長は八・五メートル、羨道部長さ四・四メートル、幅一・三メートルの両袖式である。玄室奥行四・一メートル、幅一・八メートル、天井高は一・九メートルで羨道部での天井高より四〇センチ高くなっている。内部主体における構築手法は、向山一号墳と同手法を取り南面して開口している。
 いま向山古墳や宝洞山古墳にやや先行した時期に、営造されたとみられる古墳にお姫山古墳がある。お姫山古墳は片山上三一一三の二に所在する低位丘陵上に営造された一墳丘二石室の古墳である。
 墳丘は版築された直径二三メートル、封土四メートルが計測される墳丘に、一号墳は南西を指向し開口しており、二号墳は南東方向を指向している。一号墳は両袖式の横穴式石室が構築されており、全長六・五メートルで玄室長三・一メートル、幅一・九メートルで左右の壁面が縮約して天井石を横架させた模様であり、石材は小振りな自然石を用いた野面積みである。二号墳もやや同様の規模と工法が推測されるが一側壁面を残すのみで不確実である。
 またこのほかに二天山や鈴元でも三~四基の古墳が営造されていたが、一部の残石や痕跡を残して全壊しており定かでない。なお壊滅した古墳には畠山丘陵と長須字塚穴の古墳があり、いずれも横穴式石室で奥壁に巨石を用いていた模様であり、石室構造を統合すれば向山古墳の築造年代とほぼ同時期といえよう。
 今ここにきて川之江市の古墳時代をふりかえる時に、これら古墳の営造年代は弥生時代に発生した箱形石棺を内部主体とする連綿とした一つの流れに対して、五世紀末か六世紀初頭に突如として営造された東宮山古墳に端を発し、続いてお姫山古墳が営造され、向山、二天山、金川へと波及する中で、ひときわ異風をはなった住吉古墳がある。

 住吉古墳

 金生町下分字松木一一一二に所在する円墳である。円墳の直径一五メートルで墳裾部には掌大の栗石による葺石が墳丘の八合目付近にまで敷き詰められている。円筒埴輪片も見られることで埴輪の配列された墳丘である。内部主体は横穴式石室であり、石室全長九・三メートル、玄室奥行五・三メートル、幅二・三メートル、羨道四メートル、幅一・五メートルの大形規模の石室構成となっている。羨道は中央に配置され、両袖式の玄室をもつ。玄門部には立石をもって区画されている。羨道部での天井は低く一・二メートルであるが、玄室部の天井高は二・五メートルと高くなっている。石材は全体に大振りな石を使用しているが、特に玄門部に横架された石は巨岩である。石室の第一石は選ばれた大振りの自然石が横積みされているが、奥壁面の石材も同様である。石積みは両側壁面が上部で縮約して天井石を横架している。石室は南西方向に開口している。墳頂部には住吉神社が祀られている。なぜか住吉神社の正面は古墳の奥壁面に向き、開口する面とは逆方向である。今住吉神社とは別に、奥壁面の北東の位置に(社殿より約二〇メートル)直径約五メートルに掌大の玉石を敷き詰めた部分があり、その周囲に直径一五センチの素掘りの柱跡四があり、玉石の間には土師器の細片が混入した部分と焼土をなす部分とが確認された。この遺構は明らかに古墳に対しての墓前祭跡と見られるもので関心をひく。出土遺物は不明であり営造時期は推定しがたいが。石室の構築方法から推測してお姫山古墳に後続するものと比定される。

(2) 伊予三島市における後期の様相

 破魔殿遺跡と古墳

 伊予三島市には古墳時代の生活跡と思われる破魔殿遺跡があり、当所の発掘は比較的早く昭和一一年(一九三六)八月で愛媛県下における古墳時代の遺跡の調査では珍しいが、ただ発掘当時は弥生時代終末の祭祀遺跡として把握されていたようである。遺跡が海岸線より一〇〇メートル地点の、標高一〇メートルに所在しており、今日では同地より出土した遺物は、五世紀末前後のものとして理解されている。とすれば今ここで取り扱う古墳時代中期末ないしは後期の初頭にあたる時期であり、少なくとも五世紀の終り頃には、現在とほとんど変わらないまでに開発されていたことになる。ただ法皇山脈の北山麓地に帯状に広がる複合扇状地帯における開発とは、量質共に充実した生活舞台ではなく、所々に荒廃地を残した開発前衛地帯であったとも推測されるが、すでに開発の手は海岸線の近くにまで稲作農耕が展開されていたと見なされる。この稲作技術の向上と、水田面積の拡張とは、当時代は特に強調された時代であったと思われる。
 伊予三島市における古墳時代における墳墓の営造は、他地域と同様な発展経過をたどっている。すなわち弥生時代以来の箱形石棺を内部主体とする墳墓が横地山・岡の上・与五郎塚・横岡山・北岡山・経が岡などに踏襲され営造されるとともに、横穴式石室を内部主体とする風潮が、六世紀をやや下る時期に波及した地域でもあったと、全体的に理解される。まず西方に位置する倉吉塚の円墳をはじめ、中曽根町石床には、六塚と呼称される保の木からみても六つの塚が営造されたことによる地名を指し示すものであろう。また上柏町の柳の内の天冠古墳・滝の宮古墳が知られ、四番耕地では堂砂古墳と端華の森古墳があり、いずれも横穴式石室をともなう後期末葉に比定されるが、ほとんど当地では全形をとどめるものが見られない。


(3) 土居町における後期の様相

 高原・大空両古墳群

 土居町は宇摩郡の西部に広がり平坦部に早くより開かれた地域である。特に古墳時代における発展には、めざましいものがあった。町の中央部を西から北東に流れる関川が扇状地形を形成しているが、一方法皇山脈の北山麓には、東より北方向に流出する二級河川大地川、古子川、満山川(土居川)、西谷川による回春作用で複合扇状地形を形成しており、北山麓にひろがるやや起伏の多い棚田と称される耕作地帯をつくる地域が、小河川の両岸に発展しており、それぞれ古くより開発の進められた所でもある。このことはとりもなおさず、宇摩郡に一社と記載される「延喜式」式内社村山神社が、長津坂に鎮座している点においても立証され、法皇山脈の北山麓や帯状に広がる平坦部に群集して古墳を営造している高原・大空地区をはじめ小林丑山・小林日向山・小林風留にそれぞれに支群をなしての分布がある。さらに関川の左岸地域においても、大地山・天満仏崎に支群がある。これらの古墳群を総称して土居町古墳群として取り扱うことにする。
 土居町古墳群の特色は分布の上から示すごとく、それぞれの河川区域内に独自の支群を形成している点にあり、しかもこれらの地域はいずれも単独には分立することはなく、相互に助け合いながらの共存的集落形態が成立していたとみられる。特に水利に恵まれていた中村・津根地域では早くより安定した農耕生活が営まれ、他地域より一段と発展していたことがうかがえる。いま土居町における数十基におよぶ古墳はいずれも後期古墳に属するものがそのほとんどである。これら墳墓の営造は、当地方における家父長的家族の長として活躍をした有力者たちによるとみられ、このほかの諸墳もほぼ同様な経緯をたどるもので、時期的にも差をもたない、いわゆる家族墳とみられ、七世紀初頭以後に大いに営造された、これらから当地における有力者の群在の様相が察知される。
 高原・大空古墳群の県指定史跡が、土居町の東端に位置した赤星山と豊受山の両裾野に広がる台地上に、東は大地川で伊予三島市と境をなし、西は面白川に挾まれて南北に細長い地域に、一〇数基の古墳をもっている。現在両古墳の中央部を東西に走る疏水が標高約五五メートルにあり、疏水は古子川の支流である桧川より導水され、東森から東大道、上野田を経て伊予三島市の岡銅におよぶ地域の灌漑用水路である。
 同古墳群の荒廃ははげしく、そのほとんどの古墳はすでに墳丘をうしない、わずかに石室のみを残すものが多い。また石室を完存するものは少なく、指定史跡としての面影はなく荒廃の一途をたどる中で、高原五号墳のみが、墳丘を持つ横穴式石室を完存している。墳丘は径一八メートルの円墳で、主体部は全長六・二メートルあり、内玄室の奥行は二・九メートルで、当古墳群中最も羨道部の長い石室の造りとなっている。石室は両袖式で玄門部に框石があり、石段を造り出している。玄室の奥壁部に一段と高く遺骸を安置する床を造り、あたかも羨道はより逆勾配にある石室内部の構造となっている。出土遺物には須恵器、土師器、鉄器がある。

 小林古墳群

 また一方土居町小林の山麓地帯の台地上に営造された五基から一〇基を単位とした円墳があり、わずか三島神社内の西方に残る一基以外はすべて開口し、墳丘はもとより、天井石を失うものがその大半である。これらの露出した石室は、両袖をもつ横穴式で、そのほとんどが緑泥片岩を利用している。また緑泥片岩の自然な露出面を側壁面として利用するものと、奥壁面を兼ねるという省力化が計られた風留古墳の一群中にみられる特色もあり、小林丑山古墳では天井石を除く、他の石材は割石を中心とした角ばったものが多くをしめる。これに対して小林日向山における、石材は同石質の石材ではあるが、全体的に扁平な石材を垂直に構築しており、丑山、風留の古墳にみられる石室より美しい壁面となっている。

 大地山古墳群

 いま関川の右岸にみられる古墳群に対して、左岸地域においては右岸同様に円墳を営造するが、内部主体の構造においては、現段階では箱形石棺を内部主体とするものが知られており、横穴式石室を構築する石室の報告を知らない。(おそらく今後の調査により発見されると思われるが)、大地山や仏崎に所在する古墳の多くは箱形石棺を内部主体とする一群である。古墳の立地は、大きく開くかつての天満浦を見渡す位置を占めている。仏崎は外港を眺望し、大地山(四九・六)は天満地区に大きく突出された西の山(二四四・三)低位丘陵の東端部にある。陸海ともに眺望のよい土居町を一望できる位置にあり、早くより天満浦での活躍がしのばれる。仏崎のある西の江と、大地山の下天満を合わせての天満浦として、海運と大いに関係する立地をもち、宇摩郡地域における川之江港と同浦は、ともに重要な港として発展していたことがしのばれる。

(4) 新居浜市における後期の様相

 横山古墳群

 新居浜地方における後期古墳時代については、かならずしも明らかにされているとはいいがたく、後期古墳に対する調査はわずかに横山古墳発掘調査報告が知られる。
 新居浜平野における中期の金子山古墳につぐ後期古墳として現在遺構の明らかなのは、横山古墳群と正光寺山古墳くらいにすぎない。
 新居浜市中萩町周辺部は、古くより開かれた地域で、特に弥生時代の後期にもふれたところで、金子地域と同様に開発が進んだ地域といえよう。中萩町は西南部に位置し、日当たりのよい大永山の緩斜面を利用した複合扇状地域で、金子地域に比べてやや水利の便に乏しい地域である。この地域は横山丘陵とも呼称され、昭和二五年(一九五〇)この丘陵の南斜面一帯の古墳分布調査を実施した。それによれば一四基の古墳が確認されたと記録されているが、その後開墾や学校用地造成等にともない、そのほとんどが消滅し、わずかに二~三基が現存するという状況である。昭和四五年(一九七〇)一一月の調査により明らかにされた一二号墳、一三号墳から、前者は片袖式の横穴式石室を、後者は無袖の横穴式石室を内部主体とした古墳であることが判明した。
 両墳の規模は十三号墳が数値の上ではややまさっている。古墳は緩斜面の末端部を占地しており、一二号・一三号墳は、ほとんど同時期に営造されたものと見ることができる。一二号墳では、玄室と羨道部を区画する玄門立石を用いており、後者の無袖式及び羨道構造とはわずかに相異する。両墳とも床面には入念な敷石がほどこされており、特に片袖式の一二号墳石室は、玄室内全域に配石されており、一三号墳より整備されている。いずれにせよこの地域における古墳の営造は、金子山丘陵において最初にみられ、おそくとも五世紀後半か五世紀末には営造が始められたものと推察される。これに対して横山古墳群では少なくとも六世紀中葉頃に営造がはじめられたと推考される。横山古墳群の特徴としては七世紀前半において、古墳の営造がみられなくなっており、横山丘陵において古墳群の形成が最盛期をむかえたのは、六世紀後半から七世紀前半にかけての集中的短期間とみなされる。
 この時期については、横山一二・一三号における、古墳の主体部である内部の構造に若干の差はみられるものの、両墳での副葬品からみて、須恵器類は同一形式に含まれるものであり、両墳はほとんどあい前後して営造されたものであろう。しかも両墳における被葬者は、集落内における支配者層としての金子山古墳にみられるような首長的性格のものではなく、中間的な階層に所属するところの官人層的性格が考察されると報告されている。また泉川東田地方にも、六世紀から七世紀にかけて営造された、横穴式石室をともなう古墳の形成がみられる。東台神社の周辺部における古墳及び樫木塚古墳があるが、いずれも明治年間の開発により、発掘され壊滅している。この地域は国領川が村の中央に北流しているにもかかわらず、東岸にせまる郷山独立丘陵により、平坦部への灌漑が困難で、他地域に進められた水田耕作地の発展までにはおよばず、開発の時期は早く、しかも平坦部における生活は早くより見られながらも、経済的にまた政治的な発展においては、他の地域より遅れていたと考えられる。

 正光寺山古墳

 新居浜駅東方に小規模な残丘がある。これが正光寺山独立丘陵で、現在は比高五~六メートルである。かつては四〇~五〇メートルの比高を有した独立丘陵であったが、戦後の都市開発と周辺部地域における宅地造成によるあおりをうけ、比高わずかな独立丘陵化したものである。
 この丘陵にかつては数基の古墳の営造が認められたが、現在では二基の横穴式石室を内部主体とする円墳が市指定文化財として保存されている。石室は北三三度西に主軸をとる小規模のものが現存する。第二号墳は送電による鉄塔建設により破壊されたが、その規模は一号とほぼ同様の石室で、石室全長二・七メートル、幅一・七七メートル、高さ一メートルの横穴式石室で、内部より若干の副葬品を出土している。副葬品の多くは鉄鏃であるが、その他に鹿角装の刀子があり、柄部となる鹿角部には直弧文が施されていた。この他に馬具の検出をみているが、玉類についてはさだかでない。本墳も横山古墳とほぼ同時期に営造されたものとみられている。

(5) 西条市と小松町における後期の様相

 西条市と小松地区の概況

 西条市にみられる古墳の多くは、現在知られる範囲では、古墳時代の後期に営造されたものが多く、特に当地域においての古墳の分布は、大きく氷見地区と船屋地区に群集しており、西条市のほぼ中央部を流れる加茂川により二分された形にある。
 いま当時の経済的な立地や、政治的な統御及び制御の権力の及ぶ範囲は、加茂川の右岸及び左岸地域内にあると推測され、この範囲画定がより自然な発展経緯を示していると思われるが、古墳時代においての古墳営造の推移から見れば、小松町における大日裏山古墳が周桑の片山古墳と相対しており、明らかに中山川による覇権境界線を見い出すことがより妥当な権力範囲と考えられる。
 以上が西条・小松地域における覇権範囲とみての古墳分布は実に当を得た地区に営造がみられる。すなわち中山川の上流地点を固めた大頭古墳の分布をはじめ、東部における新居地域を固める亀の甲及び岡古墳があり、南部加茂川の上流を固める芳ヶ内古墳は、いずれも後期から終末にかけての構築であり、一方中央部に営造された古墳はとりわけ小範囲に群をなして営造される一群と、中山川に面して営造される一群があり(菊塚・西大頭)対岸の吉田字大坪(四ッ塚)と相対的な位置を示している。中央部に所在する古墳群は立地上の推移も合わせて大きく三期に分類される(大日裏山―祭ヶ岡―船山)古墳群である。この推移が何を意味するかはなお不明である。
 当地域も他の地域と同様に、内陸部における農業生産を母体とした在地有力者による覇権領域を成立させた盟主的な政治・経済の統一を見たことは変わらないが、少なくとも単なる農業生産に専従することなく、燧灘における制海権の確立に力を注いだことと推察されるところである。いま船屋に諏訪山古墳と内山室口に室山古墳があり、共に円墳で内部主体はいずれも横穴式石室である。これらの外にまだ数基が存在したとみられる墳丘がたどれるが、それらはいずれも、玉津や船屋に関係する一連の墳墓とみることは可能であろう。なおこれに先立つ遺跡として理解される下島山の渦井川が平野に出る右岸に櫟津山三七・六メートルの小丘陵があり、この丘陵上に二基の箱形石棺が発見されたと伝え聞くが、さらに東天神周辺の詳細な調査を実施すれば、まだまだ新しい遺跡が発見される可能性を残している。
 もとの新居郡の最西端にあり、周布郡(現周桑郡)に隣接する干拓地の平地の中に独立した祭ヶ岡丘陵がある。この丘陵の西端部に西大塚があり、その東南部に東大塚がある。いずれも円墳で内部主体部は横穴式石室である。両墳は夫婦塚とも呼ばれ、西大塚は直径二五・五メートル、東大塚は直径約二〇メートルでやや小規模である。また西大塚の石室は奥行全長五・五メートル、羨門幅一・七メートル、石室中央部幅二・一五メートル、天井高二メートルとの記録があり、出土遺物に須恵器とあるが、現在は羨道も墳丘の封土も消失している(西条誌)またこの周辺部には、忍塚・経塚・花の木塚があり、いずれも西大塚とあい前後する時代の古墳で、七世紀前後に営造された西大塚の墳主一族輩下の墳墓とも思われる。経塚は昭和五〇年(一九七五)に発掘調査が実施され後期の古墳であると結果報告があり、墳丘の消失、内部構造の破壊による調査上の困難にもかかわらず、羨道は短く、しかも羨道外に掘込段をもち、須恵器を配して墓前祭祀の遺構を検出したことと、稲作適地をさけ、水利の不便な位置に占地していることなど、古墳時代末期における営造観念の一傾向がみられる。

 舟山古墳群

 小松町新屋敷にあり昭和三七年(一九六二)県指定史跡となっている。史跡は川原谷の北斜面に残る低平な丘陵(東西約三〇〇メートル、南北一〇〇メートル)、高さ約二五メートル(比高一三メートル)のほぼ舟形をした独立丘陵上に一〇数基の円墳が営造されている。丘陵の東南隅に三島神社がある。社殿創建にともない一部が露出し、中より玉類・須恵器を出土したと伝えられており、このことから、六世紀以後の群集墳と推測される。これに先立つ首長墓は、南面にそびえる大日裏山古墳群であろう。

 大頭古墳群

 小松町大頭にあり、大頭は中山川の右岸の段丘上標高二五~三〇メートルの平坦な突端部に位置しており、東塚・西塚・南塚・北塚・中塚・角塚・釜が塚などが字鉾ノ木にあり、また近くに水小屋塚と高塚などもあって水小屋塚は、以前は二基並列していたといわれ双円墳であろう。高塚は長塚ともいわれ当地最大の古墳である。封土はすでになく石室を露出している。主軸方向は南西を指向し、外槨全長約一〇メートル、幅約四メートルが計測され概算で大石七〇余個で構築されて、外槨高約二・五メートルの墳槨を誇る当地の雄である。これらの墳墓は、水田地帯の族長であると同時に、前述の西部地域を固めた族長達の墳墓でもあろう。

 芳ヶ内積石塚

 西条市中野字船形乙一八八番地に所在する古墳である。この古墳は県下における他の古墳と異なり、古墳の墳丘に盛土の代わりに河原石をもって被覆した積石塚である。古墳は昭和初年に発掘されており、その記録によれば、内部主体部である石室は三基あり、いずれも南北方向に長軸をもって造られていた。初期の調査者と次期の調査者では幾分かの相違は見られるが、いずれにしろ副葬された遺物はほとんどなく、わずかに中央部位置にある二号墳から土師器の杯四個と刀子一個の出土遺物と人骨片を同二号・三号より検出しているが、その他については記録もなく不明である。
 当古墳は長軸方向を共に南北に指向しており、東西方向に並列的に営造されている。東方より一号、二号、三号と呼称されているが、営造時期については二号なる中央部の墳墓が第一次埋葬主体であり、次ぐ時期には一号墳が、そして三号墳の主体部が併置されたと見るべきであろう。また調査者は箱形石棺の異形としながらも、箱形石棺として取り扱っている。第一号墳の主体部は、南北壁面を小石による横積み手法で石積みをし、長辺をなす東西の両壁面では、緑泥片岩を縦に立てて壁面をつくり出している。特に西壁面では一部が小石積みを併用しており、明らかに小形竪穴式石室である。二号墳の主体部は北壁面を一枚石を用いるほかは、三壁面は小石積み方法であり、やはり小形竪穴式石室である。一号及び二号にみられる四隅の立石は、天井石の横架による加重をさけるための立石である。三号の主体部構造は、南北両壁面はいずれも一枚の立石を用い、長辺な両壁面は小石積みを主体とする石積み手法になっているが、やや壁面が北壁面に向かって狭まり、舟形状を呈する構築方法となっている。被葬者の頭部位置は北枕の木棺が想定され、いずれも古墳時代終末期の墳墓であろう。

(6) 東予市と丹原町における後期の様相

 周桑平野の概況

 周桑郡においての中期に比定される古墳は、大日裏山の古墳が知られているが、丹原町においては、願連寺扇田の銅剣出土という弥生時代後期の遺跡があり、これに次ぐ古墳時代の遺跡はおくれて出現する。高松の中森や外森古墳は後期に属するものである。また一方東予市における発展にも同様に、古墳時代後期における古墳は多く、上市の甲賀原古墳群がある。甲賀原古墳出土の遺物はそのほとんどが東京国立博物館に収蔵されている。これらの遺物から六世紀中頃以降の古墳群とみることができ、かつては二〇基に余る群集墳が営造されていたが、現存するものはその半数にすぎない。また東予市安用に佐々久山丘陵がある。丘陵の佐々久山(五五・九メートル)には式内社である佐々久神社がある。この山の山麓に広がる佐々久原(佐志久原)に一号~三号の横穴式石室を内部主体とする後期古墳がある。さらに大明神川の左岸に広がる平野部は古くから開発がすすめられていたことを物語る。大黒山の南山麓をはじめ世田山の南山麓地帯にも数多くの後期古墳が営造されており、この地域の大明神川と北川のおりなす肥よくな水田地帯として大いに発展していたことがしのばれる。これらを背景とした一群の後期古墳は椎ノ木・天神・兵庫山・実報寺裏山・世田山・六軒家・河原津にそれぞれ数基を単位に営造されており、これらを椎ノ木・世田山古墳群としてとり扱ってはいるが、大きく二つのグループに分かれた分布を示しており、水谷(山田)と実報寺を中心とする椎ノ木と世田谷・六軒家・河原津を中心とする世田山とに集中的な営造がみられ、この中間位置の福成寺裏山に一基単独に営造されている。これら、東予市及び丹原町における古墳の正式な調査はほとんどなく、わずかに片山一~四号墳のみであり、古田・徳能・高知地域における古墳についての分布調査は十分とはいえず、また現在把握されている古墳についても、それぞれ支群をなす古墳の消長について、より積極的な調査を必要とする地域である。いずれにせよ周桑平野の開発は早くにおこなわれていたとみる。かつて昭和二五年(一九五〇)に崩口川の河川工事中に、地下五〇~一〇〇センチのところより出土した遺物があり、その報告によれば弥生式土器・土師器・須恵器が数百点発見されていることからも立証される。またさらには周桑平野の北西部、大明神川の左岸に広がる扇状地の扇頂部は旦之上集落である。この集落はかつては古代に軍団の所在した地と伝えられることなどから今後大いに研究の対象とされる地域である。

(7) 朝倉村と玉川町における後期の様相

 野々瀬・多伎の宮両古墳群

 今治市の南、頓田川の上流に位置する朝倉村には、二つの大きな群集墳が営造されている。一つは野々瀬古墳群で、いま一つは多伎の宮古墳群である。野々瀬古墳群は県下最大のもので、昭和の初めには一一〇余基との確認記録があるが、現在では古墳跡と共に四六基になっている。これらの古墳はそのほとんどが、横穴式石室を内部主体とする円墳である。古墳営造の時期は六~七世紀代のものである。中でも七間塚は大規模なもので、県指定史跡となっている。古墳の墳丘高六メートル、直径一五メートルの円墳である。石室の全長八・九メートルを有しており、天井石は大きな花崗岩で組まれている。この七間塚に近接して次に大規模な五間塚も営造されている。多伎の宮古墳群は、多伎神社の境内につくられている三〇基余の古墳群である。時期は野々瀬古墳群と同様に六~七世紀代のものである。規模は野々瀬古墳群よりやや小形である。だがいずれも羨道をもった横穴式石室である。中でも玉石(栗石)を積みあげた積石塚はめずらしい。その他に小規模な群集墳は朝倉村のいたる所に営造されており、今治地方に近接して六~七世紀代の横穴式石室を有する古墳群地帯を形成している。

 小鴨部古墳群

 今治市の西南に接する玉川町は、蒼社川の上流に位置している。古墳の分布は、小鴨部を中心とした八幡・別所・中村・大野・法界寺で、これより上手には見あたらない。昭和四〇年(一九六五)の調査では、七七基が確認された。現在残っているのは三〇基ほどである。調査記録は亀ヶ森古墳と天神山古墳が残っている。亀ヶ森古墳は玉川町小鴨部亀ヶ森に所在していたが、現在は消滅している。円墳で古墳の中心より七メートルの所に埴輪が配列されていた。内部主体は羨道のない玄室のみの石室であり、横口式の石室であった。出土遺物としては、人骨・須恵器・金環・玉類・銀環・鉄刀・馬具・鉄器片が検出された。また天神山古墳は当墳の丘陵の直下で、やはり羨道を設備しない玄室のみの横口式石室である。出土遺物としては人骨・須恵器・貝・鉄器が出土した。
 玉川町の古墳は総じてやや小形で、しかも無羨道のものがほとんどであった。時代は犬塚池の東より出土した六世紀初頭の須恵器を有する古墳から、小鴨部丘陵の羨道を有する古墳など、主に六世紀代の古墳が群在している。

(8) 今治市と波方町における後期の様相

 今治市にみられる群集墳

 国府跡の存在する今治市は、その時代背景としても、古墳時代の隆盛がはかり知られる。二〇基内外の小規模の群集墳ではあるが、いたる所に営造されている。まず桜井地区では、桜井駅裏古墳群・菜切谷古墳群・唐子台古墳群の治平谷付近などがある。旧今治市域方面ではやや大きめの横穴式石室を内部主体とするものが多く、これらの内には五世紀代の古墳も点在するが、おおむね六世紀代を主流に営造されている。清水地区では、朝倉村・玉川町に接する丘陵上に点々と群在している。いずれも墳丘は一〇メートル内外のものである。乃万地区では、革袋形須恵器の検出を見た六世紀代の下田古墳群を中心に、周辺の丘陵に六~七世紀代の古墳が一〇基内外点在している。近見・波止浜地区においては、相の谷前方後円墳の所在する丘陵から糸山にかけて、おもに六世紀代の横穴式石室を有する古墳が群在、または点在している。総数約二五〇基ほどで、これらの古墳の規模は一〇メートル内外の墳丘を構築するものがほとんどである。今治市の群集墳を考える時、やはり営造規模などにおいては近接する玉川町やことに朝倉村野々瀬を無視しえない。

 波方町の古墳

 高縄半島の最北端に位置する波方町は、また海路交通の要所でもある。当地の古墳群としては、塚の谷古墳群があげられる。これらの古墳は墳丘一〇メートル内外の規模をもつ円墳で構成されており、かつて塚の谷一号墳からは須恵器が出土している。当古墳群は、群とはいえ五基内外の小規模なものである。波方町にみられる古墳の分布は群集をみず、宮崎・馬刀潟・湯谷・細谷・水崎等に点在している。これらの古墳もまたいずれも円墳で、内部主体は横穴式石室を構築している。総じて当町の古墳は群集型ではなくその立地に興味を感じさせる。

(9) 大西町と菊間町における後期の様相

 衣黒山古墳群

 高縄半島の北端近く、今治市の西側に位置する大西町にも、古墳前期の妙見山前方後円墳を中心に、多くの横穴式石室をもつ後期の古墳が営造されている。古墳群としては、尊真親王古墳の所在する宮脇拝田一帯をはじめ、独立丘陵地の衣黒山一帯・脇奥の内一帯である。いずれも一〇基内外の群集墳である。すでに壊滅した衣黒山古墳群では、前方部と後円部において横穴式石室を構築した衣黒山前方後円墳をはじめ、数基の横穴式古墳とともに、弥生後期と見られる台状墓も北端にあった。奥の内古墳群ではその中の一号墳が、山くずれの被害をうけ、緊急調査が実施された。墳丘は直径一四メートルの円墳に、内部主体として横穴式石室が構築されていた。石室全長二・七六メートルが確認された。遺物としては管玉・耳環・鉄斧・鉄鋤・鉄槍・鉄鏃・馬具・須恵器・土師器が検出された。当奥の内古墳群もまた六世紀代のものである。宮脇拝田一帯の古墳も同様で、当町においても朝倉村野々瀬ほどの大古墳群は営造されていない。なお以上の古墳群の外に横穴式石室を内部主体とする同時期の古墳が点在している。

 菊間町の概況

 菊間地方での古墳はその多くは箱形石棺であるが、明神古墳(王塚)や亀山八幡神社古墳は古墳時代後期に属する横穴式石室である。
 長津古墳一号墳と二号墳はいずれも箱形石棺である。『菊間町誌』によれば、一号墳と二号墳はT字状に営造されており、一基は主軸を東西にとり、東を頭部にして埋葬され、一基は南北に主軸をとり、頭部を南にとった埋葬で、しかも二号墳は朱による彩色が施されていたが、副葬品は一号・二号共に皆無であったと明治三〇年(一八九七)一〇月の調査記録がある。また当墳墓の調査に参加した一人が文政五年(一八二二)の調査時にも副葬品は見あたらなかったと証言しており、同墳墓の無遺物墳であったことは明白であるが、主体部そのものの調査に限られ、その他の遺構状況については不明である。
 また大正一三年(一九二四)夏、大字浜字岩渕で発見された俗称灰のトウで直刀一振が出土している。外部遺構は定かでなく、おそらく箱形石棺であろう。今一つ佐方高城に箱形石棺が現存するが、出土遺物については不明である。主軸方位は東西にとり、頭部位置は東位に安置したものである。
 菊間町における箱形石棺墓は、以上五基が現在までに知られているが、営造時期等については不明である。少くとも箱形石棺の主軸方位や埋葬形態からして、東西方向に位置する主体部は、南北方位をとる石棺墓にやや先行する営造と見るべきであろうか。長津二号墳にみられる箱形石棺の南枕をとることによる埋葬位置は、少くとも北枕位置をとる埋葬位置よりやや先行するものである。ただ並列埋葬位置でなく、T字状埋葬位置に対する前後関係については、かなり時間的差のある営造と見るのが妥当といえよう。長津神社境内での古墳の詳細は不明ではあるが、須恵器を出土したとのことで、後期における箱形石棺の可能性が高い。

 七社明神古墳

 (田村天王塚)は、大正七年(一九一八)二月に発掘調査が実施されたが、当古墳は菊間川の形成した扇状地形に面した分岐丘陵端部を占地した古墳であり、菊間町長坂にある。主体部は横穴式石室を構築しており、南面に開口することは明らかである。また出土遺物からしても、古墳時代後期に属するものと判定される。
 出土品は、玉類として水晶製の棗玉三個、出雲石による管玉一一個、ガラス製小玉一一個、同丸玉二六個が検出されていた。その他に金銅製耳環の類がみられた。鉄器には直刀をはじめ、馬具及び鉄鏃が出土している。また須恵器としては、坏身三、盌一、坩二、提瓶三、甕三、はそう一が検出されている。
 亀山八幡神社古墳は、菊間町字亀山の独立丘陵の山頂に営造された横穴式石室であるが、亀山神社本殿の裏で、法面の削りとりにより、羨道部は現存せず、玄室部が掘削された法面に露出している。
 奥壁には一枚石の巨石を利用しており、後期終末より終末期にかけて営造されたものであろう。この他に当丘陵の東部尾根にも一基みられたが、現在は壊滅しており不明である。


(10) 島嶼部における後期の様相

 芸予諸島の概況

 越智郡に点在する島々(芸予諸島)にも古墳が営造されている。現在までに発見されている多くの古墳は、その多くが遺骸を納める内部主体としては箱形石棺か、横穴式石室で、これ以外の形成については未発見である。築造の時期については、五世紀代にさかのぼると思われる上浦町のかんす山古墳、関前村の正月鼻古墳群(正月鼻先端部に三基、先端部の背後に四基)などが知られているが、四世紀代のものについては、現在確認されていない。後期の横穴式石室を有する古墳としては、吉海町の藤崎古墳(八幡山の山麓部)をはじめ、姫政山、亀老山(大亀山)に多くの古墳が知られる。伯方島では有津荒神山の横穴式石室を明らかに残しているものの、ほかに叶浦・打越・金ヶ崎に、また弓削島では久司山(櫛山・串山)古墳群の横穴式石室や上弓削の小狩尾谷に、上浦町では横殿・多々羅付近に小円墳が群集しており、大三島町では松木山・長瀬山・古城山に求められる。さきの藤崎古墳はかつて調査され、石室の主軸は南二七度西に開口した、全長三・四メートル、幅一・一メートル、奥壁の石積は大石二個を立石させた後、横積み手法で構築され、石室は長方形の片袖で玄門の立石により造り出している。羨道部はわずかで石閉塞をかねている。遺物としては、鉄斧・金環・玉類・刀子・鉄鏃・馬具の他須恵器の高坏・はそう・盌があり、墳丘では円筒埴輪片が検出されている。また東條古墳の出土遺物では馬具(雲珠)・鎌・勾玉(メノウ・水晶・出雲石)三、管玉一、ガラス玉四、黒色の練玉二が保存され、須恵器に提瓶、平瓶とともに新羅の須恵器一点がある。総じて芸予諸島における古墳は、小規模古墳が多く、営造年代も六―七世紀代に築造されたものが多い。いまこれらの古墳の内に、内部主体を箱形石棺とするものに、吉海町庄屋谷・名駒峠の二基・弓削町佐島(文四郎山)・上浦町瀬山出走・大三島町の台・岩城村の三本松・重山等をはじめとするものが多く存し、とくに上浦町出走では、二体の差違い伸展葬がみられた。

(11) 北条市と中島町における後期の様相

 難波奥の谷古墳

 奥の谷古墳は風早平野の東北端にあり、庄山麓の中央部の丘陵突端部を利用して営造された横穴式石室を内部主体とする円墳である。本墳は立岩川が山間部から風早平野に出る地点の北部山麓に広がる、庄部落の首長墓として構築された古墳時代後期のものと推定され、巨石を用いた古墳である。当地域は風早平野の様相でもふれたごとく、立岩川の下流井ノ口堰により庄集落への灌漑用水を完成させた有力首長とみることができよう。古墳の内部主体である石室は、奥行一二メートル、玄室長約六メートル、幅二・一メートル、天井の高さ二・五メートルで、羨道の入口は南東に向けて開口している。玄室と羨道部の天井石は各々三枚でもって横架させている。奥壁では巨石を垂直に立て、両壁面は大振りな自然石をもって石積みされ、天井部に向かいわずかな縮約がみられる。玄門部は玄門立石により羨道部と玄室の区画をしている。玄室内での床面は、地山面の削り出しによるもので、床面は全体的に羨道部へ向けて傾斜を保ち、室内の排水効果をもたせた造りとなっている。さらに奥壁面より一・二メートル位置に扁平な自然石による障壁をつくり、棺床と区画している。出土遺物は散逸して不明であるが、稜線上に営造された古墳群の中心的な墳墓であり、後期古墳群の営造構成を示すものとしても重要であり、県指定史跡にされている。本墳の後背地にみられる円墳は、いずれも割り石積みを内部主体とする横穴式石室が中心であるが、内には小規模な竪穴式石室を有するものもある。これら一群の古墳は六世紀後半から七世紀末までに営造されたものと思われる。

 北条市の古墳における諸相

 これら北条平野における後期古墳の分布は稠密であり、これらを総称して北条古墳群と仮称するならば、これら北条古墳群における特色として、一つには分布上でのまとまりを示す状況がみられ、立岩川を挾んでの分布と、河野川と粟井川にはぐくまれた営みがみられる。二つには比較的大規模古墳を中心として群集を示すものに片山古墳群があり、また難波では古墳群の前面に大規模古墳を営造する庄奥の谷古墳の一群があり、また一方では小規模古墳が群集する。後方に大規模古墳を営造している小山田古墳等群集する墳墓に地域的な特色がみられる。
 このように北条古墳群は、その地域において群集する様相からそれぞれ支群に分けられる。すなわち立岩川の北部に斎灘に突出する庄山麓の北側では、浅海・小竹・名石の各支群があり、庄山麓の南では新城・難波奥・難波南・老僧・小山田へと広がる支群がある。また立岩川の南部地域においては、特に平野部の東部山麓地帯をはじめ、分岐する低位丘陵上に群集する円墳があり、北から高田・神田・椋ノ原・片山の各支群が分布している。また河野川から南部地域には夏目・佐古・常竹・苞木・センボ山・小川・明見神社の各支群が分布している。これらの小古墳群は、少数で一群をなす浅海地域をのぞいて、一〇数基から二〇数基で一群を形成している。
 この二〇〇基に余る古墳の営造を見る地方にもかかわらず、その大半が開墾や盗掘により、また近年の大規模開発事業により破壊され、崩壊の一途をたどっている。他方に箱形石棺を内部主体とする古墳がある。それらには、横穴式石室を内部主体とする古墳群に並行する時期にあるものから、また先行すると見られる箱形石棺墳の広がりがみられる。これらの内、主なものをあげれば、浅海本谷名石の小竹八号墳・丸山一〇・一一号墳・高山古墳(全壊)・浅海原古墳・浅海原宮が谷古墳が浅海地域に分布している。また下難波にみられる大浦観音山古墳・打越一・二号墳・城山三・四号墳・長浜五・六号墳・新城二二号墳・家ノ谷古墳があり、庄地域にもわずかにみられる。立岩川の上流門前に数基、才之原から滝本にかけて尾根上に点在する才之原一~四号と滝本一~三号がある。立岩川左岸の中流地域に広がる神田・高田・波田・宮の上には小丘をなす場所には、かならずといえる程に小祠を祀るものがあり、その稠密さを物語っている。また箱形石棺墳は河野川流域にも見られ宮内馬場九号墳をはじめ、善応寺の辻之内古墳群では数基の箱形石棺墳があり、これらの内には円筒埴輪をめぐらすものもあったと伝えるがいまは全壊した。
 いま残存する古墳をはじめ、数少ない調査報告や記録を手掛りとして、時代は中・後期と相前後するが北条古墳群での若干の特異点と思われるものを探ってみよう。
 今一つの問題を提起する古墳に庄の谷古墳がある。庄の谷古墳は、国津比古命神社の東北に面した庄山麓の南面に突出した、一見小独立丘陵をおもわせる山頂に営造された古墳で、すでに原形を失っているが、発見時の内部主体部における図から竪穴式石室が構築されており、浅海地域における箱形石棺と同様に中期的様相を具備した古墳である。本墳での出土遺物には須恵器(広口壷・提瓶・はそう・高坏・坏)、鉄器(鋤先・鏃・刀子・直刀)装身具の金環が出土しており、出土遺物の内須恵器は二段透しの無蓋高坏を合せ出土してはいるが、その他の須恵器はいずれも一期後半から二期に比定される遺物とすれば中期的古墳として扱われるかもしれず、空白だった北条古墳群の六世紀初頭を埋めるものとなるかもしれない。

 棚付の新城三号墳

 北条市における後期古墳は、前述の奥の谷古墳をはじめとして、概して巨石による横穴式石室を構築するものが多い。中でも小山田古墳群の首長墳ともみられる萩原の才ノ谷古墳がある。墳丘は直径二〇メートルの円墳であるが、前面に構築された俵原池があり、池に突出した舌状部に葺石と割り付け石と見られるものがあり、前方後円墳の可能性をもつ外形施設が推定されるが、築池時に削平され道路を施設しており定かでない。内部主体は主軸方向を東西に取り、東に開口する両袖式の横穴式石室である。奥壁には巨石を直立させ、上部二段に積石している。両壁面より縮約した石積みは布目積による整備された石室構造である。両袖をつくる石材の両側石は共に一石をもって玄門を造り出している。羨道部の石材も大きく、実にしっかりとした構築となっている。内でも奥壁に接した両側壁は巨岩を二等分した割り石が、対をなして基礎石として利用されている。その他は割り石ではなく平坦な自然面を利しての石積みが、構築美をさらに高めている。石室での床面は、奥壁より一・八メートルに割石による区画をなし棺床を造り、奥壁に向かって左側壁には幅〇・八、長さ一・八メートルの自然石による棺床区画が追構築されている。副葬品については、須恵器と直刀が玄門部にて出土したと伝えられるが、その他に鉄鏃・刀子・鉄斧・鋸・須恵器(提瓶・平瓶・坩・台付壷・壷・高坏)が記録されながら、現在は散逸して不明である。
 当市においてもっとも顕著な特徴を示す玄室内構造をもつものに新城第三号墳がある。第三号墳では、奥壁面の中間位置に一枚の部厚い石材をもって、両壁面に渡し棚状の構築をおこなっており、天井との空間を二分している。この棚状構築をなすものは、かつては松山市鷹子町のタンチ山(双子塚)でも見られたというが、第二次世界大戦(太平洋戦争)中に滑走路の建設により全壊した。いま一つは同市津吉古墳にあるが、本墳ほどに立派な構築ではなく小規模である。また川之江市山口古墳における同様施設を有する石室構築よりも遙かに大規模で、県内における最もきわ立った石室の構築を示した例といえよう。

 龍徳寺山一号古墳

 北条市南部における古墳に昭和五三年(一九七八)調査の龍徳寺山一号古墳がある。龍徳寺山一号墳は片山(別府)の独立丘陵上に営造された古墳群中の一基である。かつてはこの丘陵上に二〇基に余る古墳が営造され一群をなしていたが、正沢池・池田池・松ノ木池の構築により多くの古墳が壊滅をした可能性が高い。特に西緩斜面から南斜面にみられる一群の箱形石棺は柑橘栽培のため開墾により壊滅している。さらに丘陵にも開発がおよび壊廃した主体部の残存遺物をはじめ、わずかに墳丘の丘位を残す状態である。龍徳寺山一号墳は独立丘陵の頂上(四四メートル)地点にあり、直径二五メートルの円墳である。墳丘は一四層におよぶ版築(つきかため)がみられ、四メートルの高さにある。この墳丘にはその他に埴輪や葺石はなく、墳丘の中央部に内部主体の横穴式石室を施設した完全な版築丘であった。
 四メートルにおよぶ墳丘はすべて客土によっているため、雨水による流失をおそれて、木炭と粘性の強い花崗岩の分解土を混入して版築しており、また墳丘の母体をなす搬入土は、火山灰土(降下性火山灰土)を利用するという省力化が計られた見事な墳丘の造築工法を取るものであり、古墳営造技術として見るべきものがあると報告されている。
 古墳の内部主体は片袖式の横穴式石室であり、石室の石材は安山岩の割石を利用した横積み手法によるもので、奥壁及び両側壁面より縮約した四注式の方形の玄室(一七〇センチ)を造り出している。玄室の主軸方向は北一七・八度西を指した片袖である。羨道部の長さは玄室と同様に一・七〇メートル、幅九〇センチで、両壁面の石積は持送り式でなく直立している。さらに羨道部と墓道とを区画する位置に川石による立石が配置され仕切りがなされていた。
 さらに片袖の玄門位置と立石(柱石)の羨道入口部の二か所で閉塞しており、玄室に対する前室的な効果がみられる。羨道入口部で閉塞された前庭部は、八の字形に開かれた川原石による粗雑な石積みがほどこされた後、大きく屈折(約六〇度)した排水の溝が墳裾部に至って設けられていたが、機能的には不可能な排水勾配にあり形式化されたものとなっていたようである。
 出土遺物は玄室内と羨道に限られ、前庭部においての遺物は認められなかった。鉄器は直刀・鉄鏃・刀子・鎌・馬具が出土し、装身具では管玉六個が出土している。外に須恵器があり坏・坏蓋・坩・壷・高坏・はそう・横瓮があり総計二五個を出土したが、これらが本墳における副葬品のすべてではなく、再度の盗掘による出土遺物を含めれば多量の遺物が副葬されていたことになる。
 このほか、全貌を明らかにしえない前述の諸群について再考の余地があると同時に、稠密な古墳の営造をなしえた当時代の生活遺構を中心とする生産遺構の発見は非常に遅れている。当時の集落はすでに平坦地にあり、今日とほぼかわらない生活舞台を展開し現在もなおそれを踏襲しているものであろうか。または河川の回春作用により地下に埋没しているため不明に帰しているのであろうか、河川堰堤・溜池などとの関連において今後の解明にまちたい。

 忽那七島の古墳

 かつての北条市と同様に風早郡中に含まれていた中島町における古墳時代は、二つの流れがみられる。その一つは箱形石棺を内部主体とするものと、二つには横穴式石室を内部主体とするものである。これらの外形はほとんど円墳であり、古墳の立地は港を囲む丘陵の尾根に多くつくられており、芸予諸島にみられる古墳の立地とは異なっている。
 また出土遺物からみて、箱形石棺が当地域では先行して営造され、つづいて横穴式石室を内部主体とする古墳が営造されている。分布は津和地の竹ノ浦・怒和島の宮ノ浦・中島の泊・大浦・大串・小浜・長師・野忽那島の丸山などにみられ、なかでも小浜のタオの中山古墳(箱形石棺)では勾玉・管玉・ガラス玉を出土している。また大串のカガリヤマ第二峯中ノ木(箱形石棺)古墳では小環付きの銅釧(腕輪)や滑石製の勾玉三六個(東博蔵)があり、他の古墳出土の遺物とは違いがみられ、司祭者的な有力者の墳墓かと推察され、内壁には赤色塗布がみられる。この他に中ノ木にはかつては数基の横穴式石室を築造した古墳もあり、中ノ木や田房の古墳より出土した須恵器がある。このほかに古墳時代の日常什器として利用された土師器は全島で発見されている。これらには古墳そのものは見出されなくとも人々が、生活していたことは事実であり、二神島の泊・睦月島の梅ノ子にもこれが見られる。

(12) 松山平野西部における後期の様相

 松山平野西部の古墳群

 松山平野の西部には独立した丘陵地帯が広がり、平野部より直接伊予灘にのぞむ地域はわずかに、今出・鯛崎より伊予市に至る間と、斎灘にのぞむ和気・堀江の間である。現在栄えている松山港周辺(約海岸線二〇キロ)は、この西部一帯に広がる丘陵でもって、一応平野とは遮断された状態におかれている。
 これらの低い独立丘陵地帯は、またそれぞれに分かれて起伏をもった幾つかの残丘を形成しながら帯状に海岸線と平行して南北方向に広がっており、この低位丘陵の東斜面は豊かなしかも肥沃な平坦部となり、日当たりのよい定住地で早くから開かれていた。
 北は斎灘に面した和気浜をもち、西にそびえる経ヶ森(一七一・三メートル)は、北は和気浜との境をなす岩石の突出した白石の鼻で海にせまっている。斜面の西山麓は旧新浜村をなす地域で、ごく僅かな谷間の平野をのぞく他は、急斜面で海岸にせまっている。この西側に残丘を、東側には高縄山系の丘陵をもって挾まれた堀江地溝帯があり、両山麓部を流れる水を合わせた志津川と久万川の二河川による当地域での開発は、縄文晩期における船ヶ谷遺跡にみられる状況によく示されている。この時代からの低地の開発が進められる一方、斎灘・伊予灘を持つこの地域は海上への動きもまた活発に進められた。しかも弥生時代の発展をきずなにした地域の開発は、さらに伸展したと見られ、これら活躍をした勇者の墳墓が、丘陵の分岐した尾根上に数多く造られている。これら営造された墳墓には大きく二つの流れを示す時代的な広がりが見られる。その一つは箱形石棺を内部主体とする墳墓であり、今一つは横穴式石室を内部主体とする墳墓である。後者は古墳時代後期から終末にかけて集中的に営造され、しかも群集して構築されるという傾向がある。これに対して、前者は単独か、または二ないし三基並列的に構築されるという傾向がみられる。これら両者の合体したものとして、基盤面に箱形石棺をもち、その上部に横穴式石室を構築するという重複した立地の共有がみられる。さらに両者が使用する石材についてもある統一した傾向がみられる。この意図が宗教的なものか、部族的な系譜を示すものから発想されたものか、ただ単に自然的な条件によるものかは、今後さらに調査研究の成果を待つべきであろう。現段階では意図的に配慮された上での石材の利用が行われたとしか考えるほかない。今ここに当地域での箱形石棺を数え上げれば四〇基にもなるであろう。それらの中には古墳時代以前のものもあったかもしれないが、多くは古墳時代に属し、中に鉄剣・貝釧・玉類・直刀・鏡を副葬していたものも報ぜられているが、大部分は不分明である。舶載鏡出土を伝える和気坂浪の古墳は中期以前にさかのぼるかもしれないが、墳丘などについても記録を欠く。津田山のは仿製で五獣鏡とされている。
 ほかにさらに箱形石棺の営造は対蹠的な潮見・吉藤・姫原・山越をはじめ、松山城・道後桜谷はもとより、久米芝ヶ峠や桑原一円にもみられるが、その稠密さは西部丘陵地帯に濃く、その他は散発的な分布を示している。だが松山平野南部における箱形石棺の稠密遺跡である土壇原にはおよばない。
 後期の横穴式石室をともなう古墳もまた当地域(丘陵)には多く、すでに記録すらなく全壊した古墳も多い。例えば高浜小学校西山麓・梅津寺天理教会裏・高浜中学校裏・三津北山塚穴・古三津長谷奥・新浜船ヶ谷徳利山・三津平風山・太山寺町片岡・宮ノ谷一、二号・太山寺片廻経田・太山寺船ヶ谷茶臼山池上の諸古墳と岩子山・御産所・久万の台の諸古墳群がそれである。
 これらの各古墳の外形は円墳であり、規模一五~二〇メートル内外の直径を有するものである。古墳の立地は丘陵上に占地するものから、丘陵の中腹に構築するもの等種々であるが、中でも岩子山の一号は、同群の古墳営造時期より早く、五世紀末頃と施設や出土遺物などから推定される。また同じ横穴式石室において明らかに単葬と見られる宮ノ谷二号墳や、墳丘に埴輪の配列がおこなわれていた宮ノ谷一号がある。宮ノ谷一号においてはその後の追葬が度々行われ五体が検出されたと記録されており、これら古墳に供献された須恵器から六世紀中葉をはじめとするものの、盛期はいずれも六世紀後半から七世紀初頭とみて差しつかえない時期であろう。

 松山平野北部における様相

 松山市北部の吉藤・平田・権現町にみられる一群の古墳がある。古墳営造の時期は他地域よりやや遅れてのものと見られる中で、特筆すべきものにすでに中期でのべた、谷町蓮華寺出土の舟形石棺がある。愛媛県においては初見のものであり、時期的には五世紀後半に位置づけされ、西方の丘陵東山町に営造されている徳利山古墳と相呼応し、さらに先行した勢力ともみなされるが、墳丘など全く不明である。また高城の低位分岐丘陵上には、箱形石棺を内部主体とした円墳があり、内一基には円筒埴輪片がみられる。さらに堀江港にのぞむ福角町・権現町にも群集する古墳がみられ、特に福角町の正八幡神社の日杜と月杜の古墳がある。前者には円筒埴輪片が検出されており、後者では漢式鏡の出土がいわれている。対蹠地の北谷古墳(市指定史跡)を中心に南面する山麓部には横穴式石室を内部主体とする後期後半の円墳が分布し、丘陵部には箱形石棺を内部主体とする円墳の分布がみられる。

 松山平野南部における様相

 松山平野の南部特に重信川より南面に広がる平野部は、それぞれ東より、拝志川・御坂川・砥部川により、大きく三区分される平野部の形成が見られ、特に諸河川により独自の生活圏を確立し、またある時は共に相協調しての文化創造をなしていたものといえよう。
 特に砥部川より西方に広がる行道山(四〇三・一メートル)から谷上山(四五五・三メートル)に広がる北山麓地域における複合扇状地や、分岐低丘陵上に営造された古墳には前述したように、松山平野における前・中期的なものがあった。この地域を拠点として、大いに発展をとげる古墳時代を、各河川流域においての広がりから概観的にみれば、古墳営造の発展は西方より東方へと伝播したのであろうか。
 四国山地の黒森山(一一八四・二メートル)より北方に分岐した大久保山(四三〇メートル)から大友山(四〇七・〇メートル)へとしだいに起伏を減じた後、低平な釈迦面山・土壇原の丘陵地形が延びている。その西側は水梨山に発した砥部川が北流し、東側は日当たりのよい平野部が開け、東方にそびえる尉之城(四三四・六メートル)の分岐山塊の西北に広がる旧荏原郷は、御坂峠に水源を発する御坂川で二分され、あい協調しながらも、またそれぞれに独自の文化圏を創造していった。中でも砥部川と御坂川に挾まれ、しかも東に日当たりのよい平野部を持った釈迦面山及び土壇原における発展の様相は、縄文時代・弥生時代、そして古墳時代へと続く複合遺跡であり、自然環境にめぐまれた立地にあり、古くより開けていたことはいうまでもない。だが古墳時代における発展はただ古くより開けているのみではかならずしも飛躍的に達成されなかったことは、古墳の営造が示す経緯が実によく物語ってくれているといえよう。
 前期半ばをすぎてはじめて高塚墳墓をもつと考えられる谷上山北山麓地帯での古墳営造の風潮はやがて、砥部川を渡り、釈迦面・土壇原丘陵上にもそれを見るに至ったのであろうか。当町では土壇原五号墳・一九号墳にみられる周溝及び埴輪をもつ五世紀後半のものから、七世紀前半に及ぶ一大古墳群を形成している。それに続く大友山の北山麓から東山麓にかけての松ヶ谷古墳群、春日谷古墳群、通谷池古墳群や八塚古墳群があり、さらに八坂寺周辺の古墳群へと広がりを見せる。一方尉之城分岐山塊の西側山麓に広がる矢谷古墳支群をはじめ、北斜面の山腹から山麓にかけて分布する岡本・津吉朝鮮谷支群があり、これら尉之城山麓一帯の古墳を津吉古墳群と総称している。
 古墳の営造はさらに東方に広がり、重信町下之段・宮ノ段・別府・定力にみられる散発的な分布を示しながらも内陸部から山間部へと伝播しており、当地域での営造密度は西に濃く東に薄いようであるが、中でも、釈迦面山、土壇原における群集墳があり、特に六世紀を前後する時期に集中した営造がみられるのに対して、砥部川流域における古墳営造は、七世紀初頭から発展し七世紀後半以後に集中しており、さらに八世紀にも及ぶかに見られる。これら後期古墳の当地域での様相を今二、三の古墳をあげながらそれぞれの地域の特色にもふれてみよう。
 県営総合運動公園の敷地面積は、延約五〇ヘクタールを有する一大地域である。その南部の約二〇ヘクタールは公園緑地帯として利用される予定で、順次整備されつつある。この公園緑地帯には現在、現状のままで保存された古墳二〇基と古墳時の窯跡が六基ある。これらの古墳は大下田古墳群と総称されるもので、古墳時代後期の様相が強く、大下田一号~四号墳は共に横穴式石室を内部主体部としている。また公園東端の古鎌山の山頂から中腹にかけて古鎌山一~三号墳が主軸方向をほぼ南北に取り並列して存しており、西方に延びた緩傾斜の尾根にも、数基の墳丘が連座している。古鎌山の北東山麓にある谷田上池と西野西大池に挾まれた丘陵には、谷田古墳がまた、谷田上池に突出する中央部の舌状台地では古墳時代の集落跡が検出された。この集落より登りつめた斜面には第一、第二窯跡が検出されている。この第一、第二窯跡に挾まれた地域から二つの窯に関連する工房跡も検出されており、この工房跡から円筒埴輪片をはじめ盾形埴輪片も出土したと報告されている。
 谷田地に突出する北端の舌状台地を登りつめた頂上が大下田四号古墳である。大下田四号の西方七〇メートルに三号墳、さらに大下田下池の西方一〇〇メートルに二号墳がある。これら、二号・三号・四号は共に東西方向に並列し、各号それぞれ一見したところ一墳丘に二石室を含むとも解せられたが、よく見ると長円形の東西方向に長軸をもつ墳丘で、これらはいずれも双円墳といえそうで一墳丘、一石室を持っている。
 石室はいずれも横穴式石室で主軸方向は南北を指向し羨道は南に開口している。この他に三号墳の尾根及び、南斜面にも六~一一号が並び、さらには四号墳の北方約一〇〇メートルには五号墳が山頂を利用して営造されている。
 大下田古墳群の内、一号墳については、昭和四一年(一九七六)に調査を、また二号墳は四二年(一九七七)に調査されている。一号墳は山頂部を占地した直径一五メートルの円墳で、円筒埴輪列などを配しており、内部主体は両袖式の横穴式石室で東北から南西に向け開口している。石室全長は(玄門から奥壁)一二・二メートル、幅二・二八メートル、天井高二・五四メートルで、すでに羨道は盗掘により破壊されていたが(推定二・五メートル、幅一・九八メートルがえられる)玄室内は盗掘を免がれ、後日の発掘で遺物は凡て文化庁に帰属した。それらの出土遺物には鉄製直刀三、刀子一、金銅製帯金具一、金環二、銀環二、鉄鏃四、銛一一、玉類管玉四、切子玉六、平玉一、丸玉八四、小玉四七〇)須恵器(子持高坏一、装飾子持壷一、はそう二、器台二、台付壷二、広口壷二、高坏二、蓋坏三)、その他に埴輪円筒三があり、特に須恵器質の埴輪が含まれている。
 本墳における被葬者は五名と報告されており、家族墓として利用され、出土遺物や内外の施設や古墳の立地から見て、後期の第二期すなわち六世紀後半から七世紀初頭の頃と推定される。
 大下田二号墳は昭和四二年(一九七七)に調査された古墳で、一号墳から約二〇〇メートルの北北西の位置にある。墳丘の規模は東西の長径約二〇メートル、南北径約一五メートルの楕円形の墳丘に、南北方向にほぼ平行して二基の石室が営造されており、西側を二号の一、東側を二号の二とした。
 この二号墳における二石室の遺物からして二号の一が先行して造られ、しかも墳丘にみられる版築からして、双円墳と見るべきであろう。いずれにせよあまり時期差を持たないで営造されたものであり、六世紀中頃に比定される。また西側の石室では、玄室内に板状の立石をもって石室が二分されるという、特別な石室構造をもっているが、この構築方法は大下田三号墳の西側石室でも見られた。またここに双円墳と推察した類のものは久米の芝ヶ峠第一号古墳にも考えられるがいかがであろうか。
 大下田四号墳及び三号墳も二号墳同様に双円墳と解され、しかも南面に開口する両袖式の横穴式石室である。遺物その他詳細については、報告書により明らかにされよう。ただ四号墳において検出された石室は、上部に二号室を営造した双円墳であるが、その基盤面にさらに一基の横穴式石室があり、その方位は上部遺構と異なり、石室の主軸方位は東西を指向しており、明らかに基盤となった石室の破壊をした跡に、二石室が営造されている。このように先行した墳墓の崩壊の上に占位した例は松山市祝谷六丁目の祝谷古墳においてもみられ、共に今後研究すべき課題となろう。
 大下田五号墳の北東部に延びる標高一〇〇メートル前後の釈迦面山丘陵上には、方墳で内部主体を箱形石棺とするもの二基があるが、これは後期よりさらに遡るであろう。また、松山市西野町西大池の古鎌山東山麓の西野町乙一五四番地に西野一号墳と二号墳があって共に調査された。この西野一・二号墳はともに山麓の傾斜面に構築されており、柑橘園の造園時にかなり破壊されている。
 一号墳は一辺一〇メートルの方形周溝をもつ方墳が推定され、周溝は二段の掘り込みがなされている。墳丘をはじめ天井石やその他の石材は搬出され壊滅していたが、周溝からの推定により二~三メートルの封土をもった墳丘が想定される方墳である。石室の構造は、地山を掘り込み構築されており、奥壁部で一メートル、側壁中央部で八〇センチとなった掘り込みで、掘り込みの全長は六メートルにおよんでいる。石室の規模は、全長四・四メートル、玄室長二・一メートル、玄室幅二・八メートル、羨道幅一・五メートルの片袖式の石室が主軸方向北三四度西に施設されている。床面には玄室内はもとより羨道部にも直径五~一〇センチ大の河原石による敷石がなされている。この敷石の下部に、玄室の中央部位置から幅二〇センチの溝を掘り、その上端部に扁平な自然石で蓋をした排水遺構がみられた。一号墳は玄室の幅が奥行きより長く、しかも羨道部は玄門部より大きく開いた、いわゆる只の字型の石室構造である。
 二号墳は円墳が想定されるが開墾によりさだかでない。石室の規模は全長三・四メートル、玄室長二・四メートル、奥壁幅一・五メートル、羨道部幅一メートルの主軸方位は北三七度西にとっている。現存する石材より石積は割り石による野面積手法による構築が考えられる。玄門部は立石をもって構築され、石室中央部に胴張り(中央部幅一・九メートル)を有する両袖式の横穴式石室である。床面には地山の山石でもって敷石が全面にみられ、さらに北西隅に三個の扁平石により障壁が一段と高くなった部分を造り出している。葬床の規模は一メートル×〇・五メートルの長方形である。
 出土遺物はわずかに須恵器の供献遺物の一部分が検出されているが、大半はすでに散逸して不明である。これらの遺物からして、陶邑でいうⅢ形式の後半からⅣ形式初頭に位置付けされる時期のものといえよう。
 大友山の北裾に広がる分岐した小丘陵の陵線上に営造された古墳群が通谷池・春日谷・松ヶ谷と並び、いずれも二〇基前後の支群をなしている。昭和四八年(一九七三)に松ヶ谷一号墳が調査され、それによれば推定一五メートルの円墳で、内部主体は両袖式の横穴式石室が構築されており、玄室長五・一メートル幅は玄門位置で一・七メートル、奥壁位置で二メートル、石室の高さ二・四メートル、羨道部は〇・九メートルの粗雑な石積みとなっている。石室は半地下式の掘り込みにより構築された羽子板型を呈しており、玄門に立石をもって羨道と玄室の区画をしており、主軸方向は北五度西を指向し南に開口している。奥壁面は垂直に二段の石材で構築されており、両壁面は和泉砂岩による割石で石積された野面積みで天井部にむけて縮約した石積みとなり天井石(自然石)を横架している。奥壁の天井石はすでに移動され一部攪乱されていたが、玄門部における供献された副葬品は落石にあいながらも定位置にあり、興味ある配置といえよう。玄室の出土遺物には、土師器・須恵器・鉄器、そして装身具である。内でも須恵器の遺物は多く、杯一〇、無蓋高杯五、有蓋高坏一〇、短頸壷一一、長頸壷二、広口壷四、(内脚台付二)はそう一、提瓶二、器台三、子持坏付装飾器台一、その他の遺物には鉄鏃一、刀子三、馬具轡一、水晶の切子玉三であった。
 特に本墳では須恵器の供献が多く、中でも出土状況(配置)に大いに意味があると思われるためふれておきたい。これら供献遺物はみな玄室の奥壁に向けての器物の配列が見られたことである。玄門部にまず対称的に器台が左右におかれ左壁面の器台は単独に配置し、右側の器台には短頸壷がのせられていた。両器台の三角形の頂点の位置に子持付装飾器台が置かれていた。両壁面では次に広口壷が左右に二対安置され(一対は共に台付広口壷)、次いで提瓶が置かれ、そして短頸壷と有頸壷が雑然と六対六で出土した。杯身と杯蓋を合わせているもの三個以外は、いずれも杯身・杯蓋は別々に重ねられて両壁面から出土しており、有蓋の高杯はいずれも蓋はされないで両壁面にそれぞれ一群をなして坏の奥に置かれていたが、無蓋の高杯は両壁に対置されていた。中央に配置された子持装飾器台の奥に土師の壷と高杯が対をなして置かれてあり、馬具は玄門部の右壁面の隅におかれていた。その他の鉄器や装飾品は奥壁部で検出されたが、すでに盗掘されており配置状況は不明であり、埋葬時の位置を保つものではなかった。
 松が谷古墳群の北方の平野部に転在する八基の円墳がある。いわゆる「八つ塚」である。(松山市指定文化財)墳頂にはいずれも小祠が置かれ地蔵が安置されている。墳丘は直径一五~五メートルと差がある封土状況にあるが、かつてはさほど差のない同規模の古墳であったことが墳丘測量より明らかとなった。現在平野部に残された群集墳は、県下でも少なく、今後の保存が強くのぞまれる。内部主体は横穴式石室が想定されるが、いずれも未調査のため詳細は不明である。
 なおこれらのほか松山で特記されるべきものを次にあげることにする。

 御幸寺山古墳

 松山市の城北御幸寺山一六四メートルの中腹にあって、石手川の扇状地形による平坦部が南面にひろがり、一万市筋(現在の今市二丁目)や、樋又の銅剣出土地とは約四〇〇~五〇〇メートルと距たる。また同東山麓からは分銅形土製品も出土している。現在宅地造成により切り崩された東山麓の中腹から山頂にかけて、古墳が約六基あり、そのほとんどが、崩壊の状態であったが、その内の一基から昭和二一年頃に発掘された遺物がある。古墳は円墳で横穴式石室をもち、羨門は北方に向って開口し、入口より奥壁までは約五メートル、天井石はすでに取り去られ崩壊寸前で、特に見るべき施設はなかったと故大場博士は述べている。(昭和二一年一一月調査)出土遺物には
 1 方格規矩四神鏡    一 面
 2 鉄製内反環頭太刀   一 口
 3 同上直刀残欠     若干個
 4 鉄鏃         数十本
 5 鉄製斧頭       一 口
 6 金環         一〇個
 7 馬具残欠       若干個
 8 須恵器        若干口
 
 内反環頭太刀は身長六五センチで環頭部の一部を欠く、金環は鉄地金張で特に一個は、二環が喰い合わさった連環であった。須恵器は長頸坩、平瓶二個は完形、鏡は白銅質の優秀品で、面径一四・二センチ、縁厚四ミリ、裏面の図様は四葉座鈕を回って内区に方格とTLV式文様とその間に四神がある。次に銘帯があり、外区は櫛歯と鋸歯文帯をめぐらし、最後に流雲文をもつ平縁である 銘帯には次の文が鋳出されている。
 尚方作竟佳大好 上有仙人不知老 渇汲玉泉汎食棗 寿如金石之天保 楽未央兮
 この鏡は舶載鏡で中国・朝鮮における出土例が多く、わが国では舶載品の外、この仿製品は特に畿内各地から出土している。この種の鏡は前漢時代(紀元前一〇八年)から魏晋時代(紀元四四〇年)頃までの長期間に最も多く製作された鏡である。
 このことから古墳の内部構造を見れば、横穴式石室であり、明らかに後期(六世紀)以後の古墳である。出土遺物から見れば内反環頭太刀と方格規矩四神鏡とは共に時代を異にする出土遺物である。このことには先代よりの家宝として伝来していた鏡と太刀を本墳の被葬者の所持品と共に副葬されたものと見るべきであるが、その副葬の理由についてはすみやかに推測できない。少なくとも後期古墳に共通する供献品物の増加傾向をしめすことによる厚葬への風習がもたらしたものとも推察されよう。
 TLV鏡とは、鈕をめぐる方形格と、その各辺の中央部に出たT字形と、それに対応するL字形、方格の各角に配置されたV字形を指して名付けられたものである。Tは円を描く規を、Lは方を示めす矩を意味するものとされ、陰陽思想を反映したものとされ、合せて方格規矩鏡と名付けている。

 三島神社古墳

 松山市畑寺町に所在した典型的な前方後円墳であったが、現在は宅地化されて消滅した。(昭和四六年四月)古墳の規模は全長四五・二メートル、前方部全長二〇・〇メートルで古墳の主軸方向を北二三五度西にとる横穴式石室である。外槨施設である墳丘はすべて盛土による墳丘であり後円墳で四・〇メートルにおよぶ封土となっている。
 古墳の前方部の主軸位置を示す墳裾部では、一一個の朝顔形の埴輪があり、この埴輪を基準に等間隔に左右に計三三個の円筒埴輪が列をなしておかれていたが、その他では形象埴輪片一個のみが検出された。墳丘は盛土(火山灰土+和泉砂岩崩壊土)による構築であるが、後円部の内部主体を持つ周辺部では十分に版築を施しているに対して、前方部は粗雑な版築状況が墳丘断面から十分に観察され、墳丘構築に対しての省力化がうかがえた。
 内部主体における構築は、まず地山を整地した面に基段となる根石を配置しており、石材は三壁面共に同様の規模を持つ自然石をもって構築している。ただ奥壁面では垂直な横積み工法で天井石の位置まで積石し、両壁面では根石から三段~四段までは横積による布目積みがみられ、四段から上端部での石材は、石室内部には短径の面をもった野面積みとなり、縮約して天井石を横架させている。特に本墳における五段目以上に使用された石材は長径のものが多く、玄室面に臨む石面規模の大半は、封土中に埋められ、玄室部に強靭性をたもたせた構築工法を用いている。石室の構えは片袖式の横穴式石室で、玄門部は立石を用いずに大振りな自然石を横積みにしている。玄室は長方形の奥行三・七〇メートル幅二・〇~一・九二メートルである。床面に人頭大の自然石を敷きつめ、その上部に玉砂利を全面に敷きつめた床面がつくり出され、玉砂利及び栗石の間隙が羨道部に構築された排水遺構への排水効果を保つ状態を造り出している。羨道部全長一・九~二・〇メートルで幅一・一メートルの構築がみられ、石積み手法は玄室内部と同様の工法を踏襲した造りとなっている。羨道の中央部に溝幅二〇センチ、深さ一〇センチの暗渠排水がほどこされ、全長六・四メートルと計測された。排水溝は羨道をすぎて後二度曲折するが、曲折方向は、玄室内より右折する。玄室の主軸方向は北二〇度西を指向し墳丘での主軸方向と三五度北よりとなっている。
 副葬品においては、すでに何時の日か盗掘され、残存する遺物は、須恵器の器台脚部と、はそうの口縁の一部を出土したほか、玉類として管玉六個とガラス玉一二八個、ガラス小玉一、二一九個、臼玉二三一個、銀製空玉六個、鈴形金銅製垂飾品(仮称)三個、鉄地金銅張帯金具一五個、鉄釘一九本、刀子片、鉄鏃片を共に数点と銀環一個である。

 波賀部神社古墳

 松山市高井町樋口に営造された俗称大塚(墓部山)で、古く樋口は出百と呼ばれた地域である。大塚の名にふさわしく、かつては周囲に堀をめぐらしていた。封土は三島神社古墳と同様に盛土によるもので、古墳の全長五四メートル、前方全長三〇メートルを有し、後円部頂は前方部頂よりわずかに五三センチ高くなっている。三島神社古墳(六世紀初頭のおそい時期)よりさらに新しい時期の古墳と推測される。墳丘の主軸方向はほぼ西面に向き、南面に開口する横穴式石室の一部が、波賀部神社本殿裏にみられる。出土遺物には、須恵器のほか円筒埴輪があり、一部出土品は東京国立博物館に収蔵されている。松山市指定文化財でもある。
 今、松山平野における前方後円墳のなかで特に三島神社古墳と波賀部神社古墳との間(約一世紀)に営造されたと見られる前方後円墳の多くがすでに全壊している。久米地区にはタンチ山(双子塚)が現久米小学校校庭にあって、大戦中に滑走路の建設工事により壊滅した。この古墳は伝承によれば墳丘瓢箪型で奥壁は一枚石であったといい、また棚をつけていた(故柳原多美雄)とも伝えられる。双子塚の西方約五〇〇メートル、農免道路に面して二ッ塚がある。かつて道路工事中に円筒埴輪を出土しており、西面に前方部を持つ前方後円墳であることが確認され、全長約四〇メートルで後円部は現存しており、前方部は削平されて遊園地として利用されている。

 客池古墳

 伊予市上三谷の客池古墳は、古墳全長約三〇メートルの小現模な前方後円墳である。未調査のため定かではないが、前方部及び後円部にも石室を構築してあり(石材一部露出)、後円部の石室は盗掘をうけている。出土遺物等は不明であるが、古墳の墳丘が実に美しく遺存している。

 伊予岡八幡神社古墳群

 伊予市の南側を限る複合扇状地の縁端部に残る標高二〇メートルの小残丘上に営造された群集墳である。ここには客池古墳と同時期かやや下る時期に比定される古墳後期の前方後円墳と、古墳時代末期と想定される円墳の群集するものが見られる。伊予市上吾川の伊予岡八幡神社境内の森を形成し、県指定史跡でもある。

 川上神社古墳

 馬具を出土した古墳に温泉郡川内町南方川上神社古墳がある。標高約一五〇メートルの松瀬川扇状台地に鎮座する川上神社の境内の裏山にある。昭和二五年(一九五〇)、前方部を西向きにする前方後円墳として県指定史跡とされた。その後の研究により、直径約二〇メートルの双円墳であるとする見方が強くなっている。東側の方墳では、主体部は横穴式石室で南に開口している。玄室は両袖式で玄室長二・八メートル、幅一・八メートル、高さ二・一メートルで、全長は八メートルである。玄室の奥壁及び両壁は巨石による一板岩で垂直に構築されており、県下でも当墳以外には構築例のない立派な巨石墳である。
 この西側にあたる墳丘にも横穴式石室があり、現在は封じられているが、かつて開口され、石室内に四個体の遺骸が発見された。この両古墳から出土した遺物は多量で、しかもすばらしい金銅製の器物が副葬されており、石室の構造からして六世紀末から七世紀初頭にかけて、当地域における最有力な首長として君臨した権力者の墳墓であろう。出土遺物には、金銅製の馬具として、馬鞍・辻金具・杏葉があり、その他に鉄製の轡、直刀、刀子、鉄鏃がある。特に太刀は金銅製環頭太刀を出土しており、装身具には、金銅環・玉類があり、什器類には須恵器のはそう、台付はそう・高坏・台付装飾壷・台付長頸壷を出土している。
 さらにこの古墳を取りまく、北方の山麓一帯に広がる後期から終末にかけての古墳があり、いずれも横穴式石室を内部主体とする。かつて、北方字古宮を取り囲む形で北方より海上及び宝泉地域を支配していた統率者が、やがては南方の地域をも掌中に納めて、盟主的首長として君臨したものと推測される。なお南方地区にも数基の横穴式石室を構築する円墳が、森・竹の鼻・曲里にみられる。これらはいずれも終末期における円墳である。

 津吉古墳群

 松山市南部に位置する尉之城山の西側山麓をはじめ北側の山麓から山裾にかけて営造された後期の古墳群である。これらの多くは戦前における梨畑の開発により山裾部の古墳は壊滅し、戦後には柑橘園の開園により、丘陵部の古墳のほとんどが壊滅か全壊に近い状態に置かれている。開口された古墳での遺物はすでに散逸して不明であるが主体部の石室は、そのほとんどが横穴式石室であり、羨道部は短かく施設されるものの他に、無羨道に近い玄門石と羨道を兼ねるものが多い。墳丘は円墳であり、当地域においては埴輪を配する古墳は造られていない。開口している古墳の主軸方向を見ると二方向を指向する位置がとられ、しかも地域性をもった営造思考として統一されている。その一群は矢谷地区と岡山地区に営造された尾根及び山麓の主軸は南北を指向するもので、すべて南面に開口している横穴式石室である。これに対して三本木地区と津吉地区に営造された古墳では東西方向を指向し、西面に開口するもので統一されている。内部主体である石室が西面に開口する石室は、さらに下ノ段・宮ノ下地区の重信町にも広がりが見られる。別府・定力に散発的に営造された石室は南面に開口する横穴式石室がみられる。これに見られる主軸方向の統一は村落共同体としての思考から発生した営造観念によるもので、すくなからず地域の環境に支配された立地から考案されたものに他ならない。ただ津吉地区においては奥壁面に石棚を構築した二基(一基壊滅)があり石室規模も他に優るものがある。

 天山古墳群

 天山独立丘陵の尾根に一〇数基と山麓部に数基かつては存在した。丘陵部の開発と宅地化が急速にすすむ中で、山麓から平野部にかけてのほとんどが壊滅し、さらに丘陵部への宅地化が進められ、丘陵は半ば中央で二分された形に変化して、古くは伊予の三山として親しまれた丘陵の面影とはほど遠い姿と化している。当丘陵での調査はほとんどなされることなく壊滅し、内部主体の構造はもとより墳形や副葬された遺物についても、そのすべてが散逸し不明である。ただ一基北東部の天山一号墳の下方に営造されていた両袖式の横穴式石室を内部主体とする円墳があり、その石室の奥壁(一板の盤石)にr字状の線刻(十二)があり、その下位に舟と推定される線刻と共に朱付した壁画が描かれていたが、巨石は取り出され、塀の土台石として割られたという(故柳原多美雄所説)。壁画を舟とすれば上のr字状の線刻は鳥をえがいたものかとも考察されるがその他に記録もなく、遺物その他についても同様に不明である
 丘陵の東端部に天山一号古墳がある。全壊した古墳を含めて畑地の整地中に直刀の発見が伝えられた。その調査の結果内部主体である根石の一部をわずかに残し、床面には玉砂利を一面に敷きつめた状況で、古墳の墳裾部と推定される半径一五メートルに円筒形埴輪三基を検出した。このことにより埴輪をめぐらした直径三〇メートル内外の円墳で、しかも石室の根石の状況と出土遺物からして竪穴式石室を構築した後期初頭の古墳と理解されている。
 出土遺物は石室の荒廃した状態とは違ってよく遺存しており、須恵器(器台・装飾壷・高杯・杯)をはじめ装身具として管玉(出雲石)及び銀製の空玉を、また胸部位置から木箱に納められていたのであろう、下部に木質を付着した銅鏡(直径一九・三センチ)と頭部に一・二メートルの直刀を、また足部の両壁面には鉄鏃を出土した。
 銅鏡の図文は鈕を中心に神獣を配し内区とし、その外縁に半円方形帯を作り出しており、外区に銘文をもつ舶載鏡である。銘文帯には、陽覧方昭中央、左龍右虎辞不詳・朱鳥玄武順陰陽、服園……とあり、さらに半円方形帯にもそれぞれ、宜・天・王・公・侯・伯・子・男の銘辞がみえる。
 その他尾根上には小祠を祀るかつての古墳跡が一四基みられるが、いずれも記録もなく遺物も散逸して不明である。同丘陵の西端部に天王ヶ森があり、ここにも直径三〇メートルの墳丘をもつ円墳があり、調査によりわずかの鉄鏃と須恵器を床面より検出した。また、墳裾部で円筒埴輪の出土を見、さらに、古墳の床面である地山面より弥生中期から後期にかけての土壙墓を検出している。恐らくは、弥生人たちの後裔を率いて活動していた首長が、天山二号墳の被葬者であろうと推察される。天山一号墳及び二号墳は出土遺物からみて、古墳時代中期末(四期)から後期初頭(五期初め)に営造されたもので東山古墳群と小野川をへだててその雄をきそった首長であり、ここは天山丘陵北山麓一帯に生活舞台を営む集落での聖域とみられる。これは天山丘陵に登る山道が西法面よりと東法面より各一つの道がある以外は北山麓面より四つの山道があることからも類推されるところである。

 東山鳶が森古墳群

 通称東山と呼ばれている独立丘陵で、古くは伊予の三山として「風土記逸文」で有名な天山や星ノ岡・東山の一つである。かつてはY字形の稜線をもった丘陵で北方向に天山の独立丘陵にのぞみ、天山丘陵との間を小野川が流れ、その対岸にまで山麓が広がっていたが、都市化の進行とともに宅地化が丘陵のY字形の丘陵をL字形の丘陵に変容させている。この丘陵には二〇数基の古墳が知られていた。その内少くとも四基の開口した古墳は記録もなく宅地造成により消滅した。いまここに宅地開発による事前調査として実施された埋蔵文化財調査報告書によりやや詳しく遺構についてふれてみたい。
 開発対象地内での事前調査では四~五基の円墳が、果樹園として開発当初すでに全壊もしくは半壊の状態で遺存していると見られていたが発掘の結果は一一基におよぶ古墳が確認された。
 開発により北斜面はすでに地山の和泉砂岩が露出しており、南斜面は緩斜面を利して共同墓地があり、残る空地は果樹園として、古墳の墳丘としてわずかに高まりをみせるものが二か所にみられた。今すこし遺構についてたどってみよう。
 一号墳は地山整形による墳丘が形成されており、墳丘径は最大径一一メートルで、しかも一墳丘に二つの石室を造築しており共に竪穴式石室である。A主体は幅一・三メートル・長さ二・九メートル、B主体は幅一・一メートル・長さ二・三メートルとややA主体より小規模な石室となっている。墳丘を共有した一墳丘二石室の構造であるが、A主体が墳丘の中央位置を示しているに対して、B主体はA主体の西側面に築造され、地山整形による墳丘裾位置に竪穴石室の長辺の掘り込み壁面を共有している。
 三号墳は一号墳より約二〇メートル南西位置にあり、一号墳と同様に床面とわずかな割石を残すばかりに壊滅しているが、床面規模は幅一・一メートル、長さ二・二メートルであった。わずかに残る墳丘から直径一二メートルの円墳が復元された。
 以上三基の竪穴式石室は共通して地下掘り込みによる工法で、しかも床面に玉石を配石する手法は、天山一号墳とも共通する築造工法である。一号墳A・B主体での副葬品は散逸し不明であるが、三号墳においては土師埦三・鋤先一・鉄鏃七・刀子五・鎌一・不明遺物二を検出しており、さらに頭骨の一部と歯牙および大腿骨から見て熟年男性の人骨であると鑑定されている。
 二号墳は墳径一三メートルの円墳で墳裾部に円筒埴輪をめぐらしていた。主体部は横穴式石室を半ば地山を掘り込み構築されており、幅二・三メートルの掘り方で、墳丘の高さ一・五メートルが現存していたが、墳丘の復元値は高さ二・五~三メートルと推定される。石室の規模は長さ二・三メートル、高さ一・一メートル、奥壁部床面幅一・〇五メートル・前部幅〇・八メートル、小振りな玄室になっている。羨道部との区画はみられず、閉塞位置での羨道長は〇・九三メートルの無袖式となっている。石材は割石による横積みを主流としており、空間を粘土で目詰をしている。奥壁石は第一石(根石)のみ巨石を使用している以外は、全体に小振りな石材が使用されている。
 四号墳は二号墳の二八メートル南方の傾斜面に構築され直径一三・七メートルの円墳である。円墳中央部に小祠が祀られており、蓋杯の杯身には人骨が入れられていた。開墾時に検出されたものであろう。同墳は一墳丘に二石室を構築しており、墳裾部には幅〇・八~一・二メートル・深さ〇・四メートルの周溝をめぐらしていた。内部主体の構造は、A主体は南面に開口する横穴式石室で、その規模は全長六・三メートル、内玄室長三・二メートル、羨道の長さ三メートル、奥壁床面幅一・八メートル玄門床面幅一・五五メートル、羨道幅一・一メートル・閉塞口の幅〇・九メートルの平面は羽子板状の形を示しており、羨道口より奥壁面ヘ一直線上に広がりをもち玄門部分が省略されている。玄室との区画は、石積を三段に行い区切りをつけている。玄室内の床面は地山を整地した後に玉石(川原石)を全面に敷き、その上部に一辺二〇~三〇センチの割石を敷き、さらにその上層に五~七センチの玉石(川原石)を敷きつめて、羨道部床中央に幅四五センチの排水溝を掘り、溝には一辺三〇センチ前後の割石を詰めて、玄室の排水を行うための施設が開口部まで施こされていた。
 四号墳B主体部はA主体部とほぼ平行して構築された横穴式石室である。石室全長三・五メートル、玄室長二・三メートル・床面幅一メートル・羨道長〇・九メートル・羨道幅〇・六メートルでA主体をやや縮少した類似の石室形態となっている。ただ羨道部の床面は玄門位置に施設された自然石により段を作り、段を下りて玄室に入る形態をとっている。
 出土遺物(副葬品)はA石室で台付長頸壷一・平瓶二・埦一と少なく、すでに搬出されている、B石室では平根四、尖根三の鉄鏃、刀子四、耳環二、管玉八、丸玉五六、小玉(ガラス製と土製)五二個を検出した。
 六号墳は二号墳の東方二三メートルの南傾する緩斜面に営造された円墳(直径約一九メートル)で、墳裾部には幅一~二・三メートルの周溝をめぐらしている。主体部は磁北にそい南面に石室を開口する横穴式石室である。石室の規模は、全長七メートル、玄室全長四・二メートル、幅一・九と一・八メートルで、前室二・三メートル、幅一・七メートル、羨道の長さ二・八メートル、幅一・三メートルとなっている。玄室は、前室と奥室とに区画され、奥室は前室より四〇センチ高く造られている。奥壁部の床面には五~八センチ厚さの川原石を敷きその上部に三~五センチの小粒の玉石を敷き葬床を作る。これに対して前室は五~八センチの川原石を敷きつめてあった。石室の構築は玄室部を半ば地下式に掘りさげて構築したのちに段を作り羨道部を構築しており、羨道口より二段の階段をもって入室する構築となっている。
 出土遺物の須恵器は周溝内の遺物も含めて須恵器五三個体になる。六号の遺物と四号遺物とには同形態のものが多い。杯三・蓋杯七・無蓋高杯四・台付長頸壷二・子持付器台一が玄室内より出土している。
 八号墳は六号墳の東南部の緩斜面に築造された直径一四メートルの円墳で、主体部は地山を〇・七メートル掘り込み、玄室部の構築を行っている。八号墳も四号墳と同様に一墳丘二石室を同時期に構築している。A主体の石室はほぼ南方に開口する横穴式石室である。その規模は石室全長六・八メートル・内玄室長四・一メートル・幅二・二メートル、羨道幅一・五メートルの長方形の玄室に、羨道部側壁から一石のみせり出させて玄門部を造り出した両袖式である。A主体の奥壁部の東側壁面に内部主体全長二・八メートル幅一・三メートルの長方形を有する石室が併置されており、床面には玉石四~七センチが敷き詰められた石室があり、羨道部もまた排水溝等の施設もなく、石積みも、A主体に比べて全体的に粗雑さがみられ、床面の掘り込みもやや浅くなっている。いま一つ思考されるものに、省略された羨道は、A主体部の側壁面とわずか〇・五メートルをへだてる位置で閉塞されており、明らかに横穴式石積み手法を取っていると同時に、A主体部と共通する掘り方が推察される。また閉塞工程とA主体部における石積み工程が明らかに相互に協調しながら石積みされている点に注意をしたい。一見竪穴式石室を想定させる主体部の構築はいまだ報告をみない特異な埋葬形態を示していると思われる、その一つにA主体出土の須恵器の杯蓋と、B主体部出土の杯身とがセットとなると報告されている点にある。また副葬遺物にも格段の差が見られることにおいても明らかに主従関係を示す状況にある。
 五号・七号墳については、内部主体を検出することの出来なかった遺構であるが、いずれも直径一四メートルと直径一五メートルの地山整形が見られ、しかも五号墳では墳裾部の四メートル範囲に須恵器片が密集して検出されており、これら須恵器の甕は古墳出土遺物中最も古い時期(陶邑一期)に比定されるとしている。
 ではこのことは何を意味するのであろうか、ちなみに各石室に副葬された須恵器を陶邑土器編年に比定して次のように結んでいる。
 二号石室出土の須恵器―七世紀の第一、四半期の製品―二期終末の型式に相当する。(群集墳の盛期―群集墳終末)
 四号石室出土の須恵器―二期後半の型式と三期前半の型式と三期前半の型式がみられる。(なかには平安時代に下るものがある)
 六号石室出土及び周溝内の須恵器―四号石室出土の土器型式編年と一致する。(群集墳終末期)
 八号石室出土の須恵器―小型高杯は陶邑三期に対応するが、その他は二期後半に対応する。(盛期から後退期)
 五号墳出土の甕形土器―陶邑一期に属し最も古い遺物である。

 星ノ岡古墳群

 伊予三山の一丘陵(独立丘陵)で、標高七五・〇メートルを最高峰とした五つの小隆起をもつ丘陵である。この丘陵の尾根はもとより、中腹部から、山麓にかけてかつては四〇基にあまる円墳が存在したが、現在はその半数にみたないまでに破壊されており、また出土遺物はもとより、石室の構造や外部施設についても何ら記録を残していない。これらの内で同所西山古墳(円墳)より出土した遺物が星の岡町名田勉宅に保存されている。
 これらの遺物には、須恵器の外に銅鏡や直刀(環頭大刀)の柄頭である三累環頭、そして直弧文入りの滑石製紡錘車、その他装身具類がある。銅鏡については「伊予出土漢式鏡の研究」にも西山古墳出土とあり、直径九・四センチの外区に櫛歯文をもつ仿製の乳文鏡である。前書ではその他の遺物については記載されていないが、故正岡健夫は当墳出土遺物に金製耳飾が含まれていたと言い、新居浜市金子山古墳出土遺物等と合せ考える時、同家に保管されている鈴釧(鈴を付けた青銅製腕輪)もまた西山古墳出土遺物と見ることも出来る。
 以上の出土遺物からして、おそらく古墳時代中期末から後期初頭にかけて営造された古墳とみられる。副葬品の多くは当地域の出土遺物にみられる遺物に比べて優れており、当墳の主が当地域での有力者であったことを示しているといえよう。
 当墳出土遺物を県内の他の出土例にもとめる時、銅鏡では松山市味生小学校蔵のものが六乳をもつ乳文鏡で同大に近いが、模様を異にし同笵ではない。また五郎兵衛谷一号墳から三累環頭を出し、釧では温泉郡中島町で出土をしている他、直弧文を有する紡錘車は今治市唐子山付近の古墳に出土例があり、金銅製長鎖付耳飾一対が金子山古墳から出土している。
 なお同家に保管されている須恵器についても、珍らしい平瓶の両側端に翼状の把手を付けるものをはじめ、西山古墳出土として保管されている脚台付直口壷等があり、これらに誤りなければ当古墳での被葬者の特異性をきわ立たせるものがある。特に直弧文を施文した紡錘車などからして司祭者的性格を有していたことも類推される。

 久米山田池古墳群

 松山市鷹子町に広がる一帯の山麓をはじめ、日尾八幡神社の裏山から山田池周辺及び鉾山・タンチ山に至る古墳群である。かつて日尾八幡神社の本殿付近には円筒埴輪の配列がみられた円墳もあり、現在の本殿位置は古墳営造地に安置された社殿であることがしのばれる。
 この地帯もそのほとんどの古墳はすでに開口しているか、または半壊しているものから全壊したものがほとんどであるが、これらを含めて三〇数基ある。タンチ山独立小丘陵にも八基の古墳が現在確認されているが、そのほとんどが開口しているか、小祠が祀られ石材をたたむものが多い。また西側の墓地公園の頂上付近には二基の古墳の墳丘が残されているが、内部主体を遺存しているかどうかは不明である。南斜面に造られた二基についてふれてみよう。南斜面の一号墳は箱形石棺を内部主体とするもので、タンチ山に四基の同形墳が営造されている。長径の側壁面は三枚の扁平な切り石をもちいており、短径は一枚の切り石である。全長三メートル、幅六五センチで、石材は和泉砂岩で統一されている。他の三基の石材も同質石材を利用している。主軸は磁北に取っており、被葬者の頭部が南面で検出された以外遺物は見出されなかった。
 二号墳は南斜面の中腹部に地山をL字に掘り込んだ横穴式石室であり、石材は一号墳同様和泉砂岩の割石を使用した石室で、石積みの手法は第一石はやや大型石材を選び根石とし、上部構築は布目積み手法を基本とする。玄門部は片袖式になるが、玄門立石はもちいず、巨石の横積みであった。この玄門部での巨石利用に対して奥壁面での石材は逆に小振りの石材が使用されている点、他の後期古墳にみられる石材利用とやや異なる構築となっている。このことはとりもなおさず、奥壁面で地山を一・二メートルと掘り込んでの掘方が、奥壁面での安定と強靭性をもたせたものと見られる。全長二・三メートル、幅一・五メートルで羨道一・二メートルと短かく、床面は奥壁面に対して五度の傾斜をもち、明らかに排水への意図が払われている。玄室内は二分され、奥壁面側には扁平な石材が敷きつめられ、その上部に扁平な自然石の玉石をしき並べて棺床を造り出していた。天井石はすでに抜き取られて存しない。副葬品の多くはすでに取り出され不明であるが、床面より三個のトンボ玉が検出された。トンボ玉は直径一・二センチで四方向に直径〇・五センチの黄色玉が、淡青色の地玉に象嵌されている。その他に須恵器の杯一点と鉄片を若干出土している。
 タンチ山の山頂部を占地する四基の箱形石棺に対して、横穴式石室を内部主体とする古墳はいずれも山腹部に造営されており、占地状況から見て横穴式石室に先行して構築された墳墓と推測される。
 五郎兵衛谷古墳は鷹子古墳群に含まれる支群で一八基の古墳があり、当支群で最大規模の古墳は、素鵞神社を祠る円墳、天王の森古墳である。天王の森古墳はすでに戦前に盗掘され遺物は散逸して不明であるが、現在も、なお周辺部に円筒埴輪や形象埴輪を採集することが出来る。また他の六基の円墳は上水道施設工事のため昭和五二年(一九七六)に調査が実施された。この結果、六基の古墳は六世紀末から七世紀前半にかけて営造された群集墳で、墳丘はいずれも一〇メートル内外の小規模墳であり、内部主体の構造は、一見竪穴式石室をおもわせる羨道部をもたない石室構造である。羨道部は省略されているが、各石室に共通する構造として玄門石をもつ石室構造で、しかも一号墳では小円墳とはいえ幅一メートル深さ七〇~八〇センチの周溝をもち、円筒埴輪を数基配置していたものもあり、特に一号墳で出土をみた三累環頭の柄頭は、松山市星ノ岡町西山古墳出土の柄頭と同系譜の遺物であり、しかも新羅系の環頭として大いに注目される遺物でもある。また天王の森出土の単鳳式把頭の環頭(国学院大学蔵)や、家形埴輪片(竹本氏蔵)からしても今後研究を要するものといえよう。

 かいなご古墳群

 松山市平井町谷之内二五番地を中心とする一七基の古墳が確認されているが、内二基はすでに崩壊して根石の一部を残すのみとなっている。一七基は谷内の谷をはさみ逆U字状に、稜線を利用して営造された後期の古墳群であり、そのほとんどが直径一三~一五メートル以内の円墳であるが、唯一基のみ方墳がある。
 昭和四七年(一九七二)に調査をみた一号墳(方墳)と二号墳(円墳)について記述し、その古墳の性格についても若干ふれておきたい。
 一号墳は、丘陵の尾根を上方部で一部L字状に切って墳丘の一辺を造り出すとともに掘削した土砂でもって墳丘の封土としている。墳丘は一三・二メートルと一〇・五メートルの方墳で、墳丘高は二・一メートルである。
 内部主体である玄室は、和泉砂岩の地山層を一・三メートル掘り込み第一段石を設置している。この掘り込みが深く、石室の壁面はほとんど地下(地山内)に構築されるといる工法であり、このために墳丘における封土は、省力化されて尾根の掘削による土砂で版築はことたりる状態である。丘陵部の尾根を切開することにより、墓域の決定と封土版築をかねた作業工程が考えられる。さらに省力化は羨道部における工程にもみられ、玄室よりみて左壁面は硬質な地山面を活用した和泉砂岩をもって羨道壁としており、わずかに上部二段の石積みで、右壁面と対応させていた。羨道は長く中央位置と玄門位置には、それぞれ扁平な和泉砂岩による框石を掘り込み、この框石と直交した壁面に立石を配置し、羨道から玄室にむかって、框石位置で二回地山面が高くなった構築は羨道口へ勾配を保ち、玄室内からの雨水の排除を配慮した施設等も兼ねるというものであろう。
 羨道部での壁面が玄室壁面より一段高く構築されているのは、羨道部の天井石と玄室部の天井石の上端面での(墳丘)平均を保つための工夫であろう。玄室における床面は地山面を水平に整地した後、扁平な和泉砂岩を敷きつめてあり、玄室中間位置で扁平な石を立て障壁を造り出し棺床部と区画していた。障壁から玄門部までの間礫(玉石)が敷きつめられていた。玄室内壁面の石材は切石による布目積で奥壁は直立しているが、両側壁はわずかにせり出して縮約した後、天井石を横架している。
 石室の主軸方向は北三七度西に取る両袖式の横穴式石室で全長六・〇四メートル、玄室長二四〇メートル、幅一・一メートル、羨道部全長三・六四メートルで、その他に羨道部での区画が閉塞口より一・二メートルに玄門石と同様な工法による立石と框石を構え前庭と中庭の区画をしている。この構造を俗に三味線形の横穴式石室ともいう。
 出土遺物は盗掘により荒され、わずかに西壁面に残された小形の須恵器三点と銅鏡(径六・九センチ)一点(文様不明)金環二点であった。
 二号墳も一号墳同様に尾根を切断して墳丘を整えた円墳であるが、墳丘径は一〇メートルと小規模である。内部構造は、無袖の横穴式石室でしかも羨道部は玄室の閉塞のための補助的機能を有する程度の構築であった。玄室部は自然石による小口積工法の石積みがみられ、奥壁は垂直であるが、両壁面では天井部で縮約した持ちおくりとなっている。主軸方向は北三四度西で南に開口している。石室全長二・六メートル、基底部の幅一・二五メートルの長方形の石室で天井高は一・四〇メートルとなっている。出土遺物は土師器埦一、須恵器の壷一、甕一、有蓋杯二、無蓋高杯一、堤瓶一、横瓶一、装身具類では勾玉一、管玉一〇、丸玉二八、棗玉一、切子玉一、鉄器としては鉾一隻が検出されている。

(13) 喜多郡における後期の様相

 資料の少ない大洲地区

 喜多郡内における、古墳時代の経緯については、現在ではほとんど皆無に近い程に資料不足である。縄文時代や、弥生時代の遺跡が分布しているにもかかわらず、古墳時代の遺跡はあまりにも発見が少なく不明の分野となり、古代の賑々しさにくらべて、まことに寂莫の感にたえない。
 たしかに古墳を造営することにおいては、宇和郡や伊予郡、温泉郡に接する地域でありながらも、実に陥没した現象をしめしている。このことは奥まった盆地であったことに大いなる原因があるやに思われる。盆地内での当時代の生活は十分に発展したと見られるものに、十夜ヶ橋やその上手にある和田地区から出土した弥生式土器に混入して検出された遺物に土師器が含まれており、明らかに古墳時代前期の土器であった。また肱川沿いの阿蔵八幡神社から五郎への中間の河岸段丘(標高四〇メートル)の福の森では畑地開墾中に、炉跡と確認される場所より須恵器の小鉢を発見したと伝えている(大戦中)。この三例にすぎない発見例ではあるが、十夜ヶ橋の工事にともない出土した遺物と和田の底なし田の遺物は泉の工事中、ともに地下数メートルより出土しており、いずれも肱川の氾濫による堆積土砂に埋蔵されたとみられ、低地での発見が困難な地域であるといえよう。また一方肱川の氾濫を逃れての生活地は、総じて段丘上にあり、今日と重複する立地条件にあり、これまた発見例がとぼしいともいえよう。いずれにせよ、喜多郡での古墳時代における生活は十分に行われていたとみるべきだが、古墳時代を象徴する古墳の造営については、他の地方とは遅れ、しかもごく少数の造営が見られるのみである。古墳造営の時期は後期に偏しており、いずれも記憶や現存する遺構からして辛うじて推測されるにとどまる。

 新谷の塚穴と久米の阿蔵古墳

 大洲盆地の北東部の神南山(七一〇メートル)と、妙見山(五三五メートル)の南麓地帯に矢落川による沖積地が発達している新谷地区が開けている。この矢落川の北側に丘陵端部をのぞかせた、標高八〇~九〇メートルに円墳が二基造営されている。いずれも直径一〇メートルの小円墳である。一基はすでに開口しており、内部主体は横穴式石室を構築しており、石室の全長約四メートル、羨道部と玄室部の区画はなく主軸は磁北を指す。羨道口での幅一・三メートル、奥壁面で幅一・七メートル、玄室天井高は奥壁部で一・三メートルであり、奥壁は一枚石が使用され、両壁面の石材も自然石を利用したやや大振りの石材を用いている。石室の平面は羽子板型を呈している。出土遺物は不明である。時期は古墳時代終末期の横口式石室とみるべきであろう。今一基は開口していないが同墳の上方一〇メートルにわずかな封土をもつ同規模の円墳であるが、詳細は不明である。
 田合古墳は北部の妙見山(五三五メートル)の東部と南部に広がる標高二〇〇メートルの矢落川の北岸に広がる集落の中にあり、ここに古墳が三基認められるが、内二基はすでに全壊に近い程に荒廃している。内一基は未掘の古墳で一辺約五メートルの方墳である。墳上は削平されて小祠を祀っている。奥壁を残す一基は磁北に主軸を取り南に開口している。出土遺物は不明である。
 阿蔵古墳は肱川の支流久米川北岸の低地と、高山寺山(五六一メートル)の南東山麓の丘陵地にある。この高山寺山の丘陵端部が舌状に久米川に突出している所が柴尾であり、一名柴尾古墳とも呼ばれている。この古墳は久米小学校が大正八年(一九一九)四月二九日校地造成中に発見され、埴輪をめぐらしていたことが、鶏頭の埴輪片(関西大学蔵)からうかがえる。内部主体については不明であるが、出土遺物は鉄剣、鉄斧、金環、須恵器(城戸氏蔵)等があり、新谷古墳よりやや先行する時代であろう。その他に恋ノ木古墳や梁瀬丘陵にも、全壊して石材の散在する所があり、梁瀬山では当所で管玉一個が採集されているという。

(14) 西宇和地方における後期の様相

 偶発的に見出された遺物と遺跡

 西宇和郡における古墳時代の遺跡は、そのほとんどが他の時代の遺物と共伴するものが多く、単独で発見される遺跡は少ない。このことはまず平坦部が少なく、生活面が立地上制約されていたことにほかならない。また完全な遺跡や遺構が検出されない理由として、一つには未調査、未発見のものが多いこと、二つには狭少な平坦部に集中的にしかも世襲的な生活地の固定化がみられ、このことにより前時代の遺構上に保存または破壊という形で継承された生活立地の占拠があげられる。
 このような立地の内でわずかに把握されている遺跡は、そのほとんどが複合遺跡でもある。その一つに保内町の喜木川の東岸にある河岸段丘上や、三崎町三崎における砂丘上に、また三瓶町朝立川の西北河岸段丘と、八幡浜市の徳雲坊の舌状台地や十本松に古墳時代の遺物や遺構が散発的に検出されている。
 三崎町の箱形石棺は、三崎の岸壁から約一〇〇~一五〇メートルの位置にやや微高地の砂丘があり、砂丘には住宅が建ち並ぶ。その砂丘の背後のややくぼんだあたりに、弥生式土器や須恵器を出土する三崎遺跡があり、わずか数メートル離れた地点では緑泥片岩四枚で蓋をした箱形石棺が、地下一・五メートルの位置で発見され、内に須恵器があったと伝えられ、前記の遺跡からは滑石製の子持勾玉も出土している。勾玉は全長九・三センチ、幅三・一センチ、厚さ二・六センチで、背部の子持勾玉五、内側の腹部一、左右の横腹部に各三の合計一二個を持ち、貫通した穿孔口径は〇・五センチで、片面には未貫通の穿孔痕を持っている。当遺物は県下でも他に三例を知るのみで実に貴重な資料である。特に子持勾玉の使途については諸説があるが、ほぼ帰するところは祭祀遺物としての用途であり古墳時代中期(五世紀)において用いられたと見なされている祭事における儀器であろう。当所ではどのように用いられたのであろうか。三崎港の岸壁よりわずか二〇〇メートル、高さ約五メートルの位置からして、(出土地点マイナス一・五メートル)船出に対する安全を祈った祭祀遺物と見られないでもないが、なお出土立地の詳細な調査を期すべきであろう。また当地では箱形石棺らしきものが、港の西方「きくだし」にもかつて二基構築されていたかに伝え、須恵器の出土も伝えるが、現在は石材をわずかに残すのみであり、柑橘園となっている。
 十本松遺跡は八幡浜市における古墳の所在を示す唯一の遺跡であるが、三崎町同様の様相にあり詳細は不明である。また三瓶町朝立にも緑泥片岩による箱形石棺が構築されていたと古老の口伝にあるが、詳細については不明である。以上のとおり当地方では、今後の調査に待つ所多く、結論にまでは至らない。ただ現在の資料からすれば、従来空白とされた三崎半島地域にも古墳時代の生活の息吹は存していたといえようか。

(15) 宇和盆地と周辺における後期の様相

 宇和の概況

 古墳時代に、古墳を盛んに造営した地域は南予特に宇和盆地の周縁の丘陵地のみで、これ以外の地域では現段階ではほとんど発見されていない。このことは、宇和盆地とその周辺の開発でふれたように、宇和地方が中心的指導的役割を有した豪族の存在した土地として理解されよう。
 宇和盆地における古墳の営造時期については、他の地域(東予・中予)に見られる前期や、中期に比定されるものはなく、後期古墳に属するものであるが、今後の調査により中期の古墳が発見される可能性もある。当地の記録や伝承によれば町内に一六〇基以上の古墳の数があげられているが、現存する古墳は九基、半壊三基、痕跡をとどめるもの二〇数基、完全に消滅したもの一三〇以上といわれているが、この中には箱形石棺も含まれているらしく、小森古墳は未調査のため内部の構造は不明であるが、その他はそのほとんどが横穴式石室を内部主体とする後期(六~七世紀)の古墳である。これらの古墳を宇和古墳群と一括すれば、細部にわたって分布状況を見ると、それぞれ小支群をなしている(伝承も含めた数値)ことから、山田支群(四)・粟尻支群(四)、河内奥支群(一四)、田苗支群(五以上)、道仙寺支群(一五)、久枝支群(一九)、下松葉支群(九)、清沢支群(七)、坂戸支群(四八~七〇以上)、森支群(一以上)、明石支群(三)、郷内支群(六)の十二支群がある。これらの支群の内、特に群集墳をなしている坂戸や河内奥、郷内、久枝、道仙支群に対して、広がりをもって列点的に増造された山田支群と、やや単独的な森、明石支群からなっており、伝承による数の一三〇基にはおよばないが六〇基の古墳が確認されている。(昭和三八年愛媛考古学会調査)

 山田古墳群

 山田支群の中心的な古墳として小森古墳がある。位置は東山田の和田で分岐丘陵の山頂(二四〇メートル)にある。古墳の墳丘は前方後円墳と推測されている処であるが、第二次世界大戦に砲座を設置しまた戦後の開発によりかなり荒廃しており、確実に前方後円墳と断定するまでには至っていない。松岡文一の電気探査によれば、内部主体は竪穴式石室である可能性もあるとされている。
 いま前方後円墳とすれば、主軸を北七度西に取った全長六一メートル、南方部の幅二三メートル、墳丘二・五メートルで後円部は直径三〇メートル、高さ四メートル、鞍部(くびれ部)の高さ一・八メートルの前方部を南面に取った前方後円墳とも見られるけれど、墳丘の痛みが甚しく決定しかねるが、後円部の封土は認められる。
 出土遺物は未調査のため不明であるが、墳丘部での土師器片の採集がなされている以外は不明である。いま前方後円墳とすれば規模的には、松山市高井にある波賀部大塚に匹敵する古墳である、一応円墳として理解しても、かつて周辺部に営造されていた円墳中で最大規模のものでやはり当地域の雄である。
 周辺部の古墳では大森古墳が三基、小森古墳の南々西の山腹に、また大林古墳が乙六山山腹から山麓に二基、茅刈場古墳が小森の東山麓に二基、土居(長尾)古墳が山田の大池の西南の丘陵に、数基で鉄鏃、鉄斧、鎌を出土している他、伊勢山古墳がかつては群集していたが、現在はすべて消滅している。当時の記録によればいずれも直径二〇メートルから一五メートル以内の円墳であったようで、しかも須恵器の出土(大森)もあり、すべて横穴式石室を内部主体とするものであった。方位その他は不明である。これらの記録を含めると九基の支群となる。

 粟尻古墳群

 位置は山田と野田を区切って宇和川に面して下松葉に向けて突出した丘陵上を占地して営造されている。標高三六〇メートルで宇和町では最も高い位置にある。粟尻古墳は一~四号墳まで確認されているが、現存するものはわずかに二基であり、内一基は全壊に近い。いずれの墳丘も直径一五メートル以内で横穴式石室を内部主体としている。一号墳は開口しているが、石室墳丘ともによく保存されている。一号の内部構造は横穴式石室で、羨道部を中央にもつ両袖式の石室であり、羨道は短く未発達である。玄室は幅二メートル、奥行五メートルと長方形の床面をもつが、やや奥壁面ですぼまっている。四壁の石材は割り石をもって積まれ、天井に向って、両壁面から持ち送り天井位置で一メートルに縮約されて天井石を横架したと見られるが、天井石はすでに搬出されて不明・奥壁は大盤石を根石にすえ、その上段に二段横積されて天井にいたっている。玄門には玄門立石(柱石)を立て羨道と玄室の区画をしている。玄室は南五四度西に向って開口している。この内部構造からして、墳丘はやや楕円形化しているが、長径の南北一六メートルが墳丘の直径となる円墳であろう。
 出土遺物には後期古墳にはその出土例の少ない銅鏡(変形珠文鏡)の他金環一・銀環四・勾玉一・鉄刀片数点があったと伝えられている。(所蔵不明)

 河内奥古墳群

 岩木の河内奥、東大谷、安養寺の裏山一帯に分布する円墳群で記録や伝承にはさらに河内林、若宮、城ノ鼻、坪の内などにも古墳が認められる。現存する古墳は横穴式石室を内部主体とする円墳であり、直径一五メートル内外の小規模古墳である。消滅古墳のうち安養寺裏山古墳(数基ありいずれか不明)より出土をみた変形鳳文方格鏡がある。現存する東大谷古墳、河内奥ナルタキ一号、二号はいずれも自然石をもって、内部主体を造り出した両壁面が縮約して天井石を横架させた横穴式石室である。河内奥ナルタキ一号、二号墳は築造年代からすれば最初に二号墳、そして一号墳と営造されており、規模からみてまた構築方法からも一号にやや先行している。一号は羨道部の前面の天井石及び壁面の一部が崩れている以外はよく保存されている。玄室全長四・七メートル、幅一・八二メートル、高さ最大一・七三メートルで巨石を直立させた奥壁に、両壁面より縮約し天井石を横架させた左片裾の石室は、左側壁が中央部でややふくらみ、天井石も玄門より順次高められ玄室中央部で最も高くなっている。一号、二号はともに主軸は南七度西の方向に開口している。出土遺物は散逸し不明であるが、わずかに須恵器三個が保存されている。一号墳、二号墳は古墳の規模、立地からして同族墳墓とみることができよう。

 田苗古墳群

 観音山(四三五メートル)の南山麓に広がって分布する古墳群で、かつては相当数の古墳が群集していたと見られるが、現存する古墳はわずかに鬼塚、松ノ木、妙法寺裏山古墳の三基である。なかでも鬼塚は消滅寸前にまで破壊されており緊急な記録がのぞまれる。松ノ木古墳は直径約一四メートルの円墳で山の傾斜面をL字に削って営造されている。内部構造は両袖式の横穴式石室で玄門立石をもって羨道部と区画をしており、奥壁は一枚の巨石で築かれ、四壁はいずれも垂直な小口積の石室である。奥行(玄室全長)三・八メートル幅一・四三メートルの幅の狭い長方形で、天井高も一・二八メートルの低い小振りの終末期の石室で、主軸方向は磁北をさし南に開口している。妙法寺裏山中腹の傾斜面を削り込み両袖式の横穴式石室を造っている古墳は、妙法寺裏山古墳と呼称されているもので、すでに封土は流出して天井石が露出している。石室全長約五メートルで、玄室部は奥行二・五メートル、幅一・七メートル、高さ一・二メートルとやや方形に近い。石材は全体的に小振りな石で全壁面を構築しているが、奥壁は心もち内傾している、両壁面はそれぞれ三段石までが垂直な石積がなされているが、四段石が共に大きく石室内に突出した平板石をひかえ積みして五、六段とやや垂直に積みあげ、天井石を中央部に最高位をもたせた構架となっている。主軸方向は南七度東である。当支群における出土遺物は不明であるが伝承では甲冑(短甲?)や埴輪も出土したという。

 道仙寺古墳群

 道仙寺、大江、加茂の山麓から山頂にかけて分布していたと伝えられる。わずかな出土遺物をのこして消滅したが、かつては八基にあまる古墳があったものと思われる。今日に残る名称は、観音堂・山下・霊神塚・城山・日之地・一の谷、大江駄場(七基が南北に並び存在、採石のため崩壊)・垣内古墳がある。特に垣内古墳は大江の水田地に所在していたもので出土遺物として環頭柄頭があり、その他に金環、須恵器が保存されている。

 坂戸古墳群

 坂戸部落の東方に広がる傾斜面一帯のカタギ駄馬、丸岡、大塚に営造された群集古墳は、明治初年頃には数十基にあまったといわれ、県下でも数少ない群集墳としてよく知られていたが、開墾によりそのほとんどが壊滅しわずかにその痕跡をとどめる程に荒廃している。この坂戸古墳群の立地についてすこしふれておきたい。予讃線卯之町駅から北へ四キロほどの場所に坂戸部落がある。バス停留所を東に入るとほどなく三段に縦に並ぶ溜池に出る。最初の池が山水池(承応三年)、つづいて経塚池(山水新池嘉永二年)。最後が新池である。山水池をすぎ経塚池のあたりが丸岡古墳群で丸岡山の東南山麓に数基築造されていたという。丸岡古墳の内に通称宇和津彦古墳が児童公園の南西の隅にあったという。すばらしい副葬品があったと伝えられるが今は不明である。さらに登り新池の北側の山林から開墾地にかけて大塚穴古墳群である。ここには少なくとも一二基ないし四十数基と記録されているが、今はその採石後のかつての石室部の残石が所々に転在しており、ゆうに三〇基が確認される。ここでの古墳は谷に面してほぼ東西に並列して築造されている。これら並列された古墳群の奥に、傾斜の急な南面山腹に、傾斜面をL字に削って営造された円墳(楕円)長径約一五メートルで封土をよく保った高さ四・五メートルを測かり、主軸方位は南三一度西に開口の樫木駄馬古墳がある。内部構造は両袖式の横穴式石室で全長七・五メートル、羨道長は三メートル・幅一・四メートル、高さ〇・八メートルであり、玄室は奥行三・六メートル・幅一・五メートル、天井高一・四メートルで、壁面のうち、奥壁は、一枚の大盤石で築かれ、両壁面の基段石(根石)は巨石を利用している他、全体に巨石を利用している。壁面は縮約することなく垂直な石積みとなっている。天井石は四枚で玄門部では特に巨石を横架させて勇壮である。

 久枝古墳群

 久枝のナルセ山の東面山麓大窪台(三六九メートル)の東山麓にかけて分布する古墳群で、特に後期の終末期に近い時期であろう。現存する谷ヶ内の内部構造は横穴式石室で、片袖を玄門石で造りだしており、奥壁は一枚石を使用した大盤石である。羨道部は欠失しているが、わずかに残された石材が、短い羨道を築造していたものと推察できる。玄室の平面は長方形で全長二・六メートル、玄門の所での幅一・八メートル、高さ一・八メートルで主軸方向は南一七度東に向かって開口している。遺物は直刀一と長頸壷一が現存し他は不明である。この他に赤坂古墳・若宮鼻古墳(一〇基)消滅・片山古墳(一基)は農道改良で全壊したが、片山古墳の遺物として金環一・銅環一・管玉一・須恵器若干が保存されている。

 下松葉古墳群

 大恵寺裏山に三基と万恵寺南東の山麓に一基があり、後者は伊勢山大塚と呼称され乱掘により半壊している。遺物には勾玉・銀環・須恵器・土師器がある。

 清沢古墳群

 清沢の土橋池の西山麓に三基円墳があり、北が市古墳と呼称されているが、現在は採石により消滅している。清沢部落中央部に突出した小丘陵上に緑泥片岩による箱形石棺を内部主体とする長作森古墳がある、遺物に内行花文鏡・金環・須恵器がある。

 郷内古墳群

 宇和盆地西端部落郷内一宮神社とその周辺に五基の円墳がかつては存在したが、現在一宮神社の社殿下にある円墳以外は消滅している。遺物には須恵器、直刀一、鎌一、鉄斧一が保存されている。

 その他の消滅古墳群

 明石の大防山東斜面と南斜面を利用して三基の古墳が築造されていた明石古墳がある。早くに消滅し、直刀一の出土遺物がある。また森古墳群は伊賀上部落の西端、奥池前の台地及び、その周辺に築造されていたが、採石のため消滅した。
 由良半島には石蓋式の土壙墓が七基確認されている。これらの墳墓から須恵器の出土をみており、須恵器からみて七世紀中葉の時期とみられるものである。石蓋式の土壙墓とは、地山を掘りくぼめて、被葬者を埋葬したのちに数個の扁平な自然石を天井石として蓋をした墳墓である。七基はいずれも若干の封土(盛土)を被覆している。この種の墳墓は各地域にも大いに盛行をみた埋葬形態と推察されるが、丘陵地の開発(果樹園)によりことごとく崩壊したものと考えられ、これはまた南予においても同様であるが、珍らしく半島部の未開発地域に残された好資料といえようか。

4-49 芳ヶ内積石塚実測図

4-49 芳ヶ内積石塚実測図


4-57 御幸寺山古墳出土の方格規矩四神鏡

4-57 御幸寺山古墳出土の方格規矩四神鏡


4-58 三島神社古墳実測図

4-58 三島神社古墳実測図


4-59 波賀部神社古墳実測図

4-59 波賀部神社古墳実測図