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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 土師器の生産

 土師器の製法

 古墳時代における日常生活の什器類として土師器がある。土師器は弥生式土器の製作技術を踏襲しながらも、弥生式土器にくらべて土器の胎土が緻密であり、しかも土器の成形は弥生式土器と同様な技法をもちいた粘土紐の巻上げ技法を使用している。だがこの時代には、土器成形の能率をたかめるために、球形の胴部を成形する時に、二工程の技法がみられるなど弥生式土器と成形過程に大きな変化がみられる。いま胴部の下半部を外型により成形をし、上半部のみを粘土紐による巻上げ技法による成形技法が、長大な長頸壷や丸底の壷などの胴部下半で明らかにされる。指先のなでつけが平行な「の」の字状に残る壷がある。これら壷の底部内壁面に残された指あとは非常に大胆な、しかもほりの深いなであととなっており、壷全体の胎土の厚さからみて、外型があり、この外型になでつけての成形が考えられる。
 このような成形技法の普及には、土器の需要が急増したことによる、土器の生産化が進み専業化した工人の発生が考えられる。型による底部の成形により、同形・同大の土器を多量に生産しうるという工程から生みだされたとみるべきであろう。底部成形のおわった後に、上半の巻き上げがなされおおかたの成形がととのった土器は、さらに叩きしめ工具により外面のしめがおこなわれたり、内外面を箆で削り取ったりして、壷全体の調整をしている。またこの他に外表面を叩きしめたのちていねいに箆磨きをしているものや、内壁面を櫛状の工具で成形をしているものもある。また箆磨きは時代のすすむにつれ、簡略化され暗文がはじまる。
 土器の施文はほとんど行なわないが、わずかに古い時期の土器の頸部や胴部に櫛描き文や粘土紐によるはり付けがみられるが、全体的には無文の土器が多い。いまこれら工人集団の手による土器の他に、一塊の粘土から、一つの土器を作り出す手捏による土器がある。これら手捏の技法による一群の土器は、おもに祭祀用に用いられた土器の模造品とみるべきものが多いが、内には日常什器として使用した小形の土器もある。これらの土器は均整化されず、焼成も悪く、明らかに自給自足の用品である。
 また自給自足の土器生産による遺物として漁具の土錘がある。松山市津田(鳥越Ⅰ遺跡)では、竪穴式住居の中央に設けられた炉跡より九個の土錘が灰の内から検出されている。漁撈用具として消粍のはげしい土錘を家内生産により供給しているようすがしのばれる。が一般的には小規模な工人集団による土器の生産が中心に行なわれたとみられる。
 土師器の焼成は、酸化焔による焼成であり、焼成温度は八〇〇度前後とみられている。八〇〇度前後の温度は容易にえられる温度であり、須恵器のような窯を設ける必要もなく、小規模な煙道を設けた平窯である。松山市鶴ヶ峠における古墳の前庭部(裾部)で供献土器として焼成された土師器の窯がある。これによれば全長約一メートル、幅約六〇センチ前後で窯の後方部はすぼまり幅一五センチのやや湾曲した煙道が約五〇センチ設備された四基が検出されている。これらの窯にはいずれも数個の高杯が遺存した状態で見出されている。
 以上の検出例から見て、八〇〇度前後に焼成された土師器は、まず原料粘土として、海成粘土や淡水成粘土の選択は必要でなく。粘土であれば簡単に土器生産に用いられたであろうし、また一方前述の規模による窯で十分に焼成ができるという容易な生産工程からして、土師器の生産集団としての工人達は、渡り職人として活動したとも推測される。いいかえれば古墳時代における土師器は、土器生産の熟練した技術でもって、最大限の生産能率をあげるという傾向がみられ、これらによる傾向が土師器に対する装飾的要素を省略して、均一な生産器物を造りだすという専門化が進行したと考えられる。

 土師器編年の難問

 土師器における土器の編年は、厳密にはいまだ定まった一定の編年はなされていない。この土器編年における困難性は、一つには弥生式土器の系統を踏襲しながら変化したものであることと、土器の焼成が前述するように簡単でしかも、後述される須恵器にみられるような堅牢な窖窯による窯跡が遺在していないことにも最大の原因がある。このように顕著な生産遺跡がないために、集落遺跡からの出土遺物をもって編年をこころみなければならないという困難性がある。しかも生産過程の容易性もあり、各地域における差異の大きさが更に編年を困難にしている。そのため、古墳時代に須恵器の生産がほとんどみられなかった関東地方において、土師器の形式研究がまず進められた。その研究によれば、五領式(四世紀)・和泉式(五世紀)・鬼高式(六・七世紀)・真間式(八世紀)・国分式(九世紀)・にそれぞれ型式編年がなされている。だが最も早く古墳の営造をみた畿内では弥生式土器に続く土器形式として纏向(庄内)式や布留式などが称えられ、唐古Ⅴ様式ないし倉敷市の酒津式に次ぐ時期の土器型式とされるが、いまここで須恵器出現以前の古式土師器として、小型丸底壷をもって、全国的な古式土師器の標準とすることには種々問題はあるが古式土師器群を考える際、最も注目すべきもののようである。

 小型丸底壷を中心に

 この土器は器高わずか八センチ前後の壷で、胴部は球形をしており、胴部の上部に外方ヘ一直線にのびる口頭部のせばまりの少ない土器である。口頸部の直径と胴部の直径が等しくなるものもあるが、口径の方が大きいというのがむしろ特徴とされている。これら小型丸底壷は全国的に古式土師器の分布と共存する遺物であることが今日知られるに至った。
 現在知られている資料から、小型丸底壷の出現をたどると、山口県土井ヶ浜→岡山県酒津→奈良県布留→埼玉県五領という順序が示めされている。この小型丸底壷の出現から見れば古式土師器が、畿内で発生し東西に伝播したとみることはできない。
 いまここで小型丸底壷が全国的なメルクマールな出土を見る土器であることが判明した。したがってこの土器と共伴する土器群をもって古式土師器の編年を求めることが可能である。さらに小型丸底壷は、二重口縁の丸底壷(酒津式・茶臼山式)とともに古式土師器の組み合せ関係をもつことも知られ、これらから古墳文化の伝播をしめす資料とされつつある。
 本県出土の遺構にともなう土師器の出土は、松山市南江戸町の古照遺跡出土の小型丸底壷をはじめ、二重口縁を有する壷形土器が調査により布留式に平行する土器であることが確認された。

 集落との関係

 また古照に先行する土器として酒津式に並行する時期の遺物を現在出土するものに、伊予三島市破魔田遺跡・新居浜市の金栄小学校校庭をはじめ、南予地方では東宇和町永長、大洲市の新谷の十夜ヶ橋で検出されている外、周桑・今治地域では朝倉村の一本松をはじめ各地に分布がうかがえるが、遺跡としていまだ十分な調査がみられていない。松山市福音寺町筋違A地区で発掘された関連遺構と遺物がある。住居は方形の床面に、入口部をのぞく壁面にはそれぞれベッド状の有数の床面をつくる南北辺五メートル東西五・五メートルの竪穴住居跡である。
 この福音寺筋違A遺跡がその出土する土師器を中心として古墳前期と考えられ、他については明確さを欠くが、伊予三島市破魔田もこれに準じたものと思われる。
 またさらに福音寺遺跡に先行する遺跡として、同市西石井荒神堂遺跡があげられる。当遺跡は隅丸形の竪穴式住居跡と一基の弥生時代後期の壷棺を埋設した土壙墓のほかに、相い近接して三基の土壙墓が検出された遺跡である。この遺跡での出土遺物はいずれも土坑内での一括土器であり、しかも弥生式土器の終末とみるべきか、土師器として取り扱うべきかに躊躇した土器である。土坑内より出土した一群の土器をもって松山平野における土師器の出現期とみている。

4-16 古照遺跡出土の土師器(1)

4-16 古照遺跡出土の土師器(1)


4-17 古照遺跡出土の土師器(2)

4-17 古照遺跡出土の土師器(2)