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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 古照遺跡における生産遺構と遺物

 古照の生産遺構

 昭和四八年(一九八三)確認された古照遺跡は、発見当初は弥生時代における住居跡の発見という高松塚古墳における極彩色壁画の発見に次ぐ発見として大いに取り沙汰された遺跡であった。
 県都松山市における下水道施設と埋蔵文化財の保護という、いいかえれば生活環境の改善を優先するか、または埋蔵文化財保護を優先すべきか、すなわち開発か保護かとの両論相討つ中で発掘調査が実施されたが、発掘の結果、弥生時代の住居跡ではなく四世紀代に構築された生産遺構であることが判明した。検出された遺構は第一次調査では、長さ約一三メートルと二四メートルに及ぶ二つの堰が検出され、続いて翌年の第二次調査においてさらに八メートルの堰と水の取り入れ口とが検出された。
 これら三基の堰と一つの水の取り入れ口とにより、明らかに農業生産における水田地への灌漑用水のために構築された、いわば一大農業土木工事であることが、明らかになった。
 これら農業生産に必要な農業用の土木工事が、四世紀にすでにかかる大規模な工事として構築されていた事実は、歴史的な意義があり、しかも弥生以後とみに発展した水田農耕生活及び農業共同体の発展過程を知る上で最も重要な発見といわざるを得ない。ひいては稲作の中で水稲耕作をもって成立する農業共同体であまり例を見ない農業土木という分野における一大発見であり、大きく東洋における水稲耕作地域における初現的な生産遺構としての発見ともいわれた。特にわが国における農耕生活の開始後、弥生時代において、水稲耕作の導入によって農耕社会は一躍して水稲中心の社会構成へと変容していくが、水稲耕作の性格からして、耕作の基本的条件ともいえる灌漑用水は不可欠な工事であり、この灌漑用水の確保が農民における最大の水稲耕作においての経営課題として以後種々努力が払われたのであるが、これらの点からみても、この遺構の重要性は特筆するに価しよう。
 用水設備の発展については、かつては山間の川を塞ぎとめて溜池を作り、これから用水溝をもって灌漑にあたるのが第一段階とされ、用水技術の進歩や労働力の徴発集中化によって台地から平野部に進出し、河川に堤防を築いて治水にあたると共に造池工事を行なって用水源を確保するに至ったものと説かれていたが、最近においては、愛知県の瓜郷遺跡や奈良県の唐古遺跡などにより弥生時代の水田耕作地は、その集落が形成された平野部の微高地の背後の低湿地にまず始められたとする見解が支配的となってきている。
 ただ集落地に対して耕作地が低湿地とすれば、河川の氾濫による水害を被りやすい不安定な地であったため、やがては山麓地帯に住居を移し山麓斜面の湿地を稲作地として耕営していたと理解されている。だがこうした事情は少くとも三世紀末頃までの耕作地の開発段階と見られるものであった。
 松山平野にあっての水田耕作地は、既に四世紀初頭より中頃にかけて平野部の内最も困難とされていた沖積平野のしかも干潮線に近い位置まで新規の耕作地面が既に拡大していたことを意味している。いいかえれば、当時すでにかの膨大な経費と技術を必要とした古墳の築造が既に行われており、四世紀には他方このような膨大な工事を成し得るに足るだけの労働力の集中化と土木技術の進歩がうかがわれるのである。例えばひとくちに言われる長さ一四メートルの堰とはいえこれに使用された堰材はゆうに五〇〇本を越えるものであり、さらに第二堰の二四メートルに至る堰材は一〇〇〇本にあたるものであったことにおいても、当時の労働力の集中化をみるに充分な資料といえよう。
 従来よりの考えに従がえば、農耕地に対する灌漑用水路の確保の経過は、さきに述べたように溜池を造り、用水溝をもって灌漑をする第一段階から、協業的作業として平野部への進出が第二段階、第三段階としては平野部を流れる河川への堤防工事や造池工事による用水源の確保をみる第四段階とされているが、いまこれらの発展経過は耕地開拓と相まっての治水灌漑設備は進展したと理解されている。何にしてもこのような土木工事に対する技術の発展と労働力の集中化を図るための努力はどこにあったかが問題とされよう。今このような農業土木工事に対しての我が国における文献史料は少ないが、『日本書紀』における造池工事への記録によれば崇神六二年七月丙辰条に、
 詔曰、農天下之大本也、侍以生民所也、今河内狭山埴田水少、於農事是以其国百姓怠、池溝其多開、民業以寛、の記事がみられる。これらは大和地方(畿内)における池溝工事を記述したものであるが、これらに相前後する時代でもあろうか、伊予の国においては古照における一大土木工事が進められていたことになる。
 またこれらの造池造溝事業を行なった人物については、明らかに大陸・朝鮮半島よりの渡来者による進んだ技術が大きな役割を果たしたことであろう。
 『日本書紀』応神七年九月紀の
 高麗人・百済人・任那人・新羅人・並来朝、武内宿祢時命、諸韓人等領作池、因以池名韓人池号、の記事がみられるが、記載された人名や年月日はそのまま全面的に信ずることはできないまでも、造池工事に渡来人の技術を大いに利用したことがしのばれる。

 三つの井堰

 大和朝廷による畿内平野部における池溝造営を考えながら松山平野における池溝工事としての古照遺跡の遺構についていま少し考えてみよう。
 三つの堰と水取口の配置(4―13)第一堰は南北方向に主軸を取って幅一四メートルの堰を構築しており、続いて第二堰はほぼ東西方向に主軸を取って二四メートルの堰を、また第三堰は第二堰の東端より主軸を南北方向に八メートルの堰堤が構築されていた、これら三堰はいずれも島状の青色粘土を基盤とする地層に群杭をもって取りつけられていたものである。
 第一堰の北岸部においては、一・二メートル層厚の粘土(青色粘土)に取り付けられており、南端部における取り付け部は右岸における自然堤防とは堆積層序を異にした青色粘土と黒色粘土層による互層を示していた。
 左岸にあっては流域壁面に護岸的杭木が一メートル間隔に打ち込まれており、明らかに第一堰の取り付け部分の補強はもとより、左岸における取り付け部の堤防は、第二堰の両端部における取り付け部と共存しており、これより東方へ二四メートルに及ぶ堰材は、大きく中央位置において明らかに構築時期を異にするものであった。十数メートル延長し東端部において島状の青色粘土層における取り付け部を、これまた第三堰と共有するという条件を兼ねており、またこの取り付け部における群杭の使用は、細部においては第一~二堰の両端部での様相を異にするものであったが、取り付け部はいずれも青色粘土を基盤とする島状堆積層序である点では、第三堰の南部取り付け部における粘土層ともまた共通する地層の互層をなす状態にあり、この取り付け部の南端部において水の取り入れ口としての漏斗状の遺構が構築されていた。その構築された遺構は、水の浸蝕面を柔らげるために単子葉植物による漏水防止工事と合せて、浸食面の緩和という工事がなされていた。この漏斗状の水の取り入れ口から西方へ続く溝状遺構が検出されていることから、明らかに灌漑用水路としての機能がみられたが、湛水を可能とした三つの堰にみられる構造は、三者三様の構築方法がみられる処である。これら三堰がいずれも同一の基本構造をもちながら、細部においてやや異なった構築方法を示すことは、この工事に対する時間的な隔たりを意味するものと推量されるところでもある。とはいえいずれにせよ、この三堰の構築目的は、いうまでもなく農耕生産に対する土木工事であり、しかも水稲耕作地に対するものであることにおいては同様である。このような土木工事についてはある一定の構築法が考えられるが、古照における構造は当地において現在もなお築造されている工法である。このような堰のつくりは地方語で轟(どんどろ)と呼称されるもので、構造そのものの堰の工法としては、河川の砂防工事等に使用される構築法としての川倉とか合掌枠や大聖牛などの護岸工法とは異にした構築工法となっている。しかも、このような工法による河川利用が当地方では大いに進行していたものと類推される。これらはその後各地域に残された保ノ木(小字名に近い)にみられる地名を河川流域において捜索することで明らかにされる。すなわちそれらは保ノ木名としては、○○井手とか○○関という地名の他に、轟・鬮目・樋又等の名をもち、いずれも農耕生活を中心とした分水地点を示すものがそのほとんどである。
 古照遺跡はその所在地がコウラと呼称される地域であり、コウラとは河原がなまったものと類推される、河原を耕地として改良することを目的とした土木工事とみるべきであろう。ちなみに第一堰の堰堤の検出された地点は、現在も斎院井手としての地名が残されている場所でもある。とすれば現在に残る条里制との関係もあり、その条里制における基準点と一致する。遺跡の遺構と条里制を成立させた律令国家体制下における地点の一致は、とりもなおさずこれらに費されたこのような一大規模の堰堤としての土木工事が、ただ一般農民による個々の力によってなしえたものではなく、在地における強力な政治力と財力を持つ地方豪族の族長層によってのみ果たしえた堰であることがしのばれる。族長による支配下の農民を徴発しこの農民の使役によって用水事業を行ない、水田の開発の拡張とまたそれらの地を支配管理を通じてさらに強力な農民支配を自己の手中に治めるという、一石二鳥の支配体制が行なわれたとみるべきであろう。
 当時の耕作地が平野部における緑地帯の周辺部に耕地を進展させたとみられる後背地の利用は、古照遺跡において見る限りでは、集落地は山麓地帯を定住地としての安住地を求めたと同時に南面する低湿地域の可能な限りの耕地の拡大という土木工事として築造された遺構であり、遺構のもつ機能としては三つの機能が考えられる。その一つは、前述されたごとく水田地への灌漑用水である。今一つは地名が河原と呼称される地域における荒廃地帯を水田耕作地としての土地改良を目的とした造田計画を加味した農業土木工事ともみられる一方、地帯が河原と呼ばれる砂礫層を基盤地層とする地域であるから、水の浸透化が激しく直蒔する水田地としては発芽時期における稲のころびと呼ばれる現象を防止することを目的とした、水位の上昇を考慮した堰とも推察される。これらについては報告書に詳しい。
 さて古照遺跡の松山平野における立地は、東野地域の洪積台地及び扇状地形に続く沖積平野の広がりを占め、平野としては勾配の大きい平野である。いま、海岸線より直線的にその比高差を求めるならば、松山平野では内陸に向って二キロでは五~六メートルの勾配をなし、四キロ付近では一二~一三メートルと高まり、六キロでは二〇~二三メートルとなり、一〇キロ付近ではゆうに八〇メートルをこす勾配となっている。
 特に当遺跡の上手は(城北地域)は石手川扇状地であり、この扇状地形を回春している荒川としての石手川の治水と、氾濫後における造田及び整地工事は頻繁に行われたようである。いずれにせよ、平野が狭小なうえに勾配があり、しかも松山平野を縦断する数条の河川が、一雨あるごとに耕作地帯に何等かの被害をあたえていたとみて過言でない。いいかえれば、平坦部はもとより、平野全体における治山・治水工事は、支配者層の一大任務として、農民との密接な関係を保ちながら、これら耕地の保全はもとより、さらには新田開発をすすめまた灌漑用水路の確保と伸張を計るという毎日が土とのたたかいであったと推察される。

 検出された植物遺体と動物遺体

 まず古照遺跡の堰に使用された堰材の樹種では、スギ・ヒノキ・コウヤマキ・アラカシ・シラカシ・コナラ・クヌギ・アベマキ・エノキサクラの類が使用材として利用されていたが、スギ・ヒノキ・コウヤマキは、そのほとんどが転用材(家屋に使用していたもの)として利用されていた。特にコウヤマキは現在の付近植生中にはみられない種類であり、家屋用材として遠くより調達したものと推察される。
 また堰の砂中に埋没保存された果実や種子類では、ハシバミ・ムクロジ・ウラジロガシ・トチノキ・シキシママンサク・モモ・エゴ・センダン・カキ・スモモ・ツバキ・ヤマザクラ・ヒョウタン・アベマキ・フジ・サワグルミ・マツ・イヌガヤ・ツガ・ヒノキ・モミ・クルミ・アンズ・サイワイタケが検出され、また樹葉としては、シラカシ・ウラジロガシ・アラカシ・ナラガシワ・ツクバネガシ・カゴノキ・シロモダ・モチノキ・イヌガヤ・オギ・アカガシ、が検出され、さらに花粉分折により、ツガ・マツ・スギ・クルミ・ブナ・モチノキ・コナラ・クリ・イネ・ハシバミ・ダテカンバ・ハンノキの検出をみた。さらにまた土塊よりの植物遺体と動物遺体の検出により、植物の種子では、湿田雑草のホタルイ・イバラモ・ミズオトキリ、人里植物または畑生雑草にカラスノゴマ・カナムグラ・メハジキ、食用植物としてカラスザンショウ・タラノキ・エビズル・カジノキ・マタタビが検出され、動物性遺体では、クロカメムシ・アオクサカメムシ・ミツクリタマゴバチ・コガネムシが検出された。これからして特に注意されるものに、メハジキの種子は産後の止血、利尿等に用いられる民間薬であり、当時すでに薬草として用いられた植物として注目され、動物遺体のクロカメムシは水田(稲作)の害虫であり、アオクサカメムシは、大豆の害虫であることからすでに当地で大豆の栽培が行なわれていたと考えられる。しかも豆類を使用した祭礼または保存の目的で塩づけ大豆として、使用されていた可能性もある。以上から当時の古照周辺ないし松山平野での植生の一端やそれらにまつわる小動物の存在その他が想像されもする。

4-13 古照遺跡井堰配置図

4-13 古照遺跡井堰配置図