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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

一 古墳文化の広がり

 県下古墳文化の地域的展開

 愛媛県における古墳文化の展開の様相を、地域的な広がりから大きく三地域に区分し、東予地方・中予地方・南予地方として見ようとするものである。しかもこの発展の過程では他地域との交流も大いに行われた処であろうから、それらを背景としながらも地域における発展として理解し、その経過を見たい。
 全域的にみて古墳時代の文化そのものが、さきの弥生時代の社会的にまた経済的にすでに大きく発展していた地域において、視覚的に民衆に訴えることのできる高塚墳墓を営造するに可能な力を、経済的にまた政治的にも有した地域においてのみ、許される一大土木工事であったといえよう。独自に発展をした村落共同体が、さらに大きく飛躍するためには、肥沃な土地と水利の便が容易な地域が、最適地として選ばれたことは明らかである。言い換えれば適度な水流を有する河川流域において、最も早く村落が発生し、耕地の拡大に伴い、農業用水の確保という水利権の確立がみられ、水利権を支配しうる支配者層が発生し、農耕集団として河川流域に発達した集団をさらに支配するという、生産分野における発展と共に政治的な発展がみられ、自然発生的農業集団(運命共同体)は大きく二重・三重の政治的な支配を受ける時代へと発展した。これらの支配層の発生はより早く治山治水という一大土木工事を成し遂げたか、または自然環境に恵まれた地域での農耕経営の成功者に見られたであろう。これら地域での成功者はさらに進んだ文化を導入することにより新しく開発地域を拡大することに努めたことは言うまでもないが、さらに周辺地域との政治的な同盟、ないしは連合体を構成して、我とわが身の一層の安全と権威の拡大をも合せめざしたことは、各地域での様相を見ることにより明らかになるであろう。

 東予地方での広がり

 東予地方における古墳文化の幕開けは、高縄半島を中心とした今治平野であろう。いまの唐子台団地を中心とする地域に早くから小国家ともみるべき小規模な権力者が存在していたと推測される。この小国家は頓田川流域の治山治水権を統治すると同時に、内陸部地域はもとより、周囲の沿岸地域にも、その勢力の拡張を計ったとも推測される。また同一平野部の内で蒼社川を挾む流域にも一つの勢力分野があったと見られるが、この地方での勢力は内陸部への活動分野より、海上における活動分野を優先させた集団とも考えられる。瀬戸内海における海上交通上の優位性を持つ地域だけに特に注意すべきであろう。道前平野を形成した中山川と加茂川流域においても早くより農耕生活は発達していたが、古墳文化の摂取においては、今治地方よりやや遅れて発達したと見るべきであろう。また国領川流域に発達した新居浜平野における墳墓が、古墳時代中期に営造されている。この盟主的墳墓の営造にやや遅れて周桑郡及び宇摩郡での古墳の発展が促されたと見られる。翻せばこれらの地域では、越智郡で大いに古墳を営造している時期に、今なお弥生時代から伝承された箱形石棺墓による埋葬形態が継続して造られていたように見える。だがその代りにか、古墳後期から終末期にかけての巨石を利用しての横穴式石室は大いに発展を遂げているようである。

 中予地方での広がり

 中予地区を古い呼称の風速郡・温泉郡・伊予郡として大きく三分して見ると、まず伊予郡での発展がある。伊予灘に注ぐ重信川は松山(道後)平野のほぼ中央部を西流しており、この流路により大きく平野を二分する自然環境である。この地にまず小国家的な社会構成を確立し得たものとしては大谷川の水流を利用した地域のものと推察される。
 ついで発達した地域としては海岸に近く、しかも三方を独立丘陵に阻まれた古三津地域や、立岩川の水利を利用して発達した北条市周辺及び石手川、並びに小野川流域に、それぞれ独自の小政治社会集団の営みがあったと推測される。これらの政治小集団の結合がいついかなる形で統合されていったかは、明解な答えは出来ないし、また古墳時代における古墳営造時期の詳細な結論は望めない。しかし、少くとも旧伊予郡、いまの伊予市における前方後円墳の広がりや、出土遺物によっても、まず当市が中予地方における最も初期に盟主化の達成された地域であろう。次期の盟主的連合を見た地域には、風速地域、古三津地域、久米地域などが考えられ、それらは小規模集団による族長的集団から、やがて大きく連合体へと発展をする。また発展と同時に、それぞれに特色のある産業への分化も発生し、やがて松山平野全域にまたがる権力者による古代国家的政治体制が成立し、この盟主的権力者と大和政権との連合が成立したものと考えられる。
 伊予市での有力者の所有と見られる三角縁神獣鏡の出土は、明らかに大和(畿内政権)との結び付きを物語る唯一の資料である。その他にも注目すべき古墳もやはり伊予市にあり、これからして、より強く畿内勢力と関係をもった地方における権力者が君臨していたものと思われる。その後発展の進むにつれ、統合と分離の交錯する内に、一大河川である重信川の洪水関係やら、石手川の氾濫等、実にめまぐるしい自然環境の変化の内で、順次展開された沖積平野での耕地化は進み、伊予風土記の逸文に記され、大和の天の加具山と称された天山あたりを中心に古代国家体制が成立し大いに発展を遂げたものと思われる。

 南予地方での広がり

 南予地方に広がる古墳文化は、宇和盆地にみられる古墳文化の他に、大洲盆地や八幡浜市・宇和島市・御荘町をはじめ、各所に小規模な集落形態として発生していたとみられるが、古墳を営造しうるまでに発展を成し得た地域は少なく、わずかに宇和盆地及び大洲盆地において、多少の発展を見たにとどまり、他地域では小規模でしかも墳丘の明らかでない古墳が点在的に存在する以外は、高塚墳墓という墳墓形態の発展は、東・中予地域に比して遅れ、またその数も少ない。