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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 古墳の移り変わり

 古墳時代の時期区分

 古墳は、日本列島においては、ほぼ三世紀末から発生し、これらの墳墓の営造は、地域においては、七世紀の末頃までも営まれ、特殊な埋葬方法として継続された。この時期をさして古墳時代と総称している。
 特に大和政権の成立期とほぼ時を同じくするこの古墳時代も、三世紀末から四世紀にかけての列島の政治情勢を知るには、あまりにも文献的には確実な資料に乏しい。記紀においてすら、崇神天皇以後はやや事実に基づくものがあるにしても、なお応神天皇以前の記事には伝説的なものが多い。少なくともこの間の古墳文化の発展状況は考古学上の事実に基づく研究に待つより方法がない。また各地における文化の発展の様相は考古学なくしては、全く知るすべもないほど文献的には空白の時代である。しかも、愛媛県における古墳の営造は決して少なくはなく、今日までにすでに破壊され消滅した古墳も含めれば、数千基にのぼると推測されるに係わらず、研究調査不十分のため資料的活用には程遠い状態にある。
 墳丘の営造という特殊な形態をもつ埋葬法も、高塚墳墓の発生時期から消滅に至る間には、その構造やまた副葬品の移り変わりなどを手がかりとしてみると、時と共に変化もし、また発展もしたと見られる。埋葬観念の変化をもとに、古墳時代を大きく前期・中期・後期と三区分して見たい。だがこの三期に分割して時期的に理解を求めた分類方法は、あくまでも愛媛という地域に最も古墳の営造の定着化した盛期の古墳時代を中期として取り扱うもので、全国的な分類では古墳時代を前期・後期に二分類する方法もある。この分類法については後に詳述することにする。
 いま古墳という被葬者を厚葬する古代人の葬送観念の変化について、精神的な分野から古墳時代を通観するとすれば、大きく三分される埋葬に対する観念が、古墳の発生から消滅に至る間に秘められている。しかし古墳文化の性格を、古墳の営造されている立地から、またその古墳の形態や、外部の諸施設をはじめ、その内部主体の構造を含めて、これらの墳墓に埋葬された副葬品をも総合的な立場からとらえるならば、古墳時代を前期と後期に分類して見ることが理解をより容易にするとも考えられるかもしれない。
 前期形式をとる古式古墳ともいわれるものは、墳墓として営造されてはいるものの、その墳墓の持つ性格から見れば、むしろ政治的な権力を示現化するという構築意図をもつ営造である。
 これに対して後期の古墳といわれる新しい古墳の性格は、より強く宗教的な観念が導入されており、被葬者に対して死後の安住の場として築造したとの観念が先行した営造物である。死者の霊魂をより安住させることのできる永遠の地として、ひたすらに祈願して築造したものといえる。
 これらの後期形式の古墳では、被葬者の安住を祈るよすががみられ、死者に対する生前における集団内での位置を物語る象徴化された宝器を副葬する他に、これらに含めて新しい宗教的な要素をもった鎮魂的な葬送儀礼を表す祭祀が加えられ、ここに死者に対しての新しい思想による副葬品が供献されるという基本的な変動がみられる。
 これらの後期古墳に対して、前期形式の古墳においては、それが被葬者の政治的な権威を視覚に訴えた表現が強く先行しており、外観的には後期古墳よりもより宗教的であり、しかも祭祀的な要素を十分にもちながらも、墳頂部に築造された内部主体は竪穴式石室に封じこめるという埋葬方法による。これらの首長墓は、他界の地に安住を求めるものの外に、首長の死霊は共同体の成員として末長く、常に共同体集団墓に守られながら、さらに運命共同体としての守護神として現存を願うという、二面的な性格をもっている点においで、明らかに後期古墳とは相異なる墳墓形態をとるものと総括することができる。

 県下古墳の前・中・後期分類

 しかし前述の前期・後期古墳という二区分に対して、古墳文化時代を前期・中期・後期とする三分法があることはすでにあげた。二分法でも前期を第一期・第二期・第三期・第四期とし、後期を第五期・第六期・第七期と細分しており、各小期毎にそれぞれに墳丘の外形及び諸施設や、内部主体の形態及び副葬品等から時間差を求め、さらには被葬者の社会的位置付けを総合的に判断する。これに対して、本巻の三分法では、前期の古墳にほぼ前出の七細分の第一期と第二期を、中期の古墳に第三期と第四期を、後期古墳に第五期と第六期をあて、この終末期の古墳として第七期をあてて考えてみたい。
 前期の第一期の時期に組み入れられる古墳は、愛媛県においては現在では厳密には高塚を築く墳墓としては未発達に近い時期らしい。前時代の弥生時代における埋葬形態を濃厚に示す台状墓を築造し、内部主体としては土壙墓であるものから、壷棺によるものの他に、特に北九州地方及び瀬戸内沿岸地域に広く普及して発達した箱形石棺を内部主体として構築されるものが中心を示す時代である。続く第二期の時期においては、一般的には内部主体に竪穴式石室を構築したものから、粘土槨を構築するものもあるとされるが、県内では漸くさきの一期後半からこの二期初めにかけてが初めて前方後円墳の構築の出現期といえよう。例えば今治市の国分古墳や相の谷前方後円墳などに見られるように。
 中期では前方後円墳をはじめとして、その他円墳・方墳等の出現をみる時期であり、権力の誇示を伴う副葬品も多く、また巨大な盛土をした豪族長的墳墓の盛行期ともいえる時期であり、また古墳営造の広がりをみる時期である。例えば松山市桑原の経石山前方後円墳や新居浜市金子山竪穴式円墳、今治市の雉之尾三号粘土槨方墳などがあげられよう。
 後期古墳としては横穴式石室を主体部としての発生と発展期を見る時期である。後期前半の古墳としては、川之江市妻鳥の東宮山などがまずあげられようが、後期後半の古墳群においても首長墓を中心に営造されるものが多く今後さらに研究がすすめられるにしたがい、時間的な古墳営造の把握も充実されよう。これら古墳時代後期後半の古墳には特に群集をなしての築造がみられる。しかも主体部である横穴式石室の石材に特色がみられ、奥壁部の石材に一枚の巨石をもちいるほか、両壁面の石材も大型化するという傾向がみられる。俗に巨石墳などと呼ばれるもので、川之江市では朝日山、向山、朝倉村の七間塚、北条市の新城古墳群、松山市の北谷古墳、川内町の川上神社古墳などがあげられる。
 終末期の古墳はまだ十分なる研究がなされていないためか、この期の古墳の報告は極端に少なく、わずかに二、三例にすぎないが、今後の研究により件数は大いに増加するであろうし、また一方現在知られている各地の群集墳の周辺地域においてまだまだ発見される可能性がある。