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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

二 倭国大乱と瀬戸内海

 瀬戸内海周辺の高地性集落

 弥生時代中期の高地性集落についてはすでに前節で触れたが、ここでは周辺地域との関連性を中心に若干補足したい。前期に出現する第Ⅰ期の高地性集落は瀬戸内海沿岸でもそれほど多くなく、瀬戸内海北岸に七ヵ所分布するだけである。県内では強いて挙げれば北条市難波高山と松山市道後冠山、それに同唐山のいずれかがこれに相当しようか。中期前半の第Ⅱ期の高地性集落は、第Ⅰ期とほぼ同様な傾向を持つが、新しく大阪湾周辺に比較的多く分布するようになる。県内では現在までのところこの期の集落は発見されていない。弥生中期の第Ⅲ期の高地性集落は山口県の瀬戸内側、特に東部の熊毛郡と、岡山・香川の両県に挾まれた備讃瀬戸、それに大阪湾の周辺部に集中する傾向が顕著である。これに反して広島と愛媛の両県を結ぶ芸予諸島には、越智吉海町八幡山以外には発見されておらず、このほか、県内では、伊予三島市丸山・伊予市行道山、それに宇和海に面する南宇和郡城辺町おどり駄馬が分布するのみである。
 それが中期後半の第Ⅳ期になると、山口県の熊毛郡ではほとんど分布せず、かわって芸予諸島や愛媛県の瀬戸内側に爆発的に増加するが、備讃瀬戸と大阪湾周辺では第Ⅲ期とほぼ同じ状態を呈している。芸予諸島を中心とする愛媛県と同様、第Ⅳ期に爆発的な増加をみせるのが紀伊水道に面する和歌山県であり、第Ⅲ期と第Ⅳ期の集落分布の在り方の大きな相違をそこに認めることができる。特定の時期に特定の地域で爆発的に高地性集落が出現することは、そこに何らかの大きな政治的・社会的な要因があるものとみてよい。このような第Ⅲ期と第Ⅳ期の高地性集落分布の在り方の相違を、巨視的にみることによっても集落の性格を明らかにすることができるのではなかろうか。
 これは弥生後期の第Ⅴ期の高地性集落の分布にもあてはまることである。第Ⅳ期の愛媛県内の高地性集落についてはすでに説明を加えているので、ここでは第Ⅴ期の県内の高地性集落について述べてみたい。
 第Ⅴ期の高地性遺跡は、第Ⅳ期には消滅した山口県熊毛郡を中心とした地域に第Ⅲ期と同様、再び高地性集落が多く分布するようになり、その東部の広島平野周辺にも異常ともいえる高地性集落があらわれる。中部瀬戸内の広島県東部から岡山・愛媛・香川の各県の海岸地帯にも連続して分布している。大阪湾周辺は第Ⅲ、第Ⅳ期に引き続いて多くの高地性集落が分布する。和歌山県の沿岸部にも、山口県熊毛郡や広島平野周辺と同様爆発的にその数が増加している。このように高地性集落のある時期による出現の差は、地域によって異なっている。愛媛県内では東は川之江市から西は伊予市まで、平野に面する山頂に線状に集落が分布しているが、中期後半に多く分布した越智郡の島嶼部や忽那諸島にはなくなり、宇和海に面する八幡浜地方でも一部を残して消滅している。その反面、宇和島の拝鷹山や南宇和郡御荘町オオタネ山・城辺町愛宕山のごとく、高知県寄りの地域にあらたに出現している。
 特に県内の後期の高地性集落をみると、その出土遺物、検出された遺構からみる限りにおいては、同時代の低地性集落と何ら変わることはなく、かつまた中期後半の第Ⅳ期の高地性集落との違いも認められない。第Ⅳ期の高地性集落は既述の「倭国大乱」の初回に関係し、第Ⅴ期は第二回目の大乱に関係するのではないかとする考えもある。
 第Ⅳ期を中心とする畿内から備讃瀬戸にかけての高地性集落は、そこから多量の石鏃が出土することから、これを即、武器と理解し、防御的すなわち軍事的機能を持ったものであるとする考えがあることはすでに述べた。その背景には畿内から備讃瀬戸にかけての地域は、農耕文化が他地方より高度に発達、開花し、人口増加も著しく、したがってより大きな国家が形成されるようになった。当然そこでは多くの鉄器も使用されたが、鉄器、特に鉄製武器が人口増加や政治的統一による需要増に追いつかないため、石鏃を鉄鏃の代用としてこれにあてなければならなかった社会的背景がそこにあったのだとしている。しかし、愛媛県内の中期から後期にかけての高地性遺跡からは、畿内や備讃瀬戸にかけて多くみられる石鏃がそれほど出土していない。そのことは瓢箪山・丸山・八堂山・立石山・椋ノ原山・釈迦面山の各集落の発掘調査によって明らかとなっている。この明らかな事実から、畿内や備讃瀬戸の様相を短絡的に当地方にあてはめることは危険であるといえる。それはあくまでも畿内や備讃瀬戸の高地性集落の特色として把握すべきであり、一元的な処理はすべきでなかろう。
 中期でも触れたごとく、後期の高地性集落の立地は特異な存在であることは誰しも否定はできない。それゆえ、遺物よりも遺跡立地そのものに視点を置いて考える必要があるのではなかろうか。
 県内の後期の高地性集落も立地からみる限りでは、広義の防御的機能を持つことは多分に想像される。だが、中期と同様、主たる機能は通信的機能であったとみることができる。なかには大洲盆地周辺に分布する高地性集落のように洪水からの逃避や、芸予諸島のごとく海上交通に係るものや、それに伴う祭祀的機能を持っていたことは事実であり、個々においてそれぞれ多種多様な機能を持っていたとみなすべきである。それゆえ画一的に機能の一元化を唱えて結論づけることは困難である。
 後期の高地性集落を営んだ人びとの、生活の基本となる食糧獲得手段は低地性集落と同じで、眼下に広がる低湿地の水田経営による稲作にあったことは、石庖丁などの出土で明らかである。もちろん、部分的に畑作や狩猟・漁撈・採集が行われていたが、それが主的食糧獲得手段でなかったことは、その地形が雄弁に物語っている。
 さて、西日本の瀬戸内海沿岸に多い高地性集落の分布を時期的に概観すると、そこに興味ある現象があらわれている。

 高地性集落からみた倭国大乱

 弥生前期第Ⅰ期の高地性遺跡は、瀬戸内海沿岸の山口・広島・岡山・愛媛の各県を中心とする地域にあり、その東端は神戸市大歳山であって、大阪湾周辺には発生していない。それが中期前半の第Ⅱ期になると周防灘を中心とする地域や、香川県に分布し、さらに第Ⅰ期にみられなかった大阪府、奈良県に出現する。第Ⅰ期・第Ⅱ期の高地性集落の分布からみる限りにおいては、西部瀬戸内海から東に向かった流れを認めることができる。しかし、これら第Ⅰ・第Ⅱ期の高地性集落から、その機能を理解することは無理であるが、大阪府・奈良県にはじめて出現することは、次の時期の高地性集落を把握するうえでは重要となろう。
 地域的統合の過程における、武力闘争に係る狭義の防御的機能を持つとされる高地性集落の出現は、弥生中期中葉の第Ⅲ期からとみてさしつかえなかろう。第Ⅲ期では大別すると山口県東部と備讃瀬戸、それに大阪湾周辺の三地域に集中して分布しているという特色をみせている。これら高地性集落を防御的機能と理解すると、防御するには敵対する集団の存在がなければ防御そのものがなり立たない。このように考えた場合、中部瀬戸内を中心とした地域と、大阪平野ならびにその背後を中心とした地域に地域統合をした強力な連合国家的性格を持った集団が形成され、他の地域と相対立する勢力圏を形成していたと想定することができる。この時期は櫛描き文を主要な施文手法とする土器文化が発達した時期であり、その櫛描き文の手法にも中部瀬戸内と畿内とでは明らかに差があることとも共通する。よしんば中部瀬戸内の櫛描き文が、畿内の影響によると、一歩譲って考えてもそれは薄い影響であるといえる。
 中期後半の第Ⅳ期になると、山口県東部の高地性集落が忽然と消滅し、これにかわって芸予諸島から高縄半島を中心とする周辺に突如として爆発的に出現する。それとともに備讃瀬戸でも第Ⅲ期に比べて多くなり、大阪湾周辺でも備讃瀬戸と同じ傾向を示している。他方、紀伊水道に面した和歌山県にも多く分布するようになる。

 通信的機能を持つ高地性集落

 中部瀬戸内海の西端の位置を占める芸予諸島や、松山平野ならびに備讃瀬戸を中心とする地域は、凹線文土器の隆盛する地域であるとともに、平形銅剣・分銅形土製品の出土分布地域とも一致し、一つの共通する文化圏を形成している。さらにこの時期、瀬戸内海の東西交通の拠点ともいえる由利島・興居島・中島・大島・大三島・伯方島・見近島・岩城島・生名島・高井神島・魚島に遺跡が分布することは、海上交通がきわめて重要視されていたことを物語っている。これら統一ないし共通性を多分に有する地域は、西と東との相対立する集団からの威圧から逃れ、安寧を保つため、あるいは地域内の意志を伝達する手段として、これら高地性集落を設けたとも考えられる。
 さらに大阪湾周辺や和歌山県に多く出現し、紀伊水道の対岸の徳島県にほとんど高地性集落が発見されていないことは、防御すべきものが少なくとも紀伊半島の内陸部にあったことを示唆しているといえる。そうすると、中部瀬戸内ないしは九州からの侵入に対し、備えた防御ならびに通信施設とみなさなければならない。第Ⅴ期になると再び山口県東部から広島平野周辺に異常に多くの高地性集落が分布するようになり、大阪湾周辺と和歌山県にも多く出現する。山口県東部に集中する高地性集落は、瀬戸内海の東西交通に関係したであろうことは想像されるが、広島湾の内陸部に異常に分布するものは、その立地からみる限りでは直接瀬戸内海交通には関係はないとみてよかろう。恐らく、これらを防御的なものだとするならば、瀬戸内側から中国内陸部への侵入を阻止するためのものであったとしなければなるまい。
 これに対して北四国側では、中期後半の第Ⅳ期を境として第Ⅴ期の高地性集落はやや減少する傾向をみせ、その性格がより鮮明に通信的機能へ移行する傾向が強くなっている。ということは、第二回目の倭国大乱の中心地ないしは係争地でなく、その範囲外にあったということにもなる。大阪湾周辺から和歌山県の紀伊水道側に分布するのは、畿内、特に奈良盆地を防御するためであることはその分布が如実に証明しているといえる。さすれば、大阪湾周辺は明らかに瀬戸内海を東進してくる敵に対するためであり、和歌山県や高知県・愛媛県の南端に分布する高地性集落は、太平洋岸の土佐湾を経て東上する敵を防御するためであったことは明らかである。したがって、このように理解すると畿内に敵対する勢力は、少なくとも瀬戸内海の西部か九州にあったものではなかろうか。しかし、これらをより明らかにするためには、北九州から東九州地方の高地性集落の全貌が明らかになったうえでなければ結論はでないであろうし、かつまた朝鮮半島よりの侵入をも考慮に入れなければなるまい。
 なお、弥生時代後期を境として高地性集落はほぼ消滅しているが、これとほぼ時を同じくして銅剣・銅鉾・銅鐸が地下に埋納されている。これらを追求して行けば統一国家、すなわちわが国の国家誕生の時期、時代も明らかになるのではなかろうか。恐らく高地性集落の終焉と、青銅器祭祀の終焉の時期が国家の誕生とみるのが案外自然であるかも知れない。

3-129 瀬戸内海沿岸の弥生後期(第Ⅴ期)の高地性集落分布図

3-129 瀬戸内海沿岸の弥生後期(第Ⅴ期)の高地性集落分布図


3-130 県内の弥生後期(第Ⅴ期)の高地性集落分布図

3-130 県内の弥生後期(第Ⅴ期)の高地性集落分布図