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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 青 銅 器

 青銅器の出土と種別

 県内の弥生中期の遺跡から発見されたと確実にいえる青銅器は残念ながらほとんど存在しない。県内からは多くの銅剣・銅鉾、それに銅鏡が発見されているが、そのほとんどが耕作中とか工事中に偶然発見されたもので、共伴遺物もなく時期比定をすることができない。加えて出土状況が不明であるため、意図的に埋納されたものか、あるいは墳墓に副葬されたものか、偶然に埋没したものかも不明である。それゆえここでは中期・後期という問題はあるが一括して以下述べてみたい。
 なお、銅鐸・銅剣・銅鉾などは他地域では意図的に地下に埋納したことが明らかとなっている。これら埋納された青銅器は、その青銅器がいつの時代に製作されたか、またそれがいつの時代に使用されたのか、さらにそれがいつの時代に何のために埋納されたのかという三つの時代からこれを把握しなければならない。
 青銅器は形態・目的ならびに使用の面から分けると、銅剣・銅鉾・銅戈・銅鏃の武器類と、どちらかといえば祭器的色彩の濃厚な銅鐸・銅鏡となる。このうち銅剣・銅鉾は刺突用の武器であり、銅戈はひっかく武器であり、銅鏃はもちろん弓矢による攻撃用の武器である。しかし、わが国では青銅器とともに鉄器がほぼ同時に舶載されたため、その当時から青銅器は本来の武器としての目的から離れ、権力ないしは富の象徴として、あるいは祭器として重用されたものである。

 銅鐸の分布

 銅鐸はその目的が今一つ明らかでないが、その形態や古式の銅鐸には明らかに舌を持っており、鳴らす目的のために製作されたことは間違いない。その鳴らす目的は農耕儀礼に深くかかわっていることはほぼ一致している。銅鏡は本来は姿を映すことが目的であったが、次第に権力の象徴としての役割や祭祀的色彩が濃厚となったものである。わが国ではこれら青銅器が一般化するのは弥生中期であるが、この時期には銅鏃を除いてはそのほとんどが祭祀的色彩を色濃く持つようになったとみてよい。
 県内出土の青銅器の中心を占める銅剣・銅鉾もすべて祭祀に係る遺物であるといえる。これら青銅器のうち銅鐸は畿内を中心に多く分布しており、それに反して銅剣、銅鉾は北九州を中心に多く分布していることから、かつては畿内を中心とした銅鐸文化圏と、北九州を中心とした銅剣・銅鉾文化圏が相対立して存在していたごとくいわれていた。最近ではこれら青銅器の研究が進み、北九州を中心とする銅剣・銅鉾のうち、墳墓に副葬された銅剣・銅鉾を青銅武器とし、埋納されたものを青銅武器形祭器と区別し、後者を銅鐸と対比する説が多くなった。ところで県内から発見されている弥生時代の青銅器は銅剣・銅鉾・銅鏡のみであり、銅鐸・銅戈の出土は確認されていない。このうち銅戈は東予市旦之上の大黒山から出土した記録が残っているが、銅戈そのものは現存しておらず、銅戈と断定するには躊躇せざるを得ない。
 従来、愛媛県の東部は銅鐸文化圏内に属するごとく図示されているが、現在までに銅鐸が発見されていない以上、銅鐸文化圏の範囲に入れるべきではなかろう。四国では愛媛県を除く他の香川・徳島・高知の各県からは出土している。その出土分布の状態をみると、畿内に近い地域から多く出土しており、畿内から離れるに従ってその数が少なくなっている。このようにみると、愛媛県は畿内を中心とした銅鐸を使用した勢力とは異なった勢力集団に属していたといえるのではなかろうか。香川県と愛媛県の境が奈良時代にすでに決まっていたことは、この銅鐸の有無と一致しており、単に地理的理由によって古代の国の境が決まったとはいえないのではなかろうか。甚だ興味ある点である。
 県内からの出土例がない銅鐸ではあるが、この銅鐸は、前述したごとく畿内を中心に同心円状に分布している。それらはほとんど集落内で発見されず、山麓とか山腹斜面中から銅鐸のみが数の多少はあるものの他の遺物を全く伴わずに発見されている。恐らく集落から離れた特定の場所に意図的に埋納したものであろう。銅鐸は埋納の特殊性から普段は地下に埋納保管し、使用する時にのみ掘り出して祭器とし、農耕儀礼がすむと再び地下に埋納したものであろうともいわれている。しかし発見された銅鐸が磨耗していることは、使用に際して研磨をしていることをあらわしており、そのように大切に扱うものを地下で保管するとは考えられない。銅鐸の地下埋納の背景には統一国家の成立という大きい問題を含んでいる可能性が強い。

 銅鉾・銅剣の分布

 これに対する銅鉾は、対馬から福岡・大分県と四国の南西部に集中しており、銅鐸とその分布が明らかに対立する状況を示している。銅剣はかつては銅鉾文化圏と同じように扱っていたが、最近では中細形・広形・平形銅剣は銅鐸とともに畿内で製作され、これが伝播したといわれている。このうち平形銅剣は瀬戸内海沿岸、特に愛媛と香川の両県に集中しており、北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、他の地域と若干青銅器の在り方が相違している。それゆえ、これら広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成しているともいえる。この平形銅剣を出土する地域は弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と同じである点、単に青銅器のみの特色でないところに大きな意味を持っている。
 以上が愛媛県を中心とした周辺地域の青銅器の在り方についてのプロローグである。さて県内出土の青銅器の在り方はどうであろうか。前述したとおり銅鐸、銅戈の出土は確認されていないが、銅剣・銅鉾と銅鏡は発見されている。これらを種類ごとに分けて以下述べてみたい。

 銅剣の類別

 現在までに県内から発見されている銅剣は合計四四本を数える。銅剣はその形態から全国的に三種類に分類される。その一つは細形銅剣であり、機能はあくまでも刺突用の実用となる武器である。この細形銅剣は現在までのところ県内からは発見されておらず、その出土の中心は北九州であって、一部、山口・広島・島根・兵庫の各県から発見されている。
 その二は中細形銅剣であって、形態は細形銅剣に近いがやや長大化して、すでに非実用的となっており、明らかに武器としてではなく祭器として鋳造され、使用されたものであろう。この中細形銅剣は県内では丹原町願連寺扇田と今治市新谷竹谷から各一本ずつ計二本出土している。いずれも東予地方の高縄半島の東に位置する沖積平野中からである。中細形銅剣は本県以外では大分・高知・香川・徳島・広島・岡山の各県と兵庫県の淡路島から出土しており、西部では銅鉾・銅戈と、東部では銅鐸の出土地と重複しており、独自の文化圏を形成したとは現段階ではいえないのではなかろうか。だがそこにはすでに次の平形銅剣文化圏の萌芽が認められる。

 平形銅剣

 その三は平形銅剣である。平形銅剣は細形銅剣の形態から離れ身幅が広くなり、刺突用の武器から完全に遊離して非実用的となり、祭器そのものとなっている。この平形銅剣は四一本と爆発的にその数が増加している。これらの地域別の内訳は東予地方一七本、中予地方二一本、南予地方三本となり、県下均一に分布しているとはいい難い。最も出土数の多い中予地方も一本を除いたすべてが、松山市の城北地域に集中している。特に石手川の右岸の扇状地の扇端部に近い松山市道後今市(もと一万市筋)から一〇本、樋又から七本、道後公園東から三本と、狭い範囲に集中している。これら平形銅剣を出土した三ヶ所はいずれも至近距離にあり、周辺には弥生中期から後期にかけての遺跡がほぼ全面にわたって分布している。この地域は水に恵まれた地域でもあり、古くから稲作が行われていたことは土居窪遺跡の調査によっても明らかである。これら二〇本の平形銅剣は一万式の平形銅剣とも呼ばれ、微細な点で東予地方出土の古田式銅剣とは異なっている。

 銅剣の出土状況

 松山平野は広大であり、中期から後期にかけての遺跡では、松山平野南部も城北地域に優るとも劣らないほどである。にもかかわらず南部では松山市西野から一本出土しているのみであり、その分布が極端に偏在している。
 東予地方も中予地方とほぼ同じ数が出土しているが、松山市の城北地域のような稠密度は示していない。ただ、今治平野南部の頓田川上流に位置する越智郡朝倉村下保田から五本、道前平野では周桑郡丹原町古田松木から六本・東予市広岡竹谷から二本と合計一三本出土している。道前平野の出土は本数こそ若干少ないがその集中する傾向は松山市の城北地域と共通するものを持っている。この他、新居浜市の横山から一本と、愛媛県東端の川之江市柴生から二本出土している。なお、横山からは二本出土したとの説があるが、現物が残っているのは一本であり、ここでは一本として扱いたい。
 これら道前平野を中心とする東予地方の平形銅剣は、松山地方出土の一万式平形銅剣とは微細な点で異なっており、古田式平形銅剣とも呼ばれている。
 これら東・中予地方の銅剣の出土分布をみると、沖積平野の広さと出土数との間に明らかに相関関係を認めることができる。このことは沖積平野における人口数、すなわち統合集団の数をあらわしているともいえるし、その埋納の状態から小国家群が統合される状況をうかがうこともできる。
 南予地方では宇和町清沢の観寂寺に三本所蔵されていたが、その所蔵に関する記録も江戸時代に観寂寺に銅剣が所蔵されているというもので、いつ、どこで出土したかの記録はない。さらに清沢周辺から出土したとのいい伝えもない。したがって宇和町から出土したとする資料に欠けており、疑問の残るところである。すでにその銅剣の一部も現在他に移動しているので、確実性に欠ける。そのため、ここでとりあげはしたが宇和町出土と理解しないのが妥当であろう。このように理解すると東・中予地方に多く出土するのに対して、南予地方では全く出土しないということになる。それに対して宇和盆地では銅鉾が出土するので、文化ならびにその背後にある政治組織が東・中予地方と違っていたとみるべきであろう。

 銅鉾の出土状況

 銅鉾は北九州から大分県にかけて多く分布するが、その影響が本県の南部や高知県の西部に延び、特色ある分布をみせている。銅鉾も銅剣と同じく、元来は刺突用の攻撃武器であって、細形銅鉾がそれに相当する。これが細形に近いが長大化して実用には適さない中細形銅鉾と変化し、さらに原形を完全に離れて極端に長大化し、実用品から遊離して広形銅鉾となり、祭器化している。
 本県からは攻撃用武器である細形銅鉾は現在までのところ発見されていない。次の中細形銅鉾は東予地方に七本、中予地方に一本、南予地方に二本の合計一〇本が出土している。このように中細形銅鉾は東予地方に多く分布しているが、それも一~二本ずつであって平形銅剣のようにまとまって発見されているわけではない。さらにその分布を詳細にみると、川之江市金生川・同市東宮山、宇摩郡土居町津根立石、東予市大黒山、越智郡玉川町別所、温泉郡川内町宝泉、東宇和郡野村町四郎が谷、同郡宇和町杢所と沖積平野の中心部になく周辺部に多く分布する傾向を有している。この傾向が何を意味しているのかは現在の段階では不明であるが、平形銅剣から取り残された地域である可能性が大である。いいかえれば、中部瀬戸内海を中心とする新しい文化圏が形成されたが、その周辺部はいまだ平形銅剣文化圏に吸収されず、北九州の銅鉾文化圏の勢力下にあったと推測することもできる。
 非実用的な広形銅鉾は合計三四本発見されているといわれているが、そのうち三二本は南予地方の宇和盆地からであり、他は中予地方の伊予市上野から一本、東予地方の新宮村上山からの一本である。宇摩郡新宮村上山の銅鉾は鉾先部分のみが当地の鉾尾神社に奉納されていたものが最近発見されたものである。所蔵されていたもの、即その地から出土したものとは理解できない。特に神社、仏閣の所蔵するものには問題がある。現状では他よりの運び込みであるのか、当地で出土したのかは定かでない。
 中予地方では中細形銅鉾は松山平野の東端から、広形銅鉾は松山平野の南端からの出土であり、平形銅剣の分布と比べるとその在り方に大きな相違が認められる。

 宇和出土の銅鉾

 さて、三二本出土したといわれている宇和盆地は、すべてが宇和町久枝大窪台からの出土となっている。しかし、宇和盆地の沖積平野の広さや、弥生遺跡、特に中期から後期にかけての遺跡数からしても、三二本もの銅鉾が出土したとする考えには疑問を禁じ得ない。この三二本出土したとするのは『宇和旧記』や『日吉神社棟札』、さらに伊達家の記録に記載されたものを機械的に合計したものである。これらを参考までに年代別に記すと、寛永八年(一六三一)に唐金の鉾が八本出土しており、寛文八年(一六六八)頃に『宇和旧記』では五本、『日吉神社棟札』では六本出土し、宝永七年(一七一〇)には鉾一二本を発掘し、享保一四年(一七二九)には一五本出土したことになっている。これらを合計すると四〇本の多きに達する。これらのうち青銅製の銅鉾であると明記しているものは寛永八年のもののみである。さらに大窪台から出土したと明記しているものは寛文八年の五本であり、他はただ久枝村と記してあるのみである。大窪台は旧久枝村にあるが、これが必ずしも大窪台とはいえない。また単なる鉾という場合には古墳に副葬されていた大形の鉄鏃であった可能性もあり、はたまた鉄鉾でなかったともいえない。特に旧久枝村には多数の古墳が分布していることが判明しており、その出土数、出土地を疑えばきりがない。このように久枝から出土したといわれている銅鉾にはいくたの問題があり、銅鉾の謎といえる。このことは宇和出土と一般にいわれている平形銅剣にもいえることである。
 これらの銅鉾のうち現在その所在の明らかなものは久枝の本多家に伝えられているものなど三本のみで、他の所在は全く不明である。そのうえ県内に出土地不明の銅鉾が全くない点も疑問をさらに大きくしている。明治大学の杉原荘介は『日本青銅器の研究』のなかで、宇和出土の銅鉾を五本としているが、妥当な意見であるかもしれない。宇和盆地の沖積平野の広さからすればむべなるかなと思われる。ここでは一応、寛永八年の八本と寛文八年の五本程度は出土した可能性があるとしておきたい。いずれにしてもその数に問題はあるものの、宇和盆地から広形銅鉾が出土したことは間違いない事実であることには変わりない。

 青銅器の数とその意義

 銅剣・銅鉾は銅鐸とともに農耕儀礼の祭器としての用途を持っていたもので、北九州でみられる甕棺に副葬されているような個人所有を示すものは県内ではほとんどない。例外的に川之江市東宮山の箱形石棺内から出土したといわれるものや、松山市久米の熊野神社境内の石棺内から出土したものがあるといわれているだけである。前者は江戸時代の発見であり、その真実性に問題があるし、後者は石棺内に再埋葬したとのことであり、いずれも確実性に欠けるが、県内にこのような個人所有に帰属する銅鉾がないとは断言できない。これらは今後の研究に待つ以外にその解決はない。
 銅剣・銅鉾の出土分布については一部触れたが、これを全県的にみるとさらに大きな特色がみられる。出土地の確かな銅剣は東・中予地方に集中しているが、それも平野の広さとほぼ相関関係が認められる。これに反して銅鉾は東・中予地方にも散発的には認められるが、その中心はあくまでも銅剣にあり、銅鉾は平野周辺部に限って分布している。銅鉾が中心となるのは南予地方の宇和盆地である。同じ愛媛県でありながらどちらかというと東・中予地方は銅剣、特に平形銅剣文化圏に含まれ、南予地方は銅鉾文化圏に属するといえる。これは単に文化圏の違いだけととらえるには問題がある。これらの青銅器製の祭器は村落共同体ないしは小国家の共同祭器であることからすると、祭器の違いは祭祀形態が違うということであり、ひいては祭祀を司どる集団の統治形態にも違いがあったとみてよいかもしれない。
 この相異なる二つの文化圏の間に敵対関係があったのかどうかは定かでないが、祭政一致の社会体制から考えると、異なった勢力に属していたとみるのが自然ではなかろうか。集団社会の精神的統一の象徴でもある青銅製の祭器の違いは、文化・政治の違いでもあると把握しているが、そうすれば当然日常生活の面においても多少の違いがあったとみるべきであるが、今までの研究ではあまり触れていない。しかし、本県の場合においては弥生中期の中葉から後期にかけて、土器そのものに東・中予地方と南予地方では大きな相違が認められ、そこに広い意味の文化の隔たりを意識せずにはおれない。このようにみると南予地方は北九州から大分県に広がる銅鉾文化圏の範囲内にはいっていたとみてよい。
 これら青銅器類は祭器としての性格を有していたことは事実であるが、その祭祀の対象が何であるかについては諸説ある。近畿地方を中心に分布している銅鐸は稲作に伴う農耕儀礼のための鳴らす祭器であったり、見る祭器であることはほぼ定説化している。ただ、銅鐸そのものが祭祀の対象となったのか、神と人間との間の仲介の役目をはたしたものか、はたまた祭祀を行うための単なる道具であったのかは明らかでない。
 銅鉾は水野清・小林行雄・佐原真の各氏とも農耕儀礼のための祭器ではないとし、その分布が対馬・北九州、それに豊後水道に面する大分・愛媛県の南部や高知県の西部と、いずれも外海に面していることから、外洋の航行に係る海上交通集団の祭器であろうとしている。しかし、その分布を詳細に検討すると福岡県や大分県の内陸部から出土するものもあり、加えて県内においても南予地方に分布するといっても、それは海から隔絶された宇和盆地であって、県内の他の地域の銅鉾もいずれも海岸より離れた地域である。それゆえこれを海上交通集団に係る祭器とするにはいささか飛躍があって、すべてを正確に証明することはできない。これが外海である宇和海に面する地域から出土するのであれば説得する力もあるが。
 県内における出土分布からみる限りでは、いずれも河川に沿った扇状地の扇頂部か、扇端部ないしは河川沿いか、河川の最上流の水源地帯である。このことから稲作、特に水信仰に関係する祭器とみてよいのではなかろうか。これに類似するものとして、松山市土居窪遺跡から木鍬とともに櫂状木器と称されているものが出土している。この櫂状木器は木製の鉾であり、銅鉾の入手の困難性にもとづいて木器で代用したものでなかろうか。北九州ではすでに銅鉾が使用されていたが愛媛県ではそれが木鉾であった。その差が北九州を中心とする文化と愛媛県の文化との差でもあったと理解してよかろう。木鉾の出土した土居窪を中心とする地域には平形銅剣が二〇本も出土しているが、土居窪遺跡そのものは弥生中期前半の時期であり、この時期には銅剣や銅鉾を手中にするほどの政治的・経済的基盤が整っていなかったものであろう。
 銅剣については小林行雄が、銅鉾が外洋航行に伴う祭器であるのに対し、特に平形銅剣が瀬戸内海沿岸にのみ集中して発見されていることから、内海の海の神への祭祀の祭器としているが、他の人びとは銅鐸と同様豊作を祈願し、あるいは農耕を称えるための祭器であるとしている。本県の銅剣の出土地をみると瀬戸内海沿岸や島嶼部からの出土が全くないことから、これを短絡的に瀬戸内海の海上交通に係る祭器と理解することはできない。これも恐らく豊作を祈り、あるいは農耕を称える農耕儀礼に係る祭器とみてよいのではなかろうか。松山市今市出土の平形銅剣の基部に鹿の絵が鋳出されているものがあるが、これらは銅鐸の狩猟図と共通するものを持っており、時には狩猟の豊饒を祈願した場合もあるとみなさなければなるまい。
 銅剣を出土した川之江市柴生・新居浜市横山・丹原町願連寺・同古田・東予市広岡竹谷・朝倉村下保田・今治市竹谷・松山市樋又・今市・道後公園等、いずれも扇状地の扇頂ないしは扇端・扇側に位置し、水に恵まれた場所である。このことから水信仰に直接関係したものとみてよい。水は稲作を行ううえに欠かすことのできないものであり、水に関係する農耕儀礼の祭器としての性格を有していたものといえよう。
 県内出土の銅鉾・銅剣は農耕中や工事中に偶々発見されたもので、出土状況を明確にうかがうことのできるものはない。そのなかにあって宇摩郡土居町津根の立石と今治市竹谷では、伝聞ではあるが若干その状況を知る手がかりをわれわれに与えてくれている。立石では地表下約一・五メートルの長さ二・五メートル・幅一・四メートル・厚さ三〇センチの板状の緑色片岩の下に意図的に埋納されており、その上に緑色片岩の立石を立てていたとのことである。竹谷では四個の大きな石の下から出土したとのことである。
 これらの事例からすると、単に直接地下に埋納したのではなく、何らかの施設を設けて丁重に埋納したことがうかがえるし、その埋納場所を明らかにする目的を持っていたものといえる。
 県内から出土した銅鉾・銅剣のほとんどが当時の集落から離れた場所から、共伴遺物を有せず単独で埋納された状態で発見されている点は全国的な傾向と一致する。恐らく、これら青銅祭器の地下埋納にはわれわれが想像する以上の大きな力が作用しているとみてよい。この点については後節で若干触れたい。

3-49 銅剣・銅鉾出土分布図

3-49 銅剣・銅鉾出土分布図


3-50 銅剣実測図

3-50 銅剣実測図


3-53 銅鉾実測図

3-53 銅鉾実測図